「ある日、その時」(77) 2020年8月ー

  <掲載内容>

845.「ウィズ コロナ」?846.「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」? 847.「悪名は無名に勝る」とは笑止の至り 848.「俯瞰的」、「総合的」???849.「老少不定」ということ 850.All is lost-最後の手紙ー851.ホーキングの偏狭さ 852.「2050年カーボンニュートラル宣言」?853.「ミイラ取りがミイラになる」姿は枚挙にいとまがない 854.DHCの情けないアタマ

 

 

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854.DHCの情けないアタマ


 化粧品販売のDHCのアタマ・吉田何某が、自社の公式ウェブサイトで人種差別のヘイトスピーチを垂れ流したそうである。やはり知的劣化も甚だしいところまできている。このDHC関連では、「DHCテレビジョン」が「真相深入り!虎ノ門ニュース」や「ニュース女子」などといった低俗番組を作っているそうだが、それをいくつかのメディアは「保守系番組」と紹介してるという。これが「保守系」なら、もはや、この国には保守はまったく存在しない。存在するのは、安易な差別によってしか成り立たぬ空疎なアイデンティティに辛うじて支えられている者たちだけということになる。特に共通項がある韓国に向けることによってその空疎な領域は感情域で埋められアイデンティティも実在性を帯びてくるように錯覚するのである。実のところは、「保守系」などというより「みすぼらしい系」と言った方が実態に即している。やっていることは、日本を実質的に貶めているだけで、これでは知的劣化といわれも仕方あるまい。

                                2020 12/26  


854.「ミイラ取りがミイラになる」姿は枚挙にいとまがない


「本当のこと」を知るためには、相手と「いい関係」を作らなければと追及すべき対象に近づく、あるいは、権力の中枢に入らなければ何もできないとばかりに、追及すべき対象と近づき過ぎて取り込まれていく。それが必然的な流れなのである。「本当のこと」を知りたければ、調査報道しかない。追及すべき対象とは距離を置き、徹頭徹尾問い詰めなければ、本当のことを見ることさえできない。基本的には、調査報道しかないのであるが、それは命がけになる。「親しい者」から聞き出した「裏事情」に詳しい者が、ジャーナリストなのではない。そのような者がジャーナリスト気取りで勿体付けて話すことなどは、所詮は単なる裏話で、真実などとは程遠いものである。

 

                                   2020 12/17 


852.「2050年カーボンニュートラル宣言」?


 「仮定のことはお答えできない」と何かにつけて言ってきた者が、30年先のことを平然と宣言する。それも世界が注目する課題についてである。「我が国は、2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことを、ここに宣言いたします」と国連まで巻き込んで得意げであったが、世界の期待とは裏腹に、日本の脱炭素社会とは原発の再稼働つながってくるのである。実際、経団連の幹部は、この宣言を評価しつつ、原発の新設と再稼働ついて言及していた。

 30年後の誰一人として、言った本人すら責任の取り様がないことについては、大見得を切ることなど容易いことであろうが、足許の根幹部分に触れる問題については常に知らぬ存ぜぬである。例えば、日本学術会議の問題である。もっともらしいこじつけを取り去れば、ミサイル開発をしようとしている側は、軍事研究をすることを拒否し続けている日本学術会議は邪魔な存在に過ぎないということである。簡単明瞭なことである。何もかも「ぼかし」をかけて、説明責任などどこ吹く風、徐々に馴らしていこうなどと思っているのであろうが、それは詐術でしかない。軍産複合体に乗せられれば、行き着く先は見えている。平和ボケしたタカ派を煽りに使い、中途半端な武器を取り揃えて敵基地攻撃ミサイル?何を考えているのか?実にオメデタイ、その先は全く「無い」。目先の欲ばかりで、想像力の欠片もないヤカラである。それこそ、俯瞰的に、総合的に世界を見よ!と言いたくなる昨今である。やはり、「地頭」が悪い連中と言われても仕方あるまい。しかし、何度でも言うことになるが、本当に「真の大人」がいなくなった。保守本流も皆無に等しい。そして、何より民主主義政治はもはや完全に崩れ去っているということである。「頭は悪いが、ごまかすのは一流」な者ばかりでは、根腐れ状態で立て直すこともできまい。

                                   12/10

 


851.ホーキングの偏狭さ


 特に、ホーキングの哲学についての捉え方は傲慢であると同時に、それはそのまま彼の世界の偏狭さをも物語っている。ニュートンは自らの発見を、海浜の僅かな砂粒にたとえたが、ホーキングにはそのような謙虚さが微塵もない。やはり、器の違いを見せつけられる。言ってしまえば、ホーキングレベルのAIはできても、ニュートンレベルのAIなどは絶対に不可能ということである。もっとも、私見では、凡夫のAIの登場すら覚束ないとみている。凡夫の千差万別の「素晴らしさ」など創造しようがあるまい。どちらにしても、真っ先にできるのは似非人間AIの反知性の画一的な戦争マシーンの類、そして、そこから先は豊穣なる知性などとは真逆の方向に進むしかない。自然科学についての単なる希望的観測でしかない幻想に取り込まれれば、欲望(権力、金)に目のくらんだ者たちの人類終焉への道筋を確実なものとするだけである。

 ホーキングの偏狭さは、そのまま自然科学の危うさでもある。

                                      2020 11/15


850. All is lostー最後の手紙ー 


  サイレント映画に何か新鮮なものを感じて、ほっとしたことがあったということをこのサイトでも書いたことがあるが、この映画「All is lostー最後の手紙ー」もセリフらしきものはまったくないが、何気なくいつまでも見つめてしまう、いい映画である。ただし、想像力貧困な者にはついていけないものもあるかもしれない。「サバイバル映画」などというコピーがあったが的外れで、この映画の内容を貶めている。邦題というのは総じて作品の品位を損なうものが多い。

 日々、耳にする言葉、目にする言葉があまりにも空疎な、騒音、「染み」の類でしかないから、余計に沈黙自体が偽りのない「言葉」を限りなく紡ぎ出すのであろう。

                                                                                                         2020 11/7

 

 


 849.「老少不定」ということ


 死の訪れは、老若男女に関わりないという極当たり前な実情がわかっていないのではないかと思われる時がある。どこかで、人間は年と共に順番に死ぬものであると思っているのであろうか。だから、その「人生プラン」も保険屋さんのプランかと思わされることがよくある。それは自分で描いているようで、実は描かされているだけということにもなる。「描かされている」とは「踊らされている」と同じことである。

 死は、我々にはとらえ切れない。「死を見つめて」などというのも、実はあり得ぬことで、我々に見えているのは飽くまで「死んでいる<もの>」で、死そのものではない。死は「観念」であり、我々には、死そのものを直視することはできないのである。さらに、死は不定で、いつやってくるかわからないというのが実情である。「ある日、突然」などということが、死の死たる所以でもある。

 死生観なども、詰まるところ時間の捉え方、時間論でもある。私は決して富裕層ではないが、時間論的には億万長者なのである。

                                                                                    2020 10/25

 


848.「俯瞰的」、「総合的」???


 何かといえば出てくる、もはや噴飯ものの言語で、バカの一つ覚えの類である。お山の大将のお山は10メートル程の高さ、見える世界も知れている。それともカラスの鳥瞰か、地球儀をもてあそんでいる妄想独裁者は別にして、時々刻々動いている歴史そのものを見渡せる「俯瞰的」位置も、「総合的」判断をできる者なども、実は存在し得ないのである。いわんや、一介のそれも凡庸な権力者ごときに「俯瞰的」位置から「総合的」判断などできるはずもない。詰まるところ「葦の髄から天井を見る」程度のことしかできないというのが実情である。「俯瞰的」、「総合的」などという言葉を何のためらいもなく遣い、何か言ったつもりなっているということは、知性そのものに欠陥があるか、自分が神にでもなったか、カルトの教祖にでもなったつもりになっているとしか思えない。こんな御大層な幼稚な言葉で事足りると思っていること自体が低能で、危ういのである。あまりの低劣さに、言葉を失うこと頻りである。元々、その器量がない者が登り詰めると何をしでかすかわからないというのが常である。実際「日本学術会議の問題」にしても、誰にでもわかる明快な説明ができていない上に、怪しげなデマでその実態をごまかそうとしている。結局、有無を言わさぬ力の乱用で、陰に陽にことを収めようとするだろう。その前に、各自が各様に手を打たないと、明日は我が身である。目先のエサにつられているとにっちもさっちも行かなくなるのは目に見えている。パンケーキの好きなおじさんは、何でもありの、何でもする、恐ろしい人であることを忘れないことである。

                                    2020 10/10

追記:「俯瞰的」、「総合的」という言葉の遣い様、鳥か神か、専制君主にでもなったつもりか、そうでなければ、解離性障害の嫌いがある。

 


847.「悪名は無名に勝る」とは笑止の至り


 <某手配師の総元締め>が、その美名に隠された数々の醜悪な所業故の悪名を、「悪名は無名に勝る」と小泉何某に慰められたと言ってその<総元締め>が率いる会社の内定式で述べたそうだ。そんな言葉で慰める方も慰める方で、お里が知れるというものであるが、実に愚かである。自己陶酔性のある「フロントランナー」などという言葉を遣い、そういう者には「悪名」などは付きものと言わんばかりであるが、「フロントランナー」などという迷妄は捨てるべきであろう。フロントランナーなどというものは、この程度のレベル、作為で作り出されるものでもない。これでは全国津々浦々が悪名とどろく者たちの巣窟となってしまうであろうが、すでに時は移り変わっている。淡路島もやがてその厄難を背負うことになるが、目をつけられたのが因果の始まり、ご愁傷様である。

 「悪名は無名に勝る」、こんなことを言っているから、現在の惨状がわからないのである。そのことを本当に思い知らない限り、そこから抜け出すことは決してできない。

 鳥取県で農業やりながら、町内の「国防婦人会」の班長でもやっているのが関の山と思われる杉田何某などの行状もしかり。よく見れば、およそ誠実さなどとは無関係な放埓な青春時代を送ってきたと思われる者たちが揃いも揃ってひな壇に座っている。やりたい放題やってきた者に限って、誠実さ、一抹の哀れさを装うもの。さもなくば底の底まで見える開き直り様である。

「悪名は無名に勝る」などという時代はもうとっくに終わっている。というより、いつまでもそんなことをしていては人間自身も自壊せざるを得なくなり、またそのような人間の営為全体によって、地球自体が宇宙全体と辛うじてバランスを取っているものさえ壊しかねないところまできているということである。

 

                                    2020  10/3

 

 

 


846.「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」?


  「ウソも方便」ということはある。しかし、それも限度があろう。社会的位置を実名で確保した人間がSNS上ではなく、その著書で「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」と言っているとなると看過するわけにはいかなくなると同時に著者自身が墓穴を掘ったなと思われる。今や、新自由主義とポストモダンの奇形児は至る所にいるが、御多分に漏れずこの著者(橋下徹)もそうである。また、彼は、「私は、交渉の過程で”うそ”も含めた言い訳が必要になる場合もあると考えている。正直に自分の過ちを認めたところで、何のプラスにもならない」と言っているという。要するに、彼が人間である以上、嘘をつくということを明言しているのであるから、嘘つきが言っていることを信じる方がバカなのである。大嘘は小嘘に勝ると言わんばかりの話に乗れば、泥船も大船にしか見えなくなり、やがて、沖合で泥船が沈むころには岸辺にいたほら吹き衆の姿は消えているという寸法である。この位置で、弁護士でもある者が平然とウソをつくことを奨励する、やはり息をするようにウソをついていたアベ何某の別動隊と言われても仕方あるまい。これでは、人間の証明のごとくウソをつくヤカラが跡を絶たないどころか、ますます増えるばかりである。ウソのつき比べか、行きつくところは空中分解しかない。

 

                                       9/19 

  「おじさん、嘘つきは泥棒の始まりだよ」などと、子供に言われているようでは話にもならない。確かに、脱法行為、非承認の流用、税金泥棒のような違法行為が日常茶飯事となっている。その様、蜜に群がる亡者の群れである。亡者の顔つき、とくとご照覧あれ。


845.「ウィズ コロナ」?


  これで簡単に腑に落ちてしまう人の気持ちに合点がいかない。これについては少し前にも書いたが、一体何を目的にどこが作った造語なのか?コロナと「共存」、「共生」するための「新たな生活様式」などというそれらしき講釈がなされているが、果たしてどうなのであろうか?普通に考えれば、「go to キャンペーン」」とリンクし、とにかく「前向きな姿勢」にさせる戦略的な造語であろうと思われる。この造語には「癌とは戦わず、癌と共に生きる」というような意味合いも匂わせて、その本来の意図をぼやかしているところもある。そこには明快に検証されたものと、そうでないものを暗に同一視させる作為を感じさせるのである。大体、得体の知れないものとどうやって共存、共生するというのか?少なくとも癌細胞に関しては、その動き、様態の詳細な研究データはコロナの比ではない。いまだに検査体制もろくに整っていない上に、感染力も強く、変異する得体の知れない「宇宙的な」細菌と「共存」、「共生」などとは、何をどう思い込んでも無理であろう。「共存」、「共生」などとは、対象となるものの実態が明確になった時に可能なのである。そうでなければ、どうなるか見当もつくまい。

 PCR検査もまともにせず、検査結果も怪しい段階で、今後どう出て来るかもわからない、予断を許さぬ得体の知れないものと「共存」、「共生」、そんなことは全く不可能である。それが清々しくも「ウィズコロナ」「新しい生活様式」などという言葉で括られて登場する。どこから来るのかこの軽さ、軽い美辞は要注意とは何度となく言ってはいるが、実質的にやっていることは「人体実験」である。現に、検査も最小限度に抑え、分析、検討ばかりしているではないか。「ウィズコロナ」、これもまた日本でしか通用しない、危うい造語である。海外で遣ったらどのような目に合うことか?(通じるかどうかは別にして)

 Poor man! He’s gone insane at last.「ウィズコロナ」が「live with コロナ」だと知れば、トランプでさえ「crazy!」と言い出しかねない。

「fight with コロナ」なのか「live with コロナ」なのか不明で、肝心の動詞を省き敢えてどちらとも取れる言い方をしているのである。文脈から「共存」「共生」を遣っているのであるから「コロナと共に生きる」という意味であろう思われるが、未知のウィルスに対して「共存」coexistence 「共生」symbiosisという言葉の遣い方は不適切である。よくこれで分かった気になれるものであると呆れている。このものわかりの良さは危険である。

 実のところは、「Go to トラベル with コロナ」、どこまで行けるか、いつまで続くか、・・・

 

                                       2020 8/22

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