「ある日、その時」(69)12月20日ー

<掲載内容>

763.「藪の中」は「藪の中」にあらず 764.「国際政治学者」とは?765.「未来」「未来」とかまびすしい、766.「護憲的改憲」? 767.「インナーボイス」は欺く 768「モンココ」のトミー 769.妙なマスメディアの異常さ

 

                                                                                                                                 <転載複製厳禁>



769.ほんとうに妙なマスメディアの異常さ


 まず、知りたいことが一切報道されないことである。問題だらけにもかかわらず、常に「何の問題もない」という「スポークスマン」、自らの官房機密費についてもまったく答えようとしない。すべては、ほとぼりがさめればけりがつくと思っているのであろう。事は、常に知らず知らずの内に勝手に進められ動いて行く。知りたい情報は「ノリ弁」ばかりでは話にもならない。ここまでこけにされても適当に中和させられしたり顔、笑っていられるのではやはりそれは愚民の証ということになろう。彼らに任せたら、何もかも好き勝手にいいようにやられてしまうのはわかり切ったことである。やはり民主主義は危うい、危険と紙一重なのである。あっという間に全体主義国家に移行することがあまりにもあからさまに見えた。そして、やはり凡夫には自由は耐えられないというのも真実なのである。

                                 2018 2/28


 768.「モンココ」のトミー


 トミーはいつもモンココの前で待っていた。

 「モンココ」、その響きと共に幼年期から住み着いてしまった忘れられない言葉の一つである。しかし、「モンココ」という言葉が何を意味し、その由来を知るのはずっと後になってからである。当時の私にはただ大きな門のある不思議な建物という印象しかなかった。家から100メートル程のところにあった「モンココ」は日常会話の中にも頻繁に登場するところで、近隣の人々の待ち合わせの場所にもなっていた。

 「モンココ洗粉本舗」は昭和8年に創業し、昭和27年に倒産している。詩人・金子光晴の実妹がやっていた会社で、「モンココ」という名前も金子光晴がつけたらしい。実際に金子光晴自身もこの会社に関係して、2年ほど高円寺にも住んでいたようだ。

 トミーはいつの間にか姿を消した。賢くおとなしい犬だった。母は、トミーが犬殺しに連れていかれ殺処分されたことを知っていたが幼い私にはそのことを話さなかったようだ。

 トミーと「モンココ」、詩人・金子光晴、忘れられない哲学者・三木清、もはや高円寺南5丁目辺りにはその一片の面影すらない。しかし、去り行きて戻らなかったエスプリは、私の中でまだ辛うじて息づいている。

                                        2018 2/9ー

 


767.「インナーボイス」は欺く


 「インナーボイスに聞け」とはそれなりによく耳にするもっともらしいことではあるが、、これですぐわかったようになるのもオメデタイというより危うい。手っ取り早く言えば、「悪魔のささやき」、「亡者と化した己の呟き」などもインナーボイスとして聞こえてくるからである。インナーボイスに耳を澄まし、ほんとうにその内容が聞き取れるのは心身を「整えること」ができる者だけである。そのようなことを経ずして聞こえてくるものとは、単なる「作り出された」我を己であると思い込まされた、あるいは思い込んだ者の「インナーボイス」である。現に「インナーボイス」を勘違いした者たちの「声」が巷、インターネットにあふれているではないか。「インナーボイス」も欺くのである。ー

 

                                   2018 1/26ー


766.「護憲的改憲」?


 もっともらしい「改憲論」の派生的詭弁、実際、改憲論自体に護憲などという姿勢はまったく認められない。いままでのすべての経緯を見ていれば「護憲的改憲」など画餅に過ぎないことは誰でもわかること。改憲についてどのような「正当な」お題目を唱えても怪しげな「彼らに」にいったん改憲を任せたらどのようなことになるか、火を見るより明らかなのである。国民の権利は確実にはぎ取られるということである。

目先のことしか見えぬ知能も劣る群盲のような者たちが寄ってたかってものしり顔に憲法談義

血と汗も知らぬ者どもが何を言うか!

 もうそれ以上ふれるな!

それが憲法だ!

                                    2018 1/14


765.「未来」、「未来」とかまびしい


 現在もきちんと見据えることができない者が、どうして未来を見据えることができるのか?「未来への責任」?現在の責任も取れない者がいかに未来の責任を取り得るのか?ただ、その場しのぎのきれい事を言ったまでのことであろう。ある時は「そのような短期的なことについてはお答えできない」、またある時は「仮定についてはお答えできない」。「長期的な展望」とは仮定ではないのか?一つ一つ取り上げていたらキリがない、それはもはや無茶苦茶であることを通り越している。私はこれほど支離滅裂な政権が目指す「方向」などとても認めるわけにはいかない。どれほど一寸先は闇であっても、たとえ藪の中であってもその「方向」は読めるであろう。この時点で、その「方向」をよしとすれば否が応でも我々は「転げ落ちる」だけである。とにかく彼らには美辞麗句、甘言、世迷い言の類が多過ぎる。「普通の者」ならそこで立ち止まり考えるものであるが、それすらさせないような状況を作りながらさらに心理的な揺さぶりをかけ追い詰める。これはまさに詐欺師の手練手管そのものである。

                               2017 1/7


 764.「国際政治学者」とは?


 よく目にする肩書で、大方がハーバード大学大学院博士課程修了などとあるが、結論から先に言えば、ハーバード大学とはこの程度のレベルなのか一体何をそこでやっていっていたのかと思われることが多い。言ってみれば、思考を深化させるコアな領域が希薄なのである。国際政治学、何のことはない政治力学程度のことをその時点ではすでにそれ程の価値もなくなった「情報」を基にもっともらしく分析してみせるのが関の山という「学」というより「技術」に近いものではあるが、位置的に「秘密情報」も手に入れやすという意味では政権に利用される、あるいは利用しながら自らの利益にも結び付けやすいという利点はある。そのためにのみ選んだ専攻分野ともいえるので選択動機自体が「ピュアーなもの」とはかけ離れざるを得ない。要するに、「厳密な学」としては成り立ち得ない要素が多々あるのである。実際、政治のダイナミズムを理論的に分析できるのか?現在ではモーゲンソー程の思考を深化させたコアな領域を持ち得る人物も存在せず、せいぜい「ゲーム理論」のレベルを行き来しているだけであろう。

 

                                2017 12/28

 さらに言えば、彼らは情報取得のためなら「おもてなし」は朝飯前、男芸者、女芸者も厭うまい。ただし、その情報は自分が最も利するためにしか使われないということである。国民に向かって発することなどは、例外なく当たり障りのないまったく無意味、無価値なものでしかない。要するに、そういう位置にしかいないということである。


763.「藪の中」は「藪の中」にあらず


 芥川龍之介の「藪の中」の話を出すまでもなく、「真実」はそれぞれの視座によって異なったものになってくるという事態は常に現実的な実情でもあろうが、しかし「それで?」、「だから?」という問いの無限連鎖は抑えようもない。現状を見ていても明々白々としたものさえ「藪の中」にわざわざ引きずり込んでボカシをかけているのも「人間的営為」の中には頻繁に見られることである。世の実情は「藪の中」だと言ってみても、それは結果的には「あきらめ」とそれにすぐに溶け込む怠惰なニヒリズムに道筋を与えるだけであろう。そして、その轍(わだち)にはまることが物事を知り得た者の姿勢であるかのようなわかったようなことを呟き始める。藪を「突っつけば」蛇も出くれば猪も出てくるのである。「藪の中」であるという認識には「突っつく」という行為自体がもたらす藪そのものの変貌がまったくない。それでは「藪の中」はいつまで経っても「藪の中」、手がかりとなる一片の木肌さえ見つかるまい、むしろ藪の中にある方が居心地がいいと思っているのではないかとさえ思われることがある。そもそも世紀の「大発見」のレベルでも、それは「海辺の一粒の砂」にたとえられるがごとくで、後は途方もない未知なるものに覆われている。そのような認識は謙虚さでも何でもない、人間の限界そのものからくる素直な感慨でもある。

「藪の中」、それは到達点ではなく、それがすべての始まりなのである。

                                 2017 12/21

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