「ある日、その時」(72)9月9日ー

<掲載内容>

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)  791.パリのポリドールにて 792.「芝居にはその人の生き方が出る」793.「ウインウインの関係」? 794.本庶佑特別教授のスタンス 795.「コミュ力」?796.デマゴーグ 797.「ねじれ」とは民主主義国家の証 798.名月に穂垂首 799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴

 

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800.狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴


 

 「平成」を締めくくる?それは「絞めくくる」といった方が適切と思われるほどの、狂(ふ)れる者たちの振れる狂宴であった。至る所に地獄の深淵が見えていて、しゃれになるならないどころの騒ぎではないのである。将来を憂えたような素振りをみせる、その実、後は野となれ山となれといった者たちの振れる狂宴は「平成」を「『絞め』くくった」先に、どのような宴の後を呈するのか、希望は危望であったことを、幸福は叩福であったことを思い知らされるだけであろうと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふと思いつくままに・・・メモワール・・・・

今、「明るさ」だけを強調し騒ぎ立てる者、それは嘘を弄ぶ者である。また諸外国の脅威を煽る者たち、これもまたいかがわしい危うい者たちである。大体、所在も明らかな原発に囲まれた小さな地震大国がどこを相手に戦をするつもりなのか?いざとなれば「米国が助けてくれる」?何とオメデタイ、どこまで未成熟な無反省な人々よ、もしそのような時が訪れれば、日本は恰好の実験場、廃墟、死地となる。平和では儲からないという戦争屋に乗せれた経済復興という名の戦争産業に手を出せば、それは必ず拡大し、止めようとしても、止まらなくなる。

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「過去なんて忘れなよ」などというつまらぬコピーに踊らされ、「戦争を知らない世代が云々」に妙に納得したところで一体何がある。戦争を体験したからといって教訓化もせず「過去なんて忘れなよ」などという最悪のコピーにその気になっていたのでは悪夢は何度でも訪れる。体験そのものから何をいかに導き出すかが最大の問題なので、いかなる体験も体験自体にはさほどの価値はない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 スマホ片手に神社に行っても、今年の行為の結果が来年そのまま現出するだけである。「祈り」は自らの生存に触れるものでない限り、それを感知できる者でなければ、どこに行っても何をしても何の「原動力」にもなるまい。スマホをなくしたら一歩も歩けなくなるような人々が「増殖」している現在、本当のところ、自己の生存に対する実感もまた希薄になっているはず・・・スマホが・・・・・・・あなた自身で・・・あなたはもはや・・・何もない・・その内に息もできなくなるであろう・・

 

 「平成」を締めくくる者たちが、「平成」を「絞め」くくった者たちとは何ともおぞましい。

                       2018 12/16

 

 


 

799.「日本で最も著名な歴史修正主義者」


 

 今更言うまでもなく、ご存じ櫻井何某のことである。すでに諸外国では「歴史修正主義者」(Historical Revisionist)として名を馳せているようである。過日の判決についても裁判所は植村の「捏造」を認定してはいない。イタリアのジャーナリスト ピオ・デミリアは「イタリアでは、過去の戦争の問題に向き合えない人を『否定者』と呼ぶ、彼女はそうだ」と言ったそうである。その通りであろう、この御仁の歴史を都合のいいように、恣意的にある方向に持って行こうとする姿勢は至る所に見られる。

「否定者」とは直訳的でピンとこないところもあるかと思われるが、少なくとも単なる肯定、否定のような否定ではあるまい。文脈から考えてても、認識の混濁・転倒している者という意味合いも含めて捉えるべきであろう。

 人間は、間違えしか犯さないのではないかとさえ思える時が多々あるが、そのエラーの部分を粉飾してばかりいるのではやはり絶滅危惧種と言わざるを得ない。前頭葉と欲望は反比例すると思っている。押さえの効かなくなった欲望はあらゆる弊害を生み出すことに異論の余地はない。                                     

 

※1998年→2014年 「誤報」→「捏造」

                      2018 12/7


 

798.名月に穂垂首


 

 実に、味わい深い名月であった。テレビでもその名月を紹介していたのでつい観てしまったが、軽めの男の局アナが言うに事欠いてその名月を「おいしそうですね」と言ったのである。それは一瞬にしてすべてを興醒めにした。この「何気ない」親しみを装った取り留めもない感性のなさ、すなわち知性のなさである。以前、櫻井よしこがテレビのキャスターを務めていた頃、映し出された水槽の中に泳ぐ魚を見て、「食」とは無関係な文脈にも関わらずやはり「おいしそうですね」と微笑みながら言ったことがあった。その時に感じた薄気味悪さは今なお鮮明に甦ってくるが、それはそのまま正鵠を得ていると思っている。両者とも、意識するしないにかかわらず「対象」を自己の欲望の対象のひとつにしか感じていないということである。

 彼らにとって、名月も魚も、すべては「わが物」とすることができるかどうか、所詮は穂垂首程度のものでしかないのである。

                           2018 11/24

 


 

797.「ねじれ」とは民主主義国家の証

 


 

 アメリカの上院、下院の過半数が民主党と共和党に分かれたことに対して、またぞろ日本マスメディアは「ねじれ」という言葉を遣っているが、日本のマスメディアは民主主義というものがまったくわかっていないのか、敢えて「ねじれ」という言葉を遣うことで、暗に批判も検証も認めない、一党独裁の快刀乱麻を断つような政権をよしとする方向に導いているとしか言いようがない。大本営発表が一番似つかわしいのかもしれない。これでは全体主義国家であろう。現状がその悪しき証左でもある。これをさりげない巧妙なマインドコントロールというのであるが、この手の言葉が多いことに気付いている人は少ないようである。実態、実情を隠す軽い、親しみやす言葉は極めて危険であるということである。

 例えば、親しみやすく「野球内閣」と自らいうその実態とは、神道政治連盟、日本会議の懇談会のメンバーである。それは「旧大日本帝国」を再構築築しようとする集団でもある。したがって、「改憲」も必然的に「大日本帝国憲法」に倣うものとなる。今時、自国の民族宗教に依拠して振り回されている政権など、少なくとも先進国にはない。また、それで先進国という名に値すると思う方が異常である。

 

                          2018 11/7

 


 

796.デマゴーグ


 

 戦場カメラマン・渡部陽一の名前を使って、「戦場取材の掟」などと称してまことしやかにネット上に流していた者がいたそうだ。渡部陽一氏は「フェイクである」と怒っているという。箇条書きにされたその「掟」の中の一つに「捕まる奴はその時点でジャーナリスト失格」というのがあったが、渡部陽一氏が怒るのも当然であろう。現場を熟知している戦場カメラマンがこのようなことを言うはずがないのである。これは明らかに、己の義務、責任もろくに果たさず、国民にその義務、責任だけを要求する者たちのデマゴギーである。これが彼らのよく使う「自己責任論」につながってくる。無能で無責任な議員を何人も飼っていることの方が税金の無駄使いであろう。彼らの目論みにまんまとはまって騒ぎ立てる者たちを、明日は我が身ということもわからない愚かな「民」というのであるが、騒ぎ立てているのは「民」ではあるまい。完全なデマゴーグ、すなわち煽動政治家、民衆煽動家の類である。フランスでも同様のケースがあったが、「自己責任」を持ち出し非難したのは極右のルペンだけである。要するに、このような事態に対する「自己責任」などというコンセプト自体が極右の独裁的全体主義者の言動に一致するのである。

                          2018 10/28

※ジャーナリストの山路徹氏が「自己責任論が噴出」している中、自身の体験も踏まえ危険も顧みず戦地に赴くフリージャーナリストに敬意を表している。自身のボスニア内戦取材時、イタリアでは「無事で何より、取材活動に感謝する」と言われ、ローマの日本大使館では「なぜ渡航禁止勧告に従わないのか?」と言われたそうである。(内容については山路氏のツイート参照のこと)

さらに、漫画家の小林よしのり氏の見解なども自己責任論を振り回す者たちの像を的確に捉えている。それについて「左翼化」したなどという珍糞漢(ちんぷんかん)な御仁もいるようだが、それが「左翼化」なら「右翼化」とは愚蒙化に過ぎいない。もういい加減、100年一律どんなアホでもできるそんな安手な振り分けはやめたらどうか。それはそのまま無能の証、まったく無意味。

 

 


 

795.「コミュ力」?


 

 コミュニケーション能力のことであるが、この手の省略言語が最近やらと多い。この簡略化、省略化で思考回路が拡大展開できるとはとても思えない。案の定、この「コミュ力」を重視しているといわれる者たちが「批判」、「対立」を忌み嫌う傾向があるという。何のことはない、コミュニケ―ション能力が根本的に脆弱だということである。確かに「縁なき衆生は度し難い」、コミュニケーションが成り立たぬこともあろう。しかし、「縁」の有無なども含め、両者の「批判」、「対立」をただ回避するだけではダイナミックな展開は成り立ち得ないのも明らかなのである。利害関係だけで成り立っているような「お友達の和」さらに言えば「悪友の輪」でしかないものの中でコミュニケーション能力の有無を楽しんでいても、それは一時的にハレーションのような明るさをもたらしはするものの、やがて縮小再生産の道筋をたどることになるのは避けられまい。元々、コアな領域において欠陥のある、あるいはそこにおいて物事を直視しようとしなかった者たちの「共感」、「共有」などは幻影以外の何ものでもない。

                          2018 10/12ー

                              


 

794.本庶佑特別教授のスタンス


 

 ノーベル賞受賞もさることながら、京都大学特別教授・本庶佑氏のスタンスには、やはりそれにもましてすばらしいものがある。たとえば、あらゆることに好奇心を持ち、すべてを疑ってかかるという姿勢。本庶氏に言わせれば、「サイエンス」、「ネイチャー」という1級の科学誌ですら9割が嘘、10年もすれば使い物にならないものが多いということである。だからこそ、自分の頭で確かめることが大事なのであるという。さらに、基礎科学、根本的なものなどの追究は無駄が多い、しかし、その無駄がなければ先には進めないということ。教授の言う一言一句を現状に照らし合わせると、さまざまなことが浮かび上がってくるであろう。京都大学の学生は今このような教授がいるということが誇りでもあろう。よくわかる。

 超一級の科学誌ですら9割が嘘、それでは日々マスメディアが得意げに流していることすべては一体何なのであろうか?嘘の嘘か、自分の目で確かめるだけの能力はなくとも、少なくとも、マスメディアなどが流していることをそのまま真に受けるという愚は避けることは可能であろう。まず、すべて疑うことから始めればいいだけのことである。そして、「なぜ」という「問い」を納得するまで続けることである。そうしなければ、どこにでもある記者クラブという談合忖度組織の記者の書いたようなろくでもない内容に振り回されて終わりなのである。

                                                                                               2018 10/2

 後日の、大阪万博に対する彼の前向きな表明は、研究費もろくに出さない日本の実情に対する、後進のための犠牲的な痛々しいまでの内容であるともとれる。しかし、もしそうでないなら残念ながらやはり専門バカと言わざるを得ないだろう。

                            


 

793.「ウインウインの関係」?


 

 何かというと馬鹿の一つ覚えのように「ウインウインの関係を築いていく」と言う御仁、そもそもそれは目指すべきことではないであろう。「Total win」が目指すべきことで、そうでなければ「No Deal」(取引しない)という選択肢も考えるのが取引、交渉である。最初からウインウインを目指し、「取引しない」という選択肢を考えていなければルーズウイン「Lose-Win」で相手の勝ちは端から決まっている交渉なのである。それを「ウインウインの関係」などとあり得ない関係をさもあるかのごとく理想化して言う。「100%一心同体」ということは「取引しない」という選択肢はないという言い換えに過ぎない。ということは、相手の思うまままで、「ウインウインの関係」などは存在せず、常に「ルーズウインの関係」ということなのである。これ程の隷属に甘んじ、「美しい日本」の「建設の礎」などと宣う。それは風光明媚なところが多いと言ったまでの話なのであろうが、それすら今や存続の危機である。どちらにしても、歴史に対する反省、教訓化もなされないまま突き進む「ところ」は必ず滅びるのである。歴史認識の欠如、欠陥、それは致命的でさえある。

                         2018 9/29

 


 

792.「芝居にはその人の生き方が出る」


 

 これは最近亡くなった樹木希林があるインタビューで答えたということであるが、何も彼女が初めて言い出したことでもない。ただし、これは改めて再確認すべき重要なことなのである。私は舞台演出を長くやっていたこともあって、「舞台上」ではすべてがさらけだされてしまうということを常に目の当たりにしてきた。本人は隠し通せると思っていることでも否応なく現れてしまうものなのである。そして、慧眼の士ではなくともその俳優の全体像はその演技を通して大なり小なり読み込まれているのである。恰好よくやろうとしても無駄なこと、作為はすべて見抜かれてしまうものである。今までの「生き方」、心底どういう思いで周囲と接してきたかという「世界観」がすべてそこに凝縮されて現れているということである。「コツ」だの「ハウツーもの」で処理される世界とは根源的に違うのである。

 そして、そのインタビューで語ったという「本が読める俳優」ということであるが、久しぶりに聞く言葉で懐かしくもあった。「本が読める」ということは一般読者が本を読むのとは訳が違うのである。実際、本が読めない、読んでいるつもりになっている俳優が多いのも実情である。

 樹木希林が、本も読めて、生き方にも共感したという黒木華と多部未華子という若き二人の女優、私は現時点でその演技を観ていないので詳しくは言えないが、今後何かの機会に観てみようと思っている。

                        2018  9/23


 

791.パリのポリドールにて


 

 パリのポリドールはいとも容易く人をフラッシュバックさせる。より正確に言えば、デジャビュをフラッシュバックさせるのである。ある時は斜向かいにヘミングウェイが食事をしていたり、振り返ると窓越しに虚空を見つめてランボーがワインを飲んでいたりと、そういうところなのである。「ミッドナイト・イン・パリ」を見るまでもなく、想像力を掻き立てる趣が細部に行き渡ってたくわえられているところでもある。もちろん、その佇まいは明るく軽いものではない。

 あの黒光りした肋骨のようなミイラを彷彿とさせるスチームヒーター、江戸時代にはすでにあそこに置かれていたのである。

 私は知人がポリドールの近くに住んでいたこともあって何度かそこを訪れたことがあった。

 なぜか今、パリのポリドールがフラッシュバックしたので記して置くことにした。

 

                         2018 9/16

 


 

790.アベが内乱予備罪で刑事告発された(9/7)


 これもまた当然のことであろうと思われる。告発状を最高検察庁に提出したのは元参院議員の平野貞夫氏らである。告発内容は「日本の権力を私物化するために、国の統治機構を破壊し、憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として、現憲法からその根本原理を抹消することを策謀し、政府等の組織を使って、改憲が正当であると、国民を誘導、国民に認めさせ、国民の反対運動を威圧するなど改憲を強行しつつある」、よって「刑法78条の内乱予備罪を行ったものと思料される」ということである。今までの国の根本法の扱い方、それに伴う民主主義国家を転覆させんばかりの言動についてはあまりにも多過ぎてここで取り上げることはできないが、それは憲法違反であろうというものが多すぎるということである。それは合法的に憲法を骨抜きにさせる手法の乱用と言ってもよい。

 それにしても、記者説明会にいた記者クラブの記者たちのていたらく、もはや権力によって完全に去勢された者たちの集まりといってもよいだろう。彼らが発信する安手のコピーライターのような内容に踊らされているのであれば、バカを見るだけである。まだ米国の方がエネルギッシュである。活力があればまだ救いがあるが去勢された豚では先がない。そもそも「記者クラブ」などは「御用記者クラブ」、「政府広報記者クラブ」といったところでそれ以上ではないことは周知の事実。彼らは、この事態を情けないとも思うまい、せいぜい肥え太り、「成長した」と思うくらいが関の山なのであろう。衰退の一途をたどっている。

                          2018 9/9

  因みに、時の権力に是も非もなく、ただ尾っぽを振るだけの保守でも右翼でもなく、いわんや左翼でもない者たちの単なる「お友達の輪」を利用した金主頼りだけの有象無象がネットにも新刊駄本にも溢れているのが昨今である。彼らの書く必然性と言えば、金主様よりの「ご褒美」だけである。内容的には空疎そのもの、御大層な学歴が何の意味も成していないので、学者としても、評論家としても「落ちこぼれ」の類で、傷つくことだけは三人前の顕示欲の強い者たちの人生最期の「あがき」、「賭け」なのであろうと思われる。ただ、こういう者たちはやたらと騒々しいのが特徴で、相手を執拗に振り回すことを至上の喜び(「ご褒美」も含め)としているから質(たち)が悪いだけでなく危険でもある。「理」で行き詰まれば必ず情動に訴えてくるが、それも虚偽の情動である。この手の類は自分の言ったことすらいざとなれば「記憶がない」と言い逃れる。決して責任は取らないということも肝に銘じて置くべきであろう。その気になった方が常に憂き目に会うのである。とにもかくにも情報の取捨選択、受け取り次第で自ずとどうあるべきかの方向性も決まってくるのである。

 

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