<掲載内容>
669.テレビドラマとは「手抜きドラマ」のこと 670.糊塗、ねつ造、すり替え、言い換え、美辞麗句のオンパレード 671.「偏向報道」,「普通の報道」という御仁にも・・・672.いい年をして「戦闘ゲーム」にハマるとは?673.「金もない、時間もない、気力もない」という者たち <番外日誌20161230>ー抒情詩人気取り 674.「デラシネ」のリバイバルとは? 675.「法華経」も「田中角栄」も方便とは
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675.「法華経」も「田中角栄」も方便とは
保身のためなら手段を選ばぬという恰好の手本のような人物である。ある時は、「法華経」に理解をみせ「ある層」の支持を取り付ける。そして、この期に及んでは米国の意のままに動く「多くの者」とともにお膳立てされた正義を振りかざし「先陣」を切って葬り去った人物を今度は英雄、天才扱いで祭り上げ自己正当化を図る。すべては、自己保身、「義」などは爪の垢ほどもないことなどすでに一連の言動で実証済みである。実際、この人物のどこに「法華経」の世界が息づいているのか、田中角栄が多少なりとも持ち合わせていたと思われる矜持と義侠心ですらこの人物のどこを探してもあるまい。今頃「田中角栄」を掘り起こして持ち上げる、これが本心なら今まで何を見ていたのか、やっていたのかと改めて問いただしたくなる。どちらにしてもまた何らかの「効果」を考えてのことであろう。そういう人間なのである。その「効果」の要とは、己の欺瞞性の攪拌、霧散というところであろう。政治活動にはかねがかかる。アメリカ型民主主義は、かねを集められない者は政治の舞台には立てないのが現実である。選挙、政権運営はかねがかかるものである。それが実情である。それを「金権政治」というコンセプトでまとめ上げて鬼の首を取ったようなことを言ってみてもそれ以上の追究がなされなければ何の意味もない。あたかも「徳の政治」が実際にあり得るかのごとき「金権政治」に対する嫌悪、それは画餅に等しいというより、したたかな罠に容易にはまる「未成熟」さといってもよい。要するに、選ぶ方も選ばれる方も、書く方も読む方も「餓鬼」なのである。そこには程度の差しかない。
2017 1/1
674.「デラシネ」のリバイバルとは?
「デラシネ」とは、周知のとおりdéracinéというフランス語で、「根こそぎにされた、根無し草になった」、名詞として使われる場合は、「祖国(故郷)喪失者、根無し草」などがある。日本では五木寛之が「デラシネの旗」を書いた頃、すなわち学園紛争が盛んであった1969年以降よく遣われた言葉でもある。しかし、雰囲気的に遣われた言葉でもあり、本来の言葉の意味の厳しさはない。最近の「ノマド」という言葉の使用状況とさしたる違いもない。「デラシネ」(帰属なき者)にとって「かくあるべし」とは呪縛以外の何ものでもなく、「願望」はあるが特定組織に終始なじめず、どこかにある疎外感が常に「余計者」意識を醸造し、それが全身全霊身を投じて行動するところまで行くと自己乖離を引き起す。「余計者」という意識は、「臆病者」の意識構造とは違うが、覚めざるを得ない意識が否応なく抱き込む「臆する」領域の多さも否めない。それは疑心にかこつけて都合のいい回避も強いてくる。「デラシネの旗」の主人公はパリの五月革命のさ中、昔の同士にも会えず再び「宙ぶらりん」のまま愛人の脱いだ紫色のブラウスを旗に見立てて凱旋門に向かって行進する。「宙ぶらりん」、「中途半端」、「余計者」、どこにも属することのない者、それらを称して「デラシネ」とでもいうのだろうか。小説では主人公が自分の今の社会的位置に後ろめたさを「持ち続け」ていたということであるが、それも現実的にはどこまで可能なのか、そして映像に映った昔の同士の姿に自分の当時の熱き思いが蘇り、五月革命のパリに向かうという行為であるが、これも実際にはほとんどあり得ぬ話である。パリの五月革命の実情と本人の「思い」とは何の関係もない。ここにこの人間がほんとうは何をしたいのかという疑問も出てくるのである。この主人公は過去の「熱き思い」に振り回されているだけではないのか、だから現状の世界の問題とはズレが生じてくるのである。この「ズレ」を「デラシネ」と観念的に誇張気味に捉えているとも思えなくもない。「わが青春に悔いなし」ではなくわが青春に悔いが残ったので悔いの「打ち直し」にパリまで来たがもはや遅すぎて居場所がないというわけである。居場所がないというのは余計者ということである。それを「デラシネ」という言葉で言い換えた時点で余計者は単なる「根無し草」となり、いつしか自恃と矜持を失う。
日本で遣われた「デラシネ」という言葉、観念的過ぎてどちらかというと負の正当化として雰囲気的に多用されたきらいがある。そして、今「難民こそ現代のデラシネである」と「デラシネの旗」の作家は言う。強調するまでもなく、難民が祖国喪失者という意味のデラシネであることには今も昔も変わることはない。彼の言う「新しい『デラシネの時代』」」とは、今までのような観念的な領域に留まらず具体的な祖国喪失者の時代ということであろう。しかし、新旧の「デラシネ」など存在はしない。旧来のものが不適切に、雰囲気的なものとして遣われ残滓が残り過ぎたということに他ならない。今、何もわざわざ手垢と埃にまみれ、「時」にデフォルメされた言葉を敢えて遣う意味はあるのかと思われるが、作家自身が「デラシネ」という言葉に与えてしまった観念的で抒情的意味合いを払拭し、難民という確たる具体的な状態として、ある意味でエネルギッシュな意味合いを持たせたいのであろうが、どうであろうか。
正直なところ、こうしたレトリックにはあまり興味はないが、ややもすれば「殺人」を「ポア」、「積極的平和」と言い換えてみたり、アベのミックス風すり替え、言い換え、情緒的言語の多様、置換のレトリックと大した違いはなくなる危うさを持っている。常に情緒、雰囲気に流されるのが大衆でもある。それを知っていてやっているとすれば確信犯である。少なくとも文化に関わる者、学者、作家などは知らなかったでは済まされぬのである。
2016 12/30
<番外日誌20161230> 抒情詩人気取り
これは「抒情詩 人気取り」ではなく、あたかも抒情詩人のように「歴史上の事象」を語っていることをいっているのである。この幇間詩人が幇間政治というものを取り仕切っているように見えるが実は周知のように傀儡幇間である。よく見れば手足もバラバラ、最近では糸もこんがらかっている。そのうちに切るより仕方なくなるだろう。どんな仕草になるか楽しみである。
673.「金もない、時間もない、気力もない」という者たち
日々仕事に追われ、帰ったらテレビをつけっぱなしで食べて寝るだけという50代後半の下層労働者。日々の流れ以外の世界にはまったく興味を示さない。考えることも面倒だという。生きている限り今の状態を続けざるをえないのでできれば死んで早くこの状態から解放されたいと思う気持の方が強い。要するに奴隷とさして変わるところはない状態なのである。違いは具体的に鎖を付けていないというくらいで、精神、肉体ともにまったく閉ざされた状態にある。しかし、本人はそのことに気付いていないか、たとえ気付いていても「なす術もなく」日々が過ぎていくというのが実情なのであろう。そして、「予定通り」体を壊し、病死あるいは餓死ということになる。結局のところ、彼の人生は本人の意識とは別に、生きる術を見出した時からその世界にからめ捕られ、とても人間といえない生活を送ってきたのである。生まれて、いつしか自分で選び取ったかごとくに奴隷となって、その境涯が何なのかもわからず死を迎える。それは、とても「人生」などという代物ではない。それが明確にわからないからこのような状態を甘受できるのであろう。もし、そのような「人生」にも価値を見出そうと意味付けてもそれは単なる気休め以上のものでもなく。真剣にその作業をすればするほど滑稽にもなってくる。そして、その時点で完全に「詐欺師」の術、手中に収まっているのであるが、たとえ気付いても手遅れなのである。大方はそこまでには至らず現状の自己とはまったく異質である強者の論理と自己を同体化させ、所詮は弱者間での弱者攻撃でしかないことで己の位置を満たそうとする。そこにわずかな差異を見出すことによって辛うじて自己を納得させているのである。
「目くそ鼻くそを笑う」、笑っているうちはよいが、現状ではそれでは済まなくなっているであろう。「目くそ」にも「鼻くそ」にも実のところ「『人』生」など存在はしない。もし、あるというのなら語ってみよ。その「気力もない」というのなら人生など存在しなかったのである。
街には、男か女かも区別できない同じような衣服の者たちが溢れ、そこかしこには必ずと言ってよいほど迷彩服の男女いる。ベビーカー、子供用の自転車ヘルメットまで迷彩色であることも多い。売家、売地、シャッター通り、それらがまったくない街の通りに佇むことは今やあり得ないと言ってもよいくらいである。
万死に値する者たちが平然と世を動かしているのであるからこの風景も情景も当然のことなのである。色彩の消えた面白味みないグレー一色の世界である。どうしてここまで来てしまったのか。風に吹かれていい気なことを言っている場合ではあるまい。因みに、ボブ・デュランは決していい気なことは言っていないし、歌ってもいない。
2016 12/25 12/27
672.いい年をして「戦闘ゲーム」にハマるとは?
「30代、50代がハマる」という「戦闘ゲーム」のコピー、これがほんとうならいい年をして何をしているのかと思われるが、それは現在の30代、50代というのが思っている以上にいかに幼稚であるかを如実に物語っているのであろう。この幼稚さには致命的欠陥すなわり想像力の欠如があり、それは自ずと思考停止状態を作り出す。専門領域以外はまったく無関心というのも一種の思考停止である。(その実例は枚挙に暇があるまい)そして、いつの間にか「戦意高揚プログラム」の一環にまんまとハマることになる。現状は小理屈、薄っぺらな正義、正当性にかこつけた、ただ銃弾を消費したいがための戦闘映画が溢れ、それがまた妙に美化されつつ、暴力の心地よさを喧伝することになる。「忌むべき非日常」に憧れとロマンさえ感じさせる「戦意高揚プログラム」は「平和とは戦争である」ことを前意識、潜在意識へと隈なく浸透させるのである。それは「人間の境涯」が辛うじて押しとどめていたものを解き放ち、いともたやすく自らの脆弱さも忘れ思考停止の戦闘マシーンへと導く。自分自身の置かれた実情も忘れさせる根拠のない全能感は極めて剣呑で、悲惨である。この手のプログラムの最終結果は、もはや類推することがまったくできないほどの荒廃しかない。
○ずる賢い計算の上で、あたかも「義」があるがごとく弱者の大量殺害を行った殺人犯の許されざる「幼稚さ」。これも「作られたもの」である。
○もんじゅ高速増殖炉廃炉について、「もんじゅはわが子のようにかわいい」と言う元所長の「幼稚さ」。これもまた「作られたもの」である。
この「幼稚」さは、それ自体がマッドを生む要因でもある。
「餓鬼の目に水見えず」とはよく言ったもので、餓鬼には目先のことにしか頭にない。大局を見渡す想像力など餓鬼はまったく持ち合わせてはいない。だから、幼稚だ、ガキだと言うのである。
しかし、高速増殖炉に文殊(もんじゅ)とは恐れ入る。これも「平和は戦争」という類であろう。さすがの文殊菩薩もついに堪えられなかったのであろうか。
2016 12/21
671.「偏向報道」、「普通の報道」という御仁にも・・・
「偏向報道はいい加減にして、普通の報道をしてほしい」と一見もっともらしいことをいう作家・ジャーナリストがいたが、この御仁のオスプレイについてのコメントには笑止。この御仁曰く「米軍によって公表されていること。これ以上何が問題なのだろう」云々、これはもうジャーナリストでも作家でもあるまい。要するに問題にすること自体が「偏向」だというのである。この御仁の「普通の報道」とは「米軍発表」、「政府発表」をそのまま流し、それで事足りるべし、納得せよということのようだ。これでは「大本営」が公表していること、これ以上何が問題なのかと言っているようなものであろう。これで作家だ、ジャーナリストでございとはとにもかくにも噴飯ものである。単なる売文業者ということでもこんな見え透いた内容で商売してるとはお里が知れるというものである。
昨今では、売文業者でしかない者も作家といい、垂れ流されたものをただ溜め置きしているジャーのようなものをジャーナリストと呼ぶらしい。
2016 12/20
670.糊塗、ねつ造、すり替え、言い換え、美辞麗句のオンパレード
「疑似独裁者」の宿命なのか、よくもこれだけ空疎な実体のない言葉を次から次へと連ねられるものである。この「疑似独裁者」が言っていることは、すべて官僚組織が放った「家庭教師」のような首席秘書官の口移しで、勢い場当たり的な「かわし方」が中心となり、肝心の問題は常に放置されたままとなる。すべてはポーズと言ってもよく、何かやっている振り以外には実質的には進展どころか危ういところだけが増殖して行くばかりである。それでも何かやったような印象を与えるためのツーショットの「絵」だけは流される。「言ったこと」や「放置したこと」の忘却の繰り返し、それに対する微塵の忸怩(じくじ)もない。これも自分で考えたものではない証左である。「家庭教師」の決して責任を負うことのないその場限りの打開策をそのまま自分の考えのように言っているだけである。したがって、時折言うべき「セリフ」を忘れたり、即興性が必要な領域に入ると、もろに主体の欠陥が露呈する。敢えて言うまでもなく、「疑似独裁者」とは木偶人形、操り人形のことで、自分自身というものはほとんどないに等しい。官・財の「風」次第でどのようにも動く。当座は「オメデタイ」者たちを騙せてもやがて世界レベルの信用の失墜は免れない。それにしても、メディアのこの木偶人形に対する北朝鮮並みの煽り方には思わず虫唾が走る。取り分け「傀儡師」の周辺は、罪作り、阿漕で溢れかえっている。彼らは止めようとする者がいない限りどこまでも暴走することだけは確かなのである。「ええかっこしい」、沈黙、無関心こそ彼らが望むところでもある。
2016 12/16
669.テレビドラマとは「手抜きドラマ」のこと
もはやテレビドラマなどは手抜きドラマにしかなりようがないのである。そのようなものに関わる者(製作、俳優、スタッフなど)も、そのようなものを観る方もどちらにとっても百害あって一利なしというところであろうか。垂れ流し同然に繰り返されれば、脳細胞もキッチュそのものに変質するか、神経細胞に変性をきたしかねない。もっとも、何をやっているかもわからぬ日雇い労務者のようなスタッフ、不動産屋がやっている芸能事務所のにわか仕立てのタレント役者などには一利くらいあるであろう。この傾向、実態は互助会並みの「よいしょ集団」の笛の音ばかりが聞こえるだけで当分変わることはあるまい。言ってしまえば、A級、B級、C級などといわれる段階でもなく、その埒外でワンショットも観るに堪えるものがないということである。総じてテレビ一般についても、よくこんなもの作って金をもらっているなという思いひとしおの昨今である。企業も疲弊し、感性が劣化しているのであろう、よくこんなものに金を出すものである。マーケット・リサーチなどでは大衆の屈折した心情を捉え切れないのは当然であるが、いくら「プロ」まかせとは言え宣伝効果も上がらないものに金を出しても仕方あるまい。無駄に銭を使っているだけである。実際、CMなどにしてもつまらぬCMが多過ぎる、というより逆効果ではないかと思われるものの方が多い。要するに安手の「『プロ』まけせ」という発想自体が安易なのである。ついでに言えば、企業のブラック化とは無能の証、人材不在の企業に明日はない。
テレビの「テ」は手抜きの「テ」、「レビ」とは「レビー小体」が関係しているとしか思えないのである。
2016 12/14