<掲載内容>
306.そは君子豹変にあらず、をこなる暴君跋扈の正体なり 307.東京スカイツリーの薄気味の悪さ 308.どちらにしても子は親の鏡 309.呪われている大飯原発再稼働 310.ジョーカー(バッドマン)とは現代の狂気そのもの 311.オスプレイしかり、原発再稼働しかり 312.昔、「見ざる聞かざる言わざる」と言いしが 313.反・脱原発・再稼働反対抗議に対する陳腐な懐柔策 314.餓死、孤独死、老老介護に認認「介護」・・・315.「脱原発デモ」に対する蒙昧な「報導」 316.「平常心」では競技には勝てない
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316.「平常心」では競技に勝てない
今回のオリンピックを観ていて、選手たちに度々遣われる「平常心」という言葉が気になった。それが意味する心の状態の再現、使用方法を勘違いしているようにしか思われなかったからである。結果、成績は芳しくない。平常心などという普段どおりの平静な心の状態を否応なく高まる緊張の「場」に「不用意」に持ち込んでも平常心という心の状態は不自然に歪められてむしろマイナス方向にしか有機体機能を導かない。「不用意」といったのは、「自然体」同様「平常心」を恒常的に維持しうること自体が並みの精進では実現できないからである。それは戦場で常に「平常心」を保てるかということでもある。
異様に高揚する「場」、すなわち日常とは時間の流れ方がまったく違う「場」に平常心」という日常的時間の中でしか成り立たない心の在り様を持ち込めばどうなるか、異常な時間の流れ方をする中で心身がそれに自然に反応しつつ集中させている時に、むしろそれに逆行する方向でしか働かない拡散性の精神状態に頼ることになるのである。それはその個体が本来持ち得る集中力を削ぎ落とし、集中力が心身にもたらす「超越性」を敢えて捨てることにもなりかねないのである。分かりやすくいえば「火事場の馬鹿力」は「平常心」からは決して出てこないということである。このような「場」に「魔物を見る」のは心の在り様に隙ができているからで、集中力が途切れているだけのことである。
2012 8/13
315.「脱原発デモ」に対する蒙昧な「報導」
限りなく見え透いた「報導」ばかりが続く中、その一つ一つを取り上げたら枚挙に暇もなく、それ程正面切って受けて立つ程の内容でもないので流し読み程度で済ませる。
「『脱原発デモ』の熱狂を冷めた目で見る若者達」と題して,ほんとうにそのように言っているかは確かではないが以下のような「声」を載せていた。〇「デモより有効な手段があるように感じるので、デモには参加しません」、「有効な手段」とは?これでは「有効な手段」が見つかるまで意思表示ができまい。政府の思うつぼである。〇「正直,デモなんかやって意味があるのか」、これも為政者を喜ばせるだけの隷属が身に沁み込んだ「賢い見解」である。〇「そんなことをやっているより、しっかり今後のエネルギー政策をどうするか、議論する方が先のような気がします。」、それができない、一向にしようともせずむしろ逆行しているから否応なく抗議行動をしているのであろう。このような不明瞭な「声」に共通しているのが今までの原発問題に関してどのような経緯が社会的にあったかという社会的動きそのものもつかめておらず、自分の問題として考えたことさえないということである。これを「冷めた目」などとは言わない、「報導」が作り出した「蒙昧な目」と言った方が適切である。
「声」の中には「夏の炎天下のなか、子供連れで参加する母親の姿勢には疑問を持った」(20代の女性)というものまであった。これなどはデモを取材することが目的になっている者、またはそれに近い状態の者の視点である。抗議意識からの乖離の度合いが別の目的意識の様相を具体的に示しているからである。子供というものは親の懸命な姿を見て成長するものである。炎天下を避けて子供を冷房の効いた部屋に残しておくことが果たして賢明な親といえるのか。その答えはいずれその親にかえってくるだろう。
また、ジャーナリスト気取りで、すなわち宙に浮いた第三者意識で「お祭り気分のデモ」などと言っている者達もいるが、それはこの大きな「うねり」を敢えて「大きな音」としか捉えようとしないない者達と同類であるということ自ら宣言しているようなものである。それと同時に彼らは「煽る」者でもあり得るという点に注意しなくてはならない。この手の無責任な「煽り」に乗れば一挙に潰されるだろう。すなわち偽装工作である。今、必要なのはガンジーの抵抗運動にも似た非暴力、不服従の休むことのない限りない抗議である。それがそのまま市民の交流の「場」となればよいと思っている。もはやすべてにおいて因循姑息な者達に明日はないことだけは確かなのである。
<追記> ある報道カメラマンが現在の東日本の状態を伝えるべく写真報道をいくつかの出版社に持ち込んだがすべて断られたという。出版社側がいうには日本人は飽きっぽくもう東日本は興味の対象ではないというようなことをいったらしい。改めて呆れ返ってしまったが、「飽きっぽい日本人」を作りだし、作り続けているのは取りも直さずマスメディアそのものであろう。事ほど左様に大方がマスメディアに踊らされて、踊らされていることすら気づかないのである。現在流されている報道に関しても、またオリンピック報道(選手とは特に関係はない)しかり、政治報道しかり、その幼稚さに無神経さが加われば狂気としかいいようのないものが現れるのは当然であろう。
2012 8/12
314.餓死、孤独死、老老介護に認認「介護」・・・天下国家など論ずるつもりもないが、これだけ見てもとても日本は先進国、文明国などと呼べるレベルではない。
以前にもブログで取り上げた内容であるが、現状を見ていると何度でも取り上げざるを得なくなる。それは見て見ぬ振りをできるほど希少な出来事でもなく、あまりにも多過ぎて、その都度絶句しざるを得なくなるからである。老人たちの様相を見ていればその国の現状は読み取れる。そして若者の様相はそのまま近未来を予言している。報道は全くと言っていいほどなされないが、餓死、孤独死、老老介護(老夫婦がどちらか一方を介護)、認認介護(認知症の夫婦がどちらかを「介護」)、毎年多くの老人が行方不明となっていることが今やこの国の常態となっているのである。これは明らかに異常なのである。そのような実態も知らずに、さらには「健康で最低限度の文化的生活」の意味すら明確にしようともせず、結果的には憲法を無視している実情が意味するところは「先進国」、「文明国」とは名ばかりのその形骸すらとどめぬ場当たり的なご都合主義国家と言った方が適当ではないかと思われる。高齢で体が不自由な者同士がより重症なものを介護する、また認知症同士の介護が現実にはなされている。これは極めて危険な状態なのである。その上に餓死、孤独死、そしてこの夏も扇風機も、クーラーもない一室で熱中症で死んで行った高齢者たち。どこの国の話と思うが、これが東日本の被災地のみならず日本で日々繰り返し起こっていることなのである。これは明日は我が身で、へらへら笑っていられる状況ではない。今まで国を支えてきた高齢者たちをできるだけ早い時期に「処分」しようとしているとしか思えない「国家戦略」に乗せられれば65歳以後の老後など99%の国民には存在しないと思った方がいいだろう。「身捨つるほどの祖国はありや」などという感慨は霧深い海を前にしなくとも今や多くの者が日々即物的に捉えていることでもある。実のところ「明るい話」などしたくともないというのが大方の現状でもあろう。もしそうでないという者がいたら、それこそ政府広報の三百代言か極楽蜻蛉の類である。今、妙に「明るい話」などしている者達に対して抱く不信感は、「ものは気持ちの持ちよう」、「内面の平和」などのお題目を唱えている者達に対する不快感と類似している。テレビなどはもはやその存在そのものが「異常なもの」と化していると言ってもいいだろう。「明るい話」ばかりを求めること自体がすでに病的なのである。「暗い話」は避けたいが目を背ければ明暗のバランスは崩れ、有機体自体の構造に否応なく「欠如態」を作り出し、勝手に増殖し始める。そして、それがいつしか「心の闇」を形作る要因ともなる。これほど「異常」が意識化されないまま容易に常態化することに対しては怖いというより、有無を言わさず「ある覚悟」が強いられているように思われる。
2012 8/4
313.反・脱原発・再稼働反対抗議に対する陳腐な懐柔策
毎週金曜日に行われている首相官邸前の反・脱原発・再稼働反対の抗議デモを取り上げるメディアもほとんどなく、取り上げてもほんのわずかである。最近、「主催者」側の代表者と現政府が「面会」し、「話し合い」の場が設けられたという。現在、抗議側と政府とが話し合うことなどないはず、要する一時も早く首相が辞めて政権が変わること以外に解決の道はないのである。そのために忍耐強く限りなく続けざるを得ないガンジーの無抵抗抗議にも似たムーブマンが今回の流れなのである。今回の「話し合い」の場をおぜん立てしたのは前首相・菅直人の関係者の社会学者・小熊英二であるという。また「御用学者」の登場である。彼らはどのような政権であろうと依頼があれば手際よくその政権のために動き回るが故に「御用」という文字が冠せられているのである。言ってみれば政権擁護請負人で、そのためには事実のねつ造、歪曲、糊塗などを「アカデミック」にこなすことなど朝飯前なのである。彼らがどのようなもっともらしいことを言おうが、その「立ち位置」を見れば一目瞭然である。そういう意味では、社会学者・小熊英二が抗議内容そのものに理解を示す方向で動くことは100%ありえないということである。その目的は言わずと知れた懐柔策を弄して手なずけることであるが、それで事態収拾可能と見ているなら途方もなくあまく、時代錯誤と言ってもよいであろう。今後も為政者と「御用学者」の「ホンネ」と「タテマエ」などにいちいち耳を傾ける必要などはないことはいうまでもないことで、彼らが「やったこと」がすべてであってそれ以外には何もないのである。「私個人の本心は原発はいらないと思っています。」などと言ってみても、現実の動き自体が方向違いでは意味のないことである。実のところ「ホンネ」も「タテマエ」も作られているのである。身近な例でも、「ホンネ」だけを打ち明ける振りをしてまったく「ホンネ」の実態が見えてこないことなどはよくあることでもある。「ホンネ」だけでは自己解体するしかないので「手を加えて」いる内に内容そのものが変質してくるからである。
2012 8/3
312.昔、「見ざる聞かざる言わざる」と言いしが
見れども惑わず すなわち見ざる
聞けども眼光奥底に徹して すなわち聞かざる
而して耳澄むこと限りなく もの言えば一糸乱れず
すなわち 益なきこと一条たりとも言わざる
かくあるを三猿といい、古来言われし義 死に猿に似たり
さらに、「沈黙は金、雄弁は銀」などと言いしが、語るべきを語らずを無分別というのであれば金を手にした無分別に何かある。雉であれば鳴かずともいつかは打たれるもの、鳴くも鳴かずも時のなせる業、打たれるのはその雉が鳴いたからだけではない。鳴けども打たれない鳥たちなどがやがて煮られるのもよく知られたところである。
しかし、世上は相も変わらず「金」、「金」と喧しい。そして、そのような動きに自らを失い自滅していく選手を見ていると痛々しくなるばかりでスポーツ自体を楽しめないことが多いが、マスコミの死角で健全に「心・技・体」の「心」を育めた選手の活躍にはつい手を休めてしまう。マスコミ報道が「焦点を合わせ」取り上げるようなものとはスポーツでさえ当てにならないというのは既知のこととなってしまったが、その動きすべてにおいてやはり十年一日安易で阿漕(あこぎ)であるとしか言いようがないものがある。「スポーツの祭典」というより「金の祭典」と言った方がいいような状況になっているのがその実情である。
<追記>
しかし、日本のオリンピック出場選手のよく泣くこと、特にでかい図体した男子柔道選手の泣く姿には「心・技」の不充分さ、とりわけ「心」の領域の生育、調整が抜け落ちているとしか思えないものがある。これなどは「サムライ・ニッポン」などという幻想も今や微塵もなくなっていることを世界に示した適例といえるだろう。総じて金、銀などと騒ぐ前にスポーツに対する根本姿勢がなっていないともいえる。大方のマスコミ、特にテレビなどのオリンピック報道も史上最低レベルではないかと思われる。これはオリンピック報道に限ったことではなく報道に対する関わり方そのものが問題なのである。一事が万事とはよく言ったものである。(8/2)
2012 7/30
311.オスプレイしかり、原発再稼働しかり
オスプレイしかり、原発再稼働しかり、日本は地理的にも世界の恰好の実験場なのであろう。すでに福島原発事故でチェルノブイリレベルもしくはそれ以上になるのではないかと思われる人体実験にも等しいデーターを提供し続けている。さらに原発再稼働で世界にまたとない「貴重な」データーを今後も供給するのであろう。そこにまた悪名高きオスプレイの登場である。アメリカ国内での飛行は大きな問題を起こしかねないオスプレイの日本上空での飛行はそのルートを見ても機体のデーター収集、事故調査のためとしか言いようのないものでもある。やっていることすべてが自国民(99%)の生命など二の次、三の次というような「政治」ではその国の将来などあろうはずもない。同盟国なのかそれともアメリカ合衆国日本州なのか、このような状態(政治)をいつまでも「受け入れている」こと自体が次世代の存続すら危ういものにしているのである。国の中枢にいる者達が「詐欺師」、「二枚舌」などと言われても平然と臆面もない言動を繰り返しているのでは世の中一般で「詐欺師」、「二枚舌」が常態になるのは当然で、子供の教育どころの話ではあるまい。その挙句には「理想のリーダー」の待望論などが出てくる始末。これではまったく民主主義などが根付いていなかったことを証明しているようなものである。「理想のリーダー」など必要ないという覚悟が国民の側に必要なのである。リーダーなどというより民意を的確に反映させる代表を国民自身の手で育て上げるという方向で具体的な検討がなされるべきなのである。そうでなければ、いつでもとんでもない方向に突き進む危険性が出てくる。すでにその兆候は随所に現れているというのは大方の知るところでもあろう。
2012 7/225
310.ジョーカー(バッドマン)とは現代の狂気そのもの
7月20日未明、コロラド州デンバー郊外にある映画館で「バッドマン」上演中に銃乱射事件が起きた。死者12人、負傷者58人(11人が危険な状態)。逮捕されたのはコロラド大学神経科学博士課程学生・ジェームズ・ホームズ(24)。
ホームズは逮捕後、警察関係者に「俺はジョーカーだ」と話したという。詳細は不明だが、人付き合いは下手で、それほど目立つ存在でもなくこのような事件を起こすとはとても思えないタイプであったようである。この手の人物評には新たな視点の手掛かりは見当たらないが、ホームズが神経科学専攻の学生であったことは今までの銃乱射事件とはまた違った局面を見せている。神経科学は精神医学とも密接に関連する脳神経関係の脳と心の研究の最先端科学でもある。少なくとも彼はいつからか自己の中に蓄積し始めた「狂気」については「普通」の者よりはっきりと認識していたはずである。周囲の者達にホームズがそれ程目立たなかったのも彼自身が自己の内部で脈動する「狂気」そのものを神経的に隠そうとしていたからで、むしろ彼の動きは愚鈍にさえ見えたのではないか。ホームズが「俺はジョーカーだ」と言う時、それは自己の「狂気」そのものに圧倒されてしまった「人間」の素直な心情吐露であると同時に自己同一性をわがものとした瞬間でもあった。それ以上の検証についてはそれこそ神経科学と精神医学の領域であるが、現段階では明確な結論は望むべくもない。況や警察などがその動機について調べてみたところで一体何が分かり得よう。それは現代の狂気の動機について過去の事例を基に法的処置を講じるだけで本態を垣間見ることさえできない。そしてまた三文週刊誌の類が「女に振られた腹いせ」、「チケットが取れなかった腹いせ」などと、ある意味では怖ろしい程の単純化で矮小化された俗流解釈の売文で紙面が埋められることであろうが、そこからは何も得るものはないというより危険でさえある。なぜホームズは自身が「ジョーカー」に成り切ることで「本来の自己」に収まるように思えたのか、それは「ジョーカー」が現代の「狂気」と絶対悪が持つ「自由」そのものを体現しているからである。それは完全なる狂気とも言えるもので、それに同一化することでしか自己同一性を獲得することができないまでに彼の内部は「狂気」で充満していたということになる。そこには陳腐な人間主義的な道義的解釈など入り込む余地はない。むしろそれはその「狂気」そのものに拍車をかける要素にしかなり得ない。この事件を起こす2か月前、すなわち準備を開始した時にはすでに彼は完全に「ジョーカー」になっていたはずである。「ジョーカー」とは「狂気」の臨界現象の現実態といってもよいもので、そこに至ってはもはや「生還」することも元に戻ることもできない。それでは今、我々にできることとは何か、それはまず「狂気」そのものの恐ろしさを俗流解釈ではなく各自の中でしっかりと「受け止める」ことから始めるしかあるまい。目を背けるといつの間にか忍び込んで増殖するのが「狂気」でもあるからである。我々は否応なくそういう時代に生きているのである。だから、時を得れば「狂気」はいつどこでもあたかも突然起こったかのように具現化してしまうのである。
切もないのでこの辺で上演していた「バッドマン」の話を少ししようと思う。この映画の中のジョーカー役はジャック・二コルスン、その後ヒース・レジャーが演じている。ヒースは「時計仕掛けのオレンジ」の主人公アレックスを参考にしたといっているがこれは意味深である。両者とも狂気そのものを見事に演じ切れる役者である。日本では幸か不幸かここまで狂気を演じられる役者を私は知らない。しかし、このような映画がホームズを登場させた訳ではない。「ジョーカー」以前に「ジョーカー」は名づけ得ぬものとしてすでに存在していたのである。ホームズ自身は例えば記号式のようなもので自分を捉えることもできたかもしれぬが、それを分かりやすいもので置き換えれば一般的で具体的ものとして「ジョーカー」になるというということに過ぎなかったのである。
<追記>7・25
思った通り、さっそくこの男のペニスの長短と「自己防衛」などというコンセプトでお決まりの初級心理学講座のような解説が始まったが、これで納得できるおめでたさには何とも辟易してしまう。「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスのような男はとてもペニスの長短など気にしているとも思えないし、また小さいとも思えない。それでも彼はなぜすぐ逆上するのか?DSMーfourあたりを根拠に脳疾患性障害とでも括ってしまうのか。ペニスの長短を一つの手がかりとするのは<リピドーの発達段階の屈折、歪みが無意識化され蓄積された集合体>(ブログT/Z301「心の闇」?)という意味でもまったく無意味という訳ではないとは思うが、それだけに終始していては「狂気」に至る本態に迫ることなど到底できない。そして、今また改めて思うことは総じて心理学用語は陳腐である。これでは現実を捉え切ることは不可能であろう。川の水も海の水も、同じ水としか捉えられない者には現実は単純、簡単明瞭に見えるが、含有物も知らず同じように扱えば時には危険でさえある。要するにH two Oだろうといってみても水の本態を捉え切ったことにはならないのと同様である。おそらくこの手の心理学者にかかるとノルウェーの銃乱射事件の犯人も「ペニスの小さな男」ということでまとめられてしまうのであろう。
※その場に居合わせて犠牲となった方々に対して謹んで哀悼の意を表します。また負傷された方々の一日も早い回復をお祈りしております。
2012 7/22
309.呪われている大飯原発再稼働
現在、世界は原発について否応なく慎重にならざるを得なくなっている。そのような時に、福島原発事故の検証もろくになされぬまま無謀にも大飯原発は再稼働を開始した。今、経済レベルの問題、この夏の電力の有無などを論じている場合ではない。実質的に危急存亡の時に自らの領土に「禁断の炎」を放っているようなものである。自ら自滅の道を進んでいるこの国に攻め込む敵など存在しないだろう、ただ見ていればいいだけのことである。「日本沈没」ならまだ分かりやすいが、実際には「眼に青葉 山不如帰 初鰹」の状態のまま人が住めない国土となるのである。福島原発周辺がその具体例で福島原発は今なお放射性物質を放出し続けている。今となっては再び大規模事故につながらないことを願うしかないが、大飯原発もその内、大中小の事故が頻発するだろう。それでも寝言を言い続けるのが亡者の亡者たる所以なのである。足りなくもない夏の電力供給と訳の分かったような経済談義に現を抜かしている間にこの狭い国土の居住範囲は徐々に狭まれて行く。これ以上原発に関わること自体が取り返しのつかない、復興なき亡国なのである。
2012 7/18
7月16日、過去最大の脱原発集会が代々木公園で行われた。
「さようなら原発10万人集会」
呼びかけ人:大江健三郎、瀬戸内寂聴、坂本龍一,鎌田慧、内林克人、澤地久枝(敬称略、順不同)
「大衆」から「市民」に徐々に変容する意識総体を未だに捉え切れずに脱原発に否定的な因循姑息な割には大口を叩くチープでマッドな走狗としてしか機能しない者達がいるようだが、その存在自体が実に哀れで無意味と言わざるを得ない。このムーブマンはすでに第2第3のオンデュラシオンを内包している。
〇 700万人以上の署名を提出したが、その翌日大飯原発は再開されたという。今後もますます拡大させ、脱原発の方向で具体的な動きが見えるまで忍耐強く続ける必要があるだろう。
〇 電力会社の社員、その関係者の発言内容は、非常に危険であるというよりもはや認知症の域を出ないと言った方が適切である。
308.どちらにしても子は親の鏡
最近また中学生の「いじめ」による悲惨な自殺が相次いでいる。そのような「事件」の発生・経緯などを見ていると、それは「いじめ」というよりやはり「犯罪」と捉えるべきなのであろう。教育委員会、学校、教師、親、警察などにもその責任があることはいうまでもないことであるが、改めて感じることはほんとうに「大人」と言い得る者がどのパートにもいないということである。今回は「加害者」の親が開き直って攻撃的になっていることにも驚かされた。まだ義務教育の段階ではすべては親の責任といってもよいくらいで、監督不行き届きで責められるのは当然なことである。それを何を勘違いしているのか「自分の子供が自殺したらどうするのか」と周りのものに向かって言い放っている。前にも言ったことだが家庭内でのしつけから始まる養育、教育などで初めて子供という「人間らしき形」をしたものが「人間」になる「核」を作り上げるのである。放って置いたらどのような「動物」、「化け物」にでもなるのが「人間」なのである。中学生の段階でこのような行為を犯す「人間」に育てたことについては親の責任は大きい。この親にしてこの子といいたくなるが、「加害者」の親はまず開き直る前に自らが罪を背負うつもりで反省、謝罪すべきであろう。親はそのくらいの気迫をもって少なくとも中学までは子供の教育に関わるべきなのである。それとは別に教育委員会、学校、担当教師、警察は結果的には明らかに不祥事を起こしてしまったといえる。職務怠慢以外の何ものでもなく、これでは「税金泥棒」などと言われても仕方あるまい。思わず「頼むからきちんと仕事だけはしてくれ!できないなら辞めればいいだろう」と言いたくなる。やるべきこともせずそんなにびくびく生きてどうするのか、そんな生き方をしているから子供に見くびられるのである。そんな調子で長生きしてもいずれは見捨てられてしまうのがこの国の落ちなのである。巷では今日もまた居宅介護の住居から高齢者と家族のやり合う声が往来まで漏れ聞こえてくる。「うるせい!」、「早よう、死ね!」それはある意味で、自らが為したことがすべて形を変えて自分に返って来ているだけともいえる。
2012 7/16
307.東京スカイツリーの薄気味の悪さ
私はこの手の類のものにはまったく興味がないので上ったこともないが、たまたま仕事の関係で下町辺りに行くことになりその姿を見ることになった。その時、何とも薄気味の悪いものを感じた。これは観光施設を装った軍需施設ではないのかさえ思えたのである。少なくとも関東一円の電波制空権は掌握できる設備は持っているはずである。高いところに上る気にもならない私は今までに何度もパリに行っているが一度としてエッフェル塔に登ろうと思ったことがない。それでもエッフェル塔の方はパリの街並みに何とか馴染み妙な違和感はあまり感じない。それに比して東京スカイツリーの不気味な違和感はどこからくるのか。それはおそらく都市構造上の問題、また位置的なことにもよるが、その色とその構造物に目一杯埋め込まれているであろう内臓物がデザインに収まり切れずにはみ出し、目的最優先の「軍需化」が表出しているからである。実際にどの位置からでもスカイツリーが現れると軍需施設内にいるような錯覚に襲われ、下町情緒などその土地の歴史から香り立つものが一瞬にして消え去ってしまうのである。エッフェル塔も出来た当初はパリの街並みを愛する者達にとっては不人気であったらしいが、そのような感覚とも異質な何とも不気味な違和感を感じさせる構造物なのである。それは東京スカイツリーの下にはステルス戦闘機でも待機しているのではないかと思われるような違和感なのである。
2012 7/15
306.そは君子豹変にあらず、をこなる暴君跋扈の正体なり
大阪市民も今後はさらに慎重な選択を迫られるだろう。時に民意に阿り、機を見ては得手勝手に済し崩す、これは西も東も同質で両者とも民主政治とは似ても似つかぬ道筋を志向している。戦後民主主義も根付かず未成熟なまま、再び自由を放棄して思い付きにも等しい無思慮な非政治的な「快刀乱麻」に「心地よさ」を感じるようでは戦後民主主義などは根こそぎにされるだろう。もし、それがこの国の歴史的必然であるなら、堕ちるところまで堕ちるより他に真に「覚醒」される道もないのだろう。しかし、現状はまだ一縷の望み以上のものを残している。それは市民と言い得る人々の意識の変容である。これは3・11とその後の惨状と社会的関わりの中から全人格的に感得したものによって必然的にもたらされたもので人為的なものではない。したがて、この意識内容はいかなる者の糊塗も寄せ付けない、また屈しない強靭さを秘めていると思われる。
これは予期し得ることではあったが、最近大阪市の首長は以前の主張を覆し、現政府擁護の致命的とも言える発言を始めた。ただし、これは都の首長ほどに老獪ではないというに過ぎないことで、両者の質的相違を探す方が難しいくらいである。どちらにしても彼らの偽りの「夢」に乗せられたら国民はまた魔境を彷徨うことになる。いくら詭弁を弄しても決して彼らには官僚政治を倒すことも、切り込むこともできない。そもそも利害関係が一致する者同士がどうしてそんなことをする必要があろうか。民意に一時的に阿ることにかけては妙、すなわち機を見るに敏ではあるが、「政治的配慮」に欠けるスタンドプレーの多い義もない者達としかいいようがないのである。彼らの狙いに沿えば国民が利するところは皆無である。そして、そのすべてはもうすでに透けて見えている。
202 7/11