<掲載内容>
238.「吠える」ということ 239.参与観察 240.「東京文化発信プロジェクト」の問題点 241.「迷宮」でまどろむ人々242.先日、前首相は都内の某レストランで・・・243.国の見立ては根も葉もなく244.「哲学」できない人々245.「あがき」の美称 246「帚木に 影というもの ありにけり」(虚子) 247.坊ちゃん刈りのおっさん達 248「3.11日常」を観て 249.「ジャーナリスト」・上杉隆の決断
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249.「ジャーナリスト」・上杉隆の決断
彼は2011年12月31日をもってジャーナリストを無期限休業することを宣言した。これは本来のジャーナリストであれば当然の帰結であろう。したがって、これは本来のジャーナリストに戻ることの宣言でもある。検察問題を真摯に追及する彼の姿を見て以来、いずれこうなるだろうとは思っていた。そして、今回の休業宣言とともに記者クラブと政治家の癒着を示す40万枚のメモを公表し、日本のメディアの不健全さを表す象徴的なものとして日本の皆さんに問いたいということである。自らの身の安全のためにも狡猾な策謀を封じるためにも発表の仕方は考えているようであるが、賢明な方法であろう。このようなことは何もジャーナリズムのみならずあらゆる領域でまかり通っていることでもある。この国には「上下左右」似て非なるものしか居場所がないというのが大きな問題であると同時に致命的なことなのである。上杉隆が志向しているのはジャーナリズムの本道である。そのような人間を実質的に追いやるということは、この国の衰退の証の一つともなる。いつまでもニセモノにまみれていては腐るよりほかはあるまい。日本にこだわっている必要はない、厳しいとは思うが活動の拠点を世界に移すべきである。惰眠を貪り、目先の欲望に振り回されている人生よりどれほど豊饒であることか。
※上杉隆のこの間(2023年まで)の動き(為したこと)を見ると、ブレの幅も大きく、やはり根本的なところでかなり問題がある。いい瞬間もあっただけに残念である。
(2023 10/26)
2012 1/1
248.映画「3.11日常」を観て
このような映画の批評はできるだけ避けたい。ただもう少し福島の現状に迫れなかったのかとは思う。京都大学助教・小出裕章(原子力工学)氏については著作もすべて読み、すでに充分に知っていてそのスタンスにつても共振しているので、映像からは彼の身近な日常以外は改めて発見するものはなかった。強いて言えば彼自身を再確認できたことか。そして、マスメディアではほとんど取り上げられなかった経産省の前で10日間のハンストをした4人の若者を確認できたことも今後の参考となった。177人の収容の映画館に3,40人くらいの観客が来ていたが、今なお問題意識を持っているのはこの程度位なのであろう。それは少ないとも言えるが多いとも言える。ただ今もって福島原発が進行形である以上、今までのように「一過性」の事象として済ますことはたとえそうしたくともできないということだけは確かなことで、今後も次から次へとその原発事故の「結果」を見せつけられることであろう。無味無臭の透明な有毒物質は痛みもなくただちに発症することもなく着実に肉体を蝕んでいくということを一体誰が完全に否定しうるのか。緩慢なる自殺の道を、あるいは私利私欲の「壊国」の道を歩んでいる者以外は真剣に考えなくてはならない問題である。
2011 12/28
247.坊ちゃん刈りのおっさん達
坊ちゃん刈りのおっさんでも「おっさん」という言葉が出ず、よく似合っているなと思えたのは画家の藤田嗣治くらいであろうか。多くは童顔であればあるほど薄気味悪くなってくる。「内面」と「坊ちゃん刈り」と「装い」の内角の和が定まらずで、180度すなわち「一直線」にならないのである。どこか歪みが生じていて形にしようにも形にならない。それに「ヌーボー」とした要素でも加わればもはや魑魅魍魎の住人としか思えないが、あにはからんや、可愛いもので、頭の中は損得勘定だけでそれ以外には驚くほど何もない。似て非なる素朴さ、誠実さとでも言おうか、やがて取ってつけた縫い目はほころび始めるがそんなことにはお構しないというのが彼らの一般共通項である。
2011 12/27
246.・・・・・帚木に影といふものありにけり (虚子)・・・・・・・・
・・・・・これは「帚木」以外には成り立ちようがない写生を超えた写生句である。有の実相あるいは無の実相を見事に捉え切ることになった一句・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011年のある夏の日を想い描いて・・・・・
ーある日の散歩ー 2011 12/25
245.「あがき」の美称
シュトレーバーによれば、俗物とは努力型成功主義者ということになり、蘇東波に言わせれば俗物とは治療不可能であるらしい。
赤心を推して人の腹中に置くなどは愚者の典型とされる世であれば、赤心片々たる者にとって社会との「距離」は正当な「距離」である。
来年は大方の予想をはるかに上回る(歴史の動きとは常にそうであるが)前代未聞の事態の幕開けになることは充分に考えられるが、巷ではいまだに何の根拠ともなり得ない歴史的前例を持ち出して「頑張れる」と思っているのが実情のようである。実際に事実や客観的現状すら明確に捉え切れずに単なる「ガンバル」の連呼に象徴されるすべての動きはやがて悪しき「あがき」の様相を呈することになる。徐々にその進行の度合いを深めつつ早めている世界の変動はいつしか激動となり、あらゆる人間の「本性」が至る所でむき出しにされることは火を見るより明らかなことであろう。その様を見て、少なくとも「人間とはこうしたもの」などとうそぶく側にはいない者としては、それによってもたらされる自らの「揺れ」を現在の生きる証として受け止めるより今のところ手立てはない。巷間に流布している「状況分析」なるものも大方が単なる「参考資料」程度か、それ以下で信用に足りるものではない。どちらにしても、我々に与えられるものは常に「咀嚼物」か「吐瀉物」かも定かでない、含有成分も不明な毒とも薬とも言えない「糖衣錠」であることだけは確かなことである。肝心な真実に近い「極秘事項」などに匹敵する内容はウィキリークス的行為もしくは本来のジャーナリズム的機能が介在しない限り流れることはないからである。ただし、「権威」などとはほど遠く何のしがらみもない視座で客観的状況を掌握し得た者の言説が問題の焦点を穿つこともあり得るだろう。しかし、果たしてそのような「立ち位置」を確保、維持できている者が現在どれだけいるのかということにもなる。多くは、口にはチャックし下半身のチャックだけは開放されているというのであれば話にもならないが、もしそうであるならそれはそのまま俗物の俗物であることの証左ともなる。そして、蘇東波の言うとおり俗物とはもはや治療不可能な対象なのである。
2011 12/22ー23
〇「御用学者」とはマッドサイエンティスト、マッドスカラーのことである。またそのような認識すらできない者を真の「御用学者」と言う。
最近では、アメリカの国立衛生研究所が生物兵器防衛計画の一環として、オランダの「エラスムス医療センター」のロン・フォウチャー教授に作らせた遺伝子操作をして人にも感染するようにした強い毒性を持つ鳥インフルエンザがある。これもマッドサイエンティストの類である。この化学者もその内ノーベル化学賞ではなく、ノーベル平和章でももらうのであろう。
〇「能書きを垂れるな」などと、だらだらと能書きを垂れる己を知らぬうつけ者、それを俗物、スノッブ、小人とも言う。
244,「哲学」できない人々
基本的にも哲学(知を愛する)できない人々とは、言い換えれば明確な世界観を持ち得ず、論理的にも思考展開できない人々のことである。周知のように仏教国と言われながらも現実的には「生ものは扱わない」葬式「仏教」、現生利益のおよそ「信仰」とはかけ離れた悪しき神仏習合ばかりが目に付くのが日本の偽らざる実情である。確かに、京都大学教授・カール・ベッカーの言うとおり、外来の借り物仏教で、仏教の基本概念である輪廻の考え方も定着しなかったのである。そして、「日本人が死体に抱く霊魂観は原始宗教レベル」そのままなのである。さらに、哲学に関する言葉もドイツ語か英語、漢語で、日本語(和語)には「観念」、「概念」、「理論」、「妥当性」などの言葉も存在しない。要するに「大和言葉で哲学することはできない」ということになるのである。それは根本的なところでマザータング(母国語)ともいうべきものの欠如であり、その言語的不安定さは即 精神的脆弱さとなって現れる。多くの一般的な日本人においては思考的短絡は常態と言ってもよいくらいに日常茶飯事である。そこでは「考えること自体」がいつまでも自分自身の「もの」とはなり得ていないのである。もし「大和言葉」に利するところがあるなら、それはその不安定さによってさらに増幅され揺れ動く感情表現の領域においてのみであろう。その一つの「結晶体」が和歌、俳句であるが、同時にそれは、底辺に蠢く社会問題でさえ感情面だけの「狂騒」で終わらせてしまう鎮静要因としても作用する。そのことはよく知られている歴史的事実からも見て取れることで、そこに見えてくるのはそれがあたかも「純粋」であるがごとくの感情的領域だけである。1096年の永長の大田楽しかり、幕末の「ええじゃなか」しかりである。「和語」には美しい感情表現もあると同時に巧妙に仕掛けられた支配システムが内蔵されている。それが我々のDNAレベルまで入り込んでいると見ることの方が我々自身を捉えかえす意味でも有意義であると思っている。
自らをどぜう(どじょう)という言葉で譬えることで、多くの者の一部の感情が収まってしまう意識構造とは、感情とはその程度のもので、それだけで動いているものが多ければ多いほど御しやすいのも事実であろう。ただし、この手で通用するのは日本国内だけである。
追記:仏教にまで言い及んだのでついでに前回243のブログと関連させて言えば、サルトルの「人間の死が予告されている云々」という箇所を、ブディスム的観点に立って捉え直せば、そもそも「人間」などというのは一つの境涯に過ぎないのであって、非常に不安定なものでいつでも他の境涯に移行し得るものなのである。だから、人間の形はしているが生存状態が「修羅」、「餓鬼」というのは容易に成立するのである。ブディスムではその境涯にいる者達を「人間」とは言わず、「人間」という概念そのものが常に一定して存在し得るものとしては捉えられていないのである。
2011 12/11
243.国の見立ては根も葉もなく
国の見立ては 根も葉もなく
世の本流はイミテーション
流れに抗し 握りしめるは 根無し草
哀れなり うんちく傾け したり顔
然もありなんと うそぶく間にも 堤崩落
取り留めもない言葉がぐるぐる回っている内に、天井の節穴が鮮明になってきた。
久しぶりに、サルトルの「シチュアシオン」を手にする。「Aprés la mort de Dieu ,voici qu’on annonce la mort de l’homme 」が目に飛び込んでくる。「神の死後、今や人間の死が予告されている」、この前の文章には、「我々の誠実さ、勇気、善き意志が、もはや誰にとっても意味のないものになり、それらが邪心、悪しき意志、恐怖を携えて根源的な不明瞭さの中に沈み込むであろう前日なのだ。」という文がある。そして、「Il faut que je sois ,en ce jour ,même et dans l’éternité,mon propre témoin.Mortal parce que je veux l’être, sur cette terre minée.」 すなわち「今日というこの日を、そして未来永劫にわたって、私は私自身の証人にならなければならない。この蝕まれつつある地上にあって、私自身がそうであること望むからには、自分自身の倫理的証人にならねばならない。」とある。これは原子爆弾の管理者となってしまった共同体の中にいることがどういうことなのかについて述べた箇所であるが、これはそのまま原発の管理者となってしまった共同体が負わねばならない今の我々の問題でもある。この「生物界の枠組みを踏み越えた」共同体には、日ごとに、そして一分ごとに、生きることへ同意し続けることが必要になるであろう。」ということである。これは実際に意識するとしないに拘わらずそうなのである。そして、それが現に今ここで起こっていることの生々しい実情なのである。
2011 12/8
242.先日、前首相は都内の某レストランで・・・
前首相は、レストランで、「私は構わないが、子供や女性がいるので野菜は西の方のものにしてくれ」というようなことを言ったらしい(知人の事情通)。さもありなんであるが、ただただ絶句である。このような者達が数多くいることは想像に難くない。そして、都内の某町会運営のレンタルスペースでは誰がどのようなルートで持ってきたのかは知らぬが、定期的に福島の伊達、飯館の野菜が売られている。そこで若い女性が安く手に入れた白菜を抱えて帰って行くのを目にしたが、中を見ると中年の女性でごった返している。「お毒見方」がいてもすぐには分からぬ放射性物質が相手である。何年か先に発症しても追跡調査は不可能であろう。福島県民も現在の土地に拘泥せずできるだけ早く新たな土地で生きる道を見出した方が賢明であろう。そうしない限り、本人の頑張りとは裏腹にさらに実質的な被害を広げる方向に加担することになってしまうからである。放射性物質は専門家が(政治家は論外)どのようなことを言おうが人間の手の内に収まる代物ではないことだけは確かなことなので、論証不能領域が極めて大きいのである。このような場合、やはり大事を取ることが鉄則であろう。もうすでにゼネコン関係が仙台に入り、瓦礫は「お宝の山」とばかりに仙台の一部は浮かれているようであるが、これがいずれ福島でも展開されるのであろうが、放射性物質の除染方法も徹底しないまま行われる下請け業者の汚染・撤去作業がどのようなものになるのか、たとえ作業が終了したにしてもとても山歩きなどできない地域になるのではないかと思われる。このまま行けば、数十年、場合によっては途方もない時間を経ても消えない有害物質が広範囲にまき散らされるだけの除染・撤去作業になると心配している。「私は構わないが」と言うのは当然嘘である。私は結果の出る頃にはいないというのなら分かるが、権力に執着した者が生に執着しない筈もなかろう。そうでなくとも人間はいくつになっても、たとえ明日をも知れぬ身であっても生に執着するものである。
※最近よく野菜、果物の訪問販売を目にするが、どのようなルートか検査も不明なこのような野菜、果物の販売は今後ますます増えることであろう。また「自己責任」で対処せよということか。
2011 12/5
241.「迷宮」でまどろむ人々
ギリシャ神話などでは迷宮の中心にはミノタウロスという怪物が住んでいて、迷宮に入り込んだものはその怪物と対決し、勝利してそこから脱出して新たな世界を獲得するという筋立てであるが、泉鏡花の「草迷宮」のテーセウスたる主人公は怪物を殺そうともせず、そうかと言って逃げ出そうともしない。迷宮から脱出する意志はまるでなく、あろうことかそこで眠り込んでしまうのである。怪物の設定も「日本的」であるから成り立つことではあるが、これがミノタウロスであればすでに命はない。「草迷宮」の主人公は怪物と戦う意志ももなく、試練を経て新たに生まれ変わる自己を獲得することもなく、「永遠の母性憧憬という夢のなかに、その自我をぬくぬくと眠らせたままでおく」のである。これは結局、「彼みずからすすんで、迷宮という一つの退行の夢の中に落ち込んだ」ことを意味する。このような点が鏡花の「超越の志向」が欠けているとよく言われるところでもあるが、これはそのまま日本人の精神構造の根幹部分に蔓のように絡みついていて、そこではあらゆる障害を乗り越えて、「新たな自我」を勝ち取るという過程そのものが存在し難くなっている。要するに「見苦しい」葛藤を回避させる方向にしか働くなっているのである。最近でも、欧米諸国から、日本人の不可思議な「優しさ」について空世辞をよく聞かされたものだが、この「優しさ」とは、一つにはこの退行のまどろみの中にあると思っている。澁澤龍彦が奇矯な言辞を弄するようではあるがと前置きしながら言っている箇所に、その退行が実は「マイナスの超越」、「逆超越」ではないかというのがあるが、それが起こり得るのは飽くまで泉鏡花自身とそう読み解けた澁澤自身の中においてのみであろう。
2011 12/4
240.「東京文化発信プロジェクト」の問題点
文化を世界に向けて発信するということ自体をとやかく言うつもりは毛頭ないが、主催が東京芸術劇場(公益法人東京都歴史文化財団)、東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団である。しかも文化芸術振興費補助金までもらっているにもかかわらず日本公演は一部の学生割引を除いて一律7500円である。ニューヨーク、ロンドン、香港公演もあるようだが料金は不明である。海外公演ではまさか3500円ということではあるまいな。主催は実質的に東京都で、さらに補助金まで出ていて日本の観客だけに7500円を出させるというのであれば、税金で行われるオリンピック誘致活動の小型版というより他あるまい。そこには「世界に向けた発信」だけが最優先され日本人観客のこと、日本の文化レベルの底上げなどは全く眼中にないことが分かる。また、現状の日本の状況では、政治・経済・文化、あらゆる面で追い込まれているだけにそれどころではないという実情もよく見てとれる。野田秀樹の使命は、言ってみれば日本はこんなにも元気で躍動する感性で満ちているというところを誇示する演劇行脚と言ってもよいであろう。どちらにしてもその負荷を負わされるのは99%の日本人だけである。しかし、東京都もせこい話で、東京文化発信プロジェクトと言うなら、この際1000円位の料金でできるだけ多くの日本人観客にも観劇させるくらいの気持ちがどうして持てないものかと思う。つくづく文化的営為そのものが分かっていない国である。実質的に市民意識など持ち合わせていない者が仕切っているのであるから致し方ないが、どこを切り取っても国民不在の国なのである。この時期に一体誰が7500円も出して製作予算(税金)も充分取っている「お墨付き公演」をありがたがって観るのかと思ってしまうが、これも市民不在の国ならではである。
これは演劇に関わる大方の人間が日ごろ感じていることでもあろうが、利害関係上あまり公言したがらないので敢えて確認の意味で改めて問題提起をしたまでである。これは、今後少しでも文化的営為の何たるかを検証しつつ最善の方向に日本の文化そのものが進展することを願ってのことである。
※東京都知事・石原慎太郎は周知のように典型的な原発推進派である。野田秀樹は「アエラ」の表紙(放射線防護服を着た者のアップ写真)に神経質気味に抗議して連載を降りたが、その内容は、要するに放射線危機を必要以上に「煽る」ものということであった。ここで敢えて言うまでもなく彼の立ち位置は明明白白であろう。ビートたけし然り、金で買われた命の帳尻合わせの四苦八苦というところか。
2011 12/3
239.参与観察
参与観察には、意識的に行われる場合と、種々の要因でいつの間にかそのような位置に立たされてしまっている場合もあり得ると思われる。参与観察は、その社会に一員として入り込み、行動をともにしながら観察する質的調査のことであるから、本来の意味からすれば前者の方であるが、広義に捉えれば後者も現実的にはスタンスとして成り立ち得ると考えられる。そして、そのような位置にいる者に対する周囲の共通認識は「一体何者なのか」という排除概念を形成することで常に一過的にも結束し得る方向に向かう。その社会内で、多くは作られた「目的意識」を持って、あるいは自己のさまざまな欲に絡め取られて行動する者達からすれば、「参与観察者」のスタンスとはどれだけ彼らと行動を共にしても、それはその社会の「深入り」具合にもよるが、常に「違和感」を伴う「何か違う」者達でしかない。それは立ち位置も諸関係に対する関わりも異質なことからくることで当然のことでもある。前者の立場であろうと、後者の立場であろうと、社会をさらには自らを探ろうということが一義的になっていることには変わりがないが、特に後者に至っては、存在の在り方そのものが「観察行為」それ自体をさらに拡大、深化させることを要求してくる。そこでは現実の世俗世界が新たに照射されて現出されてくる分、現実世界の中ではリズムのズレにも似たの齟齬が生じてくる。しかし、このようなズレのすべてを引き受ける以外にスタンスとしての「参与観察」は実質的に成り立ちようがないのである。
2011 12/2
238.「吠える」ということ
3・11以後、マスメディアにおいても、巷でも「吠える」という言葉が頻繁に遣われ始めた。それだけそのような事態が多かったということでもあるが、盗人にも三分の理のような開き直りの類は別として、その多くは義もあり理もある内容でとても「吠える」などという言葉で括ることはできないような、政府に対する一般人、識者の抗議、批判までもが「吠える」という言葉で置き換えられていた。「言葉とは、主体がその意味の世界のなかでとる、その位置のとり方を表しているのであり、あるいはむしろ、その位置のとり方そのものなのである。」というメルロ・ポンティの指摘のとおり、言葉とは、その言葉を発する者のその位置のとり方そのものを明確に表している。したがって、何気なく遣われたにせよ、むしろその方が怖いのであるが、「国民」、「市民」としての当然の要求である批判、抗議声明をまでもこの「吠える」という言葉で歪曲、卑小化させてしまう意識構造とはいかなるものか敢えて説明する必要もないであろう。3・11以後遣われた「吠える」という言葉の使用事例だけを見ても、やはりこの国は極一部を除いて「市民」不在、「市民意識」の欠片程も存在しない国であるとしか思えないのである。
2011 12/1