「ある日、その時」 (24) 2012年10月17日ー

<掲載>

327.日本版「毒舌」とは  328. 「右傾化してる」ということ  329. 石原慎太郎とは老醜の極み  330. 怖ろしき商魂 331. A childish-looking man .  /comme sujet / 332. 臆面もない国の省庁 333.「日本は平和ボケ」と吹く男(おのこ) 334. フェイスブックの危険性 335.C’est toujours la même histoire 336. テーブル・ターニングポリティックス

                                           (転載・複製厳禁)



336. テーブル・ターニングポリティックス  Politics of " Table-turning"

La politique du Japon est  "Table -turning politique".


 日本の政治は概して「こっくりさん政治」と言ってもよい。日本のポリティシアンは今日は東に明日は西、南を見ながら北に手を出す足を出す何やら奇態な仕草。その様とても尋常の者とは思えぬ風情である。これでは見物の方も堪ったものではない。そうかといって下手に投げやれば物の怪たちの思うつぼ。またぞろ物の怪跋扈の世となり、路頭に迷うは巷の衆ばかり。

 テーブル・ターニングとは「こっくりさん」の起源で、「テーブル・ターニングポリティック」とは要するに「こっくりさん政治」ということになる。そこでは論理も理念もまったく通用しないというよりむしろ排除され、論理、理念を通すものは「魔女裁判」のごときものにかけられるか、黙殺、封殺されることとなる。テーブル・ターニングの「潜在意識」と分析されるものがテーブル・ターニングポリティックスでは具体的に何に該当するかはすでに周知のとおり。この国は未だに民主主義国家でも法治国家でもないことを明確に把握しておかないといつの間にか彼らの手中に収まることとなる。多くの者にとっては、テーブル・ターニングポリティックスとパラサイト的イエロージャーナリズムに翻弄され続けとうとうここまで来てしまったというのが実情でもあろう。しかし、騙され上手も度が過ぎれば単なる愚者でしかなく、世界の物笑いのネタにもならない。

                                                     2012 11/18

<追記>大手マスメディアと称される「朝日」、「毎日」、「読売」、その傘下のメディア、テレビ等がいくら「庶民派」、「国民派」を装ったところでその根幹は財界側のメディアである以上、財界の不利になるようなことは一切伝えないのは当然のこと。況や敵対する者に対してはあらゆる手を使って抹殺しようとするのが今までの常套手段でもあった。彼らが否定的に捉える「すべて」は財界側にとって都合の悪いこと、そして肯定的で支援さえ惜しまないものとはすなわち反国民的な内容でしかないのであるが、それを国民自身がありがたく物知り顔に聞き入れてきたというのが今までの経緯である。大手マスメディアの「失墜」は今に始まったことではない。それは構造的に反国民的であるからである。そして今、大手マスメディアに対する徹底抗戦と糾弾は始まったばかりである。

                                                    


335.  C’est toujours la méme histoire


Après tout   le Japon n’est pas digne d’être appelé démocratie parementaire.

La séparation des pourvoirs n’est pas réalisé.Plus exactement  le Japon n’est pas un pays gouverné

par loi.Si l’on cite un exemple ,  c’est Ichiro Owaza(homme politique) procès.

                                                                                                                                 2012 11/16


334.  フェイスブックの危険性


 フェイスブックの危険性についてはすでに指摘されているとおり、実名でその人物のプロフィールと交友関係などの個人情報がすべて公開され、監視されるということである。それを承知の上で利用するのは個人の自由であるが、これは監視する側にも極めて都合がよいということを覚悟しておく必要があるということである。最近ではFacebookを採用に用いる企業が激増しているという。そのために学生達はフェイスブックの友達を無理やり増やしたり、企業が望むような人物像を「ねつ造」することに余念がないという。社会への第一歩が「いかに嘘をつくか」、「いかに取り繕うか」ということになる。これでは有益な人材の確保などは困難であろう。学生もそんなことばかりに追われ肝心の学業も疎かになっていては世界レベルでは通用しなくなり、それはそのまま企業に跳ね返ってくる。企業もフェイスブックを参考資料としてどのように解読するかが問題になってくるが、フェイスブックはサイコパス的人間にとっても都合のいい伝達手段でもある。今の流れを見ていると「誠実」で能力は充分あるが、友達の少ない学生は排除される傾向にある。そこで「自分」を使い分けるとは聞こえはいいが、それが肝心な部分にまで浸食してくるとやがて「自己」の分化に長けた「境界例」を作り上げることにもなりかねない。それは飽くまで「正常」ではあり得ないのである。今後も「素直」に自分を表現すること、思ったこと、感じたことを発信することがそのまま排除の対象となり、否応なく「村八分」にされてしまう可能性が出てきた。企業の採用にフェイスブックが利用されるということは「マイナンバー制度」の導入の序曲でもあり、非常に危険な面がある。一見便利なものはその副作用もかなり強く、読み取り、扱い方を間違うと「本体」そのものの瓦解にもつながるということでもあろう。このまま行けば有能な人材どころかまたさらに「マッド」と名のつくもの、詐欺師が横行するのは必定。この流れは断ち切らなければなるまい。

 因みに、「マイナンバー制度」の監視主体は国家のみならず、その最高情報責任者(CIO)は財界推挙の遠藤紘一・元リコー副社長(2012年8月任命)である。

                                                2012 11/12


333.「日本は平和ボケ」と吹く男(おのこ)


 国盗りを始めた地方の長が、思いのほかの逆風についにほざいた戯言のごとき陳腐な世迷言。それが最近の「日本の平和ボケ」の遣われ方でもあるが、国民が「平和ボケ」しているから登場できたような者にそのようなことを言う資格がどこにあるかとも思われる。そもそも現在の日本の政治状況は常に暴動が起きても不思議ではないというのが識者の共通した見解でもある。今や老若男女問わず余程焼きが回った者でもない限りテレビなどは見ない。そのテレビをステップに現れたような者がその基盤である層を否定したら成り立ちようがあるまい。

 日本全国津々浦々とまでは言わない、身近なところをよく見てみれば日本が今どういう状況になっているかすぐにわかるはず。たとえば、自殺者、ドメステイック・バイオレンスは共に年間3万以上、高齢者の行方不明、生活苦等々。自殺者数は世界のトップレベルで、銃社会のアメリカでさえ47位(2009年WHO)である。よく経済状況で比較されるギリシャは日本とは比較にならないほど自殺者は少ない。「蟹工船」を思わせるような日本の現状を見るにつけ、それは「平和ボケ」などという生易し状況ではなく、実のところ抗議の声も出ず、ただ力なく衰退の一途を辿っているだけという最悪のパターンなのである。まだ「声」が出せる余力が残っている者は当然何らかの発信、意思表示はすべきであろう。そうでなければすべてが止まるところも知らず堕ちて行くだけである。一般的にもやはり恒産無ければ恒心無しで、まず国が今やるべきことの具体的な優先順位は自ずと決まってくるはずである。今まで巧妙に国民を見えない「檻」に囲って利用するだけ利用して憔悴させ、思いどりにならなければ「平和ボケ」していると自国民を嘲り、その上また「国防」云々である。ほんとうに頭の方は大丈夫かと聞きたくなるが、それもまた愚問である。政・官・財の複合体とパラサイト・メディアそのものが計り知れなく異常なのである。その解決方法、すなわち解体の手法は手段を選ばずひとつひとつ白日の下に引きずり出し、できれば同時に多方面から微に入り細を穿つ吟味・検証である。現実的にはそれしか手立てはあるまい。実際、「相手」はどのような「ホラー」も吹っ飛ぶような想像を絶する変幻自在の「怪物」と言った方が適切なのである。これに立ち向かうべく勇ましく「ほざく」のは勝手ではあるが、この実態を明確に把握し得ない限り今後も先に進むことは不可能である。「シロアリ」などという安易な捉え方だから待っていましたとばかりに簡単に足をすくわれるのである。

 アインシュタインは無限なものは二つあるという。それは宇宙と人間の愚かさである。むべなるかな。

                                               2012 11/11


332.臆面のない国の省庁

 La bureaucratie du Japon est impudente et incapable pour le peuple.                                          

Les dettes de l’Etat    983000000000000YEN.  C’est la preuve d’incapacité.


 最近また財務省が国の借金が983兆円に膨れ上がったと発表したことが報じられた。これは財務省が公務執行能力に欠けるということを改めて自己暴露していることに過ぎない。本来ならこの組織の再点検か場合によっては全員更迭である。これで今までよく続けてこられてきたと思うが、許されることではない。公務をはき違えている無能な官僚をいつまでも放置してきたこと自体が重大な問題なのである。これは財務省に限られたことではなくすべての省庁に関して言えることでもある。何か勘違いしてはいないか、国の借金があたかも国民のせいでもあるかのように借金額を提示しているが、実はそれは財務省がいかに無能集団であるかを如実に物語るものでしかないのである。官・財の傀儡政権が借金額のみを提示して得られる効果とは。そう、それが狙いであろう。今でも彼らの発表を戦時中のごとく真に受けている者もいるようだが、やはりすべてにおいて仕切り直しが必要である。

                                                   2012 11/9


C’est dans et par le langage que l’homme se constitue comme sujet.     ー E・Bー


331.  A childish-looking man


 A  man with a baby faceとも言うらしいが、いわゆる「父ちゃん坊や」である。なぜか日本で「のし上がる者」にこのタイプが多い。日本的な意味合いでは、「一人前の年齢に達していながら、思慮、分別などに幼い面のある男」ということになるが、ただ単に「思慮、分別が幼い」のでは「のし上がる」ことは不可能であろう。しかし、思慮、分別が幼いからこそ大胆に悪賢く,罪意識もないと見れば合点も行く。要するに「baby face」は仮面そのもので、その下では狡猾さが渦を巻いているということになる。彼らにとって「baby face」は相手の防備を解除させる手段でもあり、それは相手の隙を着実に捉え、その弱点に入り込むのを容易にする。実際、ヤクザでさえ騙されるのもこの「baby face」の類である。一定の年齢になればそれなりの「年輪」が顔に刻まれるのが自然なことではあるが、彼らの顔には加齢が現れても「時」が刻まれることはない。すべての負の情念がごく「健全」に「恥部」を隠すように仮面の下に封じ込められ,それに反比例するかのように最大公約数的な表情のみが仮面ににじみ出てくるのである。総じて彼らの普段の顔そのものは「のっぺり」しているが、実はそれも技巧的でどこか不自然なのである。それは、取って付けたような最大公約数的な表情に埋め尽くされた「ぎこちなさ」と言ってもいい。この世界に生き続けて、そのすべてが集約される顔がいつまでもbaby faceであり続けるということ自体が不自然で、それは仮面化されたbaby faceの中でグロテスクなまでに変形されたモンスターを育てていることにもなる。詐欺師としても最適なのはやはり親しみやすいbaby faceタイプかイケメンタイプということに異論の余地はあるまい。少なくとも、誠実にものを考える者がbaby faceあるいはboyish lookで「あり続けた」ことはまったくと言っていいほどない。だからと言って「醜悪」な顔の者が「善人」などと言うつもりはもうとうない。やはり人間の最大の「恥部」は顔だということであろう。よく見ればすべてが読み取れる。それは読み取る側の解読能力にもよるが。

 いい「大人」がbaby face,boyish lookを敢えて全面に出しているのはやはりdangerousと見るべきであろう。

                                                     2012 11/5


Fact is stranger than fiction. You are OK?


330. 怖ろしき商魂


 直接殺人に手を染めなければ何をしてもものともしない商魂たくましい起業家が増えているようだ。その時だけ自分にとって最適であれば後は知ったことではない。これは資本主義経済の根本的な生命原理で、今更改めて驚くことでもないがそこに何らかの歯止めがない限り現実的にはそれによって被害を被る者は後を絶たない。「詐欺師の時代」は今に始まったことではない。ただ、それに「市民権」があるごとく暗黙の了解が周知の事実としてはびこり、その矛先が弱者中心になってきたのは1985年豊田商事事件あたり以降からではないか、それに対しても為す術もないまま病んだ種子を蒔き続けて地滑り状態のままここまで来てしまったというのが実情でもあろう。

 明日を夢を見るのは勝手だが、分かり切った負の部分について一つでも解消する方向で動こうともせずただ夢を語っているだけでは実質的には悪夢を彷徨うことになる。「希望を持とう!」などと呼びかけるのもカンフル剤的効果以外は個人の力を超える忍耐を強いる方便でしかない。かつて国民に向かって「痛み分け」などと平然と言い抜けた為政者がいたが、国と国民との間に「痛み分け」などという状態は存在しない。現実的に痛むのは99%の国民だけである。「恐ろしき商魂」を「華麗なる商魂」と名称変更したところで、殺人を「ポア」といったところで内容は何ら変わるところはないというよりむしろその「作為」が加わった分さらに現状は悪化している。そこで「夢」、「希望」、「願望」、「幸福」などをいくら取り上げたところでその言葉自体があって無きに等しいもので、ただ空中楼閣を構築させるのに都合のいい忌まわしい幻想形成に使われているだけである。今、安易に「夢」、「希望」、「願望」、「幸福」の類を口にするものはすべて「ニセモノ」と見た方が賢明である。もっと絶望一般を真剣に絶望してみてはどうかとつい言いたくなってしまうのである。あまりにヤワ過ぎる。どうもこの国には強靭な精神というものは育ちにくいとみえる。

 「朝のない夕べ」を歩み続けるだけの覚悟があるとも思えず、安っぽいニヒリズムで恰好をつけている場合ではないのだが・・・。浅薄なニヒリズムの蔓延は腐臭を放ち始めた体制の防腐剤でもある。

                                                    2012 10/31


329. 石原慎太郎とは老醜の極み


 石原慎太郎とは老醜の極みである。いまだに欲望丸出しのこの老人に金になるとばかりに腰巾着のように群がる節制のないメディアの罪も計り知れないものがある。石原慎太郎の語ることを今更「拝聴」しているものなどいるのかとは思うが、要するに彼の今までの検証済みの言動がすべてを物語っているのであってそれ以上では決してないということである。すなわち、その言に信置けずということに尽きるのである。

 「正義」を振りかざす「義」のない者に付き従った者達の最期は悲惨である。少なくとも、三島由紀夫には役者の欺瞞性、偽物性を嫌うあまり自ら「本物」を提示しざるを得なかった面もあるが、石原慎太郎は最期まで主役志向の三文役者の域を出るものではなかった。彼は今でも役者であり、それも楽屋に引っ込めば何を言っているか分かったものではないという類の有象無象の役者のレベルと同等である。ここにきて人生最後の幕切れを華々しく飾り立てようと躍起になっているのであろう。それが災いしてか汚点、死角ばかりが現れてくるように見えるが、実は今まで何とか取り繕っていたものが一挙に噴出してきてるといった方が適切であろう。(今までマスメディアが敢えて報道しなかったことも含めて)。それにしても頭にあるのは自分のことだけというのは、プロファイリング的にも目を見張るものがある。「義」のない者とは、言っていることとは裏腹に機を見ては簡単に寝返る者のことである。最近では寝返るところもない者達も多いようだが。

 老醜を晒さずに生きるのも至難のわざであるが、己の「業」で多くの者を巻き込み、犠牲にしてまでも生きながらえる老醜とは老醜の極みである。

                                                2012 10/30


328. 「右傾化している」ということ


 最近またよく聞く言葉の中に「右傾化している」というのがあるが、そもそもが中心軸も分からぬままだらしなく「右」に傾き続けてその傾斜も明確ではないといのが実情で、一般的に言われているような「右傾化」とは思考回路そのものが単細胞化しているということに過ぎない。すべてを概念的に単純化して感情に棹させば必然的に客観性と論理性は排除されるかシュランク(減少)していくのは当然のこと。いずれにせよ明確な現状認識もなく経済的抑圧の中で感情論に振り回され突っ走れば自己崩壊は必至なのである。現実的な一例を挙げれば、軽佻浮薄な世の中に弄ばれていた者がある時日本の現状について書かれた小冊子的知識を手に入れたとする、それは漫画入りで実に分かりやすいが吟味する能力のないものにとってはいつかそれが世界の概念図となりいともたやすく「信念化」されてしまう。そこに宗教的要素が絡めばなおさらである。「幸福」と「戦闘」が何の矛盾もなく、「平和とは戦争のこと」となる。それは「迷走」繰り返していた自らの「情念」にとにかく「道筋」を与えてくれるような幻想を起こさせる。「右傾化する」現状とは、トリガー(引き金)を軽やかに引ける兵士の大量生産の準備が整いつつあるということでもあろう。しかし、今の日本で少子化の上に妊娠中の配慮にも欠ける母親が産む善悪の区別もつかない子供が多くなればどうなるか想像に難くない。日本の文化も歴史も理解せず、神道、仏教の区別も分からないまま、日本国土の特異性も検証しないどころか宮崎県と宮城県の位置的相違も定かでないような状態で「日本人である」こと、またそこから派生することのみを強調し、緻密な政治力学も範疇外で皮相な「政治」面ばかりに終始することにどれだけの意味があるのか?それは未だにアメリカにとって都合のいい利用価値のある「右傾化」でしかない。日本の「右傾化」をアメリカは今後もフルに活用し隷属国家として仕立て上げることであろう。実際、一隷属国家が緩慢なる崩壊の道を辿ろうとアメリカにとっては痛くも痒くもない。むしろその方が都合がよいであろう。今、「日本人が、日本人として」などど咆哮するより「人間」としての「英知」が真に問われているのである。「リーダー格」の者が「我が、我が」ではやがて周囲からも倦厭されそのチームの先は見えているのと同様である。

                                                   2012 10/22


327. 日本版「毒舌」とは


 概して、毒にも薬にもならず「辛辣な批判」などとは程遠く、安全地帯に身を置いた悪たれに近い。その毒舌の対象たるや自分と同等か「熊さん、八さん」の世界の住人、さもなくば過去に登場した名のある者達で、決して現在の権力や大きな力を持つ者には向けられることはない。何とも甘ったれた言いたい放題と言った方が適切で、これなども未成熟文化の最たるものであるが、単細胞的にこれが繰り返されるといつの間にかそれが当然のように単細胞的に刷り込まれていく。この調子では今後もまた万葉集」を「マンバ集」と読んでわかったような気になってしまう者たちが増え続けることであろう。やがて、それはあらゆる領域にに敷衍して行く。文化を不当に貶める内容の否定的単純化、ダイジェスト化にはファッショの臭いが付きまとう。ナチスもそうした大衆誘導は巧みであった。要するに、日本版「毒舌」とは大衆のものではなくむしろ大衆に向かって放たれた即効性のない毒矢と言ってもいい。しかし、その毒は時間をかけて脳細胞全体にくすぐるように浸透して行き想像力と論理性を完全に奪ってしまうのである。これ以上自分自身を矮小化してどうするのかと思うのだが、その先に見えるのは一寸法師の兵士となった自分自身の姿である。 

                                                           2012 10/17


 

アーカイブ
TOP