「ある日、その時」(31)2014年1月ー

<掲載内容>

386.再びFace book,ツウィター、ブログにつて(削除) 387.東京都民の意識レベルが真に問われる日 388.(削除)389.雪が降る・・Tombe la neige・・・390.「世界の街歩き」中で・・・391.藁(わら)をもつかむ思いで392.アイフォン片手の無灯火自転車 <番外日誌20140311> 393.「〇〇騒動、マスコミからも批判」?394.「まねし権兵衛」 <番外日誌20140320>父親も茶髪、母親も茶髪・・・

                                             (転載・複製厳禁)



<番外日誌20140320>

 父も茶髪、母も茶髪、父親の手には漫画本、耳にはイヤホーン、母親もゲームに夢中、その前方には二人の子供が両親に負けず劣らずの出立ちで歩いている。子供の名前も「龍」だの「ダイ」がつく名前のようだった。

 少子高齢・格差社会を「物ともせず」突っ走る一群にはこのような人々も含まれるだろう。その先の事態は火を見るより明らかであるが、彼ら自身にはやはり何も見えていない。


394.「まねし権兵衛」


 「まねし権兵衛」とは岡山の方言で、すぐ人のまねをする者をいうらしい。安直に他人のものを戴いたり、まねをすることは達者だがそれ以上ではないというのはやはり肝心なものが抜け落ちていると見るべきであろう。「他人のもの」を自分流に使っても、それに見合った「文脈」がなければそこだけが浮き上がって、その不自然さは如何ともしがたいものとなる。それでもすぐにその気になってそれで済むと思える者とは、我と我が身を知らぬ、事をなし得るに必要不可欠な誠実さが欠如している者ともいえる。おそらく、「まねし権兵衛」は何でもできる気でいるのであろうが、それは飽くまで皮相部分だけで、「ほんとうの領域」には一歩として入り込むことはできない。実際に何ものも「手に入れる」ことはできないだろう。今後、ますます多くなるであろう「まねし権兵衛」の座右の銘とは「人生とは要領の良さ」だけである。それは要するに、それに見合った人生しか展開のしようがないということである。「ダイジェスト版」はどこを取っても「ダイジェスト版」、「本体」とは本質的に異質であるからである。

                                                2014 3/20


393.「〇〇騒動、マスコミからも批判」?


 「マスコミからも批判」?意味不明、実のところ噴飯ものである。加害者が被害者に説教しているようなものである。そもそも日本のマスコミ(極一部を除いて)に批判能力などあったのかという話である。「批判」の対象次第では幼稚園児並みの正義感をふりかざし、取材も必要としないような陳腐な真偽の程も怪しい内容に裏事情を織り交ぜてのもっともらしい「ご開陳」である。要するにやるべきことをやっていないのである。プロなら命かけて取材すべきで、一体何様のつもりでいるのかと聞きたくなるのである。聞くも愚か、見るも愚か、だから見ない聞かない読まない買わないのであるが、それでも現実生活を営んでいると拷問のように否応なく目や耳に入ってくる。見ざる聞かざるにも限度があり、つい言わざるを得なくなるというところである。

                                                  2014 3/12


<番外日誌20140311>

Remember,remember,the11of march・・Nuclear power plant disaster of Fukusima・・・・・・never forget!

忘却は、新たな「深み」に我々を押しやるだけで何の展開ももたらしはしない。そして、再び3・11の福島原発事故のような「深み」にはまればもはや何の救いも、未来もないと思い知るべきである。


392.アイフォン片手の無灯火自転車


 アイフォンを操作しながら無灯火自転車がかなりのスピードで走り去って行く。日本ではそんな光景はもはや見慣れた光景になってしまったが、現状の様相を象徴的に見せつけられる思いがする。想像力の貧困としか言いようがないその行為は日常的にロシアンルーレットをやっているようなものであるが、その意識がまったくないのである。これでは海外に行って何があっても不思議ではないが、国内にいてもどこに向かって突っ走るかわっかたものではない。いつの間にか崖っぷちに立たされていても、崖っぷちという意味も実態も見えてこない。おそらく滝つぼに飲み込まれる瞬間までアイフォンに気を取られて現実の感触がないのではないかとさえ思われる。

 平和時の文明の利器が次の大戦の要因となる。そのようなことを言った女流劇作家がいたことをまた思い出した。

 暗闇を無灯火自転車で走ること自体に何の抵抗も感じなくなって行く感性が怖い。アイフォン片手に現前の事実をきちんと見ることもせず走るのであるから、何があってもおかしくはない。一事とは万事なのである。やがてはどこかに最悪のケースが現れるということは避けられまい。現に、日本の現状は闇夜に突っ走る無灯火自転車そのものである。それも見たこともないような崖っぷちに向かってまっしぐらである。

 さらに最近では「まじめな人」に出会うことさえ稀になってしまった。どこを見ても半端でヤクザなお笑い芸人のような手合いばかりである。こうした有象無象のわがもの顔の態度に不愉快の域を通り越している者もまた少なくはないはずである。「まじめではないこと」が凡夫の証であることは以前にも書いたが、凡夫とは「普通の人」でもなく、そうかといって「庶民」、「市民」でもない。「歪められた」人々というコンセプトの方が近似の領域を見出せる。

 多くの者、すなわち凡夫とは、「根源的」にまじめに「なる」ことが不可能なのである。ほんとうにまじめになる瞬間があったとしても、せいぜい「愛するもの」の死の前後くらいであろう。したがって、凡夫にとって「愛するもの」の不在は、まじめになる瞬間が皆無であることを意味する。一瞬たりともまじめに世界を捉えることのできぬ者たち、「阿Q」ばかりでは行く末は悲惨である。当然何ひとつとしてものにならず、だらだらち生き延びて、言うことは常に言い訳がましい自己正当化ばかり、よく飽きもせず生きていると思われるが、阿Q同様、死を目前にしても「ご託」にうつつをぬかす、死んでも治まらない不治の病であるともいえる。たとえ生き延びても生ける屍ではいかなる意味づけも無意味であろう。

 小さき幻影にすがる者はやがて大きく足をすくわれる。

                                                    2014 3/5

 


391.藁(わら)をもつかむ思いで


 「藁をもつかむ」とは、すでに「溺れている」いうことである。この段階では傍に「救命具」があっても気が付くまい。後は藁を握りしめ沈んでいくだけである。世にものが見えなくなる要因はいくらでもある。単に一定の生業や収入がないことだけで人は精神も不安定になり、たやすく「道」から外れもする。いわゆる恒産なきものは恒心なしで、いとも容易くものが見えない状態に陥いることになる。恐怖心はいかなるものからも容易に芽を吹き世界の「切り取り方」次第では一瞬にして巨大化する。その多くは妄想そのものか、それに限りなく近い。だから怖いのである。そこでは「知」の領域が成り立ちようがなく排除されているからである。一旦恐怖心に捕えられると前意識中でも自己増殖を繰り返し、やがて理不尽に自己を追い込みとんでもない行動に駆り立てられることになる。

 「世界に冠たる・・・」云々の連呼は、必然的に原発再開、新設を引き寄せる。小さきものが「大」を冠するには尋常のことでは事足りず、かなり無理をしなければならなくなる。そして、気が付けば本体が手の施しようもなくボロボロになっていたということなど個的にも歴史的にも枚挙に暇がない話である。この小さな国で「世界一」を達成するために、原発増設が正当化され、まったく収拾のつかない領域がさらに増え続けるのである。原発とその廃棄物に囲まれて城でも建てるつもりなのか。そして、誰もいなくなったというのが冷徹な者が見据える未来図である。まだ溺れてもいない者が「世界一」という糠(ぬか)のようなものにまぶされた「藁」を握りしめ、敢えて前人未到の取り返しのつかぬ深みにはまろうとしているのである。結果は明々白々である。しかし、自らが選んだ道だという意識すらないところがさらに恐ろしいところでもある。現実的にはまだ「溺れている」とは言い難い者も藁にすがるのである。

                                                  2014 2/26


390.「世界の街歩き」の中で・・・


 ノルウェイーの街角で、路上の片隅に咲いている花を摘んでいる小学生くらいの男の子たちに、「それをどうするの?」と聞くと「ママにプレゼントするの」と言う。日本では津々浦々どんな片田舎に行っても決して見ることはできない光景であろう。それはもう生活習慣の違いなどと言って済まされる問題ではなく、精神文化の根幹から派生してくる一断面でもある。たとえ習慣にしても「良き習慣」を顧みようともせず、「悪しき習慣」に身を委ねていることさえ気が付かないようではやはり根幹部分に致命的亀裂が生じているとしか言いようがない。

 私は、「人間」を探しているのか、久しぶりに「人間」の子供に出会った思いがした。

※スカイパーフェクトTV「旅チャンネル」より

                                                2014 2/22

                                            


389.雪が降る・・Tombe la neige・・・


 20年(→45年)振りの大雪だそうである。20年前(45年前)と言えばと様々な思いを甦らせている人々もいることであろう。窓越しに見える白いスクリーンに「カット」インしたりアウトする心象は取り留めもなくコラージュ風である。しかし、なぜか「mon coeur s’habille de  noir」で心は重くなる。

 何年か前、芝居がハネてピエール・ノットやそのグループとカラオケのある店に行き、ピエールと二人でアダモの「Tombe la neige」を歌いながらかなり戯画風な当て振りをしたことがあった。あの時の「Tu ne viendras pas ce soir」(あなたは来ない)のTuは「En attendant Godot」(ゴドーを待ちながら) の「Godot」のようになっていたような気がした。それはもちろん男でも女でもなく、神でさえなく「何か」であった。

その単調な白の積み重ね

白い質量は

埋め戻された不在と

孤独を呼び覚まし

それが罪でもあったかのように

やがて汚辱にまみれ消え去る

 

※13年→20年→45年振りと降雪量の変化とともに過去に遡っていった。確かに自宅の庭の塀の積雪も5センチ、10センチ、23センチと増えていったが、最終的には27センチまでいったそうである。

                                              2014 2/8

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388.(削除)「D夫人云々」敢えて語るに如かず

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387.東京都民の意識レベルが真に問われる日


 今回の都知事選挙は東京都民の意識レベルをいやが上にも世界に向けて発信することになるだろう。関係ないでは済まされず、今後どこに行ってもその意識レベルの世界判定が付きまとうことになるのは必至である。すなわち、「市民意識」の欠如の有無、その「社会的堕落」の度合いを具体的に否応なく世界に向けて開示することになるということである。言ってみれば日本人に関する世界認識に対する「最期」の自己表明、意思表示の時であるとも言える。そして、その結果が今後もまたあらゆる領域で影響を与え続けることになるということである。たとえどのような意思表示をするにしてもも少なくとも現政権維持の方向がプラスで働くことは決してないことだけは確実なのである。「誇りを持て」などと言ってみても実際にやっていることが先のない単なる「終焉」に突き進むだけの独善的なエコノミック・イエローモンキーでは世界の嘲笑と非難は避けられない。

                                                    2014 2/2

追記:小さな地震大国に後始末も出来ない原発を次から次へと稼働させること自体が大変な間違いを犯しているのである。況や増設、再稼働などは論外である。そのことについていかなる釈明をしてもそれは所詮亡者の詭弁の域を出るものではない。これは日本の近未来の将来を閉ざすと同時に国土自体を修復不能な死地と化すことになる。欲望に目が暗みものが見えなくなった人間の自然に対する驕り、自己過信が露骨に現れる時、常に最悪な事態が用意されてしまうというのは過去の事例が物語るところでもある。この時代に生きたすべての者が成り行きの如何によっては将来断罪されるというのが歴史的必然でもあり、我々は今その岐路に立たされているのである。一つくらいは子孫に「誇れるもの」を残してやってはどうか。「誇れるもの」の一つとは、すなわち原発の放棄である。


386.再びFace book,ツウィター、ブログについて


敢えて今更語るに如かず。(2014 2/14)削除

 

                                                                        2014 1/29

 

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