ーある日、その時ー(4) 掲載内容 2010 11/21ー12/15
78.安直さに潜む危うさ 79.「戒厳令の夜」 80.世界に通用しない日本の「ジャッジ」 81.Wikilieaks(ウィキリークス)は本来のジャーナリストの姿 82.蘇東坡の「朱竹」 83.平田オリザと鈴木忠志の対談 84.奇妙な風景 85.怪人鉄面皮 86ワンワードポリティクスから阿Qポリティクスへ87.ツイッターの無意味さ
87.ツイッターの無意味さ
日本においては、残念ながら拾えるものがほとんどない。簡単に言えば、自分自身の考えというものがまるで見えないのである。何者かに言わされていることに気が付いていないとも言える。日本の異様とも言える大手マスメディアの横並び一列の意見、コメント、それに呼応するかのようにツイッターの内容もほぼ横一列である。ツイッターが自分の感情だと思っていることさえもすべてマスメディアに飼い慣らされ、コントロールされている感情である。たまに特殊「政治」結社の小冊子の100年一律の文言が飛んだり跳ねたりしているが、思い込むのは勝手であるが、傍迷惑。結局、現在のところ日本国内のツイッターなるものはマスメディアが仕掛けた効果確認の意味程度しかないだろう。まだまだ日本の民主主義なるものは形も成していないという思い頻りである。このまま形も成さず消滅する可能性すらある。すでに半世紀近く前、日本の民主主義は死んだという説も出されたくらいであるから、然もありなん。この半世紀、市民意識は育つどころか退化しているのである。
ツイッターにはもっと生き生きした「ノイズ」を期待したが、「ノイズ」にもなっていない。これではただ大手マスメディアを喜ばせているだけであろう。
2010 12/14
86.ワンワード・ポリティクスから阿Qポリティクスへ
この題だけですべてを読み取る人もいるだろうが、一応説明しておくと、ワンワード・ポリティクスとはひとつの言葉、お題目を繰り返すことですべての政治上の問題を乗り切ろうとするかなり強引で、でたらめな持って行き方であるが、「分かりやすく」大衆受けする政治的手法でもある。何を問い質しても「論点すり替え」を巧みに使い「構造改革」を繰り返す類である。「阿Qポリティクス」とは魯迅の「阿Q正伝」から引いた私の造語であるが、どんな悲惨な結果に終わろうが、勝負に負けても、自分の都合の良いように置き換え、変換して自分を「勝利者」にしてしまう。現実はまったく逆であるにもかかわらず、観念的操作で自分に適した、自己合理化、正当化できる状態を作り上げる政治戦略である。因みに阿Qの最期は銃殺である。
個的症状から見れば、ワンワード・ポリティクスも阿Qポリティクスも共通する症状はサイコパス的傾向を持つことである。
※サイコパスの特徴
〇良心の異常な欠如 〇他者に対する冷淡さ、共感の欠如 〇 慢性的に平然と嘘をつく 〇 行動に対して責任が取れない 〇罪悪感がまったくない 〇過大な自尊心で自己中心的 〇口達者で浅薄な魅力
現実的には、その現れ方はそのまま現れている場合もあれば、以上のような要素を巧妙に隠す方向でむしろ逆の現れ方をする。「不自然」に強調されていれば、まったく逆と観るべきであろう。
ただし、この手のチェックリストは専門的な知識を持つ者がチェックすべきで、きちんとした知識もない者が面白がってやるべきではない。単純な採点方式による評価は危ういものがあり、項目別、個的分析は最低必要条件であろう。しかし、世の中には実に様々な「人間」がいて、善良で実直な人々ばかりではないということ、そして、そのような誠実な人々が自分自身を通して他者を見る時に、必ずその死角に入る「人間」が数多くいるということの一つの参考資料にはなるだろう。
2010 12/13
85. 怪人鉄面皮 2010 12/10
84.奇妙な風景
先日、来日したフランスの劇作家が東京で撮った写真をメールで送ってきた。電車で口を開けて寝込んでいる若者、耳にイヤホーンをして携帯電話をしている者、パリでは在り様のない「殺風景」な街路、ちんけな店のネオンサイン(12月のパリではシャンゼリゼ辺りでは豪華な光の乱舞である。),何でこんな写真を、どこが面白いのかと思ったが、そう言えば電車内で口を開けてだらしなく寝ている者や、携帯電話に夢中になっている者達などはパリではもちろん、スペインの片田舎でもほとんど見かけたことがない。だから、彼らにとってはそれらが奇異な光景に見えるのであろう。しかし、彼らには面白くとも、それは薄気味の悪い実情を露呈していることにもなる。そこには飼い慣らされて弛緩した精神そのものが横たわっているからである。「単に疲れているだけじゃないの」と言って収まるものであれば、もうすでにその視点そのものも眠らされていると言える。やはり、よく見ればどこか奇妙なのである。しかし、この奇妙感はどっぷりその状況に漬かっている者には見えてこないものである。その国の若者の食事を見ればその国の将来は見えるとはフランスの格言であるが、それは何も食事に限らない。もし、その通りなら日本の近未来のデーターは解析され、もうすでに読み取られているはずである。
2010 12/8
83.平田オリザと鈴木忠志の対談
「なぜ、劇場なのかが問われる時代へ」と題して、問題になっている「劇場法」と日本の文化的状況についての対談内容は大筋のところ納得できるものであった。
その中で、「この新国立劇場を含む国立の文化施設に関しては、審議会を作ってゼロから見直す方向になっている。」とあ
った。新国立劇場が俳優養成所を作って、芸術振興基金まで貰っておきながら、授業料を取り、挙句の果てに、発表会を終えた者達を自分のところでは使わず芸能プロダクションに入れているようではやはり根本的に見直す必要があろう。
また、平田は、「ー略ー 自分では作家の方が強いと思っているんです。まあ、作家としては、日本は滅びると思っています。」などと言っていたが、私もその点に関しては同感ではあるが、平田が本当に作家の方が強いかどうかはその内分かるだろう。この対談は鈴木忠志の切り込み、フォロー、持って行き方なども程よく、現状の流れを伝えるものとして参考になった。
※ただし、「平田オリザが内閣官房参与を務める政治情勢を奇貨として、劇場法に希望を託すのも一法であろう。」(鈴木滉二郎)などとは思わない。政治情勢を奇貨とし得ると思えるところに状況分析の難点がある。逆に奇貨とされてしまう可能性の方が高いであろう。平田の近未来的構想には現状の問題点を踏まえた面白いところもあるが、やはり文化の多様性、表現の自由と言う点においては、画一的にならざるを得なくなるような行政との連携システムには問題が多過ぎる。「『国が文化を創る』ということになり、到底、表現の自由と文化の多様性が守れるとは思われない、このような国主導の文化政策は、発展途上国のものであり、時代錯誤の代物である。」(鳥取大学/文化政策・野田邦弘)と言われても仕方あるまい。しかし、作家である平田が「日本は滅ぶ」と思っているにも拘わらず、なぜこのようなことに精を出すのか不可解。その内に国に義理を通すあまり、作家としては不誠実にならざるを得ない状況に追い込まれるのではないか。「その意に反して」演劇をさらに形骸化してしまうことだけは回避してもらいたい。
2010 12/6
82.蘇東坡の「朱竹」
81.Wikileaks(ウィキリークス)は本来のジャーナリストの姿
ウィキリークスに対しては、誤解を生じさせたり、騙すように意図的に作られたものが社会に出回ってしまうという懸念などがあるようだが、それはすでに日本でも大手マスメディアがやってきたことであろう。最近の例でも、大手マスメディアは検察のリークをそのまま何の検証もせず流していたが、それこそが懸念されるべき対象である。ウィキリークスは、少なくともリークされた文章を充分な知識を持った世界中の人々によって精査し、議論の対象として取り上げているという。その動き、内容などを見ても実際にその通りあろうと思われる。一方的なリークをそのまま既成事実のごとく垂れ流しているわが国の情けない大手マスメディアとは根本的な質の違いがあるのである。ウィキリークスに対してもっともらしい心配をするよりジャーナリスト不在を恥じるべきであろう。其処彼処いるのはパートタイムの政治家とジャーナリストばかりでは、喜ぶのは既得権益にすがる者達だけである。やはり、ウィキリークスの登場には歴史的必然性を感じる。今後も益々拡大するであろうし、もはやそれを止めようとしてもそれはできない。それが世界の大きな「うねり」とも言うべきものである。そして、この「うねり」には大きな「力」が秘められている。目先の波頭にばかり気を取られていてはこの「うねり」の底力には気付きようもない。
2010 12/1
80.世界に通用しない日本の「ジャッジ」
日本の「ジャッジ」なるものはどの分野においても世界では通用しないものと見える。
昨日、競馬をこよなく愛する私の友人と酒を飲み交わすことになった。私自身は競馬に疎いので、黙っているより仕方ないのであるが、彼が言うには間違いなく勝っている馬があの程度のことで降着にさせられるのはどうしても納得できないということであった。彼は競馬の専門用語を遣ってもっと具体的に話していたが、私にはそれ以上のことはあまり分からなかったが、それでもその理不尽さに憤る思いは伝わってきた。
彼はさらに続けた。そして、「武豊が世界で通用しないことがよく分かった。要するに騎乗が下手なだけで、武豊があのような勝ち方で喜んでいる姿を見ているととんでもなく情けなくなり、怒りがこみ上げてくる。それから、農水省の役人達で構成されている審査そのものにも問題があり、あれでは今後も世界に通用する騎手などは絶対に育たない。」と言い切った。
私は、また官僚の登場かという思いで彼の話を聞いていたが、役人が庶民の娯楽の領域まで顔を突っ込んで競馬ファンの気持ちを逆撫でしているのである。このような問題が起きる度に、この場合は審査対象基準であるが、それを因循姑息な方法で処理していたのでは世界の趨勢とはすべてにおいてマイナス方向でズレるしかないのではないかということを感じてしまう。
彼は、ブエナビスタは不運な馬だと言った。そして、日本の騎手の馬に対する感情は、自己の欲望、単なる生活の手段以上のものを感じさせないことの方が多いとも言った。私は、そこで驚いたのだが、彼はレースが開始される前から馬と騎手の一挙手一投足まで観察しているのである。おそらく一般的な「競馬」というコンセプトでは捉え切れないレベルで競馬を捉えているのだろうと思ったが、しかし、それが本当に「好きだ」ということでもあろう。一事が万事、そのような彼であるから、その夜も心地よく飲みながら話もできた。活動の分野が違ってもそういう人達との話は実に面白いのである。
2010 11/29
79.「戒厳令の夜」
78.安直さに潜む危うさ