「ある日、その時」(51)2016年3月24日ー

<掲載内容>

614.派手な「経歴」のちんけな人々 615.テレビ、限りなく薄く歪んで溶けていくもの <番外日誌20160328>如何様師ゴルフプレイも振りばかり、飛ばされた球も有るや無しやと思われる 616.「便所の落書き」などと言う者たち 617.「エリート」とは程よいパーツ 618.すべては選挙後に 619.ホイットニー・ヒューストン 620. 緩慢なる他殺 621.「No think so happy」とは?

 

                                 <転載・複製厳禁>



621.「No think so happy」とは?


 これは何の商品だか忘れたが、そのコピーである。敢えて「No think」などと言わなくとも凡夫は放っておけばすぐに「No think」の状態、すなわちfoolになるのである。このわかったようなわからないような軽さが危うい。現状の問題の多くは無思慮が起因しているのである。このコピーをたとえ軽い一服のひと時という意味合いで使ったにしても、「No think」は重く、ズレを生じる。むしろ、これ以上の「No think」はmortal(致命的)であると思った方が「so happy」が実はどういうことなのかよりよく「わかる」近道であろう。

 当然のことながら、この文脈から「No think」を「Non thinking」、「selfless」なども含めたコンセプトとしては捉えられない。

 さらに付け加えればこの手の「No think」は、実質的な「文盲化」で、当の本人以上に「由らしむべし、知らしむべからず」の「お上」にとっては都合がよいということである。「ブーブー」言わずに、「No think」でいれば「so happy」になれるのか?そこにあるのは手なずけられ、飼いならされた蒙昧さだけであろう。知らなかったでは済まされぬことも含めて無知蒙昧とは「人間」としては罪にならざるを得ない。「No think」は詰まる所「人間」の放棄、拒否ともなる。罪を背負うだけの果敢さもなく、現実直視もできず「No think」では半歩も前へは進めまい。残滓をかき集めて辛うじて「so happy」を装ってもやがて瓦解することは目に見えている。

                                             2016 4/22・23


620.緩慢なる他殺


 「緩慢なる自殺」というのはよく聞かれる表現ではあるが、緩慢なる他殺というのはあまり聴き慣れない言い回しであろう。何か巧妙な保険金殺人の類かとも思わせれるが、あにはからんや、そのような局部的な出来事ではなく、かなり広範囲にわたり日常的に身の回りで起こっていることでもある。例えば、食品の原材料、添加物など、中には「緩慢なる自殺に等しい」などと言われる「有毒物質」を含む食品が平然と出回っているが、それは不特定多数を対象とした緩慢なる他殺といえなくもない。よく調べれば巷には健康を害する食品は至る所にあふれているのである。それを敢えて選んでいるのであれば緩慢なる自殺ともいえるが、様々な事情で選択の余地がないのであれば緩慢なる他殺というしかあるまい。現状は「有毒物質」を含まないものを探すのに苦労するといった状態である。さらには基準値さえ都合によって変更させる放射能汚染物質のずさんな管理である。能天気に生きていればたやすく緩慢なる他殺を寿命として迎え入れることになる。「問題ない、大丈夫」という方々には「証明して見せてください」と言えばいいだけのこと。ストロンチウム90を飲んでも大丈夫と言った者にはその場で飲んでもらうことである。自分は決して口にしないものを他人には勧める。もはや残滓形骸だけとなった「人間」に何を言っても無駄であろう。できることはそのような者をその「位置」から引きずり下ろすことだけである。「証明されたこと」以外のいかなる言説も信用には値しない。因みに、単なるパフォーマンス的なものは証明行為にはならない。今、「省」、「庁」の発表、見解など根も葉もない単なる「大本営発表」と同様である。「認可」なども「推定有罪」、あるいは信を置くには不充分過ぎるといったところである。現に、今回の熊本地震に関しても、気象庁は多くの地震学者が断定を避ける中「阿蘇山噴火と地震とは関連ない」と言っているのである。天気さえ当てにならない気象庁が「地の神」と話がついているような物言いである。

                                2016  4/18


619.ホイットニー・ヒューストン


 今更改めて言う程のことでもないが、八重桜の下で一服しているとホイットニー・ヒューストンの歌声が流れてきた。やはり、歌声だけで人を魅了する本物の歌手である。これだけの歌手はこのジャンルでは日本にはいない。彼女のような歌声をごく普通に日常的に聴いている国へ「プロ」の歌手として歌いに行く日本人がいるが、やはり、ものを知らない怖さであろう。未だに肥大化したキッチュで「プロ」として成り立つのは日本だけなのである。

 見事な八重桜と歌声、何気ない偶然の一瞬に感謝 至福の一服。

                                2016 4/17


618.すべては選挙後に


 すべては選挙後になし崩し的に、あるいは一挙に決めてしまおうという腹積もりである。これで騙される選挙民とは? 金と「恫喝」でメディアを手中に収め、ホットなイメージ作りに懸命な者たち、ポスターで宣言することはその時々の都合のいいことだけ。問いただせば、「そんなことは言ったこともない」と居直る始末。騙して丸め込むためにはあらゆる手段を使う。政治と詐欺行為がこれほど区別がつかなくなったのも珍事中夭。騙そうとする者の手練手管のあらゆる様相が凝縮されて現れている。テレビなど観ているより現実の方がバカバカしく面白いのである。ただし、現実を直視できればの話である。この際、あらゆる「思い込み」は捨て去らなくてはならない。

                                  2016 4/14


617.「エリート」とは程よいパーツ


 「エリート」というとさぞかし頭脳明晰でオールマイティーのように思えるが、実は「専門バカ」といわれるような、視野狭窄的で、思慮の足りない者のことでもある。最近では、その具体例に事欠くまい。総じて、「エリート」は「ものを考える」ことはない。これは逆説的な表現でもなく、言葉通りの意味である。彼らは常に「既成体」の「精巧な」パーツ以上のものにはなり得ないのである。思慮深さはむしろ邪魔になるというより彼らの中で実質的に存在し得ないと言ってもよい。それがそのまま彼らの限界性である。わかりやすい科学の分野でいえば、ニュートンもアインシュタインも「エリート」ではない。根本的に「ものを考える」人間は「精巧なパーツ」にはなり得ないからである。さらに言えば、「エリート」とは、現実的な実利だけを求めた頭の「回転」だけは速い「パーツ」ということにもなる。産学共同路線のパーツとなることもその一例である。この回転数だけとなった頭が「罪」を限りなく創出しているのであるが、そのことを彼らが意識することは決してない。なぜなら、その時点で彼らは根底から崩壊するからである。「エリート」と「思考」(思慮分別)は乖離概念でしかなく、創造的に「ものを考える」などという行為は望むべくもないのである。もし、そうではない「エリート」がいたとするなら、それは「エリート」というコンセプトを超えているか、もともと「エリート」という範疇にはいなかった者である。

                                2016 4/6


616.「便所の落書き」などと言う者たち


 「保育園落ちた云々」などを「便所の落書き」などと言う者は政治などやる資格はまったくない。「日本死ね」に過剰反応しているのであろうが、それで冷静な判断を欠くようでは普段の姿勢もうかがわれる。それとは逆のことをさんざんしておいて一瞬痛いところを端的に突かれたというところであろう。この「落書き」の発信者はやろうと思えばこの種の川柳の一つもひねり出して現状を表現し得る素養はあると思えるが敢えてこのようなストレートなパンチの効いた表現を選んだのであろう。もし川柳的表現をしていたら、それが巧みであればある程今度は切迫さに欠けるものとなって小さく収まってしまうことになる。このエネルギーのある「落書き」的表現が現状の問題を的確に浮き彫りにしている。「名句」である。このような「庶民」の声を聞き分ける配慮もなく、見抜けない者が一体何をしようというのか。何をたくらんでいるのかと言いたくなるが、もはやそのような者たちの底は疾うに割れていて毒気さえ放っている。たとえば、元杉並区長・山田宏、区民もよくこのような人物をいつまでも区長にしておいたと思われる。つい「選んだのは誰?」とも言いたくなるが、すでに私は100年以上も続いた杉並の家を捨てて、今では杉並区民でもない。しかし、どこにいても「区」長、知事、首相の「三重苦」からは逃れられない。「区」民税、「都」民税、国税どれも納得できるものなら喜んで払うが、納得できるものは探すのに苦労するくらいである。すなわち悪政なのである。成金趣味のお上りさんまがいの海外渡航、何か勘違いしているとしか思えない行状、それも他人の金で、実のところ諸外国から見れば阿保の鴨葱といったところであろう。御里が知れる公人ばかりでは旗を振る気にもならないのは大方の人々の素直な心情である。臭いものには蓋ばかりで、足の踏み場もないほどの蓋にブルーシートをかけて「祭」りに備える。やることなすことこんな調子では、さぞかし臭い「祭り」になることであろう。これでは、ガス中毒、ガス爆発も起こりかねない。

                                                                                                                                   2016 4/2


 <番外日誌20160328>

如何様師ゴルフプレイも振りばかり、飛ばされた球も有るや無しやと思われる。


 何をやっても吐く息までも嘘に見えるから不思議なものである。これもすべて自業自得であろう。この人間の真実とは肉体に宿る病巣くらいであろうか。

  これは大陸より追われし家系の怨念がなせる業で、あまりにも非合理てきであるが故にそうとしか言えないのであるが、それがすべてにおいて冷徹さを欠くこととなり結果的に「和国」を滅びへと導いているのではないかとさえ思える。


615.テレビ、限りなく薄く、歪んで溶けていくもの


 一時期辛うじてあったテレビの効用もすでに失われ、もはや見る影もない。ただみすぼらしいだけである。あったことをほとんど伝えぬニュース、大衆に媚びるだけのドラマ、世間では通用しない有象無象の内輪の互助会的空騒でしかないバラエティー番組、平和ボケしたような者が喜ぶ戦闘シーンのオンパレード映画、外国映画をすべてアニメ化してしまう罪づくりな声優たち。見るべきものは皆無に近い。さらに存在の有無さえ定かでないNHKの支払い要求である.。世界の笑いものにもなる政権の「電波停止」という「恐喝」まがいの行為でビクついているテレビ関係者。テレビなどなくても生活にまったく影響はない。むしろない方がすっきりすると思っている。

 後は、スマホで目をやられ、頭もやられ、下り坂で転げ落ちないように注意が必要。盲点は月も、星空も、足元も見えていないことであろう。転ばぬ先の杖を用意して現前の石につまづくことである。

  今,ベルギーのテロを間一髪で逃れた人のお土産のチョコレートを食べながらアールグレイの紅茶を飲んでいる。

                                2016  3/27


614.派手な「経歴」のちんけな人々


 派手な「経歴」の真偽などはその人間の言動を見れば一目瞭然であろうと思われるが、そうでもなさそうなのがメディアの作る世の中の流れのようである。耳目を集めるためにだけ勝手に作り上げておいて、雲行きが怪しくなると糾弾側に回る。典型的な「マッチポンプ」であるがそれがあまりにも常套化しているので、「ああ、またか」という言葉さえ出てこない。

 派手な「経歴」のちんけな者というのは、その言動がすべてを語っているのであるが、見抜けないのはその肩書、著名度などで肝心なものを見落としているのであろう。それは逆に受け手の自恃の念の希薄なブランド志向の盲点を突いているとも言える。発信対象、すなわち受け手を低レベルに設定しているだけなのか、実際に思考停止状態で葦の髄から天井をのぞくことしかできないのか、これは前者か後者かということではなく、発信内容を見ればどのように取り繕っても自ずとその人間の全体像は見えてくる。

 案の定、すべての結果、その終焉は意外に早くきた。どのように権威付けられていても、内容に虚偽、合理性を欠いたところがあれば己が原因でつぶれていく。

 余りにも不届き千万な世の流れに対して「復讐するは我にあり」という思いにかられる時もあろうが、それはあなた自身が手を下すことではないというバイブルの教えでもある。しかし、それは単なる「神頼み」というようなことではなく、ある意味では「因果律」、因果応報であると思っている。だから、現在の自らの言動を正さなければならないのである。

                                   2016 3/24


 

アーカイブ
TOP