「ある日、その時」(36)2014年9月6日ー

<掲載内容>

427.「自殺の9割が他殺である」なら 428.ヴェロニカ ポリタ 429.脳死状態のメディア 430.「ノーベル平和賞」の「平和」とは? 431.「悪い思い出を軽減する技術」ーマサチューセッツ工科大学ー 432.「いやな奴」 433.「夢中になれること」が大事 434.「法螺(ほら)を吹く」者

 

                                                     (転載・複製厳禁)



434.「法螺(ほら)を吹く」者


 実際に、法螺を吹くのも高音部、低音部と中間音で5つの音域があってなかなか難しそうである。奥州古街道の霞が立つようなところで普段は「金勘定」ばかりしている者たちによって作られた「法螺吹き」の教本片手に「中間音」だけで世界の舞台で「法螺を吹く」というのも尋常な神経ではないが、それを聞く方もまた相当なめられたものである。とてもこれで通るとも思えないが、法螺を吹く方は悦に入っているようであるから始末に負えない。己を知る必要もない傀儡的存在とはかくあるということを改めてまた見せつけられもしたが、傀儡を動かす者たちも顔こそ見えぬが手は出る、足は出るやらと何とも無様である。これ程明々白々とした事態においても文字通り金縛り状態で誰も手の施しようがないとはやはり何が起こっても不思議ではないと思われる。そのすべてが恥ずべき事態ではあるが、厚顔無恥になるとは言い換えれば欲望の奴婢になるということでもある。私利私欲の奴婢はもはや法螺を吹き続けるより手立ては何のかもしれぬが、馬鹿を見るのはその法螺に乗せられた者たちである。

 先日、ロールスロイス、フェラーリ、ポルシェなどが日常レベルで使われている地区からある駅に戻って来るとその「段差」に思わず躓きかかった。駅前にはビール箱をテーブル、椅子替わりにした大衆酒場、その傍らには国旗が翻っている。何か吐き気のようなものがこみ上げてきた。そこにあるのは恐ろしいまでの「格差」そのものである。昼はコンビニでカップヌードルとおにぎりを手にレジの前で並び、夜は夜で安酒を呷りながらに何を食わされているかわからないものを口にする。やがてなけなしの貯金は医療産業に吸い上げられていくのであるが、それでも自分は強かに生きていると思っている人々。そのような人々とフェラーリで子供の送り迎いをしている人々との間には「段差」、「格差」があるなどというレベルではなく絶壁程の高低差がある。そして、特別仕様の高級車などが行き交う街には日本の国旗などはどこにも見当たらなかったというのも象徴的なことである。それはどんなに力んでも国旗などを振り回しているのは常に「してやられる側」の者たちであることを如実に物語っているのである。それは欲望の奴婢の忠実なる下僕。不自由が着慣れた服のように馴染んでしまった人間達でもある。勢い「あっしには関わりのねえこってす」と足早にその場から立ち去りたくもなるが、それもまたライフをどこかで捨て切る覚悟がなければ言ったまでの話で、ついには棺桶に片足を突っ込んだまま社会との関わりを引きずりながら「惨めな姿」をさらすことにもなる。

                                                    2014 9/26

  これはもう3日も前に書き留めたことである。「今」などといっているのはすでに「今」ではないが、内容が今を超えていれば展開も可能であろうと思われる。


433.「夢中になれること」が大事


 モチベーション、内容の吟味はさておき、「夢中になれるもの」を持っていること自体で計り知れない「正」のエネルギーを心身にもたらすことは様々な視点からもいわれていることでもある。したがって、そこでは分別臭い、中途半端な俗流の「客観的視点」などというものは、無意味なのである。それが「世間」あるいは「世界」で通用するしないなどということも飽くまで二義的なことである。そんなことは俗世間とメディアに任せておけばいいどうでもいいことである。肝心なことは要するに心身が一体となる我を忘れる瞬間の有無なのである。したがって、「夢中になれるもの」を持っている者に対して物知り顔で不用意に水を差すようなことは絶対にするべきではないが、それに反応するのもまだ「未だし」であろう。

 「夢中になれるもの」とは単なる「受け身」的なものではなく自ら心身ともに関わり創り上げて行く、できればハートとボディが一体化するような「正」のエネルギーを最大限に引き出させる方向のものが望ましい。それは、自らにとってもこの上ない「快」なのである。

                                                        2014 9/21


 432.「いやな奴」


 いやな奴とはほんとうにどこにでもいるものである。その「いやな感じ」も受け取り方(本人の資質にもよる)次第で様々に増幅されるが、いやな奴の不快感の放出というものは実に微に入り細を穿っているのである。何でそこまで入念に他人に不快感を与え続けられるのか不可解でもあるが、それがその人間の生きることと表裏一体となっているので要するに死んでも治らない「病」源を知らず知らずにため込んでしまったと見るべきであろう。そのような人間とどう接するか、各自が考えるしかないが本屋に溢れているハウツー物はどれも程度の差こそあれ波風を立てないセルフコントロールの類ばかりであるといってもよい。結局のところ「いやな奴」をのさばらせるだけということになりかねないが、やがては自業自得ということになる。微に入り細を穿った不快感を発することができるということは実は小心翼々とした者ともいえるのである。それはシュリンクする精神の「核」しか持ち合わせない者でもある。彼らに存在意義があるとすれば「反面教師」くらいではなかろうか。そして、彼らに教え諭す程無意味なものはないというよりそのようなことをすれば逆恨みされるのがオチなのである。他人に不快感しか与えないのであるから当然賢い者ではない。「いやな奴」とは煎じ詰めれば愚者ということになる。だから「バカ!」といわれるのである。彼らにはやはり「反面教師」、「こっぱ役人」などが一番似合っているのであろう。歯牙にもかけないような存在ではあるが、やむない事情で周囲にいられると兎にも角にも鬱陶しく五月蝿い(うるさい)。

                                                    2014 9/19

 


431.「悪い思い出を軽減する技術」ーマサチューセッツ工科大学ー


マサチューセッツ工科大学といえばノーベル賞受賞者を多く輩出しているアメリカでも1,2を争う理系の大学である。しかし、優秀であればあるほど必然的に軍事技術、軍需産業にも貢献しざるを得なくなるという現状がある。実際、マサチューセッツ工科大学も1940年頃からカリフォルニア工科大学などとともに軍事産業に関わっている。その最先端技術を生み出すマサチューセッツ工科大学がこの程「思い出を軽減する技術を開発」したらしい。メディアからは「記憶を書き換えることも可能になるのではないか」とそんな未来を期待する声も上がっているという。どこのメディアか知らぬがこの「ノウテンキ」さにはまた改めて恐れ入る。確かに今使っている「便利な」パソコンも軍事技術との密接な関係の中で生み出された最先端技術の名残でもある。最先端技術そのものを必要以上に恐れることも否定する必要もないがそれは常にマッドサイエンスと隣り合わせでもあるということである。

 「悪い思い出を軽減する技術」はすでに「削除」する技術に発展していると思われる。例えば戦争の後遺症に悩むものから「悪い記憶」を「軽減」、「削除」する。果たしてそれを単純に喜べるのか、その人間が否応なく背負わされてしまった戦争の悪しき一面がその人間の中から「軽減」され消え去る。それは同時にその人間から生々しい歴史的現実が「消える」ことでもある。戦争に対する「悪い思い出」が「軽減」し、良い思い出(?)しか残らないというのは明らかに狂っている。それはもはや「人間の境涯」にはいない者の世界でもある。薄笑いを浮かべて嬉々として戦争について語る者のことを想像してみればすぐにわかることである。記憶の収められているニューロンを特定し、それに光を照射して記憶の正負をコントロールするそうだが、危うい点は多々ある。産学共同路線特有の専門大学には「制御」、「自浄」の役割を果たす強靭な哲学的知性に基づく倫理的視座が成り立ち得ないこともその一つである。したがって、マッドサイエンスは舞台裏で同時進行しているというSFのようなことが起こり得るというより、むしろそれ以上のことが現実には起こっていると見る方が現実的でわかりやすいのである。今や「虚構」は現実の表皮以上のものを伝えることはできない。

                                                   2014  9/15

追記:蓋し「過去を忘れること」にかけては天下一品の人々にはこの技術はあまり必要ないかもしれぬ。


430.「ノーベル平和賞」の「平和」とは?


 アメリカの大統領・オバマはノーベル平和賞の受賞者でもあるが、彼の言動から、「ノーベル平和賞」というのは一体どんな意味があるのかと思う人も多いのではないかと思われる。もちろん彼以外にも不可解な人はいるが、現役の政治家に「平和賞」を授与すること自体に無理があるともいえる。特にアメリカは定期的に戦争を起している国であることは周知の事実である。今後、現役の政治家に「ノーベル平和賞」は授与されことはないのではないかとも思われる。そもそもノーベル賞の基金はダイナマイトで得たものであるから戦争とは相性がいいのかもしれないなどと皮肉りたくもなる。「平和、平和」とお題目のように唱えながら一方では戦争である。やはり「平和とは戦争であり、戦争とは平和のことなのだ」と言いたくもなる。無意味な賞の一つである。

 文化勲章、勲何等の類が質屋などにあるのを見たことも聞いたこともある。賞などというものは本人にしか意味がないのである。

                                                  2014 9/14

 2014年10月6日付け日刊紙によると、「憲法9条を保持する日本国民」がノーベル平和賞の最有力候補に躍り出たそうだ。これは「平和賞」として実質的にも歴史的にも意味を持ち得る。こういうことこそ世界に誇るべきなのである。

 神奈川県の主婦らが中心となって「憲法9条をノーベル平和賞に推す運動」が活発化しており、10万人を超す署名が集まっているということである。目の付け所、行動共に頼もしいことである。神奈川県のママさんたちにエールを送る。

                                                  

 

                                               


429.脳死状態のメディア


 大方のメディアの臨終は間近であろうが、思考回路断裂のまま延命処置が施されている。

 それは「時事」の取り上げ方そのものに現れている。実際一部大衆の極端な未成熟化は否定しようもなくあるが、それに便乗するかのような幼稚な「煽り方」そのものに自らの存在意義を投げ捨てているのである。もともと存在意義などというものがあったかどうかも定かではないが、問題の取り上げ方が実に安易で以前にも増して浅ましい姿が臆面もなくさらけ出されている。終にここまできたかという感しきりである。その怪しげな「もっともらしさ」には「身売りした」延命処置だけで動いている者特有の高圧的で妙な「落着き」が見て取れる。とても冷静さとバランス感覚を兼ね備えた「基準値」とも成り得る「本来の大人」が発する言動とは思えない。「本来の大人」という存在を排除する偏った方向ではとても成熟した社会など望むべくもなく、すでに「崖っぷち」までの道はきれいに舗装されているといってもよい。なぜ舗装されているか、それは、論理的にも明確な経済破綻に為す術もなくなった時に、自らのミスリードは棚に上げ「恰好よく」机をひっくり返し「Go to war!」で滑り出しをよくするためでもある。どちらにしても今の状況はすべてにおいて今までの「邪道」が常態化した結果でしかない。札びらだけで金の切れ目まで動くのは極限られた愚者だけで、愚者に「明日」は語れない。愚者には「明日」がないからである。それにも拘わらず「明日」を語ることができない者が平然と「明日」を語っているというのが今の実情でもある。「邪道」は飽くまで「邪道」、やがて糾弾されることはまぬがれない。「盗人にも三分の理」のようなことをいつまでも言い続けること自体が見苦しいのである。とても恥を知る国のものとは思えぬ。目先の欲望にかられた「義」のない者は何とでも言えるものである。そして、いざとなれば自分だけは天井裏に、そしてある者は穴に隠れてその挙句に捕らえられ体中の穴を拡大鏡で覗かれてもなお生き延びようとする。自分だけは逃げ道を用意しているそのような者達の口車にまんまと乗せられて崖っぷちを転げ落ちるのも自業自得と言ってしまえばそれまでである。

 最近、ある人が「今日、娘が帰って来る」と言う。思わずどこからと聞くと「自衛隊を辞めて帰って来る」のだと言う。どういう事情で入隊したかは知らぬが迫りくる危機的状況を肌で感じているのであろうか。世の中には「右」に鎮座する「お上」と同体化したようなwarlikeな人々もいるが、そういう人々は男女問わず安全地帯で四の五の言っていないで、もしそれが正しいと思うのなら真っ先に自らの生命をも顧みず「その地」に赴くべきである。当然妻子も運命共同体とならざるを得まい。もしそうでないのなら単なる教唆扇動の詐欺師でしかない。大口を叩くだけなら誰でもできるのである。

 「老いたるは皆かしこかり この国に身を殺す者 すべて若人」 ー鉄幹ー

 今ではその若人も少ない 老人ばかりの それも食糧自給率も覚束ない、再び地震でも来れば原発は閉じることもできないパンドラの箱となるというのが否定しようのない実情である。現実を直視させない捏造、歪曲の業師、詐欺師の視座に明日はない。

                                              2014 9/9


428.ヴェロニカ ポリタ


 どこからともなく流れてくるヴィヴァルディの「四季」を聞いていると今年見た大寒桜と染井吉野の折々の姿がまた目に浮かんできたが、なぜかその時足元に咲いていたヴェロニカ ポリタの姿が妙に印象的に甦ってきた。ヴェロニカ ポリタとは和名「イヌフグリ」の学名である。私はこの花のことも決して和名では呼ばないことにしている。

 「やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声」  蝉の声をうるさがる人がいた。

 そして、もう9月である。立秋も過ぎて早1か月、今度は虫の音を機械音と間違えて苛立つ人間が出てくるのであろう。

                                           2014 9/7


427.「自殺の9割が他殺である」なら


 「自殺の9割は他殺である」と監察医としても名高い上野正彦氏は述べている。2万体以上の検死とその実証からくる結論は実に重い。年間3万人以上の自殺者を出す日本でどれだけの者の死が自殺として葬り去られているか不明で、概算でも毎年万単位の人間が「殺されている」という可能性も否定できないのである。そして、その加害者は平然と日々の暮らしをしているということである。自殺の9割を「殺人事件」として取り上げれば今でも下降の一途辿っている警察の検挙率は一挙に地に堕ちるだろう。残念ながら、検死のエキスパートが告げる「自殺の9割は他殺である」というのは客観的事実に基づく実情である。さらには多くの検死さえ省かれたものに関してはその実態を知る由もない。

 最近でも「報道の王道」に殉じた岩路真樹氏の「自殺」、「怪死」が大手メディア以外では問題となっているが、「自殺の9割が他殺である」ということを考えなくても状況的に彼の死が単なる自殺ではないことは充分考えられることである。特に彼のように「JUSTICE」のために戦う「戦士」は尚更のことである。彼自身は真相も明かされないままの死さえ覚悟していたのかもしれない。しかし、彼はやるべきことをやり続けながら死んで行ったのは事実である。それについてやるべきこともしない者がとやかく言う筋はまったくない。彼の死を隠せば隠す程、その実態は見えてくるものである。当分、彼の真相について追う者はいないだろう。そして今、外に現れてくる選択された「報道」ばかりに気を取られていると「危うき所」に持って行かれることになるというのはすでに多くの者が薄々感じていることでもあろう。しかし、「危うき所」に近づかないというのも並みの精進ではなかなか勝ち取れるものではない。「危うき所」というものの実態がはっきりと見えていなくてはできないからである。この際、あらゆる幻想はかなぐり落とした方が賢明であると思われる。

 現実の底なしの恐ろしさが見えている者には「ミステリー」などはどれも子供だましか、学芸会、漫画にしか見えないものである。特に日本の「ミステリー」などはそうである。そして、多くの者にはやはり現実の恐ろしさは見えていない。ただ現実を見ているつもりになっているだけで実は現実を見ることさえできていないということに気付いていないのである。

                                                                2014 9/5

 


 

アーカイブ
TOP