「ある日、その時」(59)1月10日ー

<掲載内容>

676.A nightmare of America? アメリカの悪夢? <番外日誌20170112>G・オーウェルと百田などとは「似て」非なるもの <番外日誌20170112>再び空疎な言辞「陰謀論」、「自虐史観」etc <番外日誌20170114>「阿漕殿」のご乱心が過ぎて 677.少しづつ慣らされていく怖さ 678.マッドドッグとゴマすりドッグの会談 679.「地獄耳」と言うべきか 680.もの言えば でんでん(云々?)虫の 殻も割れ681.希望的 観測に乘り 刻船(こくしゅう)

 

                                                                                                                             <転載・複製厳禁>



681.希望的 観測に乘り 刻舟(こくしゅう)


 刻舟とは、船から落とした剣を後で探すために船に目印を刻んだという故事からきている言葉で、時勢の移り変わりを知らず旧習を固守する愚かしさをたとえているが、それ以上に人間の愚かしさそのものを言い当てていて面白いものがある。希望的観測は、将来についての自分にとって都合のいい一見合理的判断のようにみえるが、要するに思い込みである。ともに過去、未来についての時間、空間を無視した人間の迷妄ということでは変わるところがない。もう少し過去、未来に対して謙虚にかかわるべきなのである。過去に対しては緻密な検証、未来に対しては現状の偽らざる認知が不可欠であるということ。人知には限界がある、そのことを明確に把握することから近未来に対する事柄が少しは見えてくるということにすぎない。ある有能なスポーツ選手が「私にはもう行く末がないので」とさりげなく語ったことが印象的であった。己の現状を的確に把握している彼には近未来が見えているのである。それは、それなりの活躍が期待できるということでもある。浮ついた思い込み、ヒステリーが行きつく先は、その程度に比例して破局も大きくなる。

                                        2017 2/14


680.もの言えば でんでん(云々?)虫の 殻も割れ


 迷妄がますます深まり、正気を失っていく過程とはいかなるものか。「官・財」に対するものわかりのよさ、嘘と駆け引きと、すり替え、糊塗、ねつ造、で「わが想い」に腐心するあまり、まともに現実どころか字面を追うのもままならなくなるのもその過程に現れる一つであろう。シロアリ、クロアリ君たちが入り乱れて作り出した論理的には破たんをきたしているシュールな台本も身につく間もなく乱れ飛び、それを補助するプロンプターも「台詞」がどこに飛んだかわからないまま次から次へと場面展開していくというありさま。実のところ、本人たちも何をどう言っているのかさえわかっていないのであろう。ただわかっていることは自分たちの損得勘定だけ。その挙句の果てが、「未曾有」氏はミゾウユウとしか発声できず意味不明となり。先走りか、本心か「立法府の長」氏には、「云々」も「デンデン」にしか見えず、思わずプロンプターも奈落に足を滑らす始末。およそ日本の文化などとは無縁の者たちがその精神性を高らかに歌い上げる時、もし「普通である」なら別の理由が隠されていることくらいは誰でも感じられることであろう。本来、文化、歴史などは「歌い上げる」必要もなく良くも悪くもにじみ出てくるものである。ほんとうに未来につなげ得るものを見い出すには実情をありのままに見つめて、良きものと悪しきものを峻別する必要がある。悪しきことをなかったことにするようなすべての営為は人類を逆行させ、未来につなげる様々な糸を断ち切ることになる。いつまでも一人の人間の「思い込み」に便乗した「官・財」のたくらみに未来を託しているようでは地獄は突然現れる。なぜ「突然」なのか、それはその直前まで恐ろしく「軽いノリ」で進んでしまうからである。言い換えれば、よほど注意していないと意識外で、認識されることもなく悪性癌のごとく進行するということである。その「判例」の類は、世界でも枚挙にいとまがあるまい。

 すでに脳髄の数パーセント程度しか自分だけの居場所もなくなりつつある現在、「安全地帯」でささやき、つぶやき、大口をたたく「戦争ヒステリー」に巻き込まれたら、後はどうなるかわかりきったこと。

 しかし、申し合わせたように北朝鮮は日本海にミサイルを落とすものである。これは、防衛費の拡大に恰好の口実を与えている。一体誰にとって一番都合がよいことなのか。政治(戦略)とは効果である。効果があると思えば何でもするのが政治でもある。それを「陰謀論」などという訳のわからぬ空疎なコンセプトで括るカマトト振りなどいつまでも通用するものではない。どちらにしても「戦闘行為」であろうが「武力衝突」であろうがそのようなことが一旦起きれば、この小さな島国は兵器の効果測定の恰好の実験場となり、「意に反して」原発が点在する国土全体が死地と化す可能性もある。世界がありのままに見えない「戦争ヒステリー」の感染者と同調していると命はいくつあっても間に合うまい。

                                2017 2/11


679.「地獄耳」と言うべきか


  世の中には見るからに福々しく福相を持つと思われる福耳そなえた人もいれば、福耳というよりは頭部の大きさとは妙にアンバランスで、耳全体が大きい人もいるようだ。つい動物の耳、アンテナの類を連想してしまうが、耳全体が異様に大きい人というのは政治などに携わる者に特に多いように思われる。どのような微細な音も聞き漏らさない「地獄耳」というべきなのか。そのような耳の持ち主の言動をよく見ていると、何事もそつなくこなしているようだが自分のことしか頭にないのが見えてくる。政治レベルで言えば、国民のことなど二の次三の次ということになる。大きな「地獄耳」は自己保身には最適なのであろう。福耳と「地獄耳」を取り違えるとえらいことになりそうである。

                                 2017 2/5


678.マッドドッグとゴマすりドッグの会談


 「アメリカ合衆国日本州」(これは2,3年前このサイトで遣った私の造語)のゴマすりドッグとアメリカ本国の海兵隊で鳴らした「殺人狂」マッドドックの会談。日本に来たマッドドッグの顔をつくづくと見てしまった。どのように正当化しようとも大量に人を殺した者の顔にはやはり確実にその痕跡が残るものである。そして、周知のゴマすりドッグの方はといえば、その顔には驚くほど何の痕跡もない。根本的に「作り」が違うのである。それは、自国民を競売に出すようなことをしても、おためごかしとすり替えと美辞麗句で自らも酔いしれて何の痕跡も残さぬ顔なのである。どちらが怖いかというより両者が体現している「人間」というものの怖さである。

 トランプはアメリカのある半面、アベも日本のある半面。しかし、アメリカがトランプによってそのイメージを変質させられた(知識階級にはすでに認知されていたこと)ように、日本もアベによって辛うじてあった「精神文化的イメージ」までも汚泥まみれになってしまった。トランプとアベ、実はその根幹部分は同質である。愚かしい騙りがいつまでも手を変え品を変え繰り返され、それが成功する。「人間」というものを直視できない単なる「お人よし」だからつまらぬ詐欺に引っかかるのであろうが、それは「普通であるなら」ガキでも騙せないような嘘である。そんな騙りにいともたやすく引っかかる者たちとは一体何者なのかと聞きたくもなる。手に「お縄」がかかっていないことだけを誇りに首に「お縄」がかかっているのも気付かぬ人々、このような者たちによって「支持」されているアベ一族郎党、それがそのまま「アメリカ合衆国日本州」を作り上げているのである。

 これも以前取り上げたことだが、すぐに「対案を出せ」という無能な者たちについて、これは「政治屋さん」の類の十八番であるが、否定されるとすぐ口に出すセリフでもある。政治レベルで「対案を出せ」とは民主政治の「いろは」も知らないことを自己暴露しているようなものである。それは国民に対して「対案を出せ」と言っているようなものなのである。国民、野党は常に「批判」、「抗議」するだけで十分である。それすら希薄になっているのが現状であるが、それは「批判、反対ばかりしていても仕方がない」と批判、抗議があたかも反・非建設的な姿勢であるかのように丸め込まれてしまっていることにも起因するのであろう。批判、反対に対して的確な処置、統合ができないのは器量のない証でしかない。あるいはその内容自体に問題があり、廃案すべきものであるということをいっているにすぎない。批判、抗議する側にいる者が将軍様の「御紋」と同体化してただ隷従するのみでは民主政治などすぐに崩壊し、全体主義に移行するのは火を見るより明らかである。

                                      2017 2/3


677.少しづつ慣らされていく怖さ


 それは巧妙に「人間性」を破壊し続ける作業でもある。

 内閣支持率67%、これが本当の数値なら政治的暗愚も極まれりの感がある。それに関連してマスメディアの姿勢、報道内容が常に問題となるが、そもそもマスメディアの情報に全面的に信を置くこと自体が衆愚であることの証でしかないということは何も今始まったことでもない。そうかといってネットなどの匿名集団の怪しげな、あるいは「まとも風」な言説などを無批判に真に受けるのは危険であることは言うまでもないこと。要するに、マスメディアのあらゆる情報について取捨選択する能力がなければただ混乱させられるばかりで,その内にまんまとデマゴーグの罠にはまることにもなるということである。

 マスメディアの 報道の構成シナリオの虚偽をどこまで読み解けるか。ネットなどの真偽をどこまで見抜けるか。感情の虚偽に巻き込まれずどこまで冷徹に見据えることができるかにすべてはかかっている。それが唯一身を守る方法でもあろう。

「変だ」、「おかしい」と思ったら真実は大方その中にある。それに対して誠実に対応するものを良しとし、そこから遠ざかるものはすべてあやしく、いかがわしいものと見る方が賢明であろう。丸め込む方向に進む「権威」と称されるものはいくらでもいるのである。

                                                           2017 1/23

 しかし、自らの終焉の場所探ししか頭にない高齢者とアイホン片手に頭はバライティ状態の者たちが作り出す支持率であるとするなら、すべてはさもありなんである。ただし、それだけではあるまい。わが身に火の粉が降りかからないうちは沈黙するのが賢い方法と思っている者もいることであろう。それがいつの間にか致命傷となるのである。この「少しづつ慣らす」、知らず知らずの内に事を進めるというのは全体を覆う作業の常套手段である。気が付いた時にはすべては手の打ちようもなくなっているということである。

 

                                       


<番外日誌20170114>

 「阿漕殿」のご乱心が過ぎて、行く末も見えたりというところである。

 1兆、2兆と豆腐を勘定するような拝金教の使徒さながらの血税のバラマキ外交。それに乘って周囲は身ぐるみ剥がされているのも知らず裸踊りである。どのようになろうとも「阿漕殿」とその周辺はその責任を取ることは決してないということである。むしろ、責任の取りようがないといった方がいいだろう。責任をとって辞めても、謝罪しても崩されたもの、失ったものはもはや取り返せないのである。その影響がどこまで続くのか・・・、どちらにしても「放置」、すなわち「無関心」は悲惨な状態を限りなく生み出す。


<番外日誌20170112>

 これもまた以前述べたことでもあるが、「陰謀論」、「自虐史観」などの言辞とその遣われ方をみていると、よくもこんな言葉がまかり通るものだと思われるほど内容的にも浅薄で、皮相な人間観察だけが浮かび上がってくる。それはまた独り善がりで稚拙なアフォリズムさえ彷彿とさせる。要するに、わかったようなわからないような、そうかといって判読の余地もない、ただそのような言葉を遣う側の「位置」と「器量」のほどだけがよくわかるだけなのである。それがこれらの言辞の確かなコンセプトともいえる。「実証性」(?)を重んじる者さえ「陰謀論」などという言葉を遣うというから恐れ入る。これらの言葉には厳密な意味は微塵もない。簡潔に切り捨てれば、すべてのことは、悪魔にも天使にもなり得る「人間」がやっていることである。今更どの面さげて柄にもないことを言っているのかということである。権謀術数は時を得れば常に渦を巻く、権力の中枢ともなれば尚の事、歴史観に「自虐」も「嗜虐」もあるまい、ここに至ってはあまりに幼稚過ぎる。都合の悪いことは改ざん、末梢する、現に今やっていることであろう。俗世に生き長らえ、いい年をして「かまとと」振りは醜悪で見苦しい。過去に事跡がないから存在しなかったなどとは言い切れないのは、現に今やっている改ざん、末梢が見事に証明している。

 このような言辞で何か言った気になる、また、わかった気になる、実は何も言っていない、何もわっていないに等しいのであるが、それがわかっていない。これもまた縁なき衆生の類であろうか・・・


<番外日誌20170111>

「カエルの楽園」(新潮社)の出版社の惹句には,大衆社会の本質を衝いた、G・オーウェル以来の寓話的「警世の書」とある。G・オーウェルと百田などとは「似て」非なる典型でもあろう。敢えて言うなら、一方は本物で、他方はキッチュということになる。それは作家と単なる売文業者との違いともいえる。「流行作家」などと呼ばれている者の多くも単なる売文業者であると見た方が賢明な場合の方が多い。そもそもG・オーウェルは百田などとは立ち位置、スタンスが根本的に違うのである。したがって、その作品の内容も後は推して知るべしである。案の定、その内容たるやあまりにも皮相的である。ほんとうに作家と言いうる者であればその「根幹部分」(根本姿勢など)も含めて問題となってくるのが古今東西の揺るぎない実情である。因みに、周知のとおりG・オーウェルは誤解されやすい作家でもある。言い換えれば、本人の意思に反して利用されやすい作家なのである。百田も出版社もそれに乗じているのであろうが、すでに底は割れている。

 それにしても、最近読んだ面白い本は何かという質問に、某社長がこの「カエルの楽園」と石原の「天才」だというから余程読む本を知らないのであろうと思われた。それともそんなところを出しておけば「無難だ」とでも思っているのだろうか?そうではないだろう。だからキッチュ文化が盛んなのである。

 ついでに言えば、1%富裕層100万に取り入れば、またはそれら人々の意思に沿う内容であれば「本屋でNO1」、「ベストセラー『作家』」になることは容易であろう。現在は特にその傾向が露骨になっている。それで食う者、食われる者、そしてほくそ笑む者。


676. A nightmare of America  ? アメリカの悪夢?


  トランプはtrumpではなく、ダークなジョーカーである。

 私は、「自由の国」などというキャッチコピーのような幻想をアメリカに対してかつて一度も持ったことはない。したがって、アメリカに行きたいと思ったこともないし、今後行くこともない。今でも陰湿な軍事国家よりは多少はまだまし程度にしか見ていなが、私自身は「左」「右」問わず全体主義的傾向とはまったく反りが合わないからその傾向が少しでも出てくれば距離を置かざるをえなくなる。これは前にも書いたことであるが、「トランプ」のような存在は何も今アメリカに突然現れた訳ではなく、アメリカの「構成要素」の中に綿々と息づいていたものでもある。それを危うい「良心」のようなもので何とか支えてきたというべきか、取り繕ってきたというべきか、それも限界に来たというところであろうか。いつか登場しざるを得ない存在が表舞台に出てきたということである。身も蓋もない言い方をすれば、イギリスから流れ着いたあまり質の良くない部分の末裔ともいえる存在が自らを省みることもなく自己主張を始めたということである。今まで何とか「よそ者」や「外国人」も含めた「良質な部分」(実際、そのような人々抜きには語れないのがアメリカであろう)が体よく収めてきたものを「偽善」よろしく取り崩し、開き直りの偽悪の権化と化しているのであるから世話はない。それがアメリカの偽らざる実態でもある。見方を変えれば、これはアメリカ「本体」の全体を知るいい機会でもある。トランプが独走態勢に入れば、女優メリル・ストリープがいうようにその内に「アメリカにはアメリカンフットボールと総合格闘技のほかに見るべきものがなくなる」というのは至極当然なことなのである。それは同時にアメリカの悪夢の始まりというより、そもそもの始まりから並走し続けてきた悪夢が一挙に噴出したということである。もちろん、それにただ隷従するだけの日本がその悪夢と同床異夢とは行くまい。

                                       2017 1/11

追記:私は、専門筋の一見理路整然とした分析、説得力のある言説、それについては敬意を払いつつ参考にもするが、さほど興味はない。常に、言い果せて何かあるという思いがある。実際、その通りになる事は稀であろう。

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