「ある日、その時」(64)6月3日ー

<掲載内容>

713.「いじめ」はその土地の文化レベルの指標 714.読売の社会部長が反論?715.「主犯格」が素直に自白するか?716.「バライティはくだらない」717.「日本会議」との関連性はチェックポイント718.「面従腹背」とは、また正直過ぎて 719.自由におびえる者たち 720.「中枢の狂謀罪」の方が先決

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720.「中枢の狂謀罪」の方が先決


 「共謀罪」を成立させるより、現在の日本の中枢の「狂謀罪」を成立させる方が先であろうと思われる。誰が見ても、明らかに「オカシイ」、「狂っている」、「尋常ではない」、「異常だ」と思われることが平然と行われているのであるからそれは当然のことでもある。陰謀が渦巻く現政権にまず真っ先に「共謀罪」が適用されてしかるべきであろう。それは「狂謀罪」という名がふさわしい。

 その内に、実例のとおり、自分の娘が強姦されても、犯人がわかっていても場合によっては犯人逮捕はできないということにもなる。また、居酒屋で政府のこと、アベ、ガースについての話など、どちらにしても100%不満、批判になるであろが、その帰り道、公園で立小便しただけで任意同行、やがて逮捕ということもあり得るということである。「共謀罪」を運用する側に「良識」を求める方が土台無理なことくらいはこの間で証明済であろう、「良識」云々などはそれこそ「人間」を知らぬ、何のために法規があるかもわからぬオメデタイ者の放言である。それこそ「オメデタサ」の極み。

                                2017 6/17


719.自由におびえる者たち


 国有地を我が物顔に「知人」、「友人」、尻尾を振る「関係者」・「団体」に「分配」する。内閣府に難色を示す者は容赦なく処分する。スポーツの祭りに合わせて「共謀罪」を成立させ、さらには改憲までもしようとする。どこの国に「体育祭」に合わせて悪法を成立させ、国の根本法まで変えようとする国がある。あったとするなら、世界史から抹殺しなくてはならぬ例の国(ナチスドイツ)だけであろう。その徹底した反省、教訓化があるからそのような在り方が見えてくると世界は警戒するのである。先進国の中で「あってはならぬ方向」にあたかもそれに「義」があるごとく「オメデタイ健全さ」で推し進めているのは日本だけである。このようなおバカな者たちに二度と政治をさせてはならない。他にいないからといって「犯罪者」に政治をさせてどうするのか。確実にやられるゾ。だから、名前と顔、所業を彼ら以上に監視、銘記すべきなのである。それだけが我々の武器である。もし、それを忘れるなら何をされても仕方あるまい。

「岩盤に穴をあけて」なだれ込むのは、現内閣の大方が所属している例のマフィア化した日本会議の関係者だけであろう。要するに、国民など埒外で、私利私欲だけというのは彼らの所業を見れば明らかなのである。しかし、ここまで露骨なのも前代未聞。

                               2017 6/16


718.「面従腹背」とは、また正直過ぎて


 これも少し前の話題になってしまったが、前川・前文科事務次官が言ったこととして取り上げられ、ここぞとばかりに柄にもない者たちが彼に集中砲火を彼に浴びせていた。よき「政」を行っているのであれば「面従腹背」とは悪しき者ということになるが、糊塗、ねつ造、隠ぺい、すり替え、虚偽が日常茶飯事に行われている「犯罪的な」政権において面従腹背とは当然のことであろう。悪しき「政」を行う者たちに対して行う面従腹背とは、ごく自然な「普通」のことであると思われる。そうでないと言うのであれば、狂っているか、ウソを本当であると思い込める者か、単なる「パシリ」、すなわち走狗である。

 最近では、「岩盤規制を突破」などと勇ましいことを言っているようだが、何のことはない、辛うじてあった「公平性」を自分たちだけ、国民などは論外、この場合は自分の「お友達だけ」に都合のいいようにするということを言っているに過ぎないのである。

「国家戦略特区諮問会議」(議長・安倍晋三)の民間議員を務める八田達夫が内閣府で記者会見し「加計問題」について、「政策判断、規制改革のプロセスには一点の曇りもない」と述べたとある。この民間議員の中にはあの竹中平蔵などもいる(しかし、どこにでも顔を出す男である。)。結局、規制の合理性の根拠を示せなかった文部科学省に責任があるという落ちである。だから、自分たちは「岩盤規制の突破」をしたのだというところに持っていきたいのであろう。「まあ、お上手、お上手」とほめそやしたくなるような糊塗、ねつ造。「有識者」たちの議長におもねった自己陶酔気味の悪だくみも見事過ぎて現実離れしたおとぎ話、夢物語に近い。自分の行為をここまで粉飾しざるを得ないとはあまりにも醜悪であり、稚拙である。真摯なところが皆無というのも前代未聞である。馬脚をあらわしているにもかかわらず、今度は馬脚が堂々とあいさつしているようなものである。 

                                 2017 6/13


717.「日本会議」との関連性はチェックポイント


 今後、その人物が「日本会議」に関連しているかどうかは大きなチェックポイントになるであろう。この間に見えてきたことから言えば、この組織は、「大和心」に象徴される、ある種「不明瞭なもの」に「帰依する」ことによって日本人である「証」を作り出し、それを錦の御旗として信奉するカルト的な「互助会」と見ることもできる。「安直」であるという意味では「現世ご利益」と同様で、それこそ「安直に」広まり易い。しかし、この組織が目指す方向はたとえ民主主義を装っていても必然的に民主主義とは正反対とならざるを得ない。中枢の一部の指導部(者)とそれに付き従う信奉者、すなわち臣民となった大衆である。このような「質」を持つ組織の一員ということは、たとえ個人的には「ご利益」を得るだけが目的であったせよ組織自体の「力」によって、反民主主義の方向に引きずられていくのである。やはり、「日本会議」と関連する人物とは実質的に民主主義を否定する人物ということにならざるを得ない。それは、当然、民主主義的立場からすれば「要注意人物」ということになる。このような組織に入ることで安易に「日本人であること」の証を求めること自体が安手な「日本主義」なのである。もし、「日本人であること」がそのように偏狭なレベルであるなら、あらゆる面でさらなる展開はありえず、深まりようもあるまい。いわんや世界を一つの家するなどというカルト世界にも頻出しうる八紘一宇などという言葉を再び自己正当化に遣う神経は、展開どころか錯誤と後退しかもたらしようがないということである。日本古来の穏やかで度量の在る精神、美意識すら歪めて拡大乱反射させてしまった平田神道などを根拠に何を再び蒸し返そうとするのか、その愚かしい自己完結は、本来、日本人が持ち得たものを損なう方向でしかない。

                                 2017 6/10

 「日本会議」を丁寧に捉えれば以上のようになるが、そこに所属する大方にとっては権力にどこかでリンクする利権がらみの「互助会」で、「おいしい思い」、「夢よもう一度」程度のことであろう。言ってみれば、それが日本流マフィアを形成しているのである。もっともらしい「お題目」に反して、ここに所属している大方の者の下心は見え見えである。とにもかくにも要注意であることに間違いはない。


716.「バライティはくだらない」


 何も倉本聰が敢えて言わなくても大方の思慮ある者はそう思っている。バライティなどに出演して自分は何者かであるがごとくに思っていること自体が大きな間違いなのである。それは閉ざされた無思慮な者たちによって「ささえられている」だけのことである。さらに言えば、その無思慮な者たちの単なる粗悪な「おもちゃ」に過ぎないということでもある。したがって、そこで何か言ってそれが多くの者に受け入れられていると思っていると勘違いも甚だしいというところであろう。物事をきちんと見ている者とっては「バライティ」などは無用の長物以外の何ものでもない。ただ、バカの確認のし合いが妙な「空気」を作り出し、それがいつの間にかあたかも揺るぎのない「共通認識」のようになりうることもある。それが危ういのである。「バライティはくだらない」、そこに何か「意義」を見出そうとすること自体が、地獄の底でへらへら笑っているような「おめでたさ」を引き出す。言ってみれば、「病的な」能天気さを作り出すである。しかし、これで誰が「一番」喜ぶのか、それは実は視聴者ではないことはわかりきったこと。バカが多ければ多いほど、あるいはいつまでも寝ていてもらった方が事を進めやすい者たちが確実にいるのである。「バライティ」には、倉本聰が敢えて言いたくなるような単に「くだらなさ」以上の「もの」がある。それについて、また「お笑い芸人」が噛みついていたが、やはりわかっていない。意識の問題ではなく、存在自体、その在り様が走狗であるということなのである。これ以上、走狗の「互助会員」を相手に何を言っても埒は明くまい。また言うつもりもない。「バライティはくだらない」、見るも無残、「お笑い芸人」も同様、ただそれだけのこと。無視すればいいのであるがそれによって「作り出されたもの」が身近でうるさくなるからつい言いたくなるのである。

                                     2017 6/7


715.「主犯格」が素直に自白するか?


 「主犯格」が素直に自白するか? いわんや権力を持っている人間が、「ハイ、そのとおりです」などと言うはずがないということはわかりきったこと。すなわち、ウソをつき通すということである。恥知らずであれば尚更である。いちいち彼らの弁解、意見など聞く必要もない。判断するのは彼らでもマスメディアでもない主権者である。生きている時は政治屋に身をまかせ、死ぬときは坊主にまかせていたら、何もかもぼったくられるだけなのである。たまには主権者として生きている重みを感じなくては人生も面白味もあるまい。何かと言えば左だ、右だと振り分ける騒々しいだけの空疎なパシリは無視して、是(道理にかなったこと)は是とし、非は非として思ったところを押し通せばいいだけのことである。

                                                                                                           2017 6/6

 


714.読売の社会部長が反論?


 読売新聞(5月22日付)が前川前次官の出会い系バー通いについてスクープした記事についてであるが、読売は、5月3日付けの朝刊で原口隆則社会部長の名前で「反論文」を掲載した。結論から言えば、堕ち続ける者の悪あがきという一言である。「反論文」を出そうが出すまいがさして変わりはしないが、それについて言えば言うほど読売がいかに安倍政権とべったりかということを白日の下にさらすことになるのである。「加計疑惑とは全く別問題である。私たちはこれからも政権・行政の監視という報道機関の役割をはたしていく」、スクープ記事については「報道すべき公共の関心事、公益目的にもかなう」などとどこまでもその正当性を述べるに至っては、それなら「証明してみろ!」とでも言いたくもなる。国民の関心事、公益目的に関しても常に政権の顔色を窺いながら取り上げてきたものがここにきて「加計疑惑とは全く別問題である」、そんなことが通用するとでも思っているのか、もしそれで通るなら読売の読者とは完全にバカ扱いされているのである。言うだけなら何とでも言える、そのことも安倍、菅と同様である。そして、「反論内容」が、これまた安倍・菅のシンタックス、レトリックそのままで区別がつかない程である。我々は彼らの言動、表情、発話、一挙手一投足に至るまで監視している。監視するのは権力側ではない我々国民一人一人であることを思い知らせなくてはなるまい。

                               2017 6/4

 


713.「いじめ」はその土地の文化レベルの指標


 最近のいじめを苦に自殺した中学生の事例を見ても、教育関係者の怠慢は敢えて言うまでもないが、やはりその土地の親たちが、すなわち周囲の大人たち作り出しているとしか思えないのである。要するに、その「地域」の大人たちの「生き方」そのものが必然的に「いじめる」子供達をつくっているのである。子供は親の言動をよく見て、そのすべて吸収している。したがって、「いじめ」の元凶を追っていけばその「地域」の親たち、周囲の大人が作り出している「もの」ということになるのである。そして、いつも、いじめの対象は、おとなしい、繊細で真面目な子供なのである。実際に、親たちが自分の子供に対して、人を殺してはいけないこと、ウソをついてはいけないことなど根本的なことを「きちんと」ほんとうに教えられるのか。「きちんと」ほんとうにとは、言うだけではなく身をもってということである。そんなことは「当たり前なこと」として、ばか笑いに興じ、空気を読む小手先ばかりの処世術と金計算ばかりを考えている親では、その子も同様であるが、「当たり前なこと」「根本的なこと」はいつの間にか抜け落ちているのである。それは本来なら自分自身をも救うものを結果的には殺していることにしかならないのである。やがて、その子供からごく「自然に」同じような仕打ちをされることになる。子供(=親、大人)たちが「いじめの対象」にしていた「もの」とは、実はそれを大切にすれば自身を救うことにもなるものであったことを忘れているのである。

 以上のような意味で、「いじめ」が問題となっている地域の人々の状況がどのようなものかは具体的にもよくわかる。子供のことを考えるなら孟母三遷ではないが私なら決してそのような地域には移り住まない。いい子であればあるほで悲惨なことになるのは目に見えているからである。私自身もそんな大人たちのそばにはいたくない。

 ピアニストになるのが夢であったという子供を殺した「地域」に対しても、文化衰退の歯止めが効かないどころか実質的に文化抹殺の方向でしか事を成しえない者たちに対しても無性に怒りがこみあげてくるのである。この「地域」というのは当然国の現状の縮図でもある。ただ、地域によってはその影響の度合いが比較的少ない「地域」もあるということに過ぎない。

                               2017 6/3

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