「ある日、その時」(27) 2013年 3月7日ー

<掲載内容>

354. 恐れ入谷の鬼子母神  <番外日誌>2013312   355. 齢人(よわいびと)の迷走と暴走  <番外私設掲示板>2013326  356.衆院選の「無効判決」(広島高裁) 357.再び「策士策に溺れる」 358.「竹光」と「本身」359.顔 360.傀儡師(くぐつし)の・・・政治が無頼漢の最期の拠り所では・・・361.「ぶっちゃけ」て隠されるもの<番外私設掲示板>2013612 第三の矢か第四の矢か知らぬが

                                                    (転載・複製厳禁)



<番外私設掲示板>2013612

 「第三の矢」だか「第四の矢」だか知らぬがこんな子供騙しのようなレトリックが通用するのも「先進諸国」の間では日本だけであろう。取り巻きの有識者(官僚も含め)とやらの見識、すなわち彼らの知性、感性共に怪しく、幼稚でもある。その点では国民の意識レベルと同体化しているのであろう。彼らの手に押されて緩めに結ばれた日の丸鉢巻姿の安倍晋三が的もない矢を放っているという姿、そのような戯画が海外のマスメディアに出ていても何ら不思議ではない。もうすでに描かれているのかもしれないが、最悪なのは放たれた的のない矢の行き着く先が実は自国民ということである。また、国内で破綻をきたし今もって収束のめどの立たない不良品を海外に売りつける、商人の風上にも置けない者が経済人として能書きを垂れる。どこをどう取り上げても笑止などと言って収まるものでもない。結局、射られるのは国民自身で明日は我が身ということである。

                                                


361.「ぶっちゃけて」隠されるもの


 「ぶっちゃけ」などという言葉が枕詞のように遣われる内容についてはどうしても距離を置かざるをを得なくなる。たとえどのようなことであれ事の真相を包み隠さず告げることは容易なことではないからである。「ぶっちゃけ」などという「リズム」に乗せられて導き出される内容は大なり小なり恣意的であることから免れることは難しく、少なくとも現状の一部を辛うじて告げるだけで全体を見渡せるものとは成り難い。

 「本音」などというものも、現実的には「欲しい」「やりたい」などの欲望のテリトリー以外のものではあり得ず、「本音」の「「本体」を敷衍させ、行き着くところまで行けばいつか犯罪領域に足を踏み入れていることにもなるというのが現状でもあろう。「本音」と「建て前」を並立させ「本音」に意味を置き過ぎるのは実は危険なことでもある。「本音」は真実ではなく、単に欲望(個人、集団)に突き動かされていることの方が多いからである。

 「人間」には個々の「本音」などにはお構いなしの「建て前」というものが必要なのである。そうでないと都合の良いようにどこまでも崩れて行くのが「人間」なのである。

※ここで言う「建て前」とは「モーゼの十戒」、「戒律」、各国の「憲法」なども含まれる。これらの根本「原則」に「時代の都合」などは関係ない。日本の憲法も多くの日本人の血によって導き出されたことに変わりはない。「時代にそぐわない」などという理由で安易に手を出すべきではないということである。

                                                    2013  6/1


360. 政治が無頼漢の最期の拠り所では・・・


   傀儡師(くぐつし)の 木偶(でく)は何処へ 青天井

   傀儡(かいらい)の 主はなしや 裏鬼門

        狂い咲き 一期は夢の 木偶坊

   木偶坊 主もなしに 徘徊し

 

    呟き言も世事に追われ、囚われているとついつい五七の点描風になってくる。

   どちらにしても政(まつりごと)はもう少し頭の良い者、それなりに研究した者がやらない

       といけない。そうでないと詰まる所私利私欲の亡者達に蚕食されて国は朽ちるだけである。

                                             2013 5/8  



359.顔


 最近、のっぺりとつるんとした顔なしのような顔ばかり見ているせいかクリント・イーストウッドのような「年輪」として確実に刻み込まれた皺を持つ顔を見るとほっとする。実際、今でも現役で監督、俳優として活躍しているイーストウッドの顔は実にいい顔をしている。残念ながら日本ではこのような人物に出会うことは稀になってしまった。それは常に「肝心な『もの』、『こと』」(「避けて通れない問題」、「根幹を成す問題」など)を真正面から見据えることなく回避し続け、回帰なき遁走に身を委ねるしか生きる術を持たぬ脆弱な者達が多くなったからともいえる。「抵抗感」のないその軽さは「洗練されたもの」とはまったく似ても似つかいもので、内容的には空疎で、あらゆることに関して「のっぺりとした」「つるんとした」ままである。これでは顔に年輪が刻まれることはあるまい。おそらく彼らには個的にも社会的にも歴史は存在しないのであろう。たとえ存在したにしてもいつでも消せる可逆的なものとしてしか映っていないのではないかとさえ思われる。それに加えてまた世の異常なまでのアンチエイジングと健康志向である。肌はつるつるで、のっぺりつるんとした顔はさらに磨きがかかるが果たしてその内情はとつい意地悪く聞きたくなってしまうのである。のっぺりつるんとした「表皮・表情」とは裏腹に、その内実には底知れぬ「闇」を潜ませていることが多々あるのが現状でもある。やはりそのような「表皮・表情」を形成すること自体が不自然なのであろう。自然にでき上がったと思われる「のっぺりとつるんとした」「表皮・表情」でさえ実は偽装で、内に潜む持て余し気味の「闇」の隠れ蓑としていつとはなしに形作られたものと言った方が適切なのかもしれない。「年輪」として確実に刻み込まれた皺を持つイーストウッドの顔にはそのような不自然さはなく、つい「御身もまた人間か」という思いが湧き上がってくるが、のっぺりとつるんとした顔を持つ者から湧き上がる思いは何もない。一方は「闇」を直視してきた大人の人間の顔であり、もう一方はガス状の「闇」をいつまでも際限もなく内にため込んでいる未成熟な人間の顔だからである。その分岐点はすでに明らかであろう。できれば、ため込んだガス状の「闇」の膨張が臨界点に達する前に自らの状態に気づくべきである。それは「ガス抜き」などという単純作業のレベルの話ではない。言ってみれば「肝心な『こと』、『もの』」は決して回避しない外さないというスタンスの問題でもあるが、それは自らが危険な状態に陥ることを避けるためにも必要なことである。

 

                                                                       2013   5/7


358. 「竹光」と「本身」


 現在の日本の文化レベルは総じて「竹光」文化と言ってもよいであろう。指をこすり付けても切れない「竹光」に慣れたものには「本身」が触れただけで血が出てくることさえ感受できなくなっていくものらしい。「本身」の存在を明確に捉え切れずに、避けるように「竹光」に偏向していくことはどのように意味づけされても精神の「退行」、「衰退」、の証左にしかならないだろう。「竹光」は似て非なるもの、似非文化がまかり通っているということは感受者自身の感受機能そのものが「汚染」、劣化して実態を正確に察知できなくなっていることを意味する。

 身近なところを一瞥しても、実態は「メディア幇間」としか言いようのない者達が「ジャーナリスト」、「ディレクター」、「大学教授」等々という肩書で「もっともらしいご開陳」をしているのが日常茶飯事である。彼らに共通している点は「機を見るに敏」というより機を見て逃げるに敏といった方が具体的で適切であろう。彼らの自らの言動に対する責任感は皆無と言ってもよく、その気にさせられた者だけが陥穽に堕ちることになる。もちろん、一方にはそのような「共通項」とはまったく無縁の「真剣」の諸氏達もいることは付け加えておく。。

 「竹光」は文化だけにはとどまらない、日本の民主主義も「竹光」であったことがこの間の経緯で改めて証明された。それは完膚なきまでに露呈されたといってもいい。最近の経済政策にしても敢えて識者に聞くまでもなく、「深読み」するものが馬鹿を見るという典型で、そのあまりのお粗末さは不気味でさえある。それに呼応したというわけでもあるまいが、昨今の東大の入学式での学長の言「死にもの狂いで勉強しろ」は言近くして意遠しの感がある。「普通」に見ていればこのままでは「日本沈没」も目と鼻の先という危機感を持たざるを得なくなるのである。

 とにもかくにも、「本物」を知らず、知ろうともぜずいつまでも「竹光」志向の状態のままでいることを本人以上に喜ぶ者達とはご存じのとおり「由らしむべし、知らしむべからず」を肝に銘じている者達のことである。それは何をしようが痛くも痒くもなく彼らの掌の中にいてくれるからである。

                                                   2013 4/24

追記:日本の文化は今や「まんが、アニメ文化」とAKBというのが中心的且つ象徴的なことのようである。今更ながら何をか言わんやなのであるが、これで「のっぺり、つるん」とした顔の形成過程とその関わり方も合点が行く。明確な自己認識もなされぬまま突き進むことが、あるいはそれを故意に回避して時間に身を委ねることがどれ程の危険を内包し増殖させるかは歴史のみならず様々な分野でも明らかにされていることである。

                                                         (5/14)  


357.再び「 策士策に溺れる」


 「策士策に溺れる」とは策に頼り過ぎて自滅するという程の意味合いであるが、策を弄している内に自らその策にはまり身動きつかなくなることも意味する。あらゆることに関してこれだけ「嘘」が平然と日常化されてくると「謀略史観」などというオメデタイ名称など持ち出さなくとも現実的に行われている「策」などと称されるものの多くが実は人が人に仕掛ける「罠」という以上の意味を持ちにくくなってくる。「一般人」などとして括られる領域は言ってみればマインドコントロールされていることすら気が付かない人々の囲われた「安住の領域」でもある。すでにマインドロールされている人間がその自己認識もなくマインドコントロールについて云々するなどは滑稽でもあり、話がさらにややこしくなってくる。「罠」にかかっている者がそれに気が付きもせず「罠」について「健全」に語るという現状、人が人に仕掛ける「罠」とは巧妙であればあるほど実体的には捉えがたく時間と共に常に変質し続けるのでいつか自らも明確に捉え切れなくなりなり、その結果自分の仕掛けた「罠」に自分自身がはまっているということが起こる。それが「策士策に溺れる」ということのある面の実情でもあろう。

 日本人に一番欠けているのが明解さと論理性というのはよく言われることでもあるが、今でも変わることがない。だから、「はっきり言う」者に憧れはするが自らそうなろうとはしない。馬鹿をみる、割に合わない正直者にはなりたくないのである。しかし、誰もが賢しらな顔で黙っていては半歩たりとも前には進めまい。敢えて馬鹿をみる、自分自身で考える者が何人出てくるかで今後もまた決まってくるだろう。「賢しらな顔」とは一応に押し付けられた仮面である。「深読み」を弄するのも観念の罠である。「お仕着せの賢さ」、それはすでに「罠」に堕ちている証左でしかないということである。

明日は4月1日、エイプリルフール、今となってはこの日ばかりは嘘をつかない日にした方がよかろう。

                                                       2013 3/31

追記:官僚の役割が「国民を騒がせない」ことにあるなら言葉巧みに「深読み」を弄させるのも、「お仕着せの賢さ」を浸透させるのもその務めである。そしてそれを吹聴するのがご存知大手マスメディアと似非学者、似非識者、文化人などの有名似非集団である。今や「プロ」などという言葉がどこか空々しく、ニセモノの代名詞の感さえあるのも当然といえば当然のことであろう。風に吹かれて時折耳に入る風鈴の音などに興を感じて何かあるがごとくに思うことなども「深読み」、「お仕着せの賢さ」に棹さすことにしかならないのが現状である。


356.衆院選の「無効判決」(広島高裁)


 1票の格差是正に関して今までの区割りを見直す時間もなく違憲状態のまま行われた衆院選が無効であるとの判決が出た。この件に関しては私も2012年12月18日付のブログで抗議も含め書いているが、最高裁で「違憲・無効」が確定すれば選挙はやり直しになり、今までに採決されたものも無効となる。憲法違反で選ばれた者が改憲を説き、法律を定めるなどとは国家の体を成していないどころかそれこそ「無法者国家」であろう。これで最高裁が司法の独立を守れないようではこの国もほんとうに救いようがないところまできている。

                                              2013  3/26


<番外私設掲示版>2013326

「安倍飲薬(アベノミクス)」と「T(è)P(et)P(et)」 :mateのつもりでcheckmateされる。すなわちfool’s mate. さもなければfoolocracy.


355.齢人(よわいびと)の迷走と暴走


 有名無名問わず齢人の迷走と暴走は昨今よく見聞するところであるが今後ますます増え続けることであろう。世間に名前の通っている者達の暴走は時に体よく冒険などと置き換えられたりもするがよく見ればその御仁のもともとの「作り」そのものからくる必然的帰結という場合がほとんどである。いつか迷走、暴走を余儀なくされる根幹部分の脆弱さ、すなわち思想的「核」の不在によってもたらされるものといえる。それは死を目前にしてさらに増幅される。資本主義経済体制の中で常に他者を利用して自己を複製させる「構造体」としてしか生きることができなくなってしまった者達の終焉。すなわち「核」を持った細胞の統合体としては存在しえないウィルス的模造人間の終末を見る思いがする。

                                                 2013 3/16


<番外日誌>2013312

「富裕層」とは自分だけが「幸せ」では飽き足らず、さらに他人が「不幸せ」であることが必要なのである。

                                                    2013 3/12

Possessions jalouses de bonheur !   幸福の嫉妬深い独占!


354. 恐れ入谷の鬼子母神


 「先進諸国」といわれている国では起こり得ないことが起こるのが日本でもある。一国の中心的為政者が、糖尿病性腎症によるネフローゼ症状を起こしているのではないかと思われるような場合でもお構いなしなのである。言い換えれば傀儡になり得る者であれば、健康面で問題があっても操る側にはさしたる問題にはならない。巷で騒がれているいかがわしい「経済政策」にしても「経済原論」あたりをしっかり勉強している経済学部の学生にとっては失笑の対象となるレベルではないのか。80年バブル経済に浮かれている時にもまともな視点を持つ者にはその破綻はすでに見えていた。今回も同様であろう。それにしても総じてメディアは欲ボケした感想しか持てぬと見えて見聞に堪えるものではない。しかし、飽きもせず四六時中流されているラジオ、テレビにつぎ込まれてる政府バックアップの指示資金は相当なものであろうことは推測できる。

 今まさに米国に捨てられかけている大年増の妾の狂乱を見ているようである。「20世紀で最も完璧な人間」と言われた人間が半世紀以上も前に発した「なぜ日本はアメリカの言いなりになっているのか」という単純明快な問いかけは今尚生きている。それにまともに対峙することもなく己を知らぬ「イエローモンキー」(西欧社会の一般的前意識)は我が身を顧みる間もなく恥も外聞もなく米国にすべてを明け渡し、隷属しながら富だけを目指してきた。その結果が現在であるにも拘わらずさらにまた「ご主人様」の機嫌を損ねてはならぬとばかりにその「貢ぎ物」のことしか頭にない。これには恐れ入谷の鬼子母神もひっくり返っていることであろう。そこにまた最近再び勃興しているカルトの類が入り込むから堪ったものではない。今カルトが至る所で蔓延するのも当然なことで、それもすべてにおいて経済活動最優先で突き進んできた弊害、これも一種のカルトとも言い得るであろうが、それ自体が精神的脆弱性を自ずと引き寄せるのである。本人は辛うじて逃げ切ったにしてもその影響を受けた家族がいつかまた違った形態のカルトに絡め取られることになるのも頷ける。日本はカルトの天国である。実際に大、中、小その数は数え上げたらきりがない程である。因みに日本では公に認められたかのような政治的にも影響力のある宗教団体などもフランスなどではカルトに分類される。内容、形態、成り立ちから見てもそれは当然であろう。況や後は推して知るべしなのである。なぜそのようなことになるのか、それはそれに対抗し得る強靭な宗教思想、倫理がほんとうのところで根付かず、生きていないからである(その原因について述べるとまた長くなるのでここでは避けるが)。現在、多くの日本人にとって「宗教」は実質的には現生ご利益を願う対象か、人の不幸や死をきっかけに入り込む心の「乱れ」を癒し封じ込める「もの」としか映っていない。それが経済「カルト」の中で「最終ビジネス」としていとも容易く形成されてしまうのである。それは変幻自在に形だけを変える「ネズミ講」のようにカルトに入り込む隙を与える。そのような状況下では幻術、妖術の類の「麻薬的効用」ばかりが中心となり、本来的に明解な哲理にも対応できる領域を持ち得る「宗教」に接することはほとんど不可能になってくる。日々を律する「規範」、それは宗教思想のカテゴリーでもある。日々を離れて、日々の実践を離れて「宗教思想」は存在せず、息衝くこともない。日々「無反省」に嘘ばかりつき、いがみ合い争っているっている人間が「私は仏教徒」であると言ったところで実のところそれは何の意味も成さないのと同様である。日本では「非仏教徒」と言おうが、「無神論」と言ってみてもそこには何の「葛藤」も「抵抗」もなく、言っても言わなくても内容の深化は望むべくもなく、むしろその方が「普通」であると思われている。それが実は世界レベルでは「普通」ではないのである。そのような社会からはたとえ一部であろうと「神に捧げる身を富だけに捧げる訳にはいかない」とさりげなく人々のために行動を起こす者などは現れようはずもない。日本の富裕層が拝金教のごとくに最後まで金計算だけに執着し、税金対策以外の領域では慈善事業、救済活動、芸術活動援助にほとんど興味を示さないのもすべての「展開過程」そのもの中に西欧社会と根本的な質的相違があるからである。喜怒哀楽ですら共振領域がある程度重なり得るというだけで実は質的相違、特に「深み」に違いがあるというのも当然といえば当然なことなのである。

 数行のつもりがまた長くなってしまった。「恐れ入谷の鬼子母神」と何気なくでた言葉に鬼子母神の忿怒の相が取りついたのか、限りもないのでここまでとしよう。

                                                 2013 3/7

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