<掲載内容>
443.「人生は短いから、過去のことは忘れよう」では・・・444.「今を生きている」つもりの人々 445.チェルノブイリの風景は・・・446.紙面、画面に溢れるヤマ師の群れは・・・447.フィールドワーク 448.的のない「三本の矢」の行方449.人口の減少は当然,社会の衰退も必然450.もし、「神が偉大」であるのなら 450.サザンの桑田のライブ騒動?
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450.サザンの桑田のライブ騒動?
サザンの桑田のライブ「騒動」は、要するにこれが日本の現状であるということである。桑田の言動、意図の軽重をもっともらしく問う向きもあるが、ミュージシャンである桑田から「自由な遊戯」を取り除いたら何があるという話でもある。日本の現状はもはやここまで来ているのだということを、たとえ軽佻の為せる業であったとしても多くの者に指し示したことに変わりはない。そういう意味では桑田は「図らずも」歌いながら「リトマス試験紙」を振り回していたことになる。そして結果は案の定、極めて危険な状態ということである。
今後このようにはっきり目に見える形ではなかなか出てこないだろう。しかし、自由な言論、表現とは軽重問わずもともと体を張った作業なのである。
2015 1/18
450.もし「神が偉大」であるのなら
もし「神が偉大」であるのなら、人間ごときが「神は偉大なり」と叫びながら銃を乱射する必要も、意味もまったくない。それは具体的方便として「神」の名をかりた飽くまで人間の「野望」の一形態であろう。「表現の自由」とは「人間」の境涯に見を置くものにとってはその存在の「証」でもある。したがって、表現の自由を封殺する者に対して徹底抗戦するのもまた当然であろう。自主規制なども質の悪い巧妙な言論封殺の一種である。金で口封じをしようが、それが武器であろうが人間の作為などと「神の意志」(それが存在し得たとしても)などとは別次元であることを思い知ることになるのが常である。どちらにしてもその愚かしい行為は長くは続くまい。なぜなら「異常」だからである。「異常」に慣らされている者には気付かないが、「異常」は「異常」であること自体に必然的に発火点の低い矛盾を多く孕んでいる。だからいつ何時爆発炎上してもおかしくないのである。異常が常態となっていればで異常が自然に見えてくるが、そこにはまた不自然に矯正された引火性のある歪みの残骸ばかりが放置されることになる。
しかし、「人間」というのは自らの進展を拒んでいるとしか思えない時があるから不思議である。ただ、これ以上進展を拒み続けることは衰退の道しかないということになるが。
2015 1/10
449.人口の減少は当然、社会の衰退も必然
周りを見渡せばすぐに」わかることであろう。行く末を見せつけられる高齢者の実態もさることながら、少しでも自分を思う人間であればとても子供など産んで育てる環境にないことはすぐに察知できる。「三遷」などとは「殿上人」、富裕層の世界のお話で、地を這うような生活を強いられる多くの「地下人」の世界では子供に対する愛情もやがては歪められ裏切られることになる。現在、巷で見かける子供のいる夫婦は社会的にはほとんど何も考えていないか、個人的理由、違う目的を持っている人々であろう。いくら子供が無思慮の産物とはいっても、今後も人口の減少は確実に更新され続けると思われる。それは、小手先の「少子化対策」などで対処できる問題ではなく、このような社会を作りだす施政そのものが必然的に引き起こす国民の前意識的な沈黙の抗議でもあるからである。要するに、多くの者の中に、もはやこの国はまともに子供など産んで育てる「状況」「環境」「状態」にはないという動物的勘が働いているのである。人口減少の数値の更新とは取りも直さず為政者の無能指数ということで、単に個人的な甲斐性の有無などに矮小化できる問題ではない。
明日をも知れぬ非正規労働者に子供など産める訳がないというのが「普通の感覚」で、そうでないなら余程無責任な奴か自信過剰、誇大妄想的傾向がある者ということになる。実質的に非正規労働者ばかりを増やす、会社に都合のよい目先の法整備が一体何をもたらすのか。専門家に聞くまでもないこと。「これしかない道」とは自分にはこれしかないということで、多くの者にとっては衰退の道に他ならない。底辺を支える者たちの生存自体が危ういのであるからその維持は覚束ないのは当然で、やがてはその上に作り上げらている構造物の瓦解も必然ということになる。
2014 1/2
448.的のない「三本の矢」の行方
的のない矢 朝のない夕べ
望みなき空言が 現(うつつ)のリズムを刻む
暗雲に 放たれた的のない矢
朝のない夕べに
空事は現のリズムを刻みながら
発光する。
勘違いしてはならない
足元を決して映し出さぬその光は
曙光でも蝋燭の光でさえないことを。
「ところで、的のない『三本の矢』の行方は?」とはまた野暮なお方がいるものだ。
霞立つ関のある某所で催された饗宴で三脚に使われていたという話である。
2014 12/26
447.フィールドワーク
今尚フィールドワーク続行中である。そして、改めて自らの精神と肉体の強靭さに驚いている。自分が思っている以上に「強い」ものだということを実感する日々である。
そのフィールドワークの内容についていちいち書き連ねるほど野暮でもないのでここでは避けるが、ただ言えることは我々はいかに分かったつもりになって生きているか、実はどれだけ知らないことが多いかということである。それは恐ろしいばかりの質と量である。それでも多くは何か分かったつもりになって生きているのである。
「目明き千人盲千人」などとはいうが、どう見てもフィフティーフィフティではあるまい。「目明き」などと称されている者も多くは「目明き盲」に近く、実際に肝心要の部分が欠落していては「盲」であることに変わりはない。
世に顔を出している「したり顔」の老若男女の「すべて」は実は何も分かっていないか、自分自身をもみごとに欺くサイコパスに近いと言っても過言ではないと思っている。もし、知っていて言うべきことを言わない、言えないのならそれは虚言であり、それを操るのであれば単なる詐欺師であろう。「ジャーナリスト」という詐欺師、「作家」という詐欺師、「大学教授」という詐欺師、「コメンテイター」という詐欺師等々・・・政治屋?いつの世にもいた「人間」ではない「亡者」の類である。したがって、彼らには「人間同士」の「お付き合い」など実のところ存在しないのである。況や「国民」など言わずもがな。
北風に 囲い込まれて 柵の中 しばしは食われるまでの御養生
鴨葱の 鍋をつついて 策士をり おめでたき人にもの言う術もなし
「怒り」を失うとはすでに死に体であるということである。その証拠にほんとうの「喜び」はあるまい。
残るは「哀」と「楽」、しかし、そのどちらに執着するのも「病」に至る。柵の中では尚更である。
2014 12/9
446.紙面、画面に溢れるヤマ師の群れは・・・
巷に溢れるヤマ師は言うに及ばず、紙面、画面を賑わすのもやはりヤマ師が多い。それでは一体誰を信じていいものやらと呟きたくなるのも分からないではないが、いつまでもマスメディアなどの他人の見解を鵜呑みにしていれば嚥下障害から窒息死は免れまい。要するに巧妙なヤマ師はあなたが死のうが生きようが知ったことではないのである。しかし、彼らの手口に絡め取られるばかりではあまりにも能がない。そのようなことにならない方法の一つは「どこかおかしい」と思う自分自身を最後まで信じることである。それについての他人の講釈、解説で簡単に「納得」しないことである。たとえ有名諸氏であったとしても有名であることは何の根拠にもならないということを知っておく必要がある。彼等は時によっては黒を白にしてでも人を「納得」させるのが「生業ともなる」ということである。古来よりある悪しき意味でのソフィストである。
しかし、欲望のなせる技であろうヤマ師の群れは手を変え品を変え空恐ろしくなるほど巧妙になって行く。欲望は尽きることがないのであるから当然であろう。そこでは分かった振り、ものわかりのよさは禁物で、それが却ってあだとなる。自分を賢いと思った時点ですでに彼らの手中に収まっていることの方が多いものである。ほんとうに賢き人は決して自らを賢いとは思っていない。だから「バカの壁」に阻まれることも少なく、「自由」でいられるのである。愚者の「したり顔」とはそれが限界の現れであることを本人だけが知らないのである。
2014 11/24
日々の掛け替えのない雑事に追われて
445.チェルノブイリの風景は・・・
チェルノブイリの風景を見ていると「人類」の消滅の時とはかくあるのであろうと思われてくる。もはや人間の時間の中では何事も為し得ぬまま、決して元に戻ることのない、まったく「人間」を寄せ付けない風景である。一方では絶滅危惧種などの安らぐ復活の場でもあるがそれも今後どのように変異するかすべては不明である。チェルノブイリの風景は人間の「業」などではどうにもならぬもので遍く覆い尽くされている。
去り行きて 戻らなかった「すべて」は
もはや決して戻ることはない。
期待するまでもなく現れるであろう
突然変異体
現生人類の衰退の予兆は
ミュータントの出現の兆し
しかし、チェルノブイリの拡大とCO2の増加は
ホモ・サピエンスのミュータントへの変換さえ許すまい。
2014 11/11
444.「今を生きている」つもりの人々
実質的に人は過去に生きることも、未来に生きることもできない。現在しかないのであるが、それでは現在に生きるとはどういうことかというと各自各様でかなり怪しいものがある。我々には現在しか許されていないだけで、それは未来を手中に収めることも過去を再現することも不可能であるということに過ぎない。本人は現在を生きているつもりになっていてもそれはただ単に「ある仕掛け」によって流されているだけという場合の方が多い。それにほんとうに気付くのも「後の祭り」というケースが多く、それがまた凡夫の証ともなっているのが実情のようである。少し言い方を変えれば「過去に生きる者」が存在しないのと同様に「未来に生きる者」も存在せず、意識がどうであれ現在しか我々には存在しない。ただ現在を「生きる」となると当然「生きるとは何か」ということになってくるのである。「今を生きる」などとはよく遣われることであるがそれを実現できていると思えるのは極めて稀である。それはある意味では至難の業であると同時に死を触媒とした「覚醒」を経た者には容易にも成り得るからである。多くは、頭の中で「今を生きている」つもりになっているだけということを思い知らされることにならざるを得なくなる。もっともそれすら気付かず一生を終わってしまう者も多いのがその現状でもある。さらに言えば「気付く」ということは世界観が根底から覆されることでもある。それを経ずして「今を生きる」などとはただ言ったまでのことで、過去の集積としての現在の在り様も見えず、近未来の論理的帰着点すら見ることなしに想像力は委縮したままただ猪突猛進することになりかねない。かなり危険である。「今を生きる」とは「刹那主義」などとは根本的に違う意味に遣われて初めて生きてくる。
2014 11/5
443.「人生は短いから、過去のことは忘れよう」では・・・
「人生は短いから過去のことは忘れよう、将来だけを見て生きていこう。」これは中学生の卒業記念一言集ではない。ノーベル賞、文化勲章などという何やら厳めしい実態の底知れぬ賞の受賞者の「お言葉」である。やはり典型的な理系の「専門バカ」と言わざるを得なくなる。「愚かしい過去のこと」を忘れるのではなく、むしろそれをきちんと問題化してよりよい解決の方法を見出し、導くのがその使命でもあろう。自分自身にとっても思うように研究できなかった不適切な環境を自分は成功したから忘れようでは、またぞろ愚かしい過去の弊害は何ら改善もされずに繰り返されるだけなのである。現に今、この研究者が当初怒りを込めて訴えたこととはまったく逆の方向で法整備されているのである。この程度の「ご褒美」で「ガス漏れ」するのでは単なる私憤の領域で終始しているだけで普遍化されることもない。比較するのも憚れるが、アインシュタイン、湯川秀樹、朝永振一郎などの言動をみても、やはり理系の単なる「専門バカ」などという領域には収まり切れなかった人々でもある。
芸能においても然り、押しなべて女優・杉村春子のような文化勲章を辞退する程の気迫も資質もどこにもない。煎じ詰めれば、肝心なことに対する問題意識の欠如ということである。
2014 11/3