「ある日、その時」 (18) 2012年3月3日ー

<掲載内容> 

260.エコノミックアニマルからエコノミックバイオへ、そしてハザード 261.社会の品格 262.国を滅ぼすもの 263.首都圏直下型地震で騒ぐ愚かさ 264.馬が合わないオルフェーブル 265-268.現(うつつ)とは三文芝居を通すこと (265AIJの社長の曰く 266.北が動けば、米 実る 267.TPP,国民不在の属州の強国志向 268.いつか、歌に乗せられ奈落の底へ) <番外>ドバイ必勝法 269.ホームヘルパーが大挙して消える日 270.忙しい日々

 

                                              (転載・複製厳禁)



270.忙しい日々


 あまりにも忙しく、慌ただしく時が過ぎていく。しかし、すべては自分で選んだことなどで、心を亡ぼすと書くような忙しさではなかった。この間の3年間が一年位、いや半年位の時間経過tとしてしか実感できない。ようやくこんなことを思えるようになったのもこれも何かの節目かとも思う。スケジュール表に書き込まれた今年中にやらなければならないことを見ながら時間調整を考えている。しばらく海外に行くことはない。近々、仕事の関係で奈良に行くつもりである。

 帰途、取り留めもない想いの中でふと、原発、TPP推進者とはほんとうに日本人なのかと思った。 

                                                                  2012 4/1


269.ホームヘルパーが大挙して消える日


 厚生労働省のやり方をただ無批判にまたは都合よく取り込んでいるだけの為政者の言動を見ていると、ホームヘルパーが大挙して辞める日は近いと思われる。そうなるとどうなるか、高齢者の死がさらに跳ね上がり、路上病死などがあちらこちらに見られることになるだろう。これはおおげさなことではなく、実際に年間の高齢者の行方不明者23668件、発見17849件、死亡548件、未発見357件(平成16年 警視庁調べ)という8年前のデーターがあるが今ではさらに増加しているはずである。2004年時点で死亡、未発見を含めると905名いるのである。マスメディアはその数値をほとんど発表せずきれいごとで処理しているが、これが高齢者福祉の現状である。それは辛うじて体裁を整えているものの実のところ綱渡り状態であるということである。現在でも高齢者福祉の最前線にいるホームヘルパーはコンビニと変わらない賃金(950円以上程度)でその専門性と責任を問われ、時間に追われストレスを抱えながら飛び回っているのが実情である。ヘルパー研修は必要であろうが、今後は「一本化」、「専門性」、「責任」という名の下にさらに必須研修を設けるつもりらしいがその費用(15万円)は一切援助しない。ヘルパー資格を持っていない者は介護職員基礎研修500時間すべてが必要で45万円かかる。専門性を追究するのは結構なことだがそれについてはまったく支援なしで賃金は一般アルバイトと同様で今後も実質的にさらに削られる方向に進んでいる。ヘルパーは過剰なストレスを抱えながら安い賃金で働かされ身も心も変調をきたしリタイヤする者も多いと聞く、当然であろう。現在でもヘルパーは不足しているが、それでも何とか高齢者福祉の現場を取り繕っているというのが実態である。その彼らが突然大挙してコンビニでも転職すれば、実際にそのような声がすでに上がっているのである、単にそれだけのことでその場限りの日本の福祉行政の醜態を世界にさらすことになろう。「これからは介護だ」、「人助け」、「感謝されることが生きがい」と踊らせる言葉は枚挙に暇がないが、身体介護(食事、入浴、排せつ、etc)という個的対応、時間制限、配慮、クレーム対応に追われている彼らにほんとうの笑顔はない。前線で働いている者達に必要なものも与えず、費用削減ばかりを考えている美辞麗句だけは達者な「大本営」では1%の富裕層以外のすべての高齢者はよくて「収容所送り」になるだけであろう。しかし、どこを取っても、発想、方法、展開において「国民」の存在しない「国」である。どちらにしても、国の出方一つで近い内に当然の結果は出てくるであろう。

                                                        2012  4/1


<番外>ドバイ必勝法

 ドバイまでの道のりは遠く、どちらにしても愛すべき馬を疲弊させてしまうので参加させることはよしとするところではないが、それでも参加させるというのであれば、まず馬を小さい時から大観衆の歓声とドバイで打ち上げられるような花火の音と光にに慣らしてみてはどうか。日々、厩舎から出る直前から大歓声の音を入れ、花火を打ち上げるのである。牧場は地方の広い空間、クレームもあるまい。騎手は内外問わず本当に馬を愛している者以外はNG.功名心だけの騎手は馬に見破られる。はやる心が馬との交流を阻害するのである。ただし、残念ながらドバイまで行き着かぬ馬にいくらそのようなことをしてもその効果の程は如何なものか。少なくとも歓声に必要以上に驚かなくなるという程度の効用はあるだろう。とにもかくにも、走らせることばかりではなくもっと馬のメンタリティも考えるとよいのではないかということである。特に天才馬・オルフェーブルのような馬はそのメンタリティーも非常に強いのは当然なことである。因みに、オルフェーブルには今更その必要はあるまい。

                                            卯月一日の日和に任せて


ー現(うつつ)とは三文芝居を通すことー

265.AIJ社長の曰く 266.北が動けば、米 実る 267.TPP、国民不在の属州の強国志向 268.いつか、歌に乗せられ奈落の底へ


265.AIJ社長の曰く・・・

 AIJ社長の曰く「もう100億あれば巻き返せた」、どこのどいつが年金をばくち打ちに託したのか。その挙句に、1092億円の消失の責任をこの一人の博徒に負わせ葬り去るつもりらしい。まさか「単独犯」ではあるまい。見え見えの猿芝居のかくのごとくの在り様が現のこととして通ってしまう。

266.北が動けば、米 実る

北が動けば、ミサイル配備、戦艦配置である。沖縄にもミサイルが配備されたそうだ。これで何が正当化され、何が読み解けるか。北がミサイルを発射させる効果は何か。どちらにしても、これでアメリカの世界正義と防備の必要性を焼き付ける戦略は一歩前に進んだことになる。またCIAの諸君の影が舞台裏でちらついている。今や日本の現状は北のポンコツミサイルより恐ろしい状態にあり、自滅寸前の乗るか反るかの瀬戸際だと言ってもいいのである。これもまた見え見えの猿芝居のかくのごとくの在り様が現のこととしてある例であろう。

「ブラックブッシュ」のノーベル平和賞は平和とは戦争のこと、戦争とは平和のことそのままである。ダイナマイトによる基金で成り立つノーベル賞もこの際理系だけに限った方が紛らわしくなくてよかろう。

267.TPP,国民不在の強国志向

日本の傀儡首相は「TPPはビートルズのように」などと訳のわからぬそれでいてアホのようにわかったようにさせる表現を遣い始めた。ということはメッセージをある対象に絞り始めたということでもある。これはナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの手法そのままで、非常に危険な領域に入ってきたことを意味する。この傾向は大阪においても見られる。そして、まず現傀儡首相の「任務」は増税で徹底的に国民を疲弊させることにあると見える。そして、そのリバウンドを利用してさらにいくつもの「安価な幻覚剤入りの糖衣錠」を少しずつ飲ませ一挙に「思惑」通りのプランに持って行こうとする魂胆とも取れる。どちらにしても国民不在であることに変わりはない。彼らにどのような名称を与えようが、国をもてあそび、私利私欲だけの滅びの道に誘い込む者達であることに変わりはない。アメリカ合衆国「日本州」もわずかに残っていた誇りすらすべて打ち捨ててしまったようである。ここでまた猿芝居に乗せられたら奈落の底であろう。

268.いつか歌に乗せられ奈落の底へ

ある作家が「国民大衆の情念を大政翼賛に向かわせたのは」大衆演歌、映画、とりわけ歌であり、軍歌である。「海行かば」などを聞くと心の奥にうごめき起こる情念があるという。そして、歌の力とはそれほど恐ろしいものだと締めくくっていた。なるほど軍歌などには確かに人を引きずり込ませる負の情念の怪しい揺らぎがある。大伴家持の歌の劇的に高揚した一か所の「その狙い」に合わせた抜粋は鼻につくばかりであるが、それを感じさせなくしてしまうところが音楽の怖さでもある。華麗に構成された音は負の情念の揺らぎに静かに油を注ぎ込むのである。「水漬く屍」、「草むす屍」・・まともな精神状態で遣える言葉ではない。すなわちこの歌が現実の様相と重ね合され斉唱できた時代とは尋常な時代ではなかったということである。それは狂人が自らの狂気を感じ取れないのと同様である。今では怪奇映画の幕開けかと思うものさえいるのではないか、さらにはそこに死体愛好の偏執狂的美意識すら嗅ぎ分けるものもいるのではないか。 懐古趣味的にせよこの歌の封印を解き美化すること自体が危険因子を抱え込むことになるということを明確に意識すべきなのである。

                                                        2012 3/25


264馬が合わないオルフェーブル


 第60回阪神大賞典のオルフェーブル、天才と凡夫がまったく反りが合わないことを見せつけられる競馬であった。要するに、天才馬にはそれなりの騎手が乗らないと収まらないということであろう。このような兆候は以前にも表れていた。それは、「一位にはなったが、それはお前(騎手)と馬が合ったわけではない」とでも言いたげな一般的には大人げない挙動であるが、最も重要なものを問いかけているとも言えるのである。天才を「バケモノ」にしてしまうのは相方でもある。オルフェーブルは「バケモノ」ではない。自分の手に負えないものを「バケモノ」扱いするか「無視」するというのはいつの世も変わらぬことではあるが、それは単に自分がついて行けないだけという場合が多い。このケースも騎手が常に後手に回って、馬が合っていれば読める一瞬先が見えていないのである。オルフェーブルは騎手が気に入らないのだろう、だから騎手の存在を無視して「劇的に」走るのである。あれ程コースを外れ、外ラチから一挙に9頭の馬をごぼう抜きにして1位なるかと思われる勢いで2位となる。とんでもない力を秘めた馬である。短距離走の覇者・ボルトの遊ぶような走りを彷彿とさせた。

                                                     2012 3/19


263.首都圏直下型地震で騒ぐ愚かさ


 首都圏直下型地震の「恐れ」があることが国の肝いりで最近発表された。こんなことは私は30年も前から覚悟していたことである。前のブログでも取り上げたが、日本は地震大国でいつ巨大地震が起きても不思議ではない国なのである。そして、地震発生時、寝たきり老人でもないかぎり自分はどこにいるか分からないのが実情である。2,3日前、知人が地震に備えて500万円かけて家を改修するというから、その愚かしさを指摘してやめさせた。どのように科学的にアプローチしようが地震発生時刻、規模を特定するのは不可能である。そのようないつやって来るかわからぬものに対して怯え、狼狽えること自体が愚かなのである。人間死ぬときは、いかなる方法を駆使しようが、我先に逃げても死は避けられず、そして死の瞬間でしか死を察知することはできない。それが死である。いつ来るかわからぬそんなものに振り回されていることの方が無益で愚かしいことなのである。それよりは「今やらなくてはならないこと」に専念すべきなのである。国の肝いりでなされた首都圏地震の発表も、それを煽るような3流雑誌の三文記事もすべて連動している。またか、小賢しい猿芝居という感は払しょくできない。我々は世界に冠たる地震大国に住んでいるのである。巨大地震がいつ来てもおかしくはないところにいる以上、日頃からその点をしっかりと見据えて覚悟していれば彼らの常套手段に(この場合は恐怖心を煽り、大衆の目をあらぬ方向にそらし拡散させること)踊らされることはない。

                                                     2012 3/16


262.国を滅ぼすもの


 ここに国際地震センターISCの世界地震分布図がある。地震大国日本は地震発生ポイントで真っ黒に全土が塗りつぶされている。アメリカは太平洋側に集中し、内陸部では容易に数えられる程度である。フランスも地震発生ポイントは僅かである。アメリカもフランスも原発大国ではあるが、日本と比べれば地震発生率から考えてもはるかに安全性は高い。このような地震発生ポイントに覆い尽くされた日本の国土に原発を建設し続けてきたこと自体が異常なのである。世界地震分布図には日本の国土は存在しないと言ってよいほど黒く塗りつぶされている。これだけを見ても、ここに原発を増設する、再稼働させるなどとは狂喜の沙汰で、日本のことを「考えている」とはとても思えないのである。これがフランス、アメリカであったら決してあり得ないことであろう。福島原発の現状、これは厳然たる事実で、これを隠ぺい、糊塗するものとは一体何者なのか?日本を滅亡に導くものとは、どこをどう通っても霞が関界隈に辿り着く、実質的にもやはりその中枢に位置する官僚組織全体であることは今更多くを語る必要もあるまい。そして、そこはハーバード大学に留学しアメリカ戦略機構を徹底的に叩き込まれた者達が「活躍する場」でもある。この組織が「悪魔的」にしか機能しないことは様々な事例からもすでに明らかで、国民無視・不在の組織であることは大方の「ものが見えている」者達にとっては自明のことでもあろう。さらにここで当たり前のことを確認すると、民主党=官僚組織全体ということで、すなわちシビリアンコントロールともいうべきものが現在まったく機能もせず、成り立っていないということである。自民党が潰れようが、民主党が潰れようがそんなことはどうでもよいことで、まずこの官僚機構をコントロール、改革できないものには何もできないということである。中途半端に切り込んだ程度では待ってましたとばかりすぐに逆に彼らに都合の良いように改悪、改修されてしまう。彼らは現実的作業を如何に的確に巧妙に行うかに長けている理念なき集合体なのである。彼らの集う所を「伏魔殿」とはよく言ったもので、悪魔には理念などは必要もなくただうっとうしいだけのものに過ぎない。言ってみれば、官僚組織とは百鬼夜行の集団で、それらが牛耳っている官僚独裁国家といのが日本の実態である。彼らの傀儡だけが事もなげに「政治家」を生業にできるのである。官僚独裁国家の「臣民」のままでいるのか、この際ほんとうの「国民」なるのか、その選択は迫られている。

 言ったことではない、成したこと、それがすべてでそれ以外には何もない。それでも彼らは黒を白と見せることなどいとも容易くやって見せる。「増税、冗談じゃね!」それでいいのである。彼らの巧妙な戦略でしかない釈明に分別臭く乗ってしまたらもう彼らの手の内である。狡知にかけては右に出るものがいない集団である。庶民レベルの分別などで対抗できる相手ではない。彼らに対抗できるものは理念とストレートな反応すなわち「単純」に簡潔にものを見ることに徹する姿勢である。知ったかぶって裏読みを始めたらすでに彼らの軍門に降ったとみるべきなのである。連綿と続いている官僚独裁というのが亡国政治と同義なのであって、亡国の「政治家」などある意味では一人として存在しなかったとも言えるのである。

 未だにドジョウは官僚の手桶の中で浮き沈みしているだけである。この間、官僚組織と全面対決を強いられたのは誰なのか?官僚と実際に対峙した政治家こそが国民の側に立った政治を行える唯一絶対条件であると同時に大きな証ともなる。人が成したことで見るとはそういう意味である。

                                                                           2012 3/15


261.社会の品格


 ボーヴォワールならずとも老人に対してどのように接しているかを見ればその国の品格は自ずと分かる。そして、若者の食事を見ればその国の将来は分かるというのも容易に頷ける。また、強かな者しか生きられない社会というものもその社会が脆弱な社会構造であることの証左でしかないというのも納得できる。今日の日本社会がまさにその通りなのである。老人福祉にしてもとても先進国家の名に値するものではない。少子高齢社会は今突然始まったわけではない。年金問題にしてもガキの算術ではあるまい、間違えました足りませんで済む問題ではない。国の責任で処理すべきでなのである。「社会保障と税の一体化」などとは笑止。自ら政治不在を宣言しているようなものである。たとえば、老人福祉の問題についても現在「老老介護」(老夫婦の一方が介護している状態)は「当たり前」で、さらには成立するはずもない「認認介護」(認知症の者がより重度な認知症の家族の在宅介護をしている状態)をしている家庭が順番待ちで施設にも入れず「半ば」放置状態なのである。これは何が起きても不思議ではない状態である。「半ば」と言ったのはたとえそこにヘルパーが介入しているにせよ認知症というのは24時間介護が必要で目が離せないものだからである。たとえ運よく施設に入れたとしても夫婦だとその費用は毎月50万円は超えると言う。これはとても年金で払える額ではない。払い切れない者はどうするか、そのまま見捨てられるのである。これがこの国の老人福祉の実情であるが、それでも国はできるだけ支出を押さえ民間レベルに「丸投げ」し、同時にその責任をも回避する方策を着々と練っているようである。今後もますます増えるこうした惨めな老人の姿を常に目にして多くの者、特に若者は一体何を思うか。まともな神経であればこの社会にいる限り明日は我が身と思うのが普通であろう。そうした反応がすでに様々な形で生命体レベルにも影響し現れているというのも見て取れる。このことに関してはもはやどのようなプロパガンダもほとんど通用せず、少子化は防ぎようがあるまい。世界に類のない完璧なまでの品位に欠ける少子高齢社会の出現である。至る所で拘縮、委縮が始まっている社会ではもはや羽ばたくスペースすらほとんどない。今や世界に羽ばたくのは大きな夢でも何でもなくなった。ただそれが残されたの生きる道筋となってしまっただけなのである。このようにしてしまったのは誰なのか、何なのかを検証し、見届けるのも残された我々の務めの一つであろう。

                                                                  012 3/10

 

 


 260.エコノミックアニマルからエコノミックバイオへ、そしてハザード


 朝のない夕べはないごとく、いつかまた同じように「春」が巡って来ると思っている人々がまだいるようである。春という事象はいつでも現れてくるが、「人間不在」なところには「春」は存在しない。今、また改めて「人間」そのものが問われているにも拘わらず神がかり的な「春の到来」に希望という怪しげな輪を被せようとする。芽吹きの時である春を抹殺する方向で突き進んできたのは「人間」そのものである。言ってみれば「人間」は本来の「春の到来」を拒む方向でしか進んでこなかったとも言えるのである。そして、今また「春の到来」を待ち望むというのはあまりにも日本の現状が見えていない人々ということ以上にそこには日本人独特の「甘え」も見えてくる。日本人の中には常に何をしてもいつかは八百万の神々が自分達を救い上げてくれるという思いが原始宗教の状態のまま何ら発展深化もせずどこかに根強く残っており、それが必然的かつ容易に「何とかなる」という思いを引き起こすことにもなる。そして、行き着く先も見ようともせず文字通り猪突猛進して、「人間」としては考えられないことを起こしてしまう。それはやがて世界の驚愕と侮蔑の中で「エコノミックアニマル」という奇怪なものとを登場させることにもなる。今となっては「アニマル」という言葉も体温すら感じさせるが、それはさらに止まることも知らず収斂されうるポイントも検証されないままさ加速され、ついには「エコにミックバイオ」と言ってもいいようなものに変身して行く。すでにそこにおいては従来の「人間」のコンセプトから大きくかけ離れてしまっているのであるがそれすら気付かぬまま今に至ってしまったのである。このエコノミックバイオは現在では試験管の中で取り残され身動きつかぬまま世界の培養検査の恰好の材料となってしまったとも言えるのである。少なくとも今、不気味な極楽蜻蛉のように「春の訪れない季節はない」などとしたり顔で言っている場合でないことだけは確かなのである。

 「何とかなるさ」という言葉の遣い方にしても、西欧人と日本人とでは根本的な相違があることを押さえておく必要があろう。現状を見据えながら一寸先は闇だが、何とか生き抜く道はあるという意味で「何とかなる」と言うのと、いつかは八百万の神々が元通りにしてくれるという「甘え」が無宗教性の名のもとに得体のしれない「信仰」としてずる賢く巣くっている状態で正確にものを見ることもせず「何とかなる」と言うのとでは現状の捉え方も、今後に対する覚悟も自ずと違ってくる。そして、当然なされるべき検証もなされないまま再び「奇跡」を望むなどとはまんまとメフィストの手中に収まるようなものである。それはそのままこの国の解体を意味する。今後は、この得体のしれない日本人の奥深くに潜む「信仰」そのものが一つ一つ検証されることになるだろう。と言うよりも、そのようなことをしていてはもはやすべてにおいて通用しなくなることを思い知らされることになると言った方がいいかもしれない。

 いつだったか、比較文化論的に遠回しに日本の庶民の権威主義的側面を皮肉っていた作家がいたが、然もありなんである。現在、今までの権威主義的な日本の庶民意識・感情そのものが徐々にではあるが変質、瓦解し始めているのも一面の事実ではあろうが、しかし、そうだからと言って市民意識が自然に育つわけでもなく、むしろ新たな「権威」の対象を求めるだけということにもなりかねないのである。なぜなら、そこにはわれわれの「受容器」そのもの変換を強いられるような大きな作業が残されたままだからである。

 相も変わらず繰り広げられているヒステリックな「明るさ」、「笑い」は終末医療のドラッグ投与の効用としか思われないが、実はそれ以上に哀れである。

                                                                         2012 3/3

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