「ある日、その時」(79) 2022年4月ー2023年1月ー

<掲載内容>

871.外交官上がりの評論家の限界と危うさ 872.「チキンレース」に「火事場泥棒」に・・・873.今、欧米の在り方の問題点を論っている場合か?874,「新しい資本主義」という死語が 875.巧妙化する原発再稼働の布石と軍備拡張と 876.「分断、分断」とかまびすしいが? 877.「ネット民」などは存在しない 878.追悼 近藤誠医師  879.ロシア革命以後 880.「青春の誤解」?881.因果応報、因果律とは 882.「MAGA」とは?883.2022年師走 884.2023年1月

              <転載・複製厳禁>



2023年1月


今年は、超異次元の自民党対策が必要であろう。

どこを切っても金太郎飴で、然もありなんと思われることばかりである。マサテューセッツ工科大学「経由」の経済学者の成田何某が「高齢者は集団自決すれば良い」と宣ったそうだ。さすがに危ういマサテューセッツ工科大学、人間としての重要な根幹部分が欠落している。こんな教授ばかりを量産していてはかなりやばいことになる。一即一切、一事が万事で、この言辞はこの人間のすべてを語り尽くしている。MAD 。

後日、この成田何某が、三島由紀夫の割腹自殺を取り上げ、我田引水的に自分の言いたいことにこじつけているのがわかったが、あまりの浅薄さに驚愕する。この男のオツムの具合はやはりかなりイカレテいる。STUPID。

 そうでないというのなら、三島の死に至る経緯を追って持論を展開してみろと言いたくなる。耳目を引く「三島由紀夫」などと言う名前を出して(以前からこういう輩が多かったが)こじつける、その挙句にドツボにはまるのである。こんなことを言っているようでは、もうこの御仁も終わっている。自身もそろそろ割腹自殺を考えた方がいいだろうと思われるが、このような者に限ってダラダラと生き恥をさらすのである。単なる盲蛇、だから余計危うい。


2022年師走


 際限のない間断なき無化に立ち向かえるのは、やはり 疲れを知らない追求、尽きることのない探究の精神だけなのであろう。

              2022 年師走の某日

「統一教会が『政権工作』、防衛省が『世論工作』」、これは今に始まったことでもあるまい。今後、ますます国民に対する「マインドコントロール」、あるいは「Psychological Manipulation(心理操作)は手を変え品をかえ、微に入り際に渡り強まり、曲学阿世の御用学者、評論家、ジャーナリスト、タレント、インフルエンサーの類をフル活用して「空気作り」に専念するであろう。それは、「富国」という「夢と希望」、「強兵」という「安全幻想」(実質的には机上の空論)を振りまいてなされる。

 時として「希望」というものは私達をだまし、不幸から不幸へと導くということを知るべきだろう。周りが暗い時には、特に自らの灯した明かりで進むことが重要で、「作られた明かり」にやみくもに吸い寄せられていては危ういということである。

             2022 年師走の某日


882.「MAGA」とは?


「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」=「MAGA」(マガ)などという集団はやはり、自分の言動以外はすべてフェイクとする「教祖」が作るカルトの一種であろう。「アメリカを再び偉大に」の下に集う、「GREAT」に酔いしれた狂信的な集団。プーチンも同様「MAKE RUSSIA GREAT AGAIN」なのである。赤い帽子をかぶり、踊るポーカーフェイス男と、凍結・凝固し続ける「脱人間」とは、実は表裏一体である。衰退が加速すれば、至る所に隙ができ、その隙間には必ず魔が差し入る。すでに、ロシアでは、サタン自らが相手をサタン呼ばわりして、自ら下した命令を側近の所為にし始めている。ここまでくると、終焉は間近であろう。ただし、この「侵略」の大きな禍根は半永久的に残り、さらに浸透、拡大する可能性がある。ロシアはあらゆる意味で、もう終わっている。アメリカも中国も今後の選択次第、北朝鮮は論外であるが注意を要するということ。日本は武器商人たちとその界隈にあまり踊らされないで、足許を見るべきだろう。いくら勇ましいことを言ってみたところで、言ったまでの話で、いざとなれば、勇ましいことを言っていた者の姿はどこにもないのが通例である。

                                                        2022 11/8

※後日、再確認したが、この「MAGA」という集団とその教祖の言動から見えてくるものは、やはりどこを取っても民主主義衰退のメルクマールにしかならないということである。このカルト系集団が意気がれば意気がるほど、その衰退のメルクマールは鮮明となるだけである。一度このようなカルト系思考回路にハマれば、そこから抜け出し、自由な思考回路を手に入れるまでに一生涯を費やす。それでも抜け出せればラッキーな方である。(11/16)


881.因果応報、因果律とは


「復讐するはわれにあり、時来たらばわれ報いん」とは、もちろん聖書の言葉である。その「われ」とは、言うまでもなく、あなたでも、私でもない。神のことである。汝らが復讐することはない、そのようなことはわれ(神)に任せよと言っているのである。確かに、「事」が成就した時などは、自己の力でのみ「事」が成し遂げられたかのように思うが、実はそれが人間の浅はかさで、様々なファクターが重層的に重なり、人知では測り知れないことが瞬時に生起しているということである。それを神概念で括ることも可能であろうし、不可知なものとして捉えることも可能であろう。しかし、そこには因果律が厳然とあることを物語っている。古典的因果律であろうと、量子論的因果律であろうと、因果律は成立しているのである。因果応報などという言葉も、仏教的範疇で漠然と捉えられていることが多いが、因果律として捉えると実に合理的で明解になるのである。為したこと、為されたことの善悪すら超えて、その結果が必ず現れるということなのである。因果応報という言葉を、まず因果律として捉え、為すべきことをやらなければ、当然その結果はやっていれば起きなかったことになるということに過ぎないのである。「応報」については、善悪の判断もさることながら、多分に主観的領域が増すので、どの程度で身にはね返ってくることなのかは具体的には不明である。

                2022 10/19

追記:この因果律から考察しても、今回の原発再稼働などの原発政策には様々なところに問題点もあり、さらに、それについての曲学阿世の専門家集団の知見など信用もできず、やがて不吉な予感が的中するのではないかと思われる。後世糾弾されるような亡者たちの迷走を止める手立てはないものか。どちらにしても「パンと見せ物」などに現を抜かしている場合ではないのである。(12/4)


880.「青春の誤解」?


映画「夜明けまでバス停で」に出演している老俳優が、「芝居は人生を幸せにしない」、「成功、名声を夢見るのは誤解」などと言っていたが、自戒を含めた親心のようなものから発せられた言葉であろうが、「20歳、それが人生で最も美しい時だなんて誰にも言わせない」という青春の懊悩からはじまり、人間の自己解体の延長戦上に「演劇」があった者たちにとっては、「成功、名声」などは端から眼中にない。思えば、私自身も実に自己確認と自己解体の連続であった。流れの中で、不本意ながら役者もやらざるを得なくなった時もある。皮肉なものでそれが評判となったり、リクエストが多いということで地方巡演のオファーもあったりしたが、私自身は役者に一義的意味を見出せなかったので辞退してしまった。芝居が人生を幸せにするしないなどという問題とはまったく別次元のことである。芝居も「旦那芸」の領域を出れば、悪魔に身も心も捧げることにもなり兼ねないのである。それは何も演劇に限らず、芸術一般がそうである。詰まるところ「野ざらしを心に風のしむ身かな」(芭蕉)という覚悟がなければ一歩たりとも進めない道であるということである。

 この事件も、社会的に追い詰められた弱者同士の痛々しい結果に終わった。被害者は以前、舞台で女優として活動していたらしい。加害者の詳細は不明だが加害者も被害者の死後、自殺している。両者の接点はバス停だけのようである。

※この映画はまだ見ていないので、気になっていたこの映画の題材となった事件とその映画に出演していた俳優のコメントに関したことだけを書き留める。

               2022 10/10 


878.ロシア革命以後


 「普遍的テーマ」を扱った、それも私が興味を持つ作家はすべてロシア革命以前の作家である。それは、帝政ロシアの様々な問題、矛盾が噴出していた時期でもある。その後のレーニンのロシア革命も歴史の必然ではあるが、すでにその運動自体の中にスターリンのような存在を浮上させ、様々な分野に拡散せざるを得ないという「大きな矛盾」を内包していた。それが、そのまま現在の、ピョートル大帝よろしく「帝政ロシア復古」を夢見る、足軽からのし上がったような者の一炊のうちに覚め果てる蒙昧な思い込みにつながっている。すでに、「共産主義」などは死語と化し、ファシズムに移行しているのが実情である。だから、一瞬とは言え、ファシズム志向同士「君と僕は同じ未来を見ている」などと、その軽重にかかわらず言えてしまうのである。実のところ、改憲などいっても、足軽出身の伊藤博文が起草した明治憲法に限りなく近づけることがその大方の狙いといってもいいだろう。要するに、時代錯誤も甚だしく、実質的に後退しているのである。仏教も駄目、神道も駄目、国家の「機軸」を皇室に求め、政治を人民の「妄議」には任せないとする方向である。それは「国民の宗教、精神生活が無視され、政治経済社会と人々の教育、精神生活」が「一点」に統括管理されることを意味する。

 

              2022 9/24


877.追悼 近藤誠医師


 近藤医師については、10年位前にもこのサイトで取り上げたが、63歳で他界した母とも関連し忘れられない医師である。母は乳癌から肺に転移し、抗癌剤と手術で死ぬまで、目も当てられぬ痛々しい状態であった。父の手厚い介護も虚しく、病院で亡くなった。私が病院を訪れた時、いくつもの管に繋がれ意識もあるかないかわからない状態であったが、私が近づくと、やおら上体を起こし、何かを訴えかけようとしたので、私は母を抱きしめ「大丈夫、大丈夫、ここにいるよ」と叫んだ。最後の力を振り絞って起き上がったのであろう。母は、私の声を聞くと、力尽きたようにベッドに沈んでいった。

 近藤医師の具体的な問題提起について知ったのは、母の死後である。母は医者の言う通り、すべて従順に従っていたが、近藤医師の見解はその一つ一つに問題があるというものであった。近藤さん自身も言っているが、現在の医療状態の問題点を言説することは医師としての相当の覚悟がない限り、言えることではなかったのである。それは現状の医療産業従事者とはまったく相容れないものであったからである。彼の勇気ある行為に対して、「なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか」という思いもあったが、様々な事情を考え合わせるとやはりやむを得ないものがあると思っている。怠惰に既得権益にすがるのはどこの世界も同じであるが、それでは先には進めない。私の学生時代にも、その一族で采配している大病院の息子がいたが、彼はまったく医者を信用していなかった。そのおかげで、私は様々な視点を持つことができたが、それでも母については具体的に適切な指示をすることはできなかった。実際、名医などと言われていても論文ばかり書いているだけで、実務経験のない者もいる。論文などと言っても世界レベルの科学雑誌ですら10年以内にはその大方が覆される世界である。そのような論文を論拠としたところで、飽くまで相対的なもので、言ってみれば、実質的には「不明」の権威付けでしかないのである。

 なぜ、近藤医師が信用できるかといえば、それは現状に対する医師としてのやむにやまれぬ思いに従う覚悟ができているからである。それは、また同時に現状の「真実」に依拠していることでもある。

近藤さん、あなたを見ていると熊取六人衆を彷彿とさせます。

「真実」は やむにやまれぬ思いにて、現成す

ご冥福をお祈りいたします

       2022 8/15(終戦記念日、父の命日)


876.「ネット民」などは存在しない


 あたかも国民とは別に「ネット民」が存在しているがごとき遣われ方であるが、そんなものは存在しない。単に、ネットユーザーがいるだけである。このような言葉の遣い方で何気なく一般国民と分けようとするのは、ネットに対する脅威の表れでもある。どこが、誰が恐れるのか?さりげない言葉のすり替え、造語で、意図するすべてがわかる。そもそも、ネットユーザーではない一般国民という人々がどれだけいるのか。日がな一日ネットに費やし、ネットを「社会」と見なしている人々を「ネット民」と称したとしても、それはネットユーザーの様々な現れ方の一部に過ぎない。たとえば、ネットに「国葬?・・・主催は自民党と旧統一教会ですか?」というのがあったとする。それはネットユーザーである一国民の感想であって、一般国民とは別枠の「ネット民」などという特殊枠の感想として片づけられるものではない。「美しい国とは、煎じ詰めれば、全体主義の独裁国家の言い換えであることに気付くべきだ」などについても同様な仕分けをオートマチックにしていると、視野狭窄が常態となって展開不能に陥るということである。

              2022 7/21


875.「分断、分断」とかまびすしいが?


 これもバズワードの類で明確な共通認識を持ちえない言葉であるが、今でもよく耳にする。その遣われ方をみていると、そんなに全体主義国家が好きなのかと思われることが多い。中国、ロシア、北朝鮮などでは「分断」、「対立」を措定すること自体が不可能であろう。いやしくも、自由と民主主義を標榜するものが「分断」、「対立」そのものを問題視することがおかしいのである。民主主義というものは、永遠に未完成であることを良しとせざるを得ない「不完全さ」を持っている。むしろ、「分断」「対立」から新たなステージの道を切り開くことを要求されていると見るべきであろう。現在、我々は、否応なく全的転換点に立たされているのである。

           2022 7/3


875.巧妙化する原発再稼働の布石と軍備拡張と


 「仮定については、何も言えない」と言っていた御仁が、「2050年までに脱炭素社会を実現する」と嬉々として宣言した時に、問題意識のある者ならすぐに気がついたはずである(このサイトでも取り上げた)。それは、それ以後の一連の原発再稼働の動きである。実際、様々な社会事象の取り上げ方も再稼働に向けたさりげない誘導がすべてにおいて見え隠れしている。ロシアのウクライナ侵攻以後、世界に波及している経済問題がさらにその動きに拍車をかけている。それと同時に、問題は、ロシア大帝国を夢見る愚者の一挙手一投足に核の恐怖を重ね合わせ、怯え、煽られ、武器商人のバックアップで潤う勇ましくも愚昧な者たちの口車に乗せられ、軍備拡張路線を突っ走るような勢いであるということである。「専守防衛」と言う毅然とした態度も忘れ、バカ殿に煽られ我を忘れているようではどうしようもない。

               2022 6/16

 

 


874.「新しい資本主義」という死語が


 この言葉は、生まれると同時に死語となった言葉でもある。2021年10月1日のこのサイトでも「新しい資本主義」などというものがいかに胡散臭く、新自由主義の焼き直し、言い換え程度のことでしかないことを記している。もし、この程度のことでほんとうに踊らされている人々がいるとするなら、やはり、オメデタ過ぎると言わざるを得ない。

 政治とは「効果」である。一時的でも有効性があればその内容の深浅、軽重は二の次なのである。したがって、我々市井の「善人」が、追究の姿勢をくずし、追及の手を休めれば、いつの間にか首は真綿で締めつけられているという寸法なのである。実際、火の車で安らかな眠りなど夢のまた夢の中でも火の車であろう。生かさず殺さず、搾れるだけ絞るという者たちの美辞麗句に気を許せばいつまで経っても朝三暮四のサルか、だまし絵の中のサルなのである。

                2022 6/2


 

 


873.今、欧米の在り方の問題点を論っている場合か?


 今頃、わかり切っていることを、何か問題の核心に触れているつもりになって、言っている者が結構いるが、つい、だから?それで?と言いたくもなる。今問題なのは、内政干渉のような口実の下に行われた大国の「侵略」行為とそれに付随した様々な残虐な「戦争犯罪」である。こんなことがまかり通ればどうなるか、相当な極楽とんぼでもない限り、やがて想像通りのことが世界中で起きることはわかる。現在、このロシアの「ウクライナ侵攻」を機に各国の軍備拡張の動きは「活況」を呈しているのである。しかし、これほど逆効果しか上げられない為政者も珍しい。スターリン同様、有能な者たちを粛清し続けた結果でもあろう。そのばかばかしい程の逆効果の程を見ているだけでも、欧米の軍産複合体のコングロマリットの存在が浮かび上がってくる。しかし、現状は、「新帝政ロシア」の今世紀最大の大うつけ相手に、その顔色を窺って、「落としどころ」などと、一体どこに何を落とすかもわからぬようなうわごとの繰り返しでもある。どちらにしても、もう止まることも、引き返すこともできないことだけは確かなのである。

 欧米の在り方については、今後の課題でもあり、転換時期であるということに過ぎない。

 ロシアは大き過ぎる。「新帝政ロシア」でどのような強権を使ってももう持つまい。それは時代に逆行する許されざる衰微を余儀なくされる虚構である。

              2022 5/15


872.「チキンレース」に「火事場泥棒」に・・・


「チキンレース」に「火事場泥棒」、それらが何を意味しているか、敢えて説明する必要もあるまい。現状は、油断も隙もない綱渡りを強いられているようなものである。「チキンレース」は、集積回路に支障を来しているAIロボットようなものが相手で、大変である。読めても読めない。予想もしないところで機能不全の腕が核のボタンに触れる可能性もある。どちらもまともに会話が成り立ちようがないということでは同質であるが、「火事場泥棒」の方は監視を怠らなければ、動きを止めることはできる。

近藤日出造が描いたような似顔絵を前に、つい悪態の一つや二つ出てくるのもせんかたなし。

てやんでえ!べらぼうめ!  ふてえ野郎だ!すっこんでろい! 

            2022 5/2


871.外交官上がりの評論家の限界と危うさ


どうでもいいような裏話の積み重ねで身動きがつかいなのであろう、話も展開の余地もなく、掘り下げたところから湧き出るような面白さも新鮮さもなく陳腐である。思わず、あなたが偉そうに勝手に結論を出すなと言いたくもなる。以前世話になったところに絡め取られているのか、そこから金でも出ているのかと思われるが、それほど不自由で酷いというより、自分でほんとうに考えたことがあるのかと言いたくもなる。元大使などといったところで、お上品なパーティーでの接点しかなく、その国の実態など「特定の紙上」以外に知る由もなかったであろうと思われるのである。そう、その特定の階層の意識しか感受できていないから何もかも平面的で面白くもなく、深みも、切り口もないのである。それが何を勘違いしているのか、「専門家」気取りのご開陳である。しかし、大学教授のレベルも恐ろしくなる程の急下降である。もはや「知識層」、インテリゲンチャは存在しないと思った方がいい。

 帝政ロシアに逆行しているようなプーチンの新帝政ロシアについては、まるで触らぬ神に祟りなしのごとくである。プーチンの「要求」は国際基準でみると、ある種の「合理性」もあるなどと言っているようではそのオメデタさも半端ではない。何度も騙されるオメデタイ民と同様のレベル。国際基準に合わせた偽った「要求」に、「理」などはあり得ぬ。それとも、「理」とは「欲望の筋道」という意味か?一方では、米国のウクライナ支援について、ウクライナを救うことが第一義ではなくロシアを破壊することなどと言っている者もいるようであるが、それは米国の常套手段というより大国の常套手段でもある。しかし、「ロシアを破壊すること」などとは明かに勇み足である。プーチンの新帝政ロシアの解体と言った方がより正確であろう。米国の戦略の下に「踊っているのがゼレンスキー」だという御仁の一見冷静に見える皮相な見解、こういう御仁の目にはどのような惨状も惨状として捉えられないだろう。それだけではない、本質的なことが見えないか、目をそらしているのである。このような、「専門家」でも「知識人」でもない、「インテリゲンチャ」とは程遠い立ち位置にいる者たちの「ご意見」にはかなりの注意を要するということである。

 

              2022 4/23

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