<掲載内容>
855.「離人症」 856.「意識どん底系」の蔓延で光は消えて行く 857.「陰謀論」?858.匿名世界の異常者たち 859.お里も知れる「自虐史観」860.「現在バイアス」?861.前統合幕僚長でさえ 862.「人流」とは唖然 863.改めてこのサイトについて 864.「分断」というバズワード865.自称「メンタリスト」のイカガワシサ 866.猫も杓子も「根拠、根拠」と喧しい 867.ヤァー!「暗闇」君 868.Wikipediaについて 869.ABE 870.蜷川幸雄の「ダメ出し」
<転載・複製厳禁>
870.蜷川幸雄の「ダメ出し」
「バカ、ブス死んじぇ」などと怒鳴りながら、灰皿、靴が飛んでくる。そんなダメ出しをする「厳しい」演出家として名を馳せた人物でもあるが、そのようなことばかりが前面に出て、それが演出の醍醐味とばかりに、それに倣って顰蹙を買った者も多かったようである。彼は、あたりかまわずそんなことをしている訳ではなく、当然ちゃんと人を見てやっているのである。その暴力的なダメ出しの対象となったのは主に若手、あるいは新人である。例えば、財津一郎などには逆に低姿勢で弱いくらいであった。蜷川も役者挫折組の演出家で、その屈折の具合もかなりのものであったであろうと思われる。実際、大地喜和子には「どうか、役者はやらないでほしい。演出家として尊敬できなくなるから」と懇願されたくらいであるから役者としての才能のなさも半端ではない。演出の手法も、それなら映画でも撮ればと言いたくなるような舞台が多かった。アンテナの錆びついたド素人の意表を突くような「演出」という意味では、商業主義に取り込まれやすいものを持っていたことも事実であろう。
確かに、ほんとうに役者を育てようとすると蜷川のようにならざるを得ないところもあるが、もちろんそれだけではない、他にも様々な方法がある。しかし、現在では、あらゆる点で、あらゆる意味で蜷川流ダメ出しは困難になっていると言うより成立しなくなっている。以前の、蜷川の時代でも、蜷川演出における役者の美談ばかりではなく、角を矯めて牛を殺すがごとくに「殺された」者も数多くいたであろうことは推して知るべしなのである。
2022 4/18ー4/20
869.ABE
最近、至る所で顔を見るので、再び取り上げるが、やはりその言動から「政治家」としては危険な「論外」としてしか見ることができない。それよりも精神病理の対象として見ていると言ったほうがいいかもしれない。しかし、これだけ欺かれてもなおこのような言動を何気なく「許して」しまう状況とは一体どのような状況なのか?また当人自身も今までのことはなかったかのようにしたり顔で喋ていられるその「神経」も、「言論の自由」で語られるレベルでもなく、やはり尋常ではない。この異常さは、やはりカルト的虚構集団が作り出す意識構造の基底から派生しているものなのか、どちらにしてもその異常さを増幅させていることに変わりあるまい。そして、この異常さがそれ以外の、「下々」のところまでいかに伝播しているのか、それがわかる事象に遭遇することは今なお頻繁にある。「魚は頭から腐る」とはロシアで生まれたことわざらしいが、これはそのまま現在のロシアにも当てはまるが、日本でも「頭」が異常であれば、当然それ以外の部分が異常になってくるということは至極自然なことでもある。一個人の中でこれほどまでに精神病理上においても様々な問題が体現されているのは、珍しいことである。特にその「軽さ」は桁違いで、極めて危険な「軽さ」である。
2022 3/4+
ABEは、動きを止めれば逮捕される「可能性」もあるので必死であろう。憲法改変の熱望などとは、今や飽くまで保身の手段でしかない。地方の講演会なども、お土産付きのファンクラブの前でしか「ご開陳」できないようなお粗末な内容の繰り返しらしい。実際、何の効力もないスタンドプレーの連続であったことは証明済みなのである。「普通」であれば、恥の上塗りで傾いたものに押しつぶされているところだが、そうでなくとも藁をもつかむ必死さはある時間を境に狂気に至る。その点でも、プーチンとABEは共通している。万が一、ABEの思惑通り「こと」が進展していれば、現状はロシアと同質(全体主義という意味で)、ロシアの側に「いる」ということになる。決して自国をウクライナに見立てることはできず、今頃はウクライナの非を論っているであろう。実際に、その余り風のような肩書だけ御大層な「買われた(飼われた)者」たちのお粗末な「反」ウクライナ「論」は出てきているのである。「いくら貰っている?」とつい出てきてしまうその面構えと内容である。(4/8)
868.Wikipediaについて
これもまた今更のことではあるが、やはり改めて確認したくなったので記すことにした。Wikipediaは検証もせずそのまま情報として受け取るとかなり危ういということである。それこそ恣意的に好き勝手に書き入れているケースが多々見られるということである。リテラシーのある者にとっては、取捨選択すればいいだけのことであるが、そこに書いてあることだけで止まってしまう者にとっては、負の積み重ね、あるいは明らかな誤謬をそのまま受け継ぐことになり、それが将来に渡って影響してくるということになる。生年月日、死没年月日などを確認する程度なら特に問題はなさそうであるが、中にはどこかに提出した自己推薦文のような「第一人者」などという言葉も遣われていたり、根拠も定かでないことを論っているものもある。「Wikipediaなんか、ウソッパチばっかり」と全面否定するつもりもないが、ファクトチェックは必要であるということである。さらに言えば、批判とは言い難いチェックを搔い潜るようなまことしやかな誹謗中傷の類も多く見れられる。「万人で作る百科事典」がウソ百科では無意味と言うより、むしろ害になることは言うまでもない。因みに、「Wikipediaなんかウソッパチばかり」と言っていた当人もWikipediaに載っている。自分で載せたのか、第三者が載せたたのか知る由もないが、どちらにしても興味はない。
2021 10/19
867.ヤァー!「暗闇」君
ヤァー「暗闇」君 我が古き友よ
また君と話に来た・・・
・・・・・・・・
人々は喋っている 話すことなく
人々は聞いている 耳を傾けることなく
・・・・・
「愚か者たちよ」・・・・・・君たちは知らない 沈黙は癌のように広がることを・・・
・・・
そう、これは、ポール・サイモンの作詞・作曲の「The Sound of Silence」のほんの一部の抜粋である。半世紀以上も前の歌であるが、どの歌詞も現在に生々しく息衝いている。不安を感じながらも、そこにはパワーがある。闇を避けて、ただ明るさを求めて光に集まる小虫のような感覚が今の趨勢のようであるが、それでは闇はさらに巨大化する。この歌は、漆黒の闇に対して、ヤァー暗闇君と、懐かしい友に会うような感覚で始まる。実際、闇をできるだけ見ないことにするという方向では、闇はさらに大きく、深さを増すだけでなのである。希望的観測などにしがみつくだけの者たちがもろく、崩れやすいのはそこである。この歌は、暗闇に対峙するという気負いはない、むしろそれを我がものの一部として自らの行動指針として取り込んでいくところが、さりげなくしたたかなのである。
さて、ここで登場する預言者たちだが、どのように捉えるか、それも面白いところである。
※歌詞の訳は、歌詞らしい歌いやすい言葉には敢えて変えず、内容的に響く方を選んだ。
2021 9/26
866.猫も杓子も「根拠、根拠」と喧しい
私も、以前はよく「根拠」について、その有無を問い質したことはあるが、最近は、どういう意味で遣っているのかと思われるようなものがよくある。「言っていることに根拠がない」などという言い方で遣われることが多いが、よく見れば根拠は書かれているのに、読み取れていないのか、根拠を「科学的証拠」のようなエビデンスと同義語と勘違いしているのかと思われるものさえある。言うまでもなく、根拠はエビデンス(証拠)という意味ではない。言い得るよりどころとなる「理由」などが述べられていれば根拠が示されているということになるのである。人文科学系の問題について「根拠の有無」をあたかも「物的証拠の有無」のような意味で遣われるのは明らかに間違いである。
2021 8/21
865.自称「メンタリスト」のイカガワシサ
心理学そのものの根本的問題については、このサイトでも何度か取り上げてきた。精神分析ならいざ知らず、心理分析など詰まるところ皮相的な人心掌握術程度の領域を右往左往しているのがオチであろう。むしろ、その程度だから容易に商業的価値も生まれるのである。要するに、その軽便な人身操作術に、おこぼれ頂戴とばかりに人が群がるということである。最近のメンタリストDなどという者の、ホームレス、生活保護受給者に対する差別発言にしても、やはり根幹部分に致命的な欠陥のある未成熟成人としか言いようのない思考内容が如実に現れている。それは「自分の感想を述べた」では済まされないこともまったくわかっていない未成熟さなのである。「心理操作」を金につなげて弄ぶだけの、実に空疎な営みしかやっていないから自ずと出てくる思考回路である。私は、このような領域にいる者たちすべてを「メフィストの使いっパシリ」と呼んでいる。不誠実で、詐術の巧みなナルシスト、素行ゼロの者、やがて権力の集中するところからメフィストのお呼びもかかることであろう。あっ、そうか、すでにメフィストとは契約済みか。なるほど、それですべては解せる。
※「メンタリスト」などという名称も、アメリカの人気刑事ドラマにあやかってつけられたものであろうが、主人公の犯罪コンサルタントは元詐欺師で、自身を霊能者(サイキック)と偽り活動していた人間である。「メンタリスト」自体の意味なども、手品師、詐術的霊能者程度の者と見ておいた方が無難であろう。人間心理を巧みに操る鑑識眼と推理力を持つドラマの中の「メンタリスト」と自分を重ね合わせたいのだろうが、語るに落ちるで、すぐに本体をさらけ出す。
2021 8/13
後日、このメンタリストDの言動は、スタンリーキューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」で、アレックスがホームレスを徹底的に叩きのめす暴力シーンにリンクした。
864.「分断」というバズワード
「バズワード」自体もバズワードであるが、ここでは何か新しい重要な概念、説得力があるような言葉にみえるが、実は定義や意味が曖昧な造語という意味で遣う。実際には、造語ばかりではなく、既存の言葉に対してもこの「バズワード化」のようなことがかなり起こっている。特に、問題のすり替えを得意とする者たちにその傾向が多く見られる。「分断」という言葉も社会的分断という意味で遣われることが多いが、「分断」の既存の辞書的意味合いでは、「まとまりあるものを断ち切って別々なものにすること」だが、対立という概念で充分説明できることを敢えて「分断」という言葉で置き換えることによって「一つにまとまっていること」が至上のことのように思わせる効果が生じる。すなわち、個々様々なものを一元的に組み替える作業の一環として遣わているのである。ものを少しでも考える人間ならば「分断」という言葉の遣われ方に違和感以上のものを感じるのも当然であろう。それは自由な思考展開を阻害するものであるからである。異なった意見の対立はものごとをより良く展開する意味でも必要だが、対立見解を「分断するもの」として捉えてしまうと、批判すること自体が、いつの間にか「批判するより提案を」などという形で「円満に」排除されてしまうことにもなる。実際、正当に批判することさえ「分断」を引き寄せ、煽り、蔓延させてしまうものというような風潮さえ出来上がってきている。「分断」という言葉もバズワード化の弊害に陥っているのである。「なぜ成熟した民主主義は分断を生み出すのか」などいう題の本があったが、「成熟した民主主義」とは何か?民主主義に成熟期などというものが存在するのか。本来的にも民主主義というのは永遠に現在進行形なのであり、完成することなどないはずである。したがって、現在のアメリカを「成熟期」と捉える視座、スタンスそのものがどのように作られたのか、それも問題ではあるが、一応、民主主義が進行している以上、常に対立、拮抗し合う関係はあり、それは常に検証され得るもので、「分断」を生み出しているわけではない。それはさらに大きな検証の時を迎えるという繰り返しなのである。それを統一の取れていない、まとまりのない社会と捉えるから「分断」などという言葉が出てくるのである。全体主義的視座に立てば、民主主義社会など「まとまりもなく」常に「分断」を生み出しているようにしか見えまい。もし民主主義社会を是とするなら、不用意に「分断」などという言葉を遣うべきではないのである。そこにあるのは、飽くまで発展には欠かせない「対立」があるということで、断ち切られまったく別なものとなった「分断」ということではないはずである。
2021 7/18
863.改めてこのサイトについて
このサイトは、訪問者数、PV(ページ閲覧)の多寡などには無関係に進められてきた備忘録であるが、2021年6月までの一日の訪問者数はMax459、Avg200-300、一日のPVはMax1019、Avg400-500。これは一つの参考資料ともなることなので記して置くことにした。スタンス、展開は今まで通りで、何ら変わるところはない。ただ、思った以上に多くの方が見たり読んだり、チェックを入れていることがわかったということである。
2021 7/1
2022年の一日の訪問者数Max683
862.「人流」とは唖然
最近は、本当に奇っ怪千万な言葉が多い。この「人流」もそうであるが、政治家や官僚が頻繁に使い、アナウンサーまで既存の言葉としてごく普通に使っていたということである。これに対してある人は「かなり違和感を持った」ということを書いている。それが感性、知性が共に健全に機能している人の当然の反応でもあろう。この言葉を頻繁に使っていたというところが発信元であるなら、さらに合点が行く。物の流れを示す「物流」という既存の言葉に合わせて人の流れを「人流」とは、あまりに安易過ぎるというよりかなり危ういものがある。それは、その意識構造そのものも危ういが、同時に明らかに確信犯的なものもある。そこには「違和感を持つ」という感性すら中和させつつ、何が問題なのかを見極める知性も消し去る意図的な「作為」があるのである。頭の中を、それと気づかさせず攪拌しその実態を不透明にさせる操作である。言葉の攪拌は思考の攪拌でもある、それとなく使っているとそれが意味するものが意識構造に浸透してくるのである。このような造語、新語に囲まれているのが現状でもある。その中には時間の経過とともにその毒性を発揮する特殊な毒まんじゅうのような言葉もある。独裁者は必ず言葉をいじり始めることも忘れないことである。
これも前に書いたが、「ソーシャルディスタンス」これは物理的な距離を意味するものではなく精神的な距離を意味し、そのまま排除の意識構造を作り出す怖い言葉でもある。単に物理的距離を意味するものであれば「ソーシャルディスタンシング」なのである。人々の会話、交流、つながりを恐れるのも独裁者、正確な情報は流さず、人々の分断を図りながら自分の思う方向に収れんさせるのも独裁者である。
そう、「人流」とは「物流」のことなのである。だから、「違和感を感じ」、「品のなさ」を感じるのである。「こんな言葉が『新語大賞』などの候補に選ばれれば、世も末で日本語の破壊だ」と思われるのである。
しかし、それは「日本語の破壊」だけでは済むまい、すでに文化レベルは地に落ちているのである。それは何らかの形で文化的営為に直接関わった者にしか具体的に見えて来ないであろう。多くの者たちが、それと気が付いた時には崖っぷちに立たされているというより、「落下中」ということにもなり、もはや地に堕ちるまでに分かるかどうかという程度のものである。
「文化」の死とは、目に見えないから怖いのである。それは、やがてその国を亡ぼすことになる。
2021 6/3ー
861.前統合幕僚長(河野克俊)でさえ
5月12日、記者クラブで前統合幕僚長は「もっと早めに手を打つべきだった。危機管理として失敗している」と「批判」したのである。「最悪の事態を考えて、そこに至らないように手を打っていくのが危機管理だが、これは逆行だ。その場その場で後追いでやっている」と前統合幕僚長でさえ、言わざるを得なくなる事態になっているのである。政府側にいた人間なので、本来なら言いたくはないことであると本人も言っているが、事態はそのようなことを通り越してしまっているのである。現状に対する正当な批判は、よりよく先に進むためには必須であるということを改めて提示している。
それに反して、IOC関係者の言動、オリンピックの実態がかつてない程に白日の下にさらされた。それはすでにわかっていたことでもあるが、ここまで醜悪であると、解体するより手立てはあるまい。
IOC関係者が、日本人の犠牲的精神論まで持ち出して、開催を強いるその姿、オリンピックのために「玉砕せよ」と言わんばかりである。彼らを見ていると、やはりオリンピック帝国のイカサマ男爵と言った方が的確なのであろうと思われる。
さらに、ここにきて、撒き餌につられた「ジャーナリスト」の動きが活発になっている。目に付くところでは、長谷川何某、彼は「私も菅政権と意見が異なる部分もある。だが、目先の問題を批判したところで、日本の国が良くなるわけではない。」、「日本の根本問題を認識しているか」そして、「東京五輪、コロナ対応の遅れなどは目先の問題で、目先の問題を批判したところで、日本の国が良くなるわけではない」などと言っているが、これは現状の問題から体よく目をそらせるための、その筋の者がよく使う典型的な言い回しと持って行き方なのである。それでは聞くが、日本の根本問題とは?菅政権が日本の根本問題をどのように認識しているというのか、明快に示すべきであろう。この手の似非「ジャーナリスト」の浅知恵にいちいち付き合っている時間はないのであるがつい言いたくなる。撒き餌に群がる犬ジャーナリストには要注意!
2021 5/23
860.「現在バイアス」?
軽めの、簡略化された造語が氾濫している中で、行動経済学の領域でつかわれている心理学用語「現在バイアス」などという造語もある。これは将来的なことを考えることより、現前の小さな利益の実現を図ることに重点を置くという「認知バイアス」のことらしいが、そういう傾向が若い世代に強いという。この手の造語は総じて底が浅く本質的なことが捉え切れていないので、増えれば増えるほど煩雑になるだけで根本的な領域からは乖離するだけである。「現在バイアス」が若い世代に強いなどと「分析」していたのはエコノミストであるが、「現在バイアス」が極めて強いのは、むしろ現在の為政者(政権担当)たちであろう。先のこと見据えて、事を成している者がどれだけいるのか?「後は野となれ山となれ」としか思えない場当たり的な行為ばかりである。仮に「現在バイアス」が成り立つとしたら、当然「過去バイアス」、「未来バイアス」もあると思われるが、そこまでの言及はない。時間論など語り得ないレベルの内容なのである。「バイアス」の遣われ方も問題になるが、「過去」、「現在」、「未来」、その中で我々に許されているのは「現在」だけということに古今東西何ら変わることはない。「現在」を重要視するしかないという意味でも、「現在」という時間に「バイアス」を持ち込むことは不適切である。時間にバイアスなどはないのである。要するに、マーケッティングに必要な便宜的なコンセプトという程度の造語なのであろうが、それを敷衍させて何か新しい世界の捉え方のように見せるのは大きな間違い。お粗末な内容を露呈させるだけではなく、危険でさえある。「Z世代」などという世代論もしかり。マーケティング・リサーチ レベルの話であって、大したことを言っているわけでもない。飽くまで、「商い」の範疇でしか通用しない事柄を色分けしているに過ぎない。したがって、そこから割り出された措定そのものもかなりファジーで蓋然性も定かではなく、根本的な領域とはかけ離れているということである。
さらに言えば、私は、心理学そのものの在り方を信用していない。意識するしないに関わらず、煎じ詰めれば、その主たる目的は「民」をいかにコントロールするかにかかってくるからである。したがって、「学」としてもあまりにも不完全なのである。心理学用語を多用したところで、何もわかったことにはならないということを肝に銘じるべきなのである。
2021 5/2
859.お里も知れる「自虐史観」
そもそも「自虐史観」などという歴史観は存在しない。しかし、これほど幼稚なコンセプトで通じ合える領域が存在するというのは、日本ぐらいなものであろう。こんな言葉で、何かを言い当てたごとくに得意げになっている時点で、今後の新たな地平はすべて失われている。自省すべき問題をあたかも過剰な自虐であるかのように思わせて、乗り越えなくてはならぬ問題をスルーする方向に導く、「自虐史観」などという造語は、それを遣う者のスタンスも暴露するが、真実とは乖離するばかりの感覚的で偏向的な歴史認識を「正当化」するだけなのである。これ以上恥の上塗りをするようなことは止めた方がいい。それがわからないようでは井の中の蛙大海を知らずどころか、現前の水たまりにも気付くまい。このような感覚的造語というのは、一語であたかもすべてを悟らせるような錯覚をもたらすが、まったく無意味どころか、アヘンのような言葉で、わかったようなコンセプトを空中楼閣的に作り出す。
ある歴史的事象の今までの記述を「自虐史観」というコンセプトで捉え、そこから「自由主義史観」(名称は立派だが)とやらで検証するというのであるが、詰まるところ、それは安易で不当な歴史改ざんに陥るか、「(新)皇国史観」などに行き着く。要するに、「自由な解釈」などといったところで、明解な哲理がなければ、すぐに安きに流れたご都合主義的な解釈しかできなくなるのである。「中国から日本を守る」のに日本でしか成り立たぬ、それもまともに検証もなされないような「新皇国史観」などを持ち出す必要がどこにある。民主主義で充分である。そんなことより民主主義を成熟させるためにはどうするかを考えるべきなのである。実際、今でも民主主義のイロハもわかっていないのが実情であろう。そんな現状で、また東条、真崎などの復活でも願っているのか、阿漕(あこぎ)である。いつまで愚行を繰り返せばわかるのかと言いたくもなる。
己に酔うことなく、己の美醜、良し悪しを明確に知り得た者だげが、ほんとうの「展開」、「発展」に巡り合えるというのは、何も個人の人生に限ったことではない。
2021 4/3
858.匿名世界の異常者たち
まず、私自身は、匿名の者がたとえいかなる講釈を垂れてもまったく信を置くことはない。無縁である。無縁というより、それ以前にまず「触れる」こともない、3万光年の「距離を置く」と言ってもよいかもしれない。それは詰まるところ、無と言ってもいいようなもの、取り上げる価値、意味の有無すら問題にならないのである。匿名の者とは、そもそもが「縁なき衆生」なのである、そのような者たちと「交流」もありえないし、理解に向けた「交信」も100%不可能であろう。そのような者たちとはどのような「接点」もありえない。要するに、「度し難し」なのである。以前、「言った者勝ち」などということがよく言われたが、「ヘイト」、あるいはそれに類したものなどは、所詮、匿名発信者自身の資質、実態というものを現わしているだけで、匿名発信者がターゲットにしている者の実情とは乖離しているというのがほとんどである。正確にものを捉える知力が決定的に不足している、言い換えれば、現実を見ることさえできない状態になっている者たちの発話ということである。彼らには展開の余地などまったくない。やがて、自ら潰れていくしかないだろう。もうすでに汚辱に満ちた言語使用の繰り返しで前頭葉は確実に委縮しているのである。
最近では、匿名の者が、ある作家に「実名を明かせ」と迫ったそうだが、自分は名乗らず、相手に名乗れと言う、このような噴飯ものが通っていること自体やはり尋常ではない。匿名世界とは、尋常ではない領域で愚者がその気になってしまっている異常な世界でもある。ただし、一言付け加えれば、匿名世界でも私利私欲のない、何者かが住することのない誠実な問いかけ、主張であれば、3万光年の彼方からでも自ずと聞こえてくるものである。
2021 3/10
857.「陰謀論」?
この言葉も実に曖昧に遣われる言葉であるが、至る所で目にする。フェイク、ねつ造、でっち上げ、デマ程度のことから、さらに様々なもっともらしいコンセプトが入り乱れ、意味のあるようなないような文脈の中でさらに煩雑となって「悪用」されている言葉でもある。根拠を示しつつ展開される推定まで「陰謀論」という言葉で括られる始末である。陰謀の有無などは、マキャベリズムの権謀術数を持ち出すまでもなく歴史上においても人間の「欲望」が絡むところではどこでも発生する。したがって、常にそれを所与のものとして検証する必要があるということに過ぎない。それが、マキャベリズムの信奉者ともなれば、なおさらで、陰謀がない方が異常であろう。自らはフェイクを垂れ流し、ねつ造、デマ、でっち上げは日常茶飯事、すなわち、陰謀が日課となっている者が敵対する相手の陰謀をでっち上げることなど朝飯前のことであるということである。権謀術数が政治だと心得ている者にとって、陰謀をでっち上げることなど容易いことである。そのようなことを「陰謀『論』」などと言わずに、端的に「陰謀のねつ造」、「陰謀のでっち上げ」と言った方がわかりやすい。「陰謀論」などと接尾辞的に「論」を付けるから指示内容そのものを曖昧にするのである。例えば、「トランプ騒動」、大衆に媚びることだけが売りの反デモクラシー的権謀術数者の相手側についての「陰謀のでっち上げ」、これ自体が明らかに陰謀なのである。一方では、公然と自らをマキャベリズムの信奉者と称し、その時点で反デモクラシーなのであるが、大衆をいかに詐術で絡め取るかだけに専念している。その挙句に、どこの後進国かと思わせるような「かじ取り」がまかり通ってしまっているのである。
コロナ対策の不備について聞かれると
「いちいちそんな、ケチをつけるもんじゃない」
彼らにとって、批判、追及は「ケチをつける」ことでしかないのである。これでは発展、展開の余地はまったくない。よく聞こえてくる「批判ばかりしていても仕方がない」などの類の元々の発信元はここら辺なのであろう。彼らには「批判」は「ケチ」でしかないのである。縮小再生産の無限反復の一本道。
また一方では、「一律の10万円給付はやるつもりがない」
「ケチをつける」、「やるつもりはない」など、後日、また例によって、そのようなつもりで言ったのではないなどと言ってみても、言葉もまた、顔と同様、思考回路のすべてを現わしているのである。そもそも彼らは、言い間違いで済まされる位置にはいないのであるが、それも一回二回のことではない、言い間違い、読み間違いの連続である。巷では、僅かな言い間違いで「飛ばされた」者は数知れないのである。
新型コロナは「オクサレ」どもをどこまでも炙り出す。人間の真価が問われているのである。
やがて、もっと鮮明になるであろう。
2021 1/23
856.「意識どん底系」の蔓延で光は消えて行く
「意識高い系」、「意識低い系」などと分けて、もっともらしく社会分析をしている者がいたが(以前にも取り上げた)、実質的には「意識高い系」を滑稽化し孤立化させる方向で持って行くという内容で意図的な操作以上のものはなかった。それはデモクラシーを担う者たちの排除、すなわち、全体主義を作り上げる一環としてなされた操作でもある。カルトでもない、ファシストでもない、デモクラシーをよしとする者であれば、「意識低い系」ではいられないのである。カルト系、ファシスト系がこよなく愛するのは思考停止状態の「意識低い系」と称される者たちである。
気骨のある芸人であると思っていた村本大輔(ウーマンラッシュアワー)については、以前にも取り上げたが、彼は、「意識低い系」をさらに「意識どん底系」として、民主主義を滅ぼす者たちとして捉えている。滅ぶのは民主主義ばかりではなく、文化も含めすべてであるが、その通りである。「意識どん底系」は、やがて意識だけでなく、すべてがどん底となることを知るべきであろう。
2020 1/17
855.「離人症」
精神病理学用語に「離人症」というのがある。自分を取り巻く外界が現実のものと感じられないという「非現実感」、また、自分自身の存在の確かさが感じられない「空虚感」、さらには、自分の体が自分のものだと感じられれない「非自己所属感」などが挙げられる。これらの異常心理について研究は進み統合失調症(精神分裂病)初期の離人症についても言及されるようになった。
現在のスマホの普及などとそれに対する人の在り様をみていると、「離人症」以前の離人感といってもよい、「非現実感」、「空虚感」、「非自己所属感」は大方の人間が大なり小なり感じていることでもあろう。そこに今回のコロナによる「距離を保つ」、「マスクをつける」、「会話をするな」等々である。この相乗作用は測り知れないものをもたらし、精神構造そのものに与える影響も大きいと思われる。
もっとも、自己にとって対自的な他者になることなど、ヘーゲルに取っては弁証法的展開の一契機でしかなく、マルクス流に解すれば、自ら作った生産物スマホなどに支配されることによって人間性を喪失していく状況そのものということになる。本質的には真新しい事象でも何でもないが、その「異常性」についてはさらに様々な要素が付け加わり、今までとは違った様相を呈することになろうということである。
※離人感とは、私の造語で、他者の存在が実際にあるよりも何か遠のいて、今までとは違ったリアリティを感じさせるものになるということである。
2021 1/1