事に臨んでいつまでも手をこまねいていれば、いざ動かす段には手も足も動かなくなっている。自家の火を対岸の火のごとくにしか感じられなくなっているのも視覚、聴覚が「迷走」させられているともいえる。もはや火の粉が降りかかったときには振り払っただけで事は収まるまい。「火の粉」さえも「粉飾」されていて距離も量も感知され難くなっているのであればなおさらである。もはやすべては他人事では済まされず、やがて自分にも降りかかってくると覚悟したほうがいい。行為に「適切な時機」などというものは「人間」にはあり得ない。もし敢えてそれを言う者がいるとすればそれは詐欺師か無知な者と言わざるをえない。人間のやることは常に「遅す過ぎるか、早過ぎるか」で、「適切な時機」を得るなどとは実は人間の技、力の領域をはるかに超えている。日常レベルでよく遣われる「思い立ったが吉日」などは本来の意図とは別に人間の限界性をうまく言い当てている。有象無象の学者、評論家の「ご神託」まがいの無責任な遠望深慮に巻き込まれていたら何もなさずして、すべては遅過ぎたということにもなりかねない。彼らは語り得ぬことをも平然と語るということを押さえて置く必要がある。為政者などについてはその方向性が問題になるだけで、後はすべてその方向での「効果」と「戦略」に収斂されていくだけである。そもそも政治レベルとはそれ以上でもそれ以下でもない。したがって、政治レベルの対決とは明確な方向性を持ち、「戦略」、「効果」に長けた者だけができるということになる。市民活動レベルの「正義」をそのまま現体制の政治レベルに持ち込んでもいつの間にか矮小化と<中和>工作の繰り返しでやがては消失するのもそうした事情による。
※「有象無象の学者、評論家」ばかりではないことは言わずもがな。「良識」ある識者、評論家のなお一層の活躍を期待している。すでに日本は世界の失笑の的であることさえ通り越している。
2014 5/17