「ある日、その時」(48)12月27日ー

<掲載内容>

589.報道は阿呆道か 590.今更「いつか来た道」、「きな臭い」とは・・・591.「走狗」のシンタックス 592.「早く一人になりたい!」ー街角でー 593.「短期的なものに答えても意味がない」?594.「やっている振り」がすべてにわたり 595.「好き嫌い」の陥穽(かんせい)596.ゴッホからラッセンへ?

 

 

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596.ゴッホからラッセンへ?


 「ゴッホより普通にラッセンが好き」というフレーズが目についた。これを大方の者がどのように取っているかはすぐに察しがついたが、これで分かってしまう感覚が逆に怖くもなった。ラッセンの絵とは夢幻郷を描いているようでいて「臨死体験者」の画像に近似しているからである。すなわち死者になりかかった者たちが思い描く、ある意味では冷え冷えとした身体的接点のない平面的な世界でもある。実際この絵に「体温」、「喜怒哀楽」を感じる者はまずいないだろう。日本ではラッセンが「好き」という者は多いようだが、それは「生」のエネルギーが枯渇しているという一つの指標にもなる。一方のゴッホの絵といえば、「生」のエネルギーという点からもその対極にある。彼もまた終生人生と葛藤しざるを得なかった一人で、その経緯がそのまま伝わってくる絵でもある。徹底して「生」が全面に出ている絵を真っ向から受け止めることと「死」の訪れを隅々にまで感じさせる「絵」に辛うじて「癒し」を感じるのでは自ずと今後の「在り様」は違ってくる。「ラッセンが好き」という「感覚」が趨勢なら精神自体が衰微しているということは否めないが、それと同時にその「反動」もそれこそ「反知性」的に所かまわず現れるのではないかと思われる。

 「ムダなプライドやこだわり捨てた」結果が「ラッセンが好き」という流れは何ともお粗末である。「普通」幻想もまた気になるところであるが、要するに、「普通」にはゴッホが好きになれなかったことを自己暴露しているのである。何もゴッホに限定することでもなかろうと思うが、ラッセンと言ったほうが「売れる」というだけの話なのであろう。しかし、「普通」にラッセンというのが何とも危うく、不気味なのである。                                   

                                 2016 1/17


595.「好き嫌い」の陥穽(かんせい)


 「好き嫌い」というと何か「本能的」などと同様に、原初的で「ピュアー」な響きを感じさせるが、そのようなものなど原初的に備わっているものでもない。小林秀雄などが「要するに好き嫌いでしょ」と言うとき、それは感性などが知性と独立してはあり得ないといっているのである。「要するに感じることだ」などと「感じること」がすべてであるがごとくにしたり顔で言う者がいるが、「感じる心」と知性とは不可分の関係にあり、その人間の「感じ方」は知性の浅薄,深浅とも大きく関わってくる。それでは反知性的な者が好き嫌いでものごとをとらえるとどういうことになるかということになるが、それは例外なく悲惨である。自分では自分の「感じる」ままになしているつもりになっているが、その「自分」が問題なのである。多くは「作られた」自分、決して自らが「作り上げた」自分ではないものをそのまま引き継いでいるだけの、言ってみれば「他者の血」で脳髄まで浸されていることに気が付かないだけの「自分」なのである。それで自分の好き嫌いに絶大な信を置いているから滑稽なのである。それは未来に抜ける唯一の開口部を自ら閉ざしていることにもなる。思いつくままその現実的様態を挙げれば、すぐに「他人に同意を求める」、「噂話が好き」、「すぐに集いたがる」、「せこい計算だけは早い」、「自分の独自な判断ができない」、「他人の否定的言動、オタメゴカシにすぐに揺れる」・・・etc。要するに、それらは頑迷ではない「個」の確立がなされていない証左でもある。そして、彼らの共通点は自分が見抜かれていることに気付かぬことである。よく「好きな〇〇」「嫌いな〇〇」などというアンケートがあるが、食べ物程度ならわからない訳でもないが、頑迷なだけの凡夫が好き嫌いで選ぶべきではない対象はいくらでもある。典型的なのが「政治家」の選択などがそうであるが、もう少し自分のかけている「眼鏡」の「くもり」を拭いてからものを見てはどうかと思わせる事象が多すぎる。その結果が現在であるということに過ぎないだけでそれ以上でもそれ以下でもない。

                                    2016 1/15


594.「やっている振り」がすべてにわたり


 税金使ってあっちこっち訪問して何をしているのかと思われる。アリバイ「工作」の類か、「やっている振り」としか思えない。迎える側もカモがネギを背負って鍋まで持ってきたくらいにしか思っていないのであろう。実際、「営業」成績も大して上がらず、そうかといってさしたる「外交効果」も見られない。むしろ「逆効果」ばかりが目に付く。本人だけが、例の質疑応答もろくにできない感情過多な調子で「会って」きた、「言って」きたと言うだけで相手国の反応実態はほとんど見えない。さらに国際情勢の変動が激しくなっていることを考え合わせれば、「確約」などはそれこそ「解釈」次第でいつ実質的に「無効」になるかわからない状態でもある。無意味な「海外旅行」をいつまでしているのかというところである。もし数年後に「効果」が現れるなどと考えているなら「オメデタイ」を通り越して単なる無能の人ということになる。大人ならもう少し「足元」を見なさいよ、と言いたくもなる。この手の「やっている振り」は回転しているだけで、八方塞がり。そして「振り」は飽くまで「虚」で「嘘」である。それは遅かれ早かれ「剥離」を余儀なくされる。

                                 2016 1/11


593.「短期的なものに答えても意味がない」?


 これは国会での「何で質問したことに答えられないのですか?」という質問に対するAbe君の答弁である。「短期的なものに答えても意味はない」のなら「長期的なもの」にどのように答えられるのか?「短期的なもの」に対する明確な分析、認識もない者が「長期的なもの」を見通せるはずもなく、何ものかに取りつかれたような予言者気取りでは「講釈」も「説明」も聞くだけ無駄ということになる。質問に対するきちんとした答弁ができないことをしているというだけのことである。今更「ああ言えば、こう言う」程度の者に何を期待するのか?まともな質疑応答など成り立つはずがないのはわかり切ったことであろう。このような者を追い詰めるにはどうすればよいか、一つの方法は簡単明瞭、各自がルビコン川を渡る覚悟をすることである。彼は辞めてもらうしかないのである。どちらに転んでも得るものより失うものの方が多過ぎる。「祭り上げられた」だけの男の結末はもう見えているのである。

                                   2016 1/10


592.「早く一人になりたい!」ー街角でー


「もう、早く一人になりたい、もうほんとに耐えられない・・・」中年の女性が親の介護疲れで身動きできないことを近所の年配者に懇願するように訴えている姿である。もうここまで来ているのである。路上で形振り構わず、早く死んでほしいと言っているのである。それが実情であろう。平穏そうな老夫婦もいつ老々介護、認々介護を強いられるかわからないのが現実である。老々介護も悲惨だが、認々介護はさらに悲惨である。認知症の者同士の介護、そんなことが成り立つのかと思われるが、現状ではそれが強いられているのである。老人の心中、老人宅からの出火は今後ますます多くなることは火を見るより明らかなのであるが、これらの諸問題についても無策に等しい。一事が万事の無能無策ぶりである。肝心なことが何もわかっていないのである。それでも「何とか持っている」(?)のは実地担当者が有能であるからということに過ぎないが、それももう時間の問題であろう。

                                                2015 1/7

※このサイトで以前書いたことを取り上げると、彼の場合は20年以上前のことであるが、父親の介護で給料の半分以上を取られ結婚など到底考えられないという。今、彼がどしているか知る由もないが、「殺意も珍しくない」(約7割が「親の存在」がストレスと感じているらしい)という現状で、「精神的にも、物理的にも距離を置くのが一番」という医療関係者のアドバイスなどもそれはそれなりの効果もあろうが、しかし、これは単にそうした「観念操作」だけで済む問題ではないのである。彼が私に言った「不謹慎ですが、早く死んでほしい」という気持ちは時間とともにより密度を増すばかりであったであろう。親にとっても子にとってもゆゆしき一大事である。それはもはや個的な問題として処理できることを通り越しているのである。社会問題である以上、為政者の責任も当然問われるが、そのような憂慮すべき国内事情はどこ吹く風の言動ばかり、挙句の果てに国民の年金を兆単位で使い込み、責任の取りようもなく、すべてを「バクチ」にすった放蕩おやじのていではどうしようもない。どうするつもりなのかと思われるが、いまだに大言壮語をしてははばからないさまは底が割れてもなおほらを吹き続けるいかさまおやじである。これではすべての「精神風景」が「荒れる」一方なのは至極当然。派手に税金を使って外を飛び回っている状態ではないだろうと思われるが、それも現状から目をそらさせながら同時に空疎な「自己誇示」をするという見え透いた最悪の常套手段。これでは、マスメディアの誇大広告とは裏腹に、「早く死んでほしい」と思う者が多いのも頷ける。

                                        1/8

                                


591.「走狗」のシンタックス


 「走狗」と思われる人々にはやはり共通のシンタックスがある。「政治批判」即「無責任」という断定、98%以上の国民と離反した「国のため」という「国」という概念の多用、「経済的」危機というような具体的内容提示を伴わぬ「危機」という言葉によって、やっていること、その結果もたらされる事態に対する責任回避と同時に大多数の「中小集団」の締め付けを強引に正当化させてしまう「手口」。そして、それらの「行間」には「個性的な」正体不明の「現実感情」を帯びた「感情の虚偽」を忍び込ませる。この虚偽から取り留めもない空疎な美辞麗句と手前勝手な「講釈」が紡ぎだされてくるのである。 

「亡者」の言動とは、常にかくあるようである。そして、「もしや」と期待をもたせながら選択の余地がないような「諦観(あきらめ)に導く。その時にできる隙間にソフトランディングするのである。その後、何が出てくるか、敢えて言うまでもあるまい。少なくとも、あなた自身のためにはならないことだけは確かであろう。

                                 2015 1/2


590.今更「いつか来た道」、「きな臭い」とは・・・


 最近ではさすがに言葉にする人もまばらになったが、一頃は頻繁に耳にした。敢えて言うまでもなく「いつか来た道」とは戦前のことで、「きな臭い」とは戦争の予兆のようなものを感じて言う言葉でもあるが、そんな言葉を耳にするたびに、何を今頃わかったようなことを言っているのかという思いの方が強かった。言ってしまえば、「いつか来た道」などと呑気に「歌って」いる場合か、「きな臭い」?今まで蓄膿症でも患っていたのかという気持ちである。要するにセンサーそのものが錆び付き指針の指し示す数値を読み間違えているか、あるいはわかった振りをしているとしか思えないのである。センサーが錆び付くのは容易である。すべてについて、わが身に降りかからぬ内は見て見ぬ振りの知らぬ存ぜぬというスタンスを通せばすぐに錆びは出てくる。そうかと言ってセンサーは問題ないが「読み解き方」を間違えているとノイズ、すなわち皮相的なことばかりを拾って肝心の本態の様相を捉え切れないことになる。ほんとうに「いつか来た道」などと能天気なことを言っている者には歴史の「絶対一回性」ということが分かっていないのであろう。人間のやること、どこかに常に共通項はあるにせよ時間のなかで「同一である『こと』、『もの』」が現出、再現されることは決してない。そして今、ほんとうに「きな臭い」と思った時には自分の生存の有無は定かではないというだけのことである。それよりも今まで以上に貧者同志の監視、争いが強まり「息苦しく」なるのが先であろう。

 問題意識を持たぬものに世界は何も見えてこないということに変わりはない。見ようが見まいが世界に争い、戦闘、戦争は常にあった。現に今もあるということである。それは揺るぎのない、否定しようもない事実であるが、問題はそれすらきちんと伝えられていないということである。「お茶の間」がメディアに対する痛烈な批判、議論の場と化すことを期待している。「お茶の間」から「暗いニュース」を排除すればするほど「闇の領域」は増大すると見るべきなのである。「明るさ」ばかりを求めても「闇」は排除し切れるものではない。むしろ、気付かぬところで増殖するものである。

                                  2015 12/29


589.報道は阿呆道か


  報道すべきもの、知りたいニュースは毎日山ほど出ているはずなのに、メディアは伝えるものといえば、「政治屋先生の行状」、珍事限定の「三面記事」、「省略」「カット」、「ぼかし」と「伏せ字」群のニュース、これは国民を未成年扱いしているとしか思われない程である。「政倫審」とは別に「映倫」と同系列の「政倫」があるのであろうかとも思われる。これでは未成熟な者が多くなるはずである。今更、局などが選んだコメンテーターの解説など聞きたいとは思わないのは私だけではあるまい。コメントはどうでもいいから「事実」、「起こったこと」をそのまま伝えればいいだけのことであるが(これについても何年か前にさんざん言ったこと)、今やそれもできないとなると、やはり国連の「表現の自由」の訪問調査を拒否したことに関して取って付けたようなもっともらしい理由とは別に世界に向けて発信できないことが現にあるという証左にしかならないだろう。この「コソツキ方」自体で世界にはすでに見抜かれてはいるものの、みっともないの一言である。これでは「日本人」が本当の意味で世界に向けて発信できる素地をさらに広げ、築き上げる方向とは逆行しざるを得まい。

 

                                    2015 12/28

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