「ある日、その時」 (14) 2011年10月4日ー

<掲載内容>

217.後始末もできないものに手を出すな!218.「御用学者」がもの申す。219.孟母三遷、蓋し遷すべき地ありや 220.進水式に沈没とは!(中国甘粛省)221,愚かしく、虚しい東電試算 222.暴走記者と「お達者クラブ」と 223.千葉県柏市の57.5μSv/h 224.動物虐待に見る未成熟、若しくは成熟不能の残虐性 225.あるべき知識人の姿ー京都大学大学院・中野剛志准教授 226.「テレビは余命7年」、新聞は?

       

 

                                                                                                                              (複製・転載厳禁)



226.「テレビは余命7年」、新聞は?


  今のテレビ業界は、あと7年で崩壊すると警告を出している本があるという。7年という数字は微妙でその根拠についてはまだ読んでいないので何とも言えないが、その見解には正当性があると言うより現実的な流れでもあろう。私の予想では5年以内に実質的な本体崩壊で、後は残滓整理というところである。そのようなことについては以前何度かブログでも書いたことがあるが、それは至極当然の流れである。テレビ業界の収益の80%を広告収入が占めているのでは、広告主の言いなり、巨大資本の思うが儘、偏向報道などは当たり前ということである。いくら作り手が「真実の報道や心温まる番組」を心掛けたとしても現在のシステムを根本から見直し、転換させるしか再生の道は残されていない。現に未だに、大量生産してしまったタレントのバーゲンセール、助け合いショーのようなことをやっていること自体、完全にアンテナがさび付いているとしか言いようがないのである。土台部分だけはしっかり固定されている錆び付いたアンテナを持つ本体は建て直すしかないのである。もはや小手先操作でシフトできる段階ではない。実質的な本体崩壊と残滓整理が同時進行していると思われる。

 さて、大手新聞社の方であるが、これについても今までうんざりする程ブログで取り上げてきた。煎じ詰めれば、日本の今の三大新聞、読売、毎日、朝日、3社の必要性の有無である。その必要性が一体どこにあるのか、内容的にも大同小異で、ただ煩わしいだけなのである。「フィガロ紙」(仏)、や「ニューヨーク・タイムズ」が3社あっても仕方ないのと同様である。もっともこの日本の「三大新聞」には「フィガロ」、「ニューヨーク・タイムズ」程の切り込みも、質もないので正確な譬えにはなり得ない。

 この「三大新聞」の行く末も、大方の識者、慧眼の士達にははっきりと見えているはずである。もはや語るべき余地すら残されていないのかもしれない。これもまた残滓整理の段階に入っていると見るなら、後はただその「あがき」を見届けるだけである。

                                               2011  10/31


226.あるべき知識人の姿ー京都大学大学院・中野剛志准教授


 中野准教授だけではないが、最近このような学者、識者、専門家、すなわち本来の知識人のあるべき姿を具体的に身を以て示す人々が少しずつではあるが現れてきた。喜ばしいことである。それは、日本の「最悪」な状況の中でようやく灯り始めた一灯とも言えるようなことなのである。

 中野氏のTPPに関する明解な発言は、彼が生出演した(10・27「とくダネ!」フジテレビ)スタジオ内を「凍りつかせた」ようだが、それはただ単に今までの報道関係の取り上げ方が余りにも切り込みのない嘘偽りでお茶を濁してきたかということの証左でしかない。このような知識人が現れるようになったことで却ってほっとしているのは私だけではあるまい。他にも様々なやり方で活躍している人々を思いつくまま挙げれば、TPP関係では東大の鈴木宣弘教授、慶大の金子勝教授、原発関係では東大の児玉龍彦教授、京大の小出裕章助教など、ここでは長くなるのでこれ以上は差し控えるが、それ以外にもまだまだ多くの方達が本来の識者、専門家としてその良識に従った言動をしていることが見て取れるようになった。

 3・11以前、原発推進、原発行政はそのメインストリームであった。そのメインストリームの成り立ちはやはり虚偽で溢れ返っていたことがこの間の経緯そのものが具体的に証明した。「主流」とは一体何か?それは決して「真実」とは同義ではない。「主流」とは似て非なるものと言ってもいいほど歴史的に見ても偽りの多いものである。、「真実」は傍流にあり、主流にあらずというくらいの視点をわが物としない限り、歴史も、現実も見通せはしないと言うより、「見る」ことさえできないのではないか。

 

                                                  2011  10/30


224.動物虐待に見る未成熟、若しくは成熟不能の残虐性


  何度となく繰り返される犬の悲痛な鳴き声に近所の住民が動物愛護団体に通報した。担当者が駆けつけると、マンションの3階ベランダに犬が放置されている。部屋には主は不在で、後日また来ることにしてその日は引き上げることにした。帰り際に再びベランダにいる犬を観察すると、かなりやせ細り、やつれて餌をまったく与えられていないということが分かった。犬の種類がラブラドールと言うのもその時はっきりしたが、社会性もあり、おとなしく賢いラブラドールがこのような鳴き声をするのは余程のことなのである。

 日曜日に再度、担当者が訪れると、若い男が子犬を抱きながら出てきた。担当者がベランダに放置されている犬の事情を聞いていると、その若い男は「あんなに大きくなるとは思わなかった、大きくなり過ぎてかわいくなくなったから外に出している」と言う。担当者は、このような状態で犬を放置するのは動物愛護上にも問題があり、近所にも迷惑になることなどを説明してその犬を引き取ることをその男に承諾させた。男は黙って頷いただけであった。担当者がそのラブラドールを抱きかかえようと近づくと、その犬はよろよろしながらも飼い主の方に必死になって歩み寄ろうとしている。その時、担当者は思わず涙がこみ上げ、その男を殴り飛ばしたい気持ちになったらしい。男の表情は喜怒哀楽の痕跡すら感じさせない無機質のまま、担当者が異様に軽いラブラドールを抱いて部屋を出ると、背後で鉄製のドアが閉まる音が響いた。

                                               2011 10/27


223.千葉県柏市の57.5μSv/h


 この数値は文科省が「原発事故が原因の雨水」と認めた数値だが、それにしても異常な数値である。単純計算しても年間500ミリシーベルトを超える数値で、文部科学省の積算方法で計算しても約298ミリシーベルトと、国が避難の目安としている20ミリシーベルトの15倍程度の被曝量になる。これは福島県内の校庭の安全の目安にしている放射線量1マイクロシーベルトの57倍以上になる。この地域は以前よりホットスポットとして騒がれていたところであるが、実際に測定もせず、大手マスメディア・読売新聞社などが原子力安全技術センター(天下り財団)のコメントを「そのまま」垂れ流し、それ以外から発信されたものすべてをデマ扱いして、「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と呼びかけていた地域でもある。いつものことながら公の、「お上」からの指示・通達などを待っていたらすでに遅過ぎるのである。今回のことでも賢明なる経営者、管理・指導者諸氏はまったく公的機関、報道関係の「根拠のない」情報などは端から信用せず、的確な行動プランの基に避けるべき難を免れている。デマかそうではないかの検証は常にしなくはならないが、今後ますます必要となってくることは確かで、すべてを「権威主義的」に公的機関に頼っていては身がいくつあっても足りないことだけは事実なのである。

 以前にもブログで書いたが、放射性物質はまだまだ人類の手に負えるものではなく、これについての「権威」なるものは未だに実質的には存在しないということを明確に押さえて置かなくてはならない。したがって、あらゆる根拠の定かではない「科学的」楽観論は一番危険であるということになる。さらに言えば、すべてが実のところ手探り状態で、それを脱し切れてはいないということでもある。「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」などと、あたかも「公的権威機関」があるがごとくに取り繕っているが、そんなものは実際にないに等しいのである。だからこそ、そんなことを言っている間に実際に問題になっている、この場合は噂になっている、または「デマ」発生の要因を作っているホットスポットをしらみつぶしに測定すればいいだけのことであるが、何を恐れているのか(その理由は推定可能であり特定可能でもある)、それすらしようとせず根拠もなく単なる「デマ」として片づけてしまったことに関しては犯罪的な職務怠慢と言わざるを得ない。そして、今回またその一角が露呈したに過ぎないのである。これも前に書いたことであるが、この放射性物質は人間の「思惑」などとは一切無関係に「結果」を出し続け、「思惑」そのものに矛先を突き付けてくるだろうということである。したがって、どのようなことを言ったにしても早晩その是非については結論が出され、尚且つそれが隠し通せないものとして容赦なく我々に突き付けられてくることは間違いないのである。

                                                       2011 10/25


222.暴走記者と「お達者クラブ」と


 さすがに大手マスメディアの読売新聞である、人材には事欠かない。小沢一郎自身が出席し質疑応答をする会場で、何を勘違いしているのか、本社指令の会場荒らしの「やらせ」なのか、一人上り詰めてまたぞろ小児病的「政治と金」路線だけで小沢を問いただす。国会で説明責任を果たせなどと言っている連中は、こんなことをまた国会でやろうというのか、何のために?愚かしい政争で国の衰退に拍車をかけているのは蒙昧な政治家自身である。そこには国民の存在などはまったくない、ただ既得権益死守の方向で官僚、マスメディアと結託して国民を都合のいいように巻き込んでいるだけである。それについては今更、何をかいわんやである。

 また一方では、「よみうり寸評」なるもので、カダフィー殺害についてのしたり顔なるその語り振りである。      「最期の地は生地でー略ー『ふるさとへ廻る六部は気の弱り』は洋の東西を問わないようだー略ー梟雄の末路は哀れ」などと一句ひねって悦に入っている「お達者クラブ」の俳人気取りの風情。以前、9.11貿易センタービル崩壊時にたまたま現場に居合わせた「俳人」が季語まで入れて詠んだ句を思い出した。そこからは時事変化する全体的かつ立体的な世界の動きそのものの片鱗すら読み取れていないことが分かる。時々刻々変容する風紋の砂一粒の動きさえ捉えられていない。この「よみうり寸評」のお達者「老人」は、冒頭E・トッドの引用文を出しているが、敢えてトッドでなくとも少々分析力があればこの程度ことは誰でも言えるであろう。トッド独特の人口統計学、家族形態などを中心とする人類学的視点の明快な「切り取り」(経済的、宗教的視点はないと言うよりそれらをシフトさせた視点とも言い得る)を感じさせる引用文ではない。先程も言ったようにトッドの名前がなければどこにでもいる「評論家」が言ったとしてもおかしくない程度の内容である。時の趨勢に則った権威論証のきらいさえ感じられるものである。要するに、その持って行き方、集約の仕方そのものが何とも「哀れ」なのである。既成の観念の中に閉じ込められ絡め取られている「哀れ」などという言葉を蘇生させ,収斂させようとしてもそれ自体にもはや無理が生じているのである。このようなことから導き出される観念体系からわれわれは今や何も得るものはないと言うより、それでは一歩たりとも歩み出せないところまできているのである。それはむしろ不快でもあり、むかつきさえ覚えるものなのである。

 本体が方向を見失っていては震え筆も収まらず小手先もままならないというところか。

 

                                                         2011 10/24

 


221.愚かしく、虚しい東電試算


 5000年に一回起きることとは、明日起きても不思議ではないと知るべきである。このような確率のマジックを使った試算をまたぞろやっている東電とはつくづく懲りない連中であると思わざるを得ない。これで一体何が言いたいのかと敢えて意地悪く聞きたくなる。1000年に一度のことは7カ月前に起きた。一億年に一回と言うのなら少しは聞き耳を立てて付き合ってもいいかなという程度のことである。さらには、「安定化の目標である『冷温停止状態』を維持する云々」などと言っているが、今、原子炉は具体的にどのような状態になっているのか?「冷温停止状態」などというもはや不可能なことを「安定化の目標に置く」などとは「奇跡」を目標にすると言っているようなものであろう。こんな子供だましのような希望的観測ばかりを算数大好きグループの割り出した数値を基に得意げにあたかも確定事項のごとく話すのではなく、もっと現実的事象に目をやりそれに即した見解を述べるべきであろう。このような話は生命保険会社の生涯プランと同様で、そこには何ら科学的エヴィデンスもなければ、生きるために必要な哲学的命題の片鱗すらない。東電の算数・理科教室発表とは裏腹に日本の現状は思っている以上悲惨なのである。3・11以後、原発に対する「不手際」を常に世界に向けて発信し続けながら、実質的にも客観的にも世界の恰好の「人体実験場」と化しているというのが嘘偽りのない日本の実情でもある。このような現状にあるにも拘らず、この国は国民を守るどころか「生贄」のごとく世界に差し出していると言ってもよいくらいに国民不在の、極一部の者だけがその恩恵に浴するシステム作りに余念がないのである。そして、その一部の「勝者」になることが唯一自由競争の「本来の在り方」と刷り込まれた者達がすでに「過去の幻影」に過ぎなくなろうとしているものにいまだにしがみつきあがき辛うじてこの「非合理的(台)国家・日本」を支えているのである。そして、このような東電の算数・理科教室発表をまた嬉々として御大層に論じているのが言わずと知れた「我らの」大手マスメディアである。彼等の存在理由は一体何か?あるのか?

                                                   2011 10/18


220.進水式に沈没とは!(中国甘粛省)


 このような地域に何でこのような豪華遊覧船が必要なのかと思ったが、甘粛省はシルクロードのコースでもあり観光客を当て込んだ企画の一つであろうと思われたのであるが、なぜかその妙に派手で場違いな船に対する違和感が払しょくできずにいたので少し調べてみると、やはりこの地域には原発建設予定地があった。日本でも原発建設予定地にはその土地にはそぐわないモダンな真新しい建物が立ち並ぶのはいつものことである。この甘粛省にも何らかの形で大きな金が動かない限り突然の豪華遊覧船の登場は考えにくい。そして、進水と同時に沈没である。もし、これがすべて「原発マネー」の賜物であるなら象徴的な出来事である。どこでもそうであろうが、原発関係の式典に立ち並ぶ人々の顔は不安と後ろめたさの入り混じったような表情でどこか硬い。

 中国には現在、南シナ海、東シナ海沿岸に数か所の原発があり、稼働中であるが、今後の原発建設予定は広範囲な内陸部も含めて30か所程ある。しかし、原発関係についてはすべて軍事機密なので何があっても正確な情報は期待できない。したがって、気流などの影響で直接被害が考えられる日本では、ある日、黄砂のように降り積もった物質がすべて放射性物質であったなどということが決してないとは言い切れないのである。日本国内では今もって福島原発事故の収束の目処も希望的観測以外にはまったく見えてこない。こんな状況で中国で原発事故でも起こされたら悲惨である。しかし、現実的には中国でもうすでに原発故障、事故などが起こっていても何の不思議もないのである。ただし、それに関するすべては軍事機密であるから我々が正確な情報把握をすることは極めて困難である。今後さらに中国が原発を100か所増設したとしても、日本が原発推進路線取る限りそれについては何も言えないだろう。今でさえ狭い日本全土が世界でも稀な原発密集地帯なのである。アジアの中でいち早く脱原発路線を明確に打ち出さない限り、早晩日本全土が放射能汚染地域となってしまうということがますます現実味を帯びてきているのである。食料はない飲料水はない、輸出もできないで、それで一体何をするつもりなのか?世界に向けて「風評被害」などという弁明は全く通用しないのである。そして何よりも日本を「世界の実験場」にしてはいけないということである。犠牲になるのはまた国民だけである。

                                                  2011 10/17


219.孟母三遷、蓋し遷すべき地ありや


 孟母三遷とは、もちろん人間の成長にとっていかに環境が大切であるかと言うこと譬えでもあるが、今やそんな所はどこにもあるまいと思うのでつい悪態をつきたくなるのである。やはり「三つ子の魂百までも」で環境、社会というものは否応なくその人間の意志とは関係なく成長過程に入り込んでくるものである。そうかと言ってその人間の人格形成のすべてを環境、社会の所為にするのも問題があるが、個人の力ではどうにもならぬ限界領域があるのも事実であろう。環境・社会によって、特に幼年期に不可抗力的に「悪しき歪み」が生じてしまい、そのことによって自分では何とも収拾のつかない思っても見ない方向に持って行かれてしまうこともある。そのような意味でも子供のために環境を整えてやることは確かに必要なことではあるが、それではどこにそのような子供の成長に適した場所があるのかということになる。残念ながら、どこにもそのような地があるとは思えないのである。

 「思っても見ない方向に持って行かれる」様態のある部分を古来、日本人は「虫」たちの所為にもした。「疳の虫」、「虫が好かない」などの体内に巣食う計り知れない「虫」たちである。西欧には「虫」よりもさらに大きな大中小取り混ぜた「悪魔」群がいて、その現れ方も「囁き」から「憑依」までと様々である。しかし、「虫」の方は「囁き」もしなければ「憑依」もしない。すでに体内の一部となって存在していて、それが「時」に触れ、「場」に触れ、「人」に触れ発現し膨張・収縮しながら作用するだけである。特に「憑依」については日本では「虫」の領域ではなく、「鬼」も領域でもあるが、「鬼」もまた「隠(おに)」で隠されている「観念」と言う意味では「虫」と同一なのである。「鬼」の存在そのものも本質的には観念的なものでありながら、「虫が住みつく」というような意味での内在的観念とはなり得ず、飽くまで外在的観念である。その点では「悪魔」の在り様と類似している。したがって、それは様々な形で具象化されることが可能であると同時に具象化することを強いる「存在」でもあったはずである。「観念」の外在化を強いるということは、対象化し距離を保たないと「人間」の存在そのものが脅かされ瓦解する可能性もあるということで、それは取りも直さず社会基盤そのものを崩壊しかねない恐怖の対象としての「存在」でもあったということである。

 しかし、そのような「恐怖の対象」についても、現在の日本では前意識レベルの自己防衛装置が働くことによって恐怖心を起こさせる対象を何とか「飼いならそう」または「ねじ伏せよう」とする営為そのものから導き出される「積極的な創造」とは逆に、「対象」そのものの直接認知は極力避けその周辺を徘徊する傾向ばかりが強く、そこから日々必然的に紡ぎ出される妄想と限りない逃避がもたらす「対象」に対する無関心と矮小化で辛うじて「自己」を維持しているしか思えない状況でもある。そのような中からどこからともなく現れてくるのが愛嬌のある「悪魔」であり、「鬼」である。これは恐怖心を起こさせるものを乗り越えた訳もなく、自分にとって単に都合のいい安易な置き換えでしかない。そこには人間の証ともなる「対象」との直接全面関与から生み出されるものが全くないのである。換言すれば人間の真の抽象能力は奪い去られ、失われ、「鬼」、「悪魔」の具体的分身だけをが大量生産されている一方で、「鬼」、「悪魔」が誕生した闇の領域はますます広く、深まっているということでもある。それは「理不尽な」恐怖に怯えながら自ら捏造したハレーションの中で人工的に作り上げた「闇」に弄ばられている「生」と言ってもよいかもしれない。

 闇は見ても見なくても確実にそこに存在しているのである。今、闇の深淵を直視し佇む勇気が必要なのではないか。

3・11以後、今まで隠ぺいされ続けていたものが様々な形で一挙に噴出しただけのことではあるが、そのような現状を見るにつけても子を持つ者であれば誰しも子のために少しでも良い環境を探そうとするのは当然のことであろうが、果たして今、そのような所がこの国にあるのかどうか、遷すべき地ありやと思ってしまうのは私だけではあるまい。

                                                   2011  10/11-10/12


218.「御用学者」がもの申す。


 「御用学者」と言われた者が、言い訳とも開き直りとも取れるようなことを言っているのが時々見受けられるが、何とも情けないないと言うかみっともない。「御用学者」などと言う言葉は以前から遣われていた言葉ではあるが、3・11以後特に原子力関係の学者について頻繁に遣われるようになったが、私自身はその少し前からブログで政治情勢などについてまとめる際によくこの言葉を遣っていた。その時から変わらぬ「御用学者」についてのコンセプトは、たとえ専門分野でどれほどの業績を残したにせよ、問われた事柄について自らの専門領域で誠実に答えていない者、また時の政権やそれに関連して利害関係が生じる組織の意向に沿う方向で事実内容を意図的に偏向、改ざんする「学者」ということになる。

 たとえば、ヒットラー政権時に協力的であったドイツの世界的哲学者ハイディガーにしても、その著作の内容的価値は今でも変わらないが、、第二次大戦後ナチスドイツの協力者としての汚名は一生引き受けざるを得なかった。「御用学者」も程度の差はあっても本質的には同様で、それは「意識」の問題ではなく、その時点での「存在」の在り方が問われているのである。したがって、そこに人間主義的領域の事柄が入る余地もなく、いかなる弁明、講釈も無意味なのである。私の知る限りではそれについてのハイディガー釈明は聞いたことがない。「御用学者」、「御用メディア」の講釈、弁明のひとつに「その時点では危機感を煽るようなことは避けた」というもっともらしいものがあるが、すでにこのようなことを発する発信者の立ち位置は明確であろう。被害を被る側にはいないのである。起こり得ることに対する当然の危機感の検証、提示を「煽り」で置き換える「作為」が逆にまた問題となるところではあるが、危機が迫っていることが明らかな時に専門的知識を持っている者が被害を被る側に立ていれば自ずと事実の伝え方は違ってくるはずである。彼等はそれを確実に怠っているのである。「学者」は何のために存在するのか今一度問い直すべきである。たとえば、ハイディガーが自分は実際にユダヤ人をアウシュヴィッツに送った訳ではないと言ったところでそれが通る話でもないのである。「御用学者」の在り方、為していることを考えれば、時の政権すなわち実質的に権力が集中している複合体が為したこととは抜き差しならぬ共犯関係が成立するのは否定しようがあるまい。

 ※先日、福島原発で作業中の作業員に3人目の死者が出た。それについては被曝との因果関係はないと報じていたが、これですぐ納得してしまうのは今や日本人くらいしかいないだろう。これについてもマスメディアはそれ以上のことは何も語らない。3・11直後から作業をして現在は現場を離れている者からも体調を崩したりあういは死んだ者たちが出ているはずであるが彼等についてはもともと存在しなかったかのごとくである。彼等の存在は日々抹殺されてまた都合のいいデーターばかりが収集されて日本向けの「研究データー」が仕上がるのであろうか。

                                               2011  10/6


   217.後始末もできないものに手を出すな! 


 後始末もできないものに手を出す者を文字通り「餓鬼」と言う。いまだに福島原発の収束の目処も全くつかない状況で原発を再稼働する、新設するなどとはこの国は「餓鬼」の集団なのかと思われても仕方あるまい。そもそも後始末もろくにできないものになぜ手を出すのかということがこの問題には常に付きまとっているのである。もっともらしい見解は多々あるが、福島原発事故がこの間に現実的に提示した様々な問題、そしてさらに提出し続けるであろう問題に対してどの見解も何ら明解に対応し、答えられるものではなく、むしろそれらの見解の忌まわしい胡散臭さばかりが浮き上がってくるのである。すなわち、それは「まともな人間」のやることではなく「餓鬼」と称される者達の所業であるとしか言いようのないものである。周知のようにその「餓鬼」達によって作り上げられた今日の現状は、日本の「恥部」を惜しみなくそれもだらしなく世界にさらし続けているのである。あれほど勇ましく大言壮語を吐いた原発に群がる「御用学者」達は実際には何の役にも立たず、いまだに恥も外聞もなく鉄面皮に「御用評論家」と共に戯言を繰り返している。これは犯罪的と言うよりも犯罪そのものである。この犯罪者達のリストは後の世のために書き記して置く必要があろう。

 いまだに福島原発の現場の状況(作業員の実情も含めて)を旧ソ連のごとく隙あらば隠ぺいしようとする東電、政府は為すべき測定ポイントの正確な測定もせず、さらには最近分かった児童の甲状腺異常についても因果関係がはっきりしないなどと言っているが、今からこの調子では今後どこまで追跡調査をするのかはかなり怪しいもので、これでは旧ソ連より巧妙な民主国家とは名ばかりのただの隠ぺい国家と言わざるを得ない。要するに、東電、政府関係者の頭の中には、日本国のことも、国民のことも、事故現場で働く作業員のこともない。あるのはこれ以上明らかにされたくない、探られたくない「恥部」の隠ぺいと補償金、今後の原発行政のことだけなのである。このようなとても「まともな人間」の領域すら持ち得ぬ「餓鬼」達のことを亡国の輩と呼ばずして何と言うべきか。

  福島原発の事故現場で働く作業員に「功労賞」を授与したのはスペイン皇室である。この時、日本政府は「なでしこジャパン」に国民栄誉賞を授与するかどうかを審査していた。日本と同様に事故当初から隠ぺい工作が多かった旧ソ連ですらチェルノブイリ原発事故の作業員に勲章を授与している。一応国家の体なしている国は形だけにせよその国の国民、前線で作業する者達に対しては「気遣い」を示すものである。ところが、この国は教える者も救わず見殺しにして、訳の分からぬ「会議」と「会合」(宴)を繰り返し、「やることはやった」と嘯くような国家なのである。そして、今なお被災地は救援物資も不十分、金銭的にも困窮の極みに達しながらも「難民生活」を強いられている。さらにここに来て増税である。地震と津波だけであるなら忍耐強い東北人のことであるから何とかがんばりようもあろうが、時間的にも空間的にもとても人間業では対処できない放射性物質が相手では手の施しようがないのである。それに関連して今でも不用意に口にされる「風評被害」にも問題がある。ある意味では、「風評被害」などというものは当初より存在しなかったとも言えるのである。それは「風評被害」ではなく正確に言えば東電、政府が起こした被害である。この言葉は、東電・政府サイドが自分達に向けられた矛先をかわすために都合のよいように着せ替え再生産した言葉であるということをきちんと押さえて置かないとその言葉を遣うことでいつの間にか東電、政府の思惑通りの土俵に上がってしまうことになるのである。早い時期に的確なポイントの正確な測定を行い、その測定値を公表し、適切な対応をしていれば「風評」の形成される隙もできず問題にはなり得なかったとも言える。もし、それでも「風評」と言えるものが起こり得たならば、それは「風評」ではなく「現実の状態」ということになり、逆に「風評被害」という「風評被害」が発生したことになる。どちらにしても、「風評被害」であると思われているすべての事態に関する主犯は東電と政府なのである。それを焦点のぼやけた不特定多数の者達になすり付けても埒も明かないと言うより、そのような方向に持って行くこと自体が結局のところ主犯の東電、政府の思うつぼということになってしまうのである。彼等は政府発表以外のすべてを「風評」と称しているのである。現実に今、政府発表だけを信じている者がどれだけいるのか?

 この時期に原発についての討論会などやっている場合でもなく、その必要性もないだろう。そんなことを敢えてやっているのは討論イベント屋か、後手勝負専門の取り繕い業者・マスメディアくらいなものであろう。もはや専門筋の話も無用、要は後始末もできないものに手を出すなと言うことに尽きるのである。今や、日本も危急存亡の時である。智慧を絞り出さなければすぐに終焉の時を迎える。実際に脱原発、反原発の方向で具体的プランはいくつも出されているはずである。もうすでに向かうべき道筋は決まっているだろう。

                                                    2011 10/4

 

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