「ある日、その時」(34) 2014年6月28日ー

 <掲載内容>

410.「だめだ、こりゃ」  <番外日誌20140703>「官僚の覚悟、政治家を動かせ」 411.「大手報道機関」とは「大手」の報道機関。 412.某芸能レポーターの曰く  413.サッカーの悪しき一面 <番外日誌20140714>週刊誌、月刊誌は見るも無残  414.「みだりに東西に走りて浮草に似たり」 415.「何の問題意識もなかった」とは416.冷静さが強いられる時 417.生き延びたこと自体に「是」はあらず

                                                                                                                                (転載・複製厳禁) 



417.生き延びたこと自体に「是」はあらず


 時折、生き延びることが「至上命令」、またそうならしめるのが「勝者」であるという錯覚に陥っているものに出くわすが、いかに詳細に述べ立てても皮相な俗流処世術の域を出るものではない。 どう生きたが問題なのであって生き延びたこと自体に「是」を見出すことは難しい。そして、どう生きたかというような生き方の「質」が問われる場合は「世俗的成功」などの類からは大きくかけ離れていてもっと本質的な問題が関わってくるのである。例えば、多くの者が死に瀕している時に自分「だけ」が助かる道を必死に模索したとする、そのような行為全般を種の保存という意味合いも含めて「本能的」などと分かったような言葉を掛け合わせて言い表してみても「是」というには程遠い位置でしか収まりようがない。「何としても生き延びる」ということそれ自体は否定されるべきことではないが、異常な事態を「生き延びた」ことによってもたらされる「後遺症」は免れないないだろう。その「後遺症」は自覚症状があるうちはまだよいが、特に本人の自覚もなく人格の「変形」に大きく影響を与えることもある。後はその人間の人生の選び取り方にもよるとしか言いようがないものがあるが、その「後遺症」の負の領域の波及効果は自己の意識的操作ではどうにもならないものを持っているのが実情のようである。もしそのようなことにまったく無自覚であるなら、「生き延びた」ことはいつしか「選ばれし者」という意識を形成し始め、さらに「後遺症」の負の領域を拡大させ、本人の意識の持ち様とは関係なく、自身も明確な認識も得られないまま他者を「危機」に巻き込みながら破局へ突き進む。実際、そのような実例は身近な出来事の中にも多く見られる。

 どちらにしても「後遺症」は避けられないのであれば「後遺症」の「正」の領域を拡大させるにはどうするか。それは、生き延びたこと自体に「是」を見い出すことより、今までの生き方を根底から捉え直す方向で新たな人生を選び取り、その展開にすべてを掛けるしかあるまい。そこでは遅い早いは問題にならない。

                                               2014 7/27


416.冷静さが強いられる時


 感情に流されるのは容易で、一時は気持ちもよかろう。しかし、ただそれだけの話で何の展開にも、解決の道筋にもならず、事によっては取り返しがつかないことにもなる。また瞬間的にも感情に身を任せると感情自体が反芻増殖を繰り返し、やがてその呪詛から逃れることが難しくなる。感情の自縛力とはかなり粘液質で、もの事を鮮明に見えにくくする。今、誰でもが冷静さを失いかけている時だからこそ冷静さがさらに必要になってくるのである。感情的になるのは自分自身が状況に振り回されている時でもある。それによって引き起こされる諸々の事象は自分にとって「負」の積み重ねにしかならない。「負」の積み重ねは決して「正」には転化することはなく、詰まる所あらゆる局面で「危機」をもたらすことになる。

 現状は、冷静さが求められるという段階ではなく、冷静さが強いられているのである。冷静さとは,言いかえれば「思い込み」、「幻想」など、すなわち客観性を持たぬ非論理的な要素を極力排除する作業でもある。各自がそのようなことをいくらかでも意識して行動していれば大挙して愚行に走ることは避けられるかもしれない。あるかないか分からぬもの、すなわち「虚」に安易にすがること自体が己の脆弱性の証、その隙間にやがて「愚かさ」と「魔」が滑り込む。そして、「愚かさ」が「魔」の衣をつけていっぱしの者であるがごとくの振る舞いを始める。「愚かさ」の極みである。

                                                2014 7/24


415.「何の問題意識もなかった」とは


 「当時は何の問題意識もなかった」とはSTAP研究で名を馳せた「O嬢」であるが、私は彼女の言ったことを額面通りに受け取っている。だから余計に危うさを感じるのである。彼女の行為は極普通に「常識的な領域」でなされていたということを物語っているからである。これも日本の「特殊事情」というべきか、実に怖いことでもある。本来の道から完全に外れているにも拘わらずそれに対して何の疑問も感じることなくそれが当然のことのようになされていたということは本人自身の問題も皆無ではないが、そのような行為全般が許容される環境がすでにでき上がっていたということでもある。彼女の場合は取り上げた研究が大き過ぎただけに問題が一挙に浮上したが、そうでない者たちの「コピペ」行為、すなわち剽窃行為などはそれまでどれだけあったかは容易に推測できる。実際、細部に渡って調査すればかなりの量が出てくるのではないかと思われる。「O嬢」の問題を他人事のように扱っている者たちも自分の学生時代のことを考えてどれだけそれを否定できるのかということである。「コピペ」行為を要領よく日常茶飯事行っていたのではないのか、それが取りも直さず日本の似非文化の形成の一翼を担ってきたということは否めない実情でもある。だから、今その現状があるというに過ぎないのであるが、「O嬢」の問題は日本の似非文化の総体を実に「素直に」見事に映し出している。

※「O嬢」:敢えて固有名詞は出さない。

                                                  2014 7/20


414. 「みだりに東西に走りて浮草に似たり」


 それにしてもよく動き回る。それが何もない証左ともなる。その動きをよく見ていれば「めくらまし」以上のものではありえないこともわかる。実際、どこにも「根を張る」ことはできまい。もはや動き回るより他に手立てがないかのようである。「静止」はただ忌まわしき想念、事象を際立たせ浮き上がらされるだけであることを知っているのであろう。三文役者もまた「世界観」を明確に提示できぬが故にそれをごまかすためによく動き回り観客を欺く。大衆は小さな嘘には敏感だが大きな嘘にはころりと騙されると稀代の独裁者は言ったが、その「大きな嘘」の効用にも期限はある。真実など口が裂けても語れない以上、とにもかくにも西に東に動き回っては何事かをやっているように見せかけるしか方法はあるまい。相手の反応などはお構いなしの都合のいい勝手な解釈をそれに施し、何か成果でもがあったごとくの幻想を作り上げる。もはやそれ以上の問題回避の手段がないのであろう。彼の「忌まわしき想念」はすでに世界の至る所で看破され、寄る辺なき亡霊船のごとくに漂っている。世界はそれほど甘くないというのはサッカーだけにとどまる話ではない。今では国内で「成立する」ものの大半は「特殊事情」によるものと見做した方が賢明であろう。世界レベルではいかんともし難いものばかり、そうかといって今更ヒステリックに開き直ってみたところでもどうなるものでもあるまい。

 しかし、その様見れば見る程、まこと、「みだりに東西に走りて浮草に似たり」である。

                                                    2014 7/15


<番外日誌20140714>週刊誌、月刊誌は見るも無残

 要するに、「やることなすこと」すべてが見え見えということである。あることないこと織り交ぜてスキャンダラスに仕上げねば発行部数も減る一方なのであろうが、実に失笑モノの「話題」、「内容」作りばかり。なぜそうなるか、それは常に「肝心」な問題をいかに回避するかだけに神経が注がれているからである。ほんとうにスキャンダラスであれば大衆の関心も引くであろうが、「重要な」問題は手に余ると見えて重箱の隅を突いてはどうでもよい瑣事をほじくり返しているというのがその実情である。総じて、その状態は末期症状である。

メフィストとの契約は一度取り交わせば、それが最後である。後は堕ちるところまで堕ちるしかあるまい。


413.サッカーの悪しき一面


 私はスポーツ一般が好きで特にサッカーファンというわけではないが、ネイマール選手が「攻撃」を受けている映像を見て何とも言えぬ不快感を感じた。それは多くの者が感じたことでもあろう。たとえ「加害者」にいくらかの弁解の余地があったにしてもサッカーは格闘技ではない。これで反則も取られずゲームが成り立つのがサッカーであるなら少なくとも私はサッカーファンには絶対になり得ないだろう。不幸中の幸いでネイマール選手に後遺症はないということであるが、これで再起不能ということにもなれば「攻撃」をした選手の選手生命も絶たれることは容易に想像できる。そうでなくともすでに過激な抗議、物騒な話まで出ているらしいから今後も何が起こるかわかるまい。「攻撃」した選手自身はもとよりその妻子も大変である。国柄を考えても、後ろ指を指されるなどという生易しいものではあるまい。そして、もはやどのような謝罪も釈明も通じることはない。あわれであるというより、やった本人が謝罪程度で済むと思っていたとしたらあまりにも愚かである。彼の子供はもちろんのこと、サッカー少年、一般青少年に到るまで、将来に渡って払拭しがたい暗い影を落としてしまったということである。そして、スポーツ史上でも稀なこの汚辱に満ちた映像は半永久的に繰り返し流され,人々の脳裏に焼き付いていくことであろう。

                                                   2014 7/12


412.某芸能レポーターの曰く


 ある芸能レポーターが「芸能レポーターって、いわば芸能人の寄生虫なんですよ、芸能人がいなかったら芸能レポーターという仕事は成り立たない。」と言っていたが至極当然のことを言っている。しかし、このように明確に自分の位置付けがなされている者は意外と少ないものである。「番記者」などの類も寄生虫の一種であろうが、取り付いている本体の咳払いひとつで簡単に落ちてしまうような寄生虫では寄生虫としてもその存在意義が疑わしい。そのような者に限って御大層にジャーナリズム云々などと言いだすものだから話はややこしくなる。この芸能レポーターのいう「寄生虫」とは寄生も共生の一形態としての見立てで共利共生(相互に利益がある)という意味合いもあるだろうが、一般報道、特に政治報道では報道の対象と共利共生では報道の客観性は保たれない。むしろ片利共生(一方しか「利益」を受けない。この場合、「寄生虫」の側の「利益」)でしか成り立ちようがないのが報道の「純度」でもある。だからこそ、それなりの「覚悟」が必要になるのである。

 これも今更いうべきことでもないが、日々テレビなどで繰り返されるコメンテーターの「コメント」、解説者の「解説」は何の保証にも参考にもならない。分かったような気の利いたことを言ってみても言ったまでのこと。「騙り事」程度にみていた方が賢明で、その方が逆におかしな発見があるかもしれない。言い出しついでに、テレビの討論会もどきもそうである。テレビの枠で議論してどうなるものでもあるまい。実際、今までそれで何か意味があったのか?何かが変わったなどということはまったくといっていいほどない。つい「・・・それで?」とさらに問いただしたくなることばかりである。これは単なる「ガス抜き」なのか、それとも「ショー」か。三流のショーを見てまたガスをため込んでいるより、とにもかくにも「自分の頭」で考えて「やるべきこと」をやるのが先決でろうと思われる。暗闇の中で薄笑いを浮かべて生き長らえるか、鮮明に世界を切り取り得るか。それもやはり「覚悟」なくしてはできることではない。

                                                    2014 7/7

※少し前に書いたことをそのままにしてしまった。


411.「大手報道機関」とは「大手」の報道機関


 「大手報道機関」とは「大手」の報道機関で,「既得権益」側の報道機関なのである。したがって「大手」(1%の富裕層)にとって不利なこと、都合の悪いことは取り上げないということである。「大手報道機関」に一縷の幻想でも持っていると現状を見間違える。彼らにとって都合の悪いことは、真実どころか単なる事実ですら報道することは稀であると見るべきである。要するにスポンサー、資金提供者の批判になる事などたとえそれが事実であったとしても言えるのかということである。したがって、多くの者が共感を持つものでも「報道が少ない」ということは煎じ詰めれば彼らにとって「都合の悪い」こと、できれば取り上げたくないことでもある。それについては、それ以上語り得る領域がないといってもよいほどである。もし、もっともらしい事例を挙げてそれを否定し、語ろうとする「ジャーナリスト」がいたとすれば、それは似非ジャーナリストの類と言わざるを得ない。どのような講釈、弁明をしても事実を事実として伝えようともしない、その覚悟もない者をジャーナリストとはいわないからである。中には自らが身過ぎ世過ぎ今までやってきたことを棚に上げ他人事のように「興味本位」に取りあげることを「恥ずべき行為」などとしている者さえいるのが実情である。実際、「安倍君」とその周辺の者たちは、それ程のことかと思われることでも頻繁に報道されているであろう。それは「都合の良い」ことで「大手」の報道機関として経済的にも成り立つからである。後は飽くまで推して知るべしで、たとえ彼らに詳しく問うたところで彼らが本当のところを決して言うことはない。世の中は「大手報道機関」が日々伝える出来事だけで成り立っているわけではない。それは極限られたものである。彼らが伝えられることは彼らにとって都合のいい現実のほんの一部でしかないということを認識しておく必要があろう。そして、いつまでも彼らが咀嚼した現実を鵜呑みにしているようでは現実は決して見えてこない。隷属が骨の髄までしみ込んだ者に彼らがもたらす偏狭な現実の捉え方は隷属化をさらに進行させるだけである。  

                                                                           2014 7/4


<番外日誌20140703>「官僚の覚悟、政治家を動かせ」

 大衆受けするもっともらしい題をつけた「政治家の覚悟、官僚を動かせ」という本がある。虚言、詭弁を弄することを生業としている者が書いていることであるから信を置くに足るものではない。むしろ「官僚の覚悟、政治家を動かせ」とした方が実情に即していると思われる。

 集団的自衛権の閣議決定に至るまでの千万語を弄しての煙の巻き方、動き方はとても「安倍君」をはじめその周辺の者たちだけでできるものではない。そんな能力は彼らにはない。だからすぐにボロを出す、それでは困るのでボロ出さずに済む法律も作った。しかし、隠せば隠すほどボロの「形状」は見えてくる。単細胞的な私憤、欲望以外にこれといった「内容」を持たぬ者を利用するのは容易い。途中で目覚めることも、顧みることもなく突っ走てくれる。「安倍君」の動きは「官・財・〇」と一心同体でその動きを身をもって体現しているのである。したがって彼の甘言のすべては一部の利害のために多くの者たちを「死地」に追いやる方便であると見るのが至極当然の帰結でもあり、冷静な視点でもある。「官・財」の「覚悟」はいかに「政治家」を操るか、そして、マスメディア制御のために税金が湯水のごとく使われる。どれも陳腐な戦略なのであるが、それを見抜けない「いい大人」が今もって50%もいるというのであるから、これこそまさに国辱である。戦後70年、成長するどころか退化しているのである。これではその内に子供にまで愛想を尽かされ、見捨てられるのが落ちで、辛うじて憐れみの対象にはなり得ても尊敬の対象になることは決してない。


410.「だめだ、こりゃ」


 昔、「アッと、驚くタメゴロウー」なんていうのが流行ったが、かなり前からブラックジョークですら然もありなんで、ジョークとしても成り立たずブラックの色調も意味がなくなっている。ブラックがブラックとして明確に把握されないままいつの間にか黒く塗られているというのが実情に近い。そして、本人の意識の持ち様とは無関係に必然的にその負の領域、闇の領域は拡大、増強していく。やがて、それが何らかの形状を取り暴発するのは当然であろう。

 誰がどのような文脈で「平和ボケ」などと言ったのは知らぬが、その意味する内容はわかり易いようであるが、実は不鮮明である。そして、何かと言うとこの造語を意味ありげに遣う者とは概して自分自身が一番ボケていることに気づいていない場合が多い。要するに「平和ボケ」とは「経済ボケ」、「欲ボケ」の言い換えでしかないものをある意図のもとに恣意的に遣われてきた言葉ともいえるのである。民主主義では「主権者たる」国民がボケていたら成り立たないのと同様に平和という状態もボケていたら決して長くは続かない。「平和ボケ」で辛うじて成り立っている自分の社会的地位から今度はその支持基盤に向かって「平和ボケ」と他人事のようにいうのだから笑止というほかあるまい。言ってしまえば、「欲ボケ」の者が「平和」という現状自体が邪魔になってきたというだけのことで(今に始まったことではないが)、そのために千万語の詭弁を弄しているのである。多くの血の代償ともいえる「根本法」を「解釈改憲」などと弄んでいるのであるから戦争で死んだ者たちも浮かばれまい。ミスリードはどのように言ってみてもミスリードである。過去の誤りを正当化するような方向では発展の道は確実に閉ざされる。それについては古今東西、諸般不変である。

 それにしても平和とは戦争のことなのであろう、集団的自衛権に加担している「政党」が法華経の信奉者を支持母体としているというのだから筋が通らないこと甚だしい。これではカルトといわれても仕方あるまい。

 そして、新刊本のコーナーには「何が起きても、大丈夫」というのがある。またどこかの新興宗教の教祖などが書いているのだろうと思ったら「ジャーナリスト」という肩書の「御仁」であった。今、ここにきて「何が起きても、大丈夫」というのであるから薄気味悪いことこの上ない。ジャーナリストもピンキリではあるが、権力の走狗と成り果てた者も実に多い。

 福島原発の現状、解釈改憲の現状、集団的自衛権の閣議決定等々・・・そして、「教祖様」の「何が起きても大丈夫」となれば、これはもう何が起きても不思議ではない。後は舗装された道を走るように加速されて行く、その先は敢えて言うまでもない。もはや、「だめだ、こりゃ」で笑っていられたのも昔話なのである。

                                                                                                                                        2014 7/1

 

 

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