<掲載内容>
271.「継続」とは一体何の力になるのか? 272.シニアの就業 273.為政者の挙動もチェックできないマスメディアとは 274.アメリカ合衆国日本州 275.「お友達幻想」に振り回されて 276.原発停止で集団自殺をするのはほんとうに国民なのか?277.「戦時中から変わらぬ日本組織の謎」?278.<番外編>乱調日本囃子 279.小沢裁判無罪で辛うじて保たれた司法の面子(めんつ) 280.オルフェーブル11位 281.法華津寛(馬術選手)、漸く現れた誇れる人物
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281.法華津寛(馬術選手)、漸く現れた誇れる人物
法華津寛氏は次期オリンピックで世界が注目する日本の選手である。と言っても日本ではそれ程の注目度はない。多くの日本人にとってそれは予想だにしなかったことであろう。ここでも世界の視点と日本の視点はズレているというより明らかな差があることを感じざるを得ない。このギャップは何もオリンピックに限らず、政治、文化至る所に現れているが知らぬは日本人ばかりなのである。それにしても通用するのは日本だけというのが多過ぎるのが昨今の日本の実情でもある。
最近、オルフェーブルについて2回ほど書いたが、そこには全く見られなかったものが法華津氏と馬との関係には見えてくる。「人馬一体」とは斯くあることをいうのである。見事に馬との交流がなされていると思われる。さすがに世界レベルの視点では他の選手達との本質的な質の違いが見抜かれているのである。
「金だ」、「銀だ」とただ騒々しく無責任なマスメディアに乗せられて、自分を見失う者達、またそれを何とか跳ね除けてもただ「チョー気持ちイイ」だけではあまりに幼すぎて、さらにいつまでもそればかりでは品位も何もあったものではない。やはり超一級のレベルには達し得る方向にはいないのであろう。
問われれば「爺さんたちの励みになれば」と、70歳過ぎた法華津氏の淡々とした物言いも風情がある。彼は世界的視点を持った真の国際人でもあると思われる。これでは日本の幼稚で下種なマスメディアも取りつく島もなく、餌食にしようにも為す術もあるまい。
法華津氏の人生に乾杯!そして密かに日本人として最大限のエールを送りたい。
2012 5/3
280.オルフェーブル11位
オルフェーブルよ
最強の馬よ
あの走りのどこに
君がいたというのか
君を殺したのは誰だ
凍てつくような走りに
君は見たこともない
風景を見たはずだ
折り合いなどつけるな
小賢しい折り合いなど
君には似合わない
オルフェーブルよ
思うがままに戦え!
君を分かろうともしない
人間どもに従うな!
2012 4/29
279.小沢裁判無罪で辛うじて保たれた司法の面子(めんつ)
未だに懲りずに空疎な内容を盾に物知り顔に小沢批判を繰り返している者もいるようだが、まだわかっていないようだ。これは小沢一郎という政治家一個人の問題で済むことではないのである。このような裁判自体が成り立つことの怖さなのである。この裁判でもし有罪判決が出れば、すべての者にとって「明日は我が身」ということになるのである。これは民主主義国家の健全な司法の在り方そのものが問われているのである。この小沢裁判が有罪となれば、それは三権分立以前の18世紀に逆戻りで、いつでもアメリカ合衆国など諸外国の「属州」になり得る「お手軽国家」として日本は世界の物笑い種となるところであった。そして今、小沢裁判で無罪判決を出したことで辛うじて世界に対して司法の面子だけは保たれたと言ってもよいのである。しかしながら、この裁判の経緯そのものは民主主義国家としての司法の破綻への道筋でしかなかった。ロックもモンテスキューも、この司法が「死法」としてしか機能しなかった国が今なお存在し得たことに対してさぞかし苦笑いしていることであろう。あれから200年以上も経って、やはり日本は傀儡政治か独裁政治がお似合いだとでも言っているようである。いつまで経ってもあまりにもすべてが幼稚なのである。もう少し何とかならないものかと思いつつ・・・つい何度でも言うことになってしまうが、テレビ、「大」メディアの「報道」の無責任さには目に余るものがある。それはとてもジャーナリズム云々のレベルではなく、単に阿漕(あこぎ)であるとしか言いようのないものである。非「庶民」である阿漕な者達が「庶民」を装い「物申す」という典型的な「操作」が飽きもせずまかり通っているのである。操作」された「世論」、操作」された「街の声」、それらは「空気」を読むことが「賢い」と思っている「国民」の性情をよく心得た「操作」なのである。見渡せば、上下左右阿漕な者達ばかりということではどちらにしてもこの国の三権分立などは画餅であろう。
〇指定弁護士側(検察側)が控訴するかどうか検討すると言っているらしいが、これ以上恥の上塗りをするのは単なる愚行である。法曹界の人間としても、日本社会の一員としても世界に日本の司法の恥部をさらに晒すことになるのである。「恥を心得る」者であるなら、これ以上みっともない真似はやめてほしいというのが率直な思いである。しかし、一方ではこの際徹底的に「膿」を出すという意味でも「冤罪を作り出す日本検察の手口」、司法のありのままの姿を世界に晒すべきなのかもしれないとも思うが(続行すれば必然的に司法の機能不全が問題として浮かび上がってくるだけなのである)、日本の状況を全体的に捉えればそのような時間もないだろう。
これは小沢一郎の民主主義信奉者としての法廷闘争なのである。したがって、たとえここで控訴されても彼は耐え得るであろう。そして、我々は日本が民主主義国家ではあり得ないと言われて久しいことを再確認すべき時に来ているのである。
2012 4/26
<番外編>乱調日本囃子
泥鰌(ドジョウ)はミンチにして朱鷺(トキ)の子に それが世のため人のため ソオレ、ソレ、ソレ
泥鰌の切り身はどうだ そりゃわしらが決めることでもあるまいなー 朱鷺に聞かねばなるまいよ
アーソーレ、ソレ、ソーレ、ソーレ、ソレ、ヤレソレ、アーソーレー
これでは「ええじゃないか」の平成版であるが、あれから僅か150年近くで本来「民」が内に持っているエネルギーもその発現の道を閉ざされ巧妙に削ぎ落とされてしまったかにみえるが、現状は良くも悪くも単にそれだけではあるまい。時折、その大きなうねりの一角が私の身にも伝わってくる。
2012 4/某日
277.「戦時中から変わらぬ日本組織の謎」?
それは第二次大戦を起点にするようなことでもない。それについて辿れば切りもなく歴史的に形作られてきた日本人の精神構造の根幹部分に否応なく行き着く。それは謎でも何でもなく、煎じ詰めれば日本人の「論理性の欠如」である。それは、常に論理との全面対決のないまま、「更新」も「イノベーション」もしようとはせずにただ既得権益にしがみつき、論理的に解消しざるを得ない時点に至っても論理的に成立する新たな視点、内容に対して拒否反応を取り続けてきた老齢性退行固執症候群とでも言うべき身の処し方と、そのようことを暗黙裏に許す精神風土そのものである。今、その精神風土そのものが根底から問われているのである。このままでは立ち行かないのは誰の目にも明らかであろう。これほど論理の厳しさを知らぬ「国民性」も珍しく、その一生は常に全身がしぐれていくかのようである。組織の様相もまた然りである。なぜこの国の動き一般が事の当初だけは調子がよいのか、それは「思い込み」と「小手先勝負」が論理性を排除する方向で、また本質的な理念のすり合わせを避ける方向でしか進みようがなかったからである。どのような詭弁を弄しても結局のところ、そのような時間のかかる肝心な部分の作業を排除、あるいは避けることで、展開しようのない方策を非論理的に受け入れる精神構造を保持し続けることが「できた」からである。なぜ「できた」のか、それについては余りにも長くなるのでここでは避けるが、現状を見れば一目瞭然なことで今までの当然の論理的帰結が現出しているだけなのである。それでも「思い知る」ことのない「竜頭」蛇尾の繰り返しでは持続展開などあり得ようはずもない。今、そのような精神構造そのものが根本から問われていることだけは確かなのである。そのようなことを抜きにして真に先に進むことなどはもはやあり得ないと思われる。もしあり得るなら、そのすべての「動き」はさらなる後退でしかないだろう。
2012 4/20
276.原発停止で集団自殺をするのはほんとうに国民なのか?
仙谷由人は、東大全共闘の名を汚し、「かつての友」を裏切り、さらには国民をも裏切った。それとも当初より彼の言動はすべて虚偽であったのかもしれない。当時、東大全共闘の中枢部いた者は彼のことなど見覚えがないと言っているが、これもまた彼の戦略的操作の一環であったのであろう。機を見るに敏な、「庶民」受けする目くらましのような放言を「物議を醸す」と称する原発推進論者・石原慎太郎などとも共通するものがあるが、一方は現段階では原発についての発言は避けるところが両者の相違点であるが、根幹部分は同質である。
今や福島は世界の生体実験場と化し、陸海空は汚染され続け、今なお30万人以上の同国人が目と鼻の先で難民生活を強いられているのである。この事態に対して何ら有効な具体的方策も打ち出さず、原発再稼働をもくろんでいるのが「霞が関」、財界と一体化してしまった彼らである。「原発停止が国民の集団自殺をもたらす」とは?これが考えた末の脅し文句なのか。原発停止は飽くまで官・財の「集団自殺」であって国民ではない。この国の最悪の事態に直面して自分たちの無能を棚に上げ国民に対して脅しをかけるとは以ての外であるが、これが官・財の実態なのである。ここで我々が確認して置くべきことは、現在の民主党が短期間で我々に見せつけてくれた醜態のすべては自民党が官・財に取り込まれて行った経緯の縮図そのものであるということである。仙谷由人も官・財の「伏魔殿」のメッセンジャーボーイになったということに過ぎないのであるが、3・11に象徴される時代の転換期といものは実際何が起こるか分からないというのが偽らざる実情であろう。それは、一つにはこの転換期そのものが内包するコンプレックスエナジーとも言うべきものが活性化してくるからである。その「力」が、外圧に対しては恐ろしく強固であった「霞」の中に潜む「伏魔殿」を自己崩壊に至らしめる内部矛盾をさらに誘発、促進させ、本体そのものの「変形」もしくは「分散」あるいは「再統合」を余儀なくさせるということは充分に考えられることである。今後「霞が関」が、今までのような「悪魔の方程式」では片付けられぬ名状し難い事態、現象が常に「想定外」で継続的に現出することによって何らかの「変更」を迫られることだけは不可避である。
※コンプレックスエナジー:これは私の造語であるが、無意識的な過程で働く心的内容の集合で、さらに個人を超えた普遍的無意識をも想定した集合的に作用するダイナミックなエネルギーといった意味で遣っているが、それはコンプレックスのユング的解釈の意味内容に近似の概念である。
2012 4/17
275.「お友達幻想」に振り回されて
友人だと思っていた者に裏切られれば、それはショックであろう。それではいつ互角に友としての交流がなされていたのかというとかなり怪しげなものが多い。単なる一方的な「思い込み」であれば友情など存在せず、「人間」の間でごく「当たり前」なことが起こったまでで、そもそもそこには「裏切り」などという御大層なものも成立しようがないのである。TwitterにしてもFacebookにしても、あるかないか分からぬ「友達の輪」を求めて自分の周辺事情を書き連ねている者も多いようである。その点だけを見ると安易な自己顕示欲としか思えないが、それも使い方次第なのであろう。最近でもTwitterなどでは災害時の通信、変動する社会のメッセージなどとその効果の程も実証されている。しかしながら、平常時の交信を見ていると、その多くは個的に矮小化された広がりのない身辺雑事が中心で、すぐに企業戦略の一環として利用され絡め取られるのが関の山というような均一的ものばかりでとても個的メッセージが有効活用されているとは思えない。それは何者かにセットされたアンケート用紙に日々書き込んでいるようなもので、情報収集している調査機関には垂涎三尺の対象でもあろう。Twitter,Facebook系でよくある妙に親しげな同等目線で、これが曲者なのであるが、「今、何してる?」という問いかけに素直に応答する者達とはあまりにもオメデタイのではないか。何をしていようが余計なお世話だという思いが起きないことが不思議でならない。どうしてそこまで自由を恐れ、他人に管理されたいのかと理解に苦しむところであるが、そこにはやはり自立性も、孤立を恐れない気迫も失われた、自己との対面ができない未成熟な自己顕示欲だけが炙り出されてくる。そのような状態にどっぷり浸かりながら世界に二つとない掛け替えのない自分などという言葉に酔っているから余計に始末に負えない。二つとない掛け替えのないものであるなら自由と孤独は避けられないのであるが、それがまったく抜け落ちたまま「輪」だの、「一体感」だのというものだから限りなく嘘っぽく、実のところそれは無に等しいものの置き換えでしかない。もともと無いものに喜怒哀楽を使い果たし空ブカシをする、ご苦労なことである。もう少し個々にとって有効な道を探るべきではないのか。
2012 4/15
274.アメリカ合衆国日本州
現在、日本の食糧の中で自給率100%のものは一品目もなく、全体では40%である。因みにフランス130%、アメリカ120%、ドイツ91%、イギリス71%、多くの「専門的」データなどは必要ない、たとえいくら緻密なデータを根拠に国の行く末について推論を立てたところで結局のところは「予言」域をでるものではない。現に福島がいい例であろう。これらの数値を見ただけで、あるスパンにおける「勝ち戦」、「負け戦」、その国に自国のことを考えた為政者がいるかいないかが判定できる。自給率40%というのは状況次第で60%以上の国民が切捨てられることでもあり、世界的危機が訪れればすぐに自滅する国だということである。「防衛」のためという名目でいくら軍備を整えてみたところで何のことはない兵糧攻めで一巻の終わりになってしまう国なのである。その上、場当たり的な原発管理である。もし、敵対するする国があったとしてもほとんど手を下す必要もなく自滅する国であることは多くの分析を待つこともない既定の結論でもあろう。いくら虚勢を張ったところで自給率40%では完全な自立はあり得ず、それは常に依存的自立しか成り立たないことを示すあからさまな数値でもある。今までは技術面での躍進でその不足分も何とか取り繕われてきたが、現在ではその技術も海外流出の一途である。さらには3・11以後、日本は世界の原発実験場と化し、それについての様々な詳細なデータも流出している。現在の日本は世界が見守る解剖学研究室に横たわっている死体に等しいのである。
海外に出る優秀な若者達も多いと聞く、その理由を聞けば「日本の大学はレベルが低いから」、「自分が将来やろうとしていることがこの国では見い出せないから」、当然のことであろう。さらには日本の大手企業のリストラによる技術者の大量海外流出である。日本国内企業の負け惜しみとも取れる「採用には日本人だけではなく、海外枠も設定している」等々。残念ながらその海外枠で来るのは海外では外された者達だけで、そうでなければ物好きか怪しげな外国人だけであろう。まだよくわかっていないとみえる。
官僚機構を「シロアリ」にたとえ、攻撃目標にしていた口先だけの者たちの体の皮膚一枚下は「シロアリ」で埋め尽くされてしまった。「霞の中」でしか通用しない「シロアリ」軍団を殲滅するには「霞」そのもの消し去るしかないが、「シロアリ」はやがて移動を始めるだろう。しかし、そんなことには関係なく若人は世界に向けて飛び立つべきである。もはや日本で得られるものは「残滓」か悪臭を放つ「負」しかない。すべての領域で今までのものは衰退し、徹頭徹尾「新たなもの」に向けた志向のみがわずかに呼吸を開始するだけである。
2012 4/11
273.為政者の挙動もチェックできないマスメディアとは
福島市長が山形から公用車で通っているという噂を講演の中で使ったことについて、市長側は警告文を出し、神戸大学教授は謝罪したらしい。不用意に噂などを使うべきではないが、噂があるのは事実であろう。私もそれが噂とは思えず、然もありなんとしか思えないのはこの間の文脈を捉えているからである。それもその土地の代表格の者の行為であれば尚更見過ごす訳にはいかない。要するに調べればいいだけのことで、それをやるのがマスメディアでもあるのだが、大方が腰砕け状態で、毒にも薬にもならない微細なものを安全地帯で御大層にもてあそんでいるだけというのが実情である。福島市長のみならず県知事、さらには政府関係者に至るまで放って置けば何をするかわからない者たちばかりである。それは実質上、独裁権力機構である官僚機構の為すがままであるということでもある。ここでまた頭に過ることは、以前にも書いたが官僚機構の中枢にいる者達とはほんとうに日本人なのかという思いである。それはもはや死語でもある右翼、左翼などという範疇とは関係なく自然に湧き起ってくる「彼らはこの国を亡ぼすためにだけやっているのではないか」という思いである。今、原発の脅威は厳然たる事実なのである。煽っても煽らなくても人的作為・操作とは関わりなくやがて結果は出てくるのである。推定を推定でしか否定できないにも拘わらず断定する無責任な発言に乗せられるより国土のことだけを考えてみても大事をとることの方が最優先課題であろう。原発に対する警鐘を単なる煽りとする一方では、北のポンコツミサイルに継ぎ接ぎだらけの大団扇で危機を煽っているマスメディアの姿には愚かというよりただ哀れを催すだけである。そこまで堕ちたのである。そう思って観ている者が多いことも知らずにやっていることが二重に哀れである。
「福島は安全です」と言いながら、自身は西の食品を食べているのが為政者、似非識者の偽らざる姿であろう。それに一体誰が異論をはさめるのか。詐欺師達の繰り返される猿芝居に辟易して限界点に達している者も多いことであろう。思わず出る溜息にわずかな潤いもなく、喉が焼けるように感じる今日この頃である。
夜半、満開の桜に我を忘れる・・・
2012 4/10
272.シニアの就業、そして自殺
働く意欲のあるシニアが、「年齢不問」とあるので問い合わせると、「60歳までです。」「定年は65才までですがよろしいでしょうか?」と言われるそうだ。そのシニアはある中小企業を定年退職したばかりだが、とても年金では暮らせないのでゼロから始めようと一念発起したらしいが受け入れてくれるところがないという。年金では暮らせず働き口もなく、そうかといって生活保護を受ける程の「最低基準」も通らない。「結局、この家も何もかも食いつぶせと言われているようなものだ」と言った。最近また介護疲れで夫を刺して自分も死のうとした妻のことが報じられていた。自殺の少ないギリシャでも年金受給者が国会議事堂の前で「ごみをあさるのだけはいやだ」と言って自殺をした。自殺率では世界でも1,2位を争う日本である、今後も高齢者の自殺は増加の一途をたどることであろう。
2012 4/7
271.「継続」とは一体何の「力」になるというのか?
「継続」が、継続させること自体に重きを置いた時、それは不誠実な証でしかなく実際のところ何の「力」にもなり得ない。惰性で実質的な更新が成り立たないようにそれは決して新たなものを創出し得ないからである。もしそれが常に更新していなければ「継続」そのものが成り立たないという意味ならば、ある範囲内でそれも「力」というより「効果」としては機能するであろうが、しかし、その時点でもどこまで今までの「原型」を留めているか不明なので、果たして何の「継続」なのか、どこまで「継続」として捉え切れるのか疑わしいものがある。そして、「力」が意味しているものとは何か、誰が言ったか知らぬが「継続とは力なり」という言葉は私にはまったく意味不明の言葉でしかない。「継続」、「力」が定かでないまま宙に浮いているのである。これで了解できる人はさぞかし頭脳明晰か、思い込みの激しい人であろう。少なくとも、私にはその言葉の意味する内容に近づくことも凝縮されたエスプリを垣間見ることさえできない。おそらく、一つのことを続けていれば必ず報われる、積み重ねていくことがひとつの力となり得る云々と言ったような意味合いで俚諺を模してつくられた現生利益的自己啓発、正当化の類なのであろうが、それでも結局のところ意味不明で私には口にするのも憚られる言葉である。
2012 4/5