「ある日、その時」(30)2013年11月8日ー

<掲載内容>

377.煎じ詰めれば総じて因果応報 378.世界の趨勢に逆らった「悪法」 379.「有名であること」と信頼性の有無は別物 380.一頃「ねじれ国会」などと喧伝していたのは?<番外日誌20131215>年の瀬も 381.オルフェーブルのラストラン 382.それを「作家」というのか 383.枯葉さんざめき 384.芹何某の曰く  <番外日誌20140124>それでも、人生は魅力的である。それは・・・385.石原何某の言動とは?

 

                                           (転載・複製厳禁)



385.石原何某の言動とは?


 残念ながら、彼の言動そのものが現在の「日本の文化レベル」と思ってほぼ間違いない。機に乗じては他者の誹謗・中傷を平然と行う「義」のない元芥川賞選考委員にして元都知事。もうこれ以上恥の上塗りは止めた方がいい。とても見聞に堪えるものではない。石原に対する三島由紀夫の見立てにも寸分の狂いはなかった。彼の存在そのものが「まともな」日本人にとっては好い迷惑なのである。彼が1955年34回芥川賞を受賞した時の選考委員の評には彼の今の姿を言い当てているものがある。当時はまだ眼力という点でもさすがと言い得る作家たちがいたという証左でもあろう。彼の現在までの経緯を見ても彼の「太陽」は徹頭徹尾Fakeであったということに過ぎないが、それは取りも直さず現在の「日本の文化レベル」がFakeであることを指し示す大きな指標ともなる。「文化レベル」というのがわかりにくければ「意識レベル」と絞り込んで置き換えてもよい。

                                                         2014 1/24


<番外日誌20140124> それでも、人生は魅力的なものである。それは・・・

Mais la vie est charmante.C’est selon le verre par lequel on le regarde.


384.芹何某の曰く


 ある日、芹何某という御仁が「整形美容の院長が世相を斬る?・・・、世相のどこを斬るの?、斬る前に底が割れている感じだね。切るのは女の顔だけにしておいた方がいい。高級外車乗り回している成り上がりの軸足がどこにあるかなどは分かり切ったこと。臆面のなさというか、すぐにその気になるのが多過ぎるね。実に多い,このパターン」と言いながらPCを閉じた。

 何を今更わかり切ったことを思ったが、まあ、芹沢何某の気持ちもわからない訳ではない。「斬る」だの、「毒舌」などと言ってみたところで個人的「悪口」、反キャンペーンの一環の域を出ないものがほとんどで、大方は当たり障りのない自分の身に危害が加わる恐れのない対象に限られている。そうでなければ大きな後ろ盾を持っているからできるという程度のものであろう。後ろ盾を持てば今度は自由な毒舌という訳にはいかなくなる。すなわち自由闊達な毒舌などというものはあるようで実はほとんどないといってもよいのである。そして、ほんとうに核心部分を「斬る」ことができる者とは、「こだわり」や「欲望」などを自在に断ち切れる位置に身を置く者,すなわち自由自在な者だけに限られる。しかし、それは必然的に「表舞台」などというものとは乖離概念にしかなり得ず、相容れないものとなる。したがって、核心部分を的確に「斬る」ことができる者とはやはりよく見ていないと見落してしまうようなところにしか存在し得ないということになる。どちらにしても真実の近似値はそう簡単には手に入らないということであろう。一般的な「毒舌」、「斬る」などの内容は暇人の「お遊び」と見た方が実情に近い。況や「裏話」の類は「真実」どころか人が小便を「○×公園」でするしないの域を出ない。

                                                     2014 1/21 


383.枯葉さんざめき


公園の片隅で

少女のブランコは振り切れている

叫声と奇声が

冬木立を縫う

枯葉さんざめき

冬木立の切り取った青空を

少女は全身で受け取った

あー、風が気持ちィー

 

 

 

                                    ー2014年 1月の雪の降りそうな昼下がりー 

 

 


382.それを作家というのか


 媚びへつらい、当たり障りのない「要領」だけの作り手を「作家」とは言わない。それが書き手であれば売文業と言うのが一番実態に即している。中には巧みな「技」、「奇」を習得した売文業者もいるがやはり「作家」というには何か「本質的なもの」が欠如しているのである。「才能」などというものは「きらびやかなもの」ではない。「本質的なもの」に近付けば近付くほどその「光量」は「きらびやか」などという範疇には収まりきれないものとなる。見え透いた要領だけの作り手がこねくり回した世界が瞬時に色褪せるのは精神の「葛藤内容」の質的浅薄さからくるのであろう。それがどうにも鼻持ちならないのである。だから印象に残るものがない。たいした才能もない者が才人気取りでいるのはどこの世界も同様である。

 いつだったか「ジャーナリスト」氏が以前の某流行作家に対して「面白くないから売れないのだ」などとしたり顔で言ったことがあったが、これなどもは実質的には金にならないことは無意味、金になることをすべきであると自己暴露しているようなものである。売れる売れないがすべての基準であるなら、ゴッホもモディリアーニも生前は画家ではなく、カフカも作家ではなかったことになる。売れなかった「面白くない」作家・カフカと今を時めく売れる「面白い」作家・村上春樹とどちらを取るかは各自の勝手であるが、そこでは売れない売れなかったなどという価値基準はまったく意味を成さず、質的価値基準を設定することも無意味である。もちろんゲーテの「若きウェルテルの悩み」が当時のベストセラー作品であったことにも、前代未聞の発行部数を誇るJ・K・ローリングスについても面白いから売れたのであって、それについて異論をはさむつもりはない。しかし、面白いのに読まれなかった、観られなかった作品も多くあることも知るべきなのである。そして、どうしてこんな本が売れるているのか、どこに面白味を見い出せばいいのかわからない本が多いのも実情である。だから似て非なる御仁の「面白くないから売れないのだ」などというもっともらしいが、どこか怪しげな説には難癖を付けたくなるのである。歯牙にかける程の内容でもないが、それは「ある日」の「その時」に去来したものに対するその時の腹加減にもよるということでご容赦願いたい。

                                               2013 12/25


381.オルフェーブルのラストラン


 見事である。その一言に尽きる。誰が騎乗しても同様であろう。もともと人間の思惑などとは無縁な自在な馬ではあるが、この日、これが自己の力の限りを出し切れる最後の機会であることを察知した君は無心に走れた。ただそれだけのことかもしれない。2位との差は8馬身、その差はさらに大きくなることはあっても縮まることはなかった。自らの力を見せつけるということもなく、持てる力を余すところなく出し走り去った君には自己の最期の証明などという思いすらなかったであろう。興奮冷めやらぬ君の横歩きに何とも奇妙な潔い心地よさを見た。

 それにつけても何とも醜悪さばかりが際立つのが人間の所行である。人の嘘にて生きる世に、動物達に心を寄せる人々の思いは痛い程よくわかる。特にオルフェーブルのようなレベルの馬になるとその感受能力は人間のそれをはるかに上回っているように思われる。

 時の関心事に自己を重ね合せ巧みに合成するのも「成り上がり」、「為政者」のありふれた手である。御多分に洩れず駄馬と比較するのも憚れる者が、「来年は駿馬のごとく障害を乗り越える」と得意そうに言ったそうだ。それは「乗り越える」のではなく「素通り」、「見て見ぬ振り」、「排除」と言った方が適切であろう。正すべき襟さえ持たぬ者たち、それが「為政者」というものの実態となってしまった昨今、すべての動物たちがさらに神々しくさえ見えるのは感受作用の当然の成り行きでもあろう。足元も見ずして「偽りの夢」を騙る者たちに振り回されていてはオルフェーブルのラストランの半歩にも及ばない。オルフェーブルを名馬に「仕立て上げる」のではなく彼を見倣うべきなのである。

 オルフェーブルは常に「感じる心」を持ち続け、それが時には仇ともなったが、多くの人々と共にありながら己をとおした馬なのである。

 オルフェーブルよ!

 君は人々の心の中から決して走り去ることはない。今もなお走り続けている。

                                                                                                                                 2013 12/22

                                                     


<番外日誌20131215>

年の瀬も 「冥土の旅の 一里塚

もの言えば 唇染(し)みる 一里塚

 人間が「自由であるべく呪われている」のなら、後は覚悟があるかどうかであろう。できること、やるべきとを各個人が実行するしかあるまい。言い訳がましいこと、もっともらしい理由付けなどやめた方がいい。「内患」から」目をそむけ、「外憂」を煽り立てて「悪法」成立の釈明の理由とするなどは忌まわしき者達の常套手段である。食糧自給率もほとんどない、拡大する放射能汚染地域を抱え解決の目途も立たない、少子高齢社会の国がいくら勇ましいことを言ってみても「分析」以前に現実的に勝算は全くない。やがて「兵糧攻め」でも片が付いてしまうのが落ちなのである。愚者か走狗か、走狗であるなら何者の走狗か。走狗も梯子を外されればそれで奈落の底である。そんな分かり切ったことを敢えて反芻してしまう昨今である。現状は、大局的な視座に立った世界との協調、それが最優先課題であると同時に最終課題であることは明らかであろう。今となっては、すべてにおいてそれしか残こされた道はないからである。それを逆走すればどうなるかは自明の理。それにしても「絶滅危惧種」としか思われない選択肢の選び方である。タナトスでも取り付いたのか。

 

追記:「できること、やるべきことを実行する」とは実は誰にでもできることではなさそうである。「Un héros c’est celui qui fait ce qu’il peut」(Rolland) すなわち、自分にできることをする人間は英雄と呼び得るものらしい。言い換えれば、凡夫とは自分ができることさえもしない人間ということになる。

 


380.一頃「ねじれ国会」などと喧伝していたのは?


 「ねじれ国会」などという安手の「コピー」で人はいとも容易く煙に巻かれ、その挙句がこれである。「ねじれ国会」などと煽り喧伝する意図は最初から見え透いている。私は以前のブログでも書いたが、この「ねじれ国会」などという「コピー」の「コンセプト」自体がすでに<反>民主主義的なのである。だからこの「コピー」をマスメディアが垂れ流し始めた頃からそのあまりにも粗悪な「コピー」の内容に不快感以上の吐き気に近いものを感じていた。これで「了解」できる者とは民主主義の意味が分かっていないか、その方向性を持たない者ということを意味する。そして、その場限りの「売れ線」狙いといってもいい「コピー」の乱用、合成のようなもので簡単にその気にさせられ、やがて恐ろしく危険で安易な「概念」を「作り上げ」巻き込まれていく。発信側も現実的には国民を衆愚としてしか設定していないので敢えて意味不明の空疎な「わかりやすい」コピーをまき散らすのである。実際、「ねじれ国会」をなくそうという思いで投票所に行った人々が何人いるのか。徹底的に馬鹿にされ、何度裏切られてもそれでもまだ尾を振る者たちとは何とも哀れである。民主主義とは国民に「考えること」を否応なく強いるのである。それを放棄した瞬間、民主主義などは鼻息程度で簡単に崩壊する。日本の場合は崩壊も何も、もともと民主主義の「体裁」を取っている国といった方が適切で、その「形骸」に見合った「中身」を注入することを常に怠ってきただけともいえる。そして今、その「体裁」すら危ぶまれているのである。

                                                      2013 11/30



379.「有名であること」と信頼性の有無は別物


 「有名であること」と信頼性の有無は別物であるということが至る所で発現している。然もありなんである。以前の「雪印」の衛生管理上の問題にしてもその原因は明らかで、そうなることがわかっていてやるべきことをやっていなかったのである。最近の食材偽装もどこか「未必の故意」に近いものがある。例えば、福島産のものであっても交通ルートを変えて「西のもの」を装っている「闇」業者は後を絶たないと聞く。そのような業者が入手ルートを偽って安く「一流店」に卸そうとすれば分かってはいても背に腹はかえられないというのがその実情であろう。食材偽装の連鎖にしても昨今の事情からどこでもやっているという感覚がいつしか「未必の故意」に辛うじて残っていた罪悪感すら払拭していく。私自身は止むを得ない場合を除いて食材の質が見えないもの、加工食品も含めて自分で選べる食材しか口にしない。それは延命云々の次元の問題ではない。それは生き方の根幹を成すものでもある。

 「有名であること」を敷衍すれば、「有名であること」だけを根拠にその言動のすべてを受容するととんでもない誤りを犯すことになるのは今も昔も大して変りのないことである。名もなき者は言うに及ばず著名人といえども書いていることや、実際に「行ってきたこと」がそのすべてでそれ以外は何ものでもない。私の今までの単なる経験則から考えても、マスメディアに頻繁に登場する「有名である」者の90%程はその言動から似て非なる者、ニセモノとしての感触しかない。彼らに共通しているのは、簡潔に言ってしまえば物事を処理する「要領」しかなく、自らの言動に命を賭するほどの覚悟もないということである。したがって、「何とでも言える」がそれは常に反証の対象にしかならず、(「反証可能性」を持つという意味ではなく)信用するに足りるものではないということになる。しかし、今までのようにテレビなどのマスメディアに出ているということだけでその言動のすべてを「許す」ほどオメデタイ人間も減少傾向にあるようにも思われる。それも単なる錯覚過ぎず、実質的には何も変わらずテレビから違う伝達手段に移行しただけのことなのかもしれない。しかし「移行」自体が「無意識」の内に、明確に対象化できないと言う意味であらゆる「契機」をすでに内包していることを考えれば悲観楽観問わず余談を許さない。

 月影に自らの姿が映し出されていても、月が見えない動物がいる。見えるのに見ようともしない者もいる。もちろん、太陽は直視できない。見事な月を背に「小さな利器」の発する光に顔をうめて歩く者、数人。電柱には帯を垂らした老婆が寄りかかっている。これから何が起ころうとしているのか。

 

                                               2013  11/18


378.世界の趨勢に逆らった「悪法」


 悪法であることがわかってはいてもそれに従って毒杯を呷ったソクラテスのような人物ばかりが世の中にいるわけではない。「悪法」はやがてそれに対峙しざるを得ない者たちの繋がりを強固にし、その中から義を尽くす者が必ず現れてくる。世界の趨勢から逆行する「悪法」は一体何をもたらすか。起こり得ることは多岐にわたり、事程左様に意のままにならぬのがこの世界であるということが明らかになるだけである。

 厳密に言えば「歴史は繰り返す」ことはない。歴史は絶対一回性の不可逆変化そのものである。歴史を検証し、参照することは有意義なことではあるが、それを基に状況が類似していることだけを理由に「警告」を発しても多くの者は具体的に何も見えてこない。中にはセピア色の郷愁さえ感じてしまう者もいることだろう。たとえ「体験」が甦る者がいたとしても「体験」だけを拠り所とすれば検証・分析より「思い込み」の方が先立ち、目前の事象を正確に見ることを妨げ却って根拠のない希望的幻影を再構成することにもなりかねない。そういう意味では再び「歴史は繰り返される」とも言える。しかし、「虎」の尖兵と成り果てて(尖兵として成り立つかどうかは不明)「新ファシスト」とはあきれるばかりである。「新」などとは遣わない方がいい、「亜流」と言った方が妥当で、実態は「亜流傀儡ファシスト」である。

 希望的幻影は自信を喪失したものに絵に描いたような「夢」を与える。日本でしか通用しない特殊な歴史認識もその夢に加担し、普遍性のない途方もない「夢」はいつしか肥大化し「悪夢」となる。だだし、その「悪夢」は過去の事象と相似形ではあり得ても質的に一致することはない。その質の変容の全体的把握は人間には困難であろう。現状では具体的「手応え」が見えにくくなってはいるが、進んでいる方向は見える。しかし、何においても受け身で縫うように生きるのが賢い生き方であると思い込まされている隷属が身に沁み込んでいる人々である。民主主義などとは本来的に相性が悪いのではないかとさえ思える。実際、1960年前後には民主主義はすでに形骸化し、それをそのまま今日まで引きずってきたその付けがこの間の「珍事」を縫って今このような形となって現れたと見る方が理に適っているからである。

 因みに、体制内「変革」を志す者、体制内「変革」に誘い込む者は「偽りの人」である。因循姑息な枠内での「変革」などというものが実質的に「民」のための「変革」とはなり得ないからである。野党は永遠に野党として与党の脅威として力を持つべきで、それが現状の最低限度の健全なあり方の一つでもある。

 

                                               2013 11/10

追記:偽装の一連の出来事、一事が万事である。「一流ブランド」レストラン、ホテルでフランス産と称された韓国産に舌鼓を打つ。五感すべてがニセモノにならされているのである。また偽装の総元締めのような者が福島産に「舌鼓を打つ」、ほんとうに「風評被害」などということで済む問題なのかと思うのも当然であろう。

                                               2013 11/15


377.煎じ詰めれば総じて因果応報


 因果応報とはよくいったものである。それは世上を見ていてもよくわかる。人を欺く者もその当然の結果が思っても見ないところから具現し、やがて凋落していくという具体例は古今東西枚挙に暇がない。それは自業自得ということでもあり慈悲の対象ではあっても同情の余地はまったくない。捏造、糊塗、虚偽はいかなる手を講じてもいずれ発現し、当の本体の瓦解をもたらすこととなる。因果応報にしても自業自得にしても本来的には仏教色を帯びた言葉であるが、「にも拘わらず」論理的でもあり合理的な捉え方なのである。

 「親の因果が子に報う」という身近なところから過去の因果が必然的に現在に報うというところまで本質的には同一であろう。いくら現実的に利口な生き方、やり方とは言ってもやはり騙しは邪道、外道で一時の活を得られたしてもその付けは「思ってもみないところから」回ってくるということである。この「思ってもみないところ」というのが味噌である。中には通俗的意味での確信犯もいるが、その者自身に訪れるであろう「因果」の発現箇所も時期についても本人は察知することはできない。わからないからやっていられるとも言えるが、人生そんなに甘くはないということである。そうかと言ってマッチ箱をニトログリセリンのように扱っていても硬直した人生しか見えてこない。要するに賢明な人生を送るにはどうしても「明晰さ」が不可欠ということになる。

                                                                                                                                     201311/9


                                                       

 

 

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