「ある日、その時」(56)2016年10月5日ー

<掲載内容>

653.舞台監督と演出家の違いも分からずに 654.追及されると外遊させて 655.ノーベル賞を期待する作家とは 656.「日本よ、そして東京よ!」?¿¡ 657.一億総活躍とは一億総強制労働のこと 658.見渡せば、「御用」と「キッチュ」ばかりなり 659.「ピコ太郎」の登場の仕方 660.「東京国際映画祭」?

 

                                                                                                                      <転載・複製厳禁>



660.「東京国際映画祭」?


 経産省の勧めで1985年に始まったこの映画祭、観てみたいと思うような映画が一本もない映画祭である。つい先ごろも映画祭の「レッドカーペット」の上で見知らぬ女優と一緒に安倍晋三が詰まらぬ冗談を言って一人悦に入っている映像が流されていた。経産省(助成金は35%、2億4500万円)がかんでいる以上出てくるなとも言えまい。しかし、他にやるべきことは山積しているだろうと思われるが目立つところにはとにかく顔を出す男である。その割には、安倍晋三はまったく人気はない。TBSラジオ番組のリスナーアンケートでも84%が「安倍晋三は嫌い」と答えているのである。その理由もあまりにも当然すぎて、否定すべき箇所はまったくないから驚く。すなわち、テレビは安倍晋三の画像を映し出しす度に視聴者の意識から乖離しざるを得なくなっているのである。さも何かやっていそうなタラップの上り下りの映像、その空疎なパフォーマンスを繰り返し映し出すテレビに多くの人々はうんざりしているのである。

※内閣支持率50%という数値のからくりは少し調べれば誰でもわかること。

 「東京国際映画祭」は安倍晋三の登場でどれだけの人々が興ざめしたかは推して知るべしであろう。もっとも諸外国では、当初より安倍マリオの映画祭程度にしか取っていないのかもしれぬ。確かに諸外国の映画祭に比べればレベルは数段落ちる。もっとも当初より私のように見ている人たちにとっては今更敢えて言うべきことでもない。

 最近、やたらと「レジェンド」などという言葉を耳にするが、やっていることは本末転倒。

                                  2016 10/26


659.「ピコ太郎」の登場の仕方


 「ピコ太郎」の登場の仕方、実にいい。「これでいいのだ」と生きていたら赤塚不二夫も喜びそうである。今後このような形で自己表現の道を進む者も多くなることであろう。そういう意味でも画期的なことである。怪しげな芸能事務所とテレビ局のしがらみの中からはもう斬新なもの、面白いものは出てこない。

 さりげなく出てくる「ペン」と「リンゴ」の取り合わせ、ここでもうすでに「お座敷芸」の域は超えているのである。欧米の子供たちが「I have a pen」、「I have an apple」と繰り返しながら喜んでいる姿がなぜか印象的であった。もちろん、大人のイマジネーションも刺激する。これは単に言葉が短く単純だからわかりやすいというレベルの話ではない。

                               2016 10/23

追記: 本人自身も、たまたまその時持っていたのがペンとリンゴであったというようなことを言っているらしいが、そういうことはよくあることでもある。しかし、その「偶然性」にだけ焦点を合わせてこの「ピコ太郎」現象を「解説」するとやはり死角が出てくる。それは「コロンブスの卵」にもなりかねない。また、世の中にはリンゴが落ちるのを見て、何も感じない者と感じるがそれ程ではない者と、そこに「真理」さえ見い出す者とがいるだけのことである。それはそれまでの生き方の経過そのものが影響してくることは言うまでもないこと。ペンとリンゴに気づき一つのものに「仕立て上げる」作業そのものは万人にはなかなかできることではないのである。閃きの質にもよるが、閃きから具体化までの速度は連鎖反応に似て速い。だから、一瞬の内にできあがってしまうのである。

 しかし、現在どれだけの者がペンを片手にリンゴを持っているなどという時間を過ごしているのか。企業のブラック化は歯止めもかからず、思考、判断停止状態で認知症か夢遊病者のごとくアイフォン片手に動き回らざるを得ないサラリーマン諸氏にはそれは夢のまた夢でもあろう。勢い、日々俗悪番組の垂れ流しに終始することになり、そのまま洗脳状態になる。

 


658.見渡せば「御用」と「キッチュ」ばかりなり


 「御用学者」、この言葉も一頃よく遣われた言葉であるが、昨今では「御用メディア」、「御用タレント」、「御用評論家」、どこまでが「御用」でないのか区別する方も大変である。「御用」とは、要するに立ち位置も、軸足もスタンスも多くの人々の側にはいない者のことである。従って、必ず無理なこじつけ、すり替え箇所がある。今後ますます「御用提灯」も変幻自在となっていくことであろう。「心理学」、「メディア論」、「国際政治学」等々を駆使して、現状認識を変質させ、「キッチュ」に慣らしていくのである。「キッチュ」は本物を知っていないと面白味も、味も素っ気もないのであるが、「キッチュ」しか知らなけば悲惨である。しかし、現状は「キッチュ」の「キッチュ」といってもいいような状態である。「キッチュ」に慣らされてしまうとどこに行ってもそこから抜け出すことが難しくなってくる。それは、がん細胞と同様、細胞レベルの問題にも似て困難なのである。

 要するに、「要」隠しの「キッチュ」天国、「御用」天下では面白くないのである。ただ騒々しいだけの話である。「騒音」出して、さほど文句も言われず金儲けできるのは、得体の知れぬ街宣車の類とバラエティー化したマスメディア位であろう。

                                                                                                        2016 10/20


657.一億総活躍とは一億総強制労働のこと


 最近の電通の女子新入社員の自殺を見ていても、総活躍どころか総強制労働といったところである。こんなことをやっているから「まともな人間」が育たないのである。それは遅かれ早かれ必ず燃えつきるか、自ずと「精神的奇形」を作り出す。その世界でたとえ生き延びたにしても人間失格、あるいは人間破綻と同格の者にならざるを得なくなるのである。そのような状況の中でも生き延びた者を「勝ち組」などと言うのは醜悪以外の何ものでもない。「勝ち組」などとは言ってもその内情とは恐ろしく虚ろなものであることが多い。それは自らを殺し、あるいは他者によって殺された領域が多過ぎるからである。企業がエコノミックアニマルと称された時期の旧態依然とした社訓を金科玉条のごとく実践しているのならエコノミックアニマルはさらにエコノミックインセクトにならざるを得まい。この時点ではもはや喜怒哀楽すら希薄となり、「人間」としての様々な可能性は断たれたことになる。万が一「明日」があったとしても本当には感じ取れまい。消耗するだけの者にろくな仕事はできないのはどの領域でも同様である。

 一億総活躍とは一億総強制労働のことなのである。鉄格子もなくドアの開閉も自由であるが自分で自由に使える時間はほとんどなく、四六時中監視され、思考停止状態で働かされるのを一億総活躍と言っているのである。「彼ら」はすべての者を管理下に置いた有刺鉄線のない強制収容所を作ろうとしているのである。それすら感じ取れないなら感性そのものが腐っているか、すでにエコノミックインセクトそのものになっているのである。エコノミックインセクトとは「人間」としては敗者であり、ホモサピエンスの劣化、後退である。

追記:後日、電通の現役社員の言うことには呆れ返るばかりであった。飼いならされるとはこういうことをいうのである。しかし、こんな社員が「作り出すもの」、「出来」などは自ずと知れるというものである。残業、待遇については「他はもっとすごいのでは」の勇ましい「ご意見」にはもはや打つ手なし。ご勝手に、死ぬまでやってなさいと言うしかない。

 ただし、敢えて言うまでもなく、死ぬほど働くことが「生きがい」という人たち、働いていないと間が持たないという人たち、また、働いていた方が身のためという人たちもいることであろう。「小人閑居して不善を為す」ということもある。働くこと自体についてとやかく言うつもりはない。消耗しかもたらさぬ働き方を問題にしているのである。

                            2016 10/19

追記:2016年12月 電通は日本ブラック企業大賞を受賞した。人間を放棄するか死に急ぐ者のみ入社が可能ということである。運よく退職するまで持っても後遺症が残るのは当然で、それも自業自得。元電通とあったら要注意。ただし、5年未満であれば再生の道もあろうかと思われる。


656.「日本よ、そして東京よ!」?¿¡


 「日本よ、そして東京よ」、ただ醜悪なだけの男が、棺桶に両足を突っ込んでまで何を寝言を言っているのかというところである。そんな男の与太話を「このような時」に載せるとはさぞかし深い縁があったのであろうと思わせる産経新聞である。徹頭徹尾、自分のことにしか頭にない男がこの期に及んで己に酔ってまだ言うことなどあるのか。見苦しく、みっともないということに尽きる。早く消えた方が身のためであろうがそうも行くまい。汚泥を身の隅々に浴びて三途の川を渡るがよい。三途の川も放射能汚染されていることであろうが気にすることはないはず。

 因果応報の一言で言い尽くせる。

                             2016 10/18


655.ノーベル賞を期待する作家とは


 ノーベル賞を期待されている作家、それも「文豪」と称される名も知らぬ作家たちがいて、今回のボブ・デュランの受賞に異議を唱えているそうだが、それ自体でお里が知れるというもので、作家の質もわかる。自分がどれだけのものであると思っているのか知れぬが、世界には異議を唱えるべきものは他にいくらでもあるだろうと思われる。ノーベル賞にこだわる姿勢そのものが「未だし」である。「自分たちが馬鹿にされたようだ。」と言っている者もいるそうだが、その通りであろう、あなたたちは馬鹿にされているのである。そもそもノーベル賞がどれだけのものであると思っているのか。以前、日本では大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しているが、彼に多大な影響を与えたサルトルはノーベル文学賞を辞退している。

 今、世界は自己完結にしか興味のない諸人が集いて四の五の言っている場合ではなかろうと思われる。時として、その鈍感でナルシスチックな「欲望」に容赦なくメスを入れたくもなるが、所詮は「金」や「賞」などで「成仏する」者たちと世界の情勢とは乖離するだけなのである。私は決して文化的営為を否定しているわけではない、むしろ逆である。文化的営為は一見「無駄である」ように見えることが多いが、実は様々なところで「根幹部分」となるべきものを形成し、視点、視野に多くの展開可能なことを提供し続けるものである。要するに、簡単に「燃えつきる」こともなくなるということである。現実社会では無駄であるようようなことを必死になってやってきた、いわゆる「遊びの時間」を持ち得た者と、小器用に現実的なテクニックばかりを身に付けた者とはやはり時間経過とともにその「搭載エンジン」の差を見せつけられることになるのである。目先の需要に気を取られて「専門バカ」ばかりを量産していては実質的に全体として衰微の道を辿るのは必至である。それは民度の高低差としても表れる。

 それにしても、時を経るごとに何もかもがますます「せこく」なっているというのは実情であろう。

                                2016 10/14

 


654.追及されると外遊させて


 責任追及されて、危なくなると外遊させてほとぼりが冷めるまで待つ。いつものパターンである。何をやっているのか内実は不明のまま「やっている振り」、「アリバイ作り」だけは巧みな何でもありの目くらまし「集団」であるから昨今では「ああ、また例の手か」ということで、さほど驚くこともない。しかし、至る所に「目くらまし」を仕掛けているので油断をするとすぐに足を取られることにもなる。そんな「目くらまし」に引っかかって何人かが転倒する程度であれば何とか防げるが、集団で転倒されると有無を言わさず巻き込まれてしまうから覚悟も必要になってくる。

 しかし、これほど派手で空疎なパフォーマンスをご丁寧に逐一映像として伝えているのがテレビであるが、そこまでやるかという恭順ぶりについ「いくらもらっているの?」と聞きたくもなる。

 見過ぎ世過ぎは草の種、それでも拘泥するのはやはり金か名誉か、それ以外にはあるまい。金に振り回され、他人の目に振り回された人生。そこには、結局のところ何もない。そういうことがほんとうに認知可能になるのは臨終間際というのも何とも筆舌に尽くしがたいものがある。後は野となれ山となれ、「欲望」に突き動かされている者たちには恥も外聞もない、矢継ぎ早に歯の浮くような美辞麗句も命懸けで出て来る。欲望が命懸けであるように見せるのである。さしたる根拠も見当たらない内容でも大義名分化し、「悲願」などと言ってみてもそれもまた「欲望」であることに変わりはない。従って、当人はこの「悲願」そのものによって自滅することもあり得るということになる。「悲願」に正当な根拠が見出し得なくなればなおさらである。

                                2016 10/10


653.舞台監督と演出家の違いも分からずに


 某週刊誌の中に「舞台監督 蜷川幸雄」というのがあったので思わず失笑。いつから蜷川は舞台監督になったのか、さすがの蜷川自身も草葉の陰で苦笑いをしていることであろうと思われた。これは単に小さな誤りということではなく、ある意味で大方のマスメディア、週刊誌などというものの内容の取り上げ方、持って行き方に必ずといっていいほどある「浅薄さ」を象徴していることでもある。要するに、実はよくその実態を「知らない」、肝心なところがボケているのである。下手な鉄砲も数打てば当たるで、とにかく耳目を引き付けて売れる「言葉」を見つけてそれに対象を合わせるというのがマスメディア一般とも言えなくもないが、それも昨今では自主規制しているからさらに目も当てられない。舞台監督と演出家の区別もできない者が、舞台についてあるいは「演出」についていっぱしの口をきくのであるから失笑を買うのも当然であろう。それと同様のことが様々な分野で行われている。半可通ほど物言いはもっともらしく、口幅ったいことを平然と言うというのはどのジャンルでも共通である。ただ、黙って聞き流していられるのも限度というものがあるということである。

 

 

                                2016 10/5

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