<掲載内容>
509.山本太郎の「ひとり牛歩」を矮小化する者とは 510.「吹替え地獄」 511.「テキトー男」の国勢調査 <番外日誌20151007>米シネマ、銃撃戦に カーチェイス 殺し殺しで 尚飽き足らず 512.「境界例」が「境界例」に物申すような <便宜上、通し番号以前の(1-63)を追加> 575.「裏切り」は死を意味する。<番外日誌20151016> 576.「複合偽装」は常に起こっている 577.オフィス街の「食」で見えてくるもの 578.「関係ねーよ」で済むはずもなく
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578.「関係ねーよ」で済むはずもなく
社会情勢について「関係ねーよ」で済めばこんなオメデタイ話はないが、そうは問屋が卸さないのが世の実情でもある。これは「しらけている」などという状態を通り超して、現在社会に内在する煎じ詰めれば「後は野となれ山となれ」という進行内容そのものの個人レベルでの同調で、単に「堕落の極み」という方が適切であろう。ある意味では,この点についての仕掛け人の「同調培養」が功を奏しているともいえる。感度が鈍麻しているのか、想像力の欠如か、その様を見ているとたとえ自分の腕がもぎ取られても「関係ねーよ」で済ますのではないかとさえ思われてぞっとすることがある。原因追及の矛先が完全にずれているのである。もともと巨悪に立ち向かうなどという姿勢もない、寄らば「大樹」(?)の腰砕け状態で、どこにでもいるちょっと目立つ「熊さん八っつあん」をターゲットにここぞとばかりに攻撃しているような状態で、何かしているつもりになる。それで一体誰が一番喜んでいるのか、それはあまりにもはっきりしていることである。つい「およしなさいよ、罪なこと、情け知らずのさげすみは」と歌いたくもなるが、要するにいつまでも「目くそが鼻くそを笑って」いても、憎み合ってもどうしようもないということである。「目くそ鼻くそ」のさげすみ合いを見て大笑いしている者が確実にいるのである。実はそれがすべての元凶だということである。見過ぎ世過ぎ、矛先をあらわにできないこともあろうが、矛先を向ける方向、視点だけでも見失わないだけの矜持がなければどこまでも堕ちて行くのは不可避であろう。もはや、人間やめますか、棄権しますかというところまできている。
往来でカモフラージュを決め込む「しらけ虫」
2015 10/28
577.オフィス街の「食」で見えてくるもの
日常の「食」で見えてくるものがある。オフィス街の企業「戦士」ともなればさらに具体的に明確なものになる。以前から昼食時にはいつも列を作っているオフィス街の一角にある定食屋が気になっていたが、先日11時半頃にたまたまその店の前を通ることになったので、まだ客もまばらなその店に入ってみた。ライスもスープもお代りができ値段も安いが、米は見るからに出所も知れずに団子になりかけている、肉は肉で水気を帯びた革のごとく、チャップリンの靴を食うシーンを自ら実演しているのかと思われる程であった。これは味覚の鈍麻を云々する段階ではない、彼らもまたいずれわが身を呈して医療産業に貢献することになるのは目に見えている。帰りがけ、見ればコンビニにも長蛇の列である。ゴンドラがぶら下がった高層ビル群が何とも実体のない虚塔(window-dressing tower)に見えてくる。
そういえば、摩天楼のあるニューヨークも挫折した者たちが逃げて来る街だそうであるから、今更何をか言わんやである。
2015 10/21
576.「複合偽装」は常に起こっている
当然のことを当然のようにやっていれば起こり得ないことであるが、そこに「利」が絡んでくると手の込んだ偽装工作が入り込む隙ができる。しかし建築物のような具象、自然現象に関するものは必ずその結果が人間の作為とは無関係に現れてくる。確かに一人の人間が多数のデータを精査するのは不可能であろう。「性善説に頼るしかない」とこぼすのもわからないわけではない。しかし、なぜ一人なのか、そして、現状の日本社会で「つぶやき」の類であったにしても「性善説」などという言葉が出てくること自体が意外というより奇異に見える。それが「信頼関係」という程の意味であったとしてもそのようなことは常に「あらまほしき事」で恒常的に成り立ち得るものではない。さらに言えば、民主主義などというものが「性善説」で成り立つのかということにもなってくる。この大手ゼネコンの男性の「嘆き」の中にも日本の大方の「民主主義」の捉え方が見て取れる。人間は何をするかわからないという歴史的共通認識の基に作り出された決して最善とは言えない形態が民主主義でもあろう。したがって、各自が検証の手を休めてはどのようなことが起こっても不思議ではないのが民主主義でもある。すなわち民主主義と「性善説」とは相容れないのである。「複合偽装」を精査するのは確かに一人でできることではあるまい。しかし、そのようなことを一人に押し付けてなすべきことをしなかった結果というしかない。それが「企業常識」となっているのなら、やはり根本から考え直すべきなのである。こんなことは決して認めることはできないことであるが、私にとっては想定内の事項である。現状の当然の帰結で氷山の一角だと思っている。実情は、こんなことに留まらず規模の大きな複合体の複合偽装が世をはばからず横行しているということである。そのようなことを「知る」とミステリーなど子供だましにしか見えなくなるが、だからと言って、手も足も出ないということにはならない。今の私には正直なところ悲観も楽観もまったくない。所詮は人間のやっていること、そのうちに複雑化した「複合」そのものから藪から棒に「足」が出てくると思っている。
2015 10/19
<番外日誌20151016>
「川内原発反対派に地元民怒り」とは、それがもし実情ならもはや何が起きても自業自得としか言いようがないが、日本の「メディア」の「反対派」と「一般住民」という振り分けが「つい、どこの差し金?」と聞きたくなるほど意図的なのである。そこにいるのは「反対派」と「賛成派」しか在り様があるまい。さらに言えば、「反対派」と私欲のために将来を捨てた地元賛成派というべきであろうか。「その目、その声、その動き、つい、いくらって出てしまうでしょう」、すべてがあまりに幼稚で見え透いているのである。底が二重に割れている。
575.「裏切り」は死を意味する。
どちらにしても「裏切る」という行為がもたらすものは裏切った者の「死」であろう。昨今では、中心部分から周縁部分まで単なる私利私欲のために自らの今までの言動をいともたやすく変節する,すなわち「裏切る」ことが大流行のようだが、それは「君子豹変」、「臨機応変」などに置き換えられるものでもなく、またそれらを援用できるものでもない。言うなれば許されざる根本義のようなものに抵触しているのである。メリメの「マテオファルコーネ」を取り上げるまでもなくどのような理由付けをしようとも「裏切り行為」は死を意味する。マテオファルコーネのように明解な裁断を即座にする者がいなくとも、裏切りを犯した者は、自らの「死」に至るまでの忌まわしき道から逃れることもできない。亡者はやはり亡者の道しか残されていないということか。
2015 10/16
512.「境界例」が「境界例」に物申すような
かつて、ある演劇人が世界は精神病棟であると言ったことがあるが、今やそれはさらに重篤化しているように思われる。あらゆる領域で見られる精神疾患的症状は程度の差があるだけで質的差異はなさそうである。「境界例」が「境界例」に対してもの申すような、それは客観性を欠き皮相的で、思い込みばかりで知性とはおよそ無縁な内容のものが多い。もはや統合失調症ではないかと思われるような者が「境界例」の者について講釈、非難する。不条理劇を彷彿とさせる認知症同士の会話、何とも無意味な先のない「やり取り」である。これは単なる譬え話でもなく実際に起こっている現実そのものの様相でもある。だから精神病棟なのである。当人はまともな神経でいるいるようだが常に「何ものか」に突き動かされている。その不安定さは、一見何事もなく静かな表面張力をみせているニトログリセリンの油状液体の表面と同様、わずかな衝撃で大小様々なエクスプロージョンを起す。「何ものか」とは、煎じ詰めれば「過剰な」,あるいは「過剰であること」自体に歪められてしまった欲望そのものということになる。
これは飽くまで昨今の一例に過ぎないが、人を何人も殺しておいて、自分の「異常性」を社会的に承認させるためにブログは始める、本は出す。いい気なものである。殺された人間は一体どうなるのかと言いたくなる。本来なら自分がしたことと同じようなことを他者にされても仕方がないのであるが、そのような意識などまったくない。復帰、復旧不可能の忌まわしき欲望の虜となった鬼畜の道を邁進する者に無責任な偽善の手を差し伸べても徒に被害を拡大させるだけである。彼らはもはや「この社会」にいる限り「人間」という境涯に戻ることはできないと見る方が的確である。
そして、世上といえば、亡者の亡者による亡者のための政治、はたまた認知症の認知症による認知症のための政治が脇目も振らず独り歩きをするものだからむやみと角が立つ。
Government of the mad for money by the mad for money for the mad for money.
Government of the dementia by the dementia for the dementia.
It would be sheer madness.
2015 10/11
<番外日誌20151007>
米シネマ 銃撃戦に カーチェイス 殺し殺しで 尚飽き足らず
しかし、よくも飽きもせずといった感じである。人間の愚かさばかりが浮き上がってきて、「愛」だ、「自由」だということが残滓、表皮のようである。この手の映画製作には、銃器産業、軍事関連からの資金提供、援助は事欠くまい。最近では土日ともなるとこの手のそれも3流戦争モノの垂れ流しである。1959年製作の市川昆監督の「野火」(原作・大岡昇平)という映画もあるだろうと思われるが。そのレベルものは皆無に等しい。ただ疲れ切った非正規労働者の頭の中に非日常のヴァイオレンスを心地よく刷り込むということを確信犯的に行っているようにしか見えない。
511.「テキトー男」の国勢調査
「テキトー男」で売っているタレントの高田何某のチラシが貼ってあったのでまた区の施設で「イイカゲン」なトークショーでもやるのかと思ったら国勢調査のキャストである。テキトー男の国勢調査、然もありなんというところである。タモリにしても、タケシにしても、それに類する者たちも詰まる所、その「在り様」自体が権力機構の「お友達」の輪の中にすでに組み込まれているのである。一言居士の「説教」、「自慢話」も聞くに堪えないが、「過去」のことは話さず無難な「下ネタ」の類ばかりとなると二の句が継げない。いまだにその線で通用するのかと思う程のこの「ノウテンキ」さは、やはり某国の「ヘッド」と同様というところでもあろうか。実態は幇間でしかない者が何やら「オカシ」なこと言い出しているというのが昨今の事情でもあるが、そもそもが幇間は富裕層があって成り立つもので一般大衆相手には成り立たぬ生業でもある。彼らが大衆の気持ちを代弁しているようで実のところは何もないというのも至極当たり前のことである。せいぜい「あるようなないような」ところで「カワス」ことくらいが落ちというところであろう。その「躱し(かわし)」の機能自体も権力機構に都合がよい。どれだけうまく躱して未来を偽装し、でっち上げるか。今後、彼らを「目くらまし屋」、「躱し屋」と呼ぶのも一興かもしれぬ。
2015 10/4
510.「吹替え地獄」
外国映画の吹替え版については、何度かこのサイトでも取り上げたが最近の「政」事情といっしょで何度でも取り上げざるを得なくなるのである。それほど言わざるを得なくなる機会が多いということでもあろう。私憤、怨念で動くほど愚かでも暇もないので、「声優」達を特に批判の対象にしている訳ではない。現状がそうさせているのである。ものごとにはやはり過ぎればそれなりの問題が噴出してくる。懐かしい外国映画が吹替え版であったために何度見なかったことか。言葉の意味内容が、それも身体を通さぬ他者である声優の声だけで伝わればいいという時代はもうとっくに終わっているのである。特異な、奇妙な声ということだけで成り立つ、あるいは今までのままで成り立ち得るのは平面的なアニメの世界だけであろう。
「口先」だけで何度でも騙されるのはこうした事情が恒常化しているからとさえ思えてしまう。
2015 9/30
509.山本太郎の「ひとり牛歩」を矮小化する者とは
某タブロイド紙が、山本太郎の「ひとり牛歩にこだわった」ことについて取り上げていた。よく取り上げたとは思ったが、Freelance Journalist・大嶽何某とやらのまとめ方にその捉え方、立ち位置のすべてが見えた。山本が、誰でもが分かっているつもりになっていて実は分かっていない重要な民主主義の本来の在り様について述べた後で、大嶽何某は、「山本議員の根底にあるのは”芸人魂”なのであろう。ー中略ー政治家として自らを演出し”民主主義を求める闘い”であえてヒール役を買って出ている。喜劇を信じ、笑われることや誤解を恐れない。国会議員として、単なる異端児なのか。」と締めくくっている。これで何か言った気でいるのであるから恐れ入る。芸能レポーターの類かと思ったがフリーランス・ジャーナリストと書いてある。まずその作為的「ズレ」具合が大手メディアの自称ジャーナリストとほぼ同様である。まず訳の分からない「芸人魂」という言葉の遣い方、「政治家として自らを演出し」という「演出」という言葉の誤用と空疎な類型化、「ヒール役」とはこれまたこのフリーランスの思考回路のシンタックスを疑わざるを得なくなる。「喜劇を信じ」という勝手な思い込み、「笑われることや誤解を恐れない」、都合よく合成された一連の言辞、山本の「ひとり牛歩」を「本当に」笑えてた者がどれだけいる?誰が「誤解」している?「笑う者とは」?「誤解する者とは」?。彼を国会議員として単なる「異端児」として取り上げてしまう意識構造自体が市民意識とは乖離するのである。フリーランスなら当たり障りのない安易な個人の分析などに終始してないでもっと社会的に切り込んだ記事を書けといいたくなるが、フリーランス・ジャーナリストでさえこの程度なのである。後は推して知るべしであろう。最近のお通夜のような記者会見etc・・・ 簡潔に言えば、山本太郎はほんとうの意味で市民意識に目覚めた一人で、それが以前は俳優もやっていたということに過ぎないのである。彼の場合は、現在の状況が市民意識を目覚めさせ、さらに政治家として成長させたと見る方が無理はない。一方でよく見られる、既成政党に乗せられて、やがて走狗として仕立て上げられる私利私欲のタレント候補とは一線を画すべきなのである。彼自身も言っているとおり、それは飽くまで「今のところ」である。この視点がある限りまだまだ彼の賞味期限は過ぎていない。監視を怠り国会議員にすべてを託した時、民主主義の瓦解は始まる。彼のように孤立を強いられながら闘うということは特に今、想像を絶する重圧がかかるはずである。彼の姿を見て惜しみない声援を送った者がどれだけいることか。それは想像するに難くない。監視するのは国民の側にある!このことを忘れたら民主主義などはないも同然である。もうすでに瓦解ははじまっている。飽くまで「市民意識」に根差した行動を矮小化することしかできない者とは「非市民」、すなわち「臣民」の意識構造が抜け切れない者か、私利私欲の惰獣の群れということになる。
2015 9/27