「ある日、その時」(55)2016年8月21日ー

<掲載内容>

645.夏、かく去りぬ  646.耐乏生活は美談にはなり得ぬ 647.「人生は 一回こっきり」(某CMコピーより)648.「今はまだ人生じゃない」(某お笑いタレント)?649.「義」のない男の哀れな末路 650.豊洲のイメージは致命的 651.「本音」という装い 652.オリンポスの腐った果実

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652.オリンポスの腐った果実


 スポーツの「良き」面とは別に、「オリンピック」と銘打って繰り返される度にオリンポスからは諸神が消え去り、いつの間にかヘルメスだけとなり、「商売」、「盗み」ばかりが際立つヘルメスが跋扈する祭典となっている。それは、現実的な「人間」の相などと言って収まりきれるものではない。一見ピュアに見えるアマチュアの領域を利用した「プロ」の三百代言、政治屋、その関係筋の類だけがその「果実」を貪り食い、オリンポスにはもはや腐臭を放ち始めた果実しか残っていない。腐った果実ばかりが残る土地に残されるのはパンと見世物を「要求した」その土地の貧しき者たちである。

  血税を湯水のごとく使い、使い道を問われれば「決めた人」は現れず、「決まったこと」などという説明で済まそうとする。国民に「赤字、赤字」と言いながら「経済大国としての見栄がある」などとは論外。大赤字でありながら、山積する国内問題はそっちのけで、単なる「見世物」のために経費だけは数倍に膨れ上がるのを「仕方ないこと」として放置することなどできないというのが「普通の感覚」であろう。そのつけはすべて都民、国民にくるのであるからなおさらである。「がんばろう!」はいいが、どのような方向でがんばるかが問題なのである。「満州事変の頃は日本も元気だった」では困るのである。もはやその方向では例外なくすべての者にとって「戻れるところ」はなくなる。

 国内事情も無視したオリンピックなどは必要ない。何のためのオリンピックなのか。オリンピックそのものを捉え直す時期にきている。オリンピックがなくなったからといってスポーツがなくなるわけでもない。それに代わる新たなものを作ればよいだけのはなしなのである。

 弱者を切り捨ててまで成り立たせようとする見世物としてのスポーツの祭典が一体どれほどのものなのか。一時を忘れるドラッグのような「夢」、「希望」、「元気」にどれほどの価値があるのか。それは単なる幻想であろう。現を忘れ「ドラッグ」に酔いしれる、だから為政者にとっても利用価値があり、都合がよいのである。

 今様ヘルメスは、マイアもゼウスさえも殺したのではないかと思われる勢いである。ヘルメスだけとなったオリンポスも終焉の時が来たのかもしれぬ。

                                                           2016 10/2


651.「本音」という装い


一頃「ぶっちゃけた話」というのが何かというと枕詞のように使われたことがあったが、その割にどうということもない話の内容であったような覚えがある。「本音」などと言う時点でその内容自体はすでに都合のいいように脚色されているものである。それは「本能」という言葉の遣い方とも近似する。「ほんとうは何を感じていたか」などということは、敢えて「本音」などと言わなくともその人間の言動の其処彼処に現れているものである。すでに見透かされているのに本人だけが隠し通せていると思い込んでいるケースは実に多い。そのような者に限って「本音」などという言葉を多用するからおかしなものである。それで本人は何か言った気になる。大層なことを言ったつもりになっているから「小人」と言われる域を出ることもないのであろう。小人閑居して不善をなすというのがインターネットの世界にも露骨に現れているようだ。「本音」が「ほんとうに感じていること」であるとして、それをただぶつけ合うだけのことなら「人間」としての発展はまず望めない。場合によっては至る所で刃傷沙汰ということにもなりかねないのが愚かな人間の実情でもある。もし本然的に在り得るとしても、「本音」、「本能」などはいかに自在にコントロールできるかが人間としての肝心要の事柄である。「本能」自体が「定型」としてあり得ない「人間」にとって「本音」などというのも実は「作為的」に作り出されたものでしかないのである。要するに、「ぶっちゃけた」という作為の中での作り出された感情の収斂に過ぎない。そして、その感情の収斂をその時点で選び取った自己の在り様が問題なのである。「本音」ということを装う者の「言動」は総じて皮相浅薄。真実などとは無縁のせいぜい神経症的反応の検証材料の域を出ない。己を甘やかし放題甘やかした結果で、何が起きても不思議ではないというだけの話である。

 しかし、昨今の弱者に矛先を向けたヒステリックな攻撃、堕ちるところまで堕ちる人間と社会の脆弱さを見せつけられるだけである。社会の歪みは真っ先に弱いところに集約される。弱者に矛先を向けるということは、例外なく巨悪に立ち向かえぬ怯懦(きょうだ)であることの自己証明に過ぎないのであるが、実質的には常に弱者同士の争いとなり元凶はぬくぬくとしているのが実情である。私は臆病者にもなりたくないので、「仕組まれた」弱者同士の争いには一切関与しない。問題の「核」を見い出し得ない、あるいは外した「争点」はただ無益なだけである。

                                          2016 9/26

追記:後日、「本音論」などと称するブログの御仁が「本当は弱者のふりをした卑怯者は交じっていないのか?と訴えたかった云々」と釈明していた。これぞまさしく頭に「御用」がつく「正義感」、すなわち結果的に「走狗」の立ち位置に軸足がきてしまっているのである。と同時に捉え方も浅薄である。確かに唾棄すべき人間性を培ってしまった「庶民レベル」、「貧困レベル」の者たちもいる。しかし、そのような者たちに向かって「特捜」「地検」気取りでメスを入れてもそれは単なる自己満足の域を出ないのである。なぜ、肝心の巨悪に立ち向かえぬのか、無難な小悪をさも根源の悪のごとく扱い自らを本音を言う正義漢として形創ろうとしたのであろうが、ピントがずれればこの通りである。実は、これが「本音」ではあるまい。


650.豊洲のイメージは致命的


 生鮮食品の扱う豊洲のイメージはすでに地に落ちている。もはやこんなところで何をやってもすべてはイメージダウンにつながるだろう。それも生鮮食料品などとは論外である。豊洲しかり、原発しかり、無思慮の極みである。「欲望」で日本の国土を限りなく「汚し」、日本人を消滅させるつもりなのかと言いたくもなる。

 豊洲は、移転しても負の遺産とイメージで食い尽くされる。原発同様、いずれは廃墟であろう。愚かしい浪費であったとしか言いようがない。亡者に突き動かされ、踊らされた結果である。

                               2016 9/18

※「基準値」とは何か、「基準値以下」と安全と同義ではない。巷ではハエ一匹で惣菜屋はつぶれるのである。たとえ「基準値以下」だろうが「毒物」が出た以上そこで終わりで、いくら「風評被害」などと言い繕ってみても始まらないのである。

 因みに、「豊洲」とは美称であるが、荒川のヘドロで埋め立てられた所である。「夢の島」しかり、美辞麗句の本質を具体的に物語っている。それは、何かというと「未来」や「希望」という言葉を遣う者の本質的な領域と重なる。


649.「義」のない男の哀れな末路


「豊洲問題」でまたぞろ出てきた元知事の醜悪な姿。こういう人間に騙され続けてきた者たちも哀れである。私はこの人間については当初より何一つ認めていない。何一つ認められないというのは私にとっても珍しい例である。どんな人間でも一つや二ついいところがあるものであるがそれが見当たらないのである。その昔、「文才はともかく、何かしでかす男であろう」と見抜いていた作家たちもいたが、今はもういない。この男、やはり最期の最期まで醜悪であった。これも自業自得で、これこそ「天罰」であろう。「伏魔殿」にいてやりたい放題していたのはこの男自身ではないのか、都合の悪いことはすべて他に転嫁する。それがこの男の本領なのである。「君には義がない」と言った作家はやはり慧眼であった。最近の老醜をさらしたこの男の映像を見ているとつくづく「人間」はここまで堕ちて行くものかという想いに駆られもするが、もともと美意識などとは程遠い単なる俗物だったということで簡単にけりはつくのである。

                               2016 9/17

※任期13年、豪華外遊34回総額5億455万円。身内を優遇したTWSに7億2200万円。強引に設立した新銀行東京で1000億円を失い、追加分を500億円の税金で穴埋め。そして、豊洲移転、盛り土問題・・・等々。原発推進派であるこの男が東電との関わりの中で何をなしたか、暗躍したかは推してしるべし。さらに、改憲論者が異口同音に言う「押しつけ憲法論」はすでに「マッカーサー書簡」の発見でその論拠を失っているのである。この男のいう改憲論も然り。この男の言動が「作家である」ということによって免罪される余地はまったくない。


648.「今はまだ人生じゃない」(某お笑いタレント)?


 結論から言えば、実際そんな人生は一瞬たりともない。虚像に生きようが、会社の一部と化し身を粉にして働く会社員であろうが同様で、それ以外に別の人生はない。どのような「道」を選んだかが問題となったり、興味の対象になるに過ぎない。それ以外に語り得る人生などはない。「夢が破れてからが人生」、退職してからが人生、そのような「区分け」ができるほど人生は甘くない。やったことがすべてで、「今はまだ本当の人生じゃない」などという発想は目的のためには手段を選ばぬあらゆる「道」にも通じる。「夢に捧げた命」あるいは組織に捧げた命などというものですべてを正当化し、本当の自分の人生は「それ以後」、「それ以外」にあるなどというのは御託、詭弁の類である。実際に、そうはいかないのである。それを思い知るだけのことである。そして、後戻りできないということについては劇的であるか平凡であるかに関わらず同様なのである。

 このお笑いタレントにとって、すべては手段であったのであろう。

                               2016 9/11

 


647.「人生は 一回こっきり」(某CMコピーより)


 一期一会などと言うよりわかりやすく、身近に感じさせるものがある。さらに「わかり切った」ことを言えば、人生は、再現もやり直しも元に戻すことなども絶対にできないということである。中には「やり直す」ことが、あるいは「元のようにする」ことがいつでも可能であるかのように思っている御仁もいるようだが、それはとてつもない「思い込み」で、悲惨な事態を引き込む要因を作り出すだけである。

 過ぎ去ったものは、決して取り返せない

 起こってしまったことは 元に戻すことはできない

 「人生は一回こっきり」、何もかも続いているようだが

 実のところ、そのすべてが「一回こっきり」

 そして、それがすべてで、それ以外には在り様がない

 

 「あの世」を想定しようが、成仏するより成仏しようがなくても、

 良くも悪くも取り返せない「一回こっきり」というのが実情である。

 

 

                               2016 9/7


646.耐乏生活は美談にはなり得ぬ


 「成功者」の恵まれぬ時期の耐乏生活を面白がって取り上げているものがあるが、そんな時期も当然あったのであろうとは思われるが、特に気になるのがその食についてである。最低価格の「カップ麺」の類を毎日食べていたなどという緩慢なる自殺行為を自慢げに話しているのを聞くと、何ともやるせない気持ちにさせられる。やがて死なないまでも必ず何らかの厄介な病を抱え込むことになる。実際、漫画家志望の若者がそのような困窮生活を続けトイレで死んでいたという実例もある。そんな生活をしてまで手に入れるものなどは人生にはほとんどない。たとえあったにしても愚かしさの方が先行するだけである。「成功者」のかつての耐乏生活の美談化、奨励ともとれる話には違和感以上のものを感じる。そんなことをしていたら体は確実に壊れる。安物には食べられるものはほとんどないのが実情で、言ってみれば、毒を食らっているようなものなのである。食を切り詰めなければ生活できないのであれば生活できないことをしいられているのである。それでも食うや食わずでいつの間にか富裕層の美辞麗句、お為ごかしに乗せられているのでは愚の骨頂、お笑い草である。それでは心底奴隷根性しか持ち合わせていないことを証明しているようなものであろう。

                                  2016 8/26


 645.夏、かく去りぬ


 巷の喧騒の中、時折風で流されてくるスピカー音のようにオリンピック報道の声が聞こえて来る。今年の夏の様相は大方の思惑、希望的観測とは違って、私には、遠雷に カラスばかりの 終戦日といった感じであった。昨今の不安定な気象のせいか虫さえもその鳴き声を控えている。もう秋なのである。金銀銅とかまびすかった日々も終わり、やがて長い夜のとばりに包まれてくる。陽はまた昇れども、「もの見える」夜明けが訪れることは決してあるまいと思われる。自らの境涯も知らで、かく望んでいるからである。

                               2016  8/21

 


 

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