「ある日、その時」(74)4月ー

<掲載内容>

812.「役に立たない学問」? 813.バックハウスとアルゲリッチと 814.坂口安吾 断想1                815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー  816.「仮面劇」 817.「顔なし」818.掃きだめに鶴 819.ネットコメントは案の定、「bot」の自動書き込み 820.思わず笑止 821.同じ東大数学科出身とは思えず 822.「日本の演出家」?

 

                                <複製・転載厳禁>

 



822.「日本の演出家」?


 何人かの才気煥発な者はいても、これはすごい演出家だと思ったのは日本には一人もいない。唯一、気になる存在であり続けたのは高田保くらいで、彼の作・演出の「人魂黄草紙」は観てみたかったと今でも思っている。あの当時のことを、「銀座の良寛、大磯の一茶」といわれた高田保がどう捉え、作り上げたか、それが観たいのである。「演出」などという言葉は昨今のマスメディアの乱用で「効果」、「やらせ」程度にしか考えられないような言葉になっているが、まったく違う次元のことであることも再度言い付け加えておく、それは本来の作家と同様、人生そのものであり、その確認作業でもある。「演出」に限らず、何から何までこの程度のコンセプトしか持ちようがない、それで済ましているのでは、当然その内容も貧相なものになる。「効果」、「やらせ」程度のこと、あるいは「共同謀議」、「印象操作」などを「演出」と同義に使っているのは日本くらいなものであろう。演劇文化がいかに浅いかの証左でもあると同時に、それは現実の事の重大性を希釈させ伝達精度を狂わせているだけなのである。

 

※「銀座の良寛、大磯の一茶」、これは大宅壮一が高田保を評して言ったことであるが、蓋し、言い得て妙である。

                                2019 11/7 


821.同じ東大数学科出身とは思えず


秋葉忠利さんは、前広島市長でもあり、マサチューセッツ工科大学で博士号を取得している数学者でもある。その言動も明快である。一方、同じ数学科出身の元財務官僚で東洋大学から窃盗容疑で懲戒解雇されている高橋洋一、耳目を引く商法で怪しげな言説を繰り返している御仁である。ここまでくると恥も外聞もないのであろうが、madの片隅にいることだけは確かである。それにしてもmadとcleverの違いをまざまざと見せつけられる事例である。

 

                               2019 11/4


820.思わず笑止


 Wikipediaに、ある人物のことが載っていた、そこには「日本の財務官僚、御用学者」とあったのでつい笑ってしまったのである。何とわかりやすいことか、実際その通りなのであるが、「御用学者」とは学者としては三流であるということの証左にもなる重要な指標でもあり要素でもある。一級の学者に「御用学者」は皆無である。少なくとも御用の筋とは決して埋まることのない距離をもっている。この「御用学者」氏、ご多分にもれず、三流の経済学者として大量の本を書きなぐっている。知っても知らなくてもそれほど代わり映えのしない、むしろ負の領域が増すような内容であることは読まなくてもその言動(発信と行為)に溢れている。しかし、権力の周りをネズミのように這い回る御用学者の何と多いことか。共通しているのは、言わずもがな、どうたらこうたら言ってみても詰まるところ彼らには自分の「餌」のことしか眼中にないということである。その具体例にしても枚挙にいとまがないから困るのである。足跡の付かぬネズミは気を付けた方がいいというところか。

                                2019  10/25

「御用」は何も学者に限らない、御用評論家、御用ジャーナリスト、御用作家、御用タレントetc

 


819.ネットコメントは案の定、「bot」の自動書き込み


 何か事が起こる度に、すぐさま意見を書き込む人々、それもどれもこれも異口同音、中には手の込んだ陳腐な同音もあるが、まるでどこかで作り出されたようなコメントばかり、ここまで操作されてしまっているのかと思う反面、不可解な部分もあったが、昨今の情報で、実際に、「bot」という自動投稿のアプリがあり、イギリスの国民投票の際にも、ツイッター投稿の三分の一が全体の1%のアカウントから発信され、その大多数は「bot」によるものだったと判明していることがわかった。国民世論の大多数の意見であると思っていたものが、実際は1%の「bot」という自動投稿アプリが投稿したものであったということである。当然、日本でも国民投票が必要となる場合は、この「bot」、「ネットサポータズクラブ」などが機能全開で動くであろうから、余程冷静に対応しないと巻き込まれることになる。それは現実の大多数の意見ではなく1%の同一アカウントから発信され、操作されているという事実である。

 しかし、範を示すべき位置にいる者たちのモラルがまったく欠如しているのであるから、話にならない。それも枚挙にいとまがないというのでは手も付けられない。モラルの問題は様々な見解があるというレベルの話ではなく、それ以前の問題である。

                              2019  10/3

※もちろん、ネットのコメントのすべてが自動投稿アプリ「bot」から発信されたものであると言うつもりはない。取捨選択できる方、リテラシーのある方なら敢えて言う必要もなく見抜くであろうし、読み解くであろう。しかし、現実的にそのような「操作」で持っていかれてしまう人々がいるというということが問題なのである。それは放置できることではない。なぜなら、それが「いかさま」、「詐術」そのものであるからである。

 

 


818.掃きだめに鶴


 以前、ある若者が「彼女はこんなところにいる人ではないです」と言い、ある中年の婦人は「掃きだめに鶴ね」と言ったことがあった。おそらく誰が見ても普通に感じ取る感受性を持っていればそのように感じてしまうのであろう。実際、そのようなオーラを発しているし、内容的にもただ者ではないことは、よほどの愚鈍でない限り察知し得ることである。しかし、「こんなところ」とは、「掃きだめ」とは具体的にどこを指しているのか、それはどのような文脈で発せられた言葉かがわかればすぐに特定できることである。私は知っているが、それは敢えて言わない。そう、なぜ「こんなところ」にいなければならないのか、なぜわざわざ「ごみ溜め」に降り立ったのか、計算高い小賢しい俗物ではないからということだけは言えるであろう。

                             2019 9/15

 

 


817.「顔なし」


  自らが空疎であるがゆえに、手っ取り早いところから手当たり次第に飲み込み、ろくに咀嚼(そしゃく)もできぬまま自分にとって都合のいい言葉だけを吐き出し、その気になる。「カオナシ」はネット上の匿名者の一面でもある。ただし、「カオナシ」にも自分を取り戻し、自分の居場所を見出しえた者もいるのである。どちらの「カオナシ」なのかは各自の読み解く力にもよるが、それは容易であろう。前者は総じて、奇怪で、末端肥大症気味である。実年齢20歳ー70歳程度でリテラシーは10歳程度というカオナシは現実的にゴロゴロいるというのが実情である。ネットの匿名性自体がカオナシを引き寄せるのである。ネットの向こう側では「千と千尋の神隠し」のカオナシがいつの間にか座っている。もともとは貧相で空疎なものであるが、匿名性自体が、制御する理性の欠損しているカオナシを肥大化させてしまうのである。

                                           2019 8/11

 


816.「仮面劇」 


 久しぶりに仮面劇を観てきた。やはり、古代ギリシャ演劇の形態は私の好みなのであろう。

18歳頃、人の表情というものが全く信じられなかった私は水道橋の能楽堂によく通ったものである。能面を観ているとほっとしたのである。今でも程度と質こそ違うがその傾向はある。あるかないかわからぬような安っぽい個性を振り回し、やった振り、演じているつもりになっている役者などを観ていると吐き気がしてくるのである。それは何も役者に限らず人間一般についても同様である。

                                          2019 6/10 


 

815.心身一如、文「舞」両道ー橋本ルシアー


 その画期的な舞踊論で「もし私に信ずる神があるとすれば それは踊ることを知っている神である。」というニーチェの言葉をエピグラフとして遣った舞踊家・橋本ルシアは、その著書「火焔の王」で今、誰も成し遂げえなかった知的レベルで古代世界の真のパースペクティブを我々に見せてくれた。古代史研究を可もなく不可もなく、長年やってきただけの者たちにとって、それは驚きでもあるが、反発の対象でもあろう。既得権益上の問題もあり、否定、無視ということは当然予想される。また一方では何食わぬ風でのそのコピペである。しかし、そんなことはどうでもいいことである。今後は彼女の提示した事柄を無視して通ることはできなくなることは確かである。そうでなければ、古代史研究などは衰退の一途を辿るしかないのである。通説に安住する者たちの知的切込みのない冗長な古代史研究、耳目を集めることだけを狙った恣意的解釈などいくら読んでも仕方ないからである。

                                 2019 5/26

 


814.坂口安吾 断想1


 私が、以前ファルスに何とはなしにひかれていたのも、安吾と共通する感覚から来ていると思われる。実際、今までにも自身の中に様々な点で否が応でも安吾との共通項が見い出せることがあったし、指摘されることもあった。何も頼るものがないという意味での「無頼」という意味でもそうであるが、おそらくスタンスそのものが同一領域なのであろうと思われる。

                               2019 5/10  

 


813.バックハウスとアルゲリッチと


 どういうわけか、最近はバックハウスとアルゲリッチのピアノソナタばかり聴いている。バックハウスのピアノソナタは私の19歳の誕生日に年上の大学の友人(彼はすでに大学を一校卒業していた)がプレゼントしてくれてからいつも私の傍らにあったが、ここまで何回も聴くのは久しぶりである。知能指数が恐ろしく高く、早熟であった私の友人もまた「役に立たないもの」を研究していたが、彼が私に与えた影響は底知れぬほど大きかった。彼はすべてにおいて「知り過ぎてしまった」人間の一人でもあった。故郷の九州の大学で教鞭をとっていたようだが、その後のことは知る由もなく、いつの間にかそのまま立ち消えとなってしまった。それもそのまま彼の意思でもある。私の書庫には彼の論文「親鸞聖人の大乗思想」だけが残っている。

 アルゲリッチは若い時の才気煥発な面影が強く焼き付いていたが、77歳のアルゲリッチ、実に深みのある美しい顔になっている。さすがである。見事。

 

                                 2019 4/30                              


812.「役に立たない学問」?


 優秀な日本思想史研究者が20以上の大学に応募したが常勤のポストに就くことができずに死に追いやられたという。日本思想史、昨今の大学では役に立たない学問の代表格のようであるが、この「役に立たない学問」という捉え方自体にとんでもなく大きな問題が潜んでいる。そのことに気づかないと将来的には様々なところで足をすくわれることになる。文化とはそのようなものなのである。科学の分野でも基礎科学などは今日明日中に結果がでることはほとんどないが、その中には後に大きな発見に結び付きノーベル賞受賞者になった者もいるというのも実情である。そのような研究者を大事に育てることがその社会が真に生き延びるためにも必須条件となる。そうでないと社会そのものが脆弱化するだけなのである。

 西村玲さんの、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞を受賞したという「近世仏教思想の独創ー僧侶普寂の思想と実践」、このような一見「目先の役に立たなそうなもの」に大学の一般教養課程で接しているかどうかでも人生に落ちる「影」、「闇」の領域も対峙スタンスも微妙に違ってくるのである。今の大学では総じて「時の権力」に媚びるような今日明日にも使えるハウツーモノの専門化である。これではすぐに焼き切れるのは目に見えている。言ってしまえば、大学も一瞬間でも使えればいい、使い捨て兵隊育成機関になり果てているのである。そう、「徴兵制」はもう始まっているのである。「学徒出陣」も近いのではないか。へらへらしている内に駆り出されないように心して置いた方がよかろう。

 ただ一言、西村さんに言いたい、ここまで来たら、すべてを捨てて「普寂」になればよかったではないか。死ぬことはない。あなたは、もっと大きな「花」になれたかもしれぬ。残念。

 

                                    2019 4/18

 

  ジム・ロジャースでなくとも、「安倍政権の政策は日本も、日本の子どもたちの将来も滅茶苦茶にするものだ。」と言いたくなるようなことがあまりにも多すぎる。このままではやはり「日本が消えるのは50年後か、100年後、心から残念」なのである。

 

アーカイブ
TOP