〈掲載内容〉
(186.痛くはなのか、恐くはないのか、それでも生きられるのか・・・ 187.性懲りもなく繰り返されて 188.久しぶりにテレビを観れば・・・〈番外〉祝 なでしこジャパン 189.それを「冷静な対応」とは言わない)以上突然消失→カテゴリー「五叉路」ー非編年体時々その2ーにて再構成
190.「なでしこジャパン」に思うこと 191.小沢一郎に関する百冊 192.「彼岸にて」の制作発表 193.ノルウェーのテロ 194.発電か生命か、それが問題である。195.東電OL殺人事件についての2,3 196.嘘つきが「私は嘘つきです」というのであればまだ・・・
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196.嘘つきが「私は嘘つきです」と言うのであればまだ・・・
ペテン師が「私の言葉に責任を持ちたい」と言う。誰がそれを信じるのか。わずかこれだけの語句に巧妙にかわせる言葉がひしめき合っている。まず「責任を持つ」とは具体的にどうすることなのかが不明。さらに「持ちたい」という「希望」「願望」を表す助動詞の使用、それは飽くまで「願望」を言ってるだけで現実的にはどうなるか分からないと言っているに過ぎないのである。正確には、彼は「私の言葉に責任を持ちたいと考えている」と言っているのであるが、これでは「責任を持つ」という「願望」を「考えている」ことになりますます分からなくなってしまうのである。要するに、彼は「自分の言葉に責任を持つ」とは一言も言ってはいないのである。今までのすべてがこの調子であった。この程度の詭弁に翻弄されてきた方も情けないが、このような「人物」といくら「議論」をしていても先には進めない。どこを取っても「菅」は実は「官」で、これが政治不在の実情なのである。(最近では現役の官僚の中にも気骨のある者が出てきたが)事ここに至っては、それこそ衛視にさっさと片付けてもらうしかあるまい。
2011 7/30
195.東電OL殺人事件についての2,3
この事件の受刑者ゴビンダ・プラサド・マイナリ(ネパール人)は比較的早い時期に被疑者として割り出されていた人物たが、その後の捜査は状況証拠の積み重ねだけで決定的な直接証拠が欠けていて当初より冤罪の可能性が指摘されていた。そして、2000年4月、東京地裁で無罪判決が出されたが、検察が控訴、同年12月東京高裁で無期懲役の判決が出た。さらに2003年10月、最高裁で上告が却下され、無期懲役が確定した。最近の検察の捜査内容・方法についての問題点は枚挙に暇がない程であるが、14年前の検察の実態もご多分に洩れず、戦時中の特高警察、江戸時代の岡っ引きなどがやっているようなとても現代の司法が為せる業とは思えない信じ難いものであった。実際に、現実的にはそうであったと言われれば反論の余地はあるまい。それは時代劇の岡っ引きが下手人を攻め立てる場面となんら変わるところがない。「おい、お前が犯人だと言うことは分かっているんだ。早くそうだと言ってしまえ!」このような類のやりとりが繰り返し毎日数時間、十数時間続くのである。そればかりか現代ではやろうと思えばできる鑑定、鑑定結果さえ検察が作り上げた筋書き先行で、それに見合わないものを敢えて避けたり隠ぺいしてきたと思われても仕方がない節が多々存在するのである。なぜそのようなことをするのかということに絞れば、その筋書き作りには当然何者かの介入、圧力もあったであろうと考えざるを得なくなるのである。漸く最近になって、14年も経て重要な証拠のDNA鑑定の結果、ゴビンダ受刑者のものとは一致しないことが判明して、その結果、第三者の存在が浮かび上がってきているが、その第三者の存在についてもすでに事件後間もなくしてその存在は推定の領域には入って来ていたのである。それについては状況証拠と推定の域を出るものではなかったが、今回当然のごとく第三者の存在が確定された。しかし、未だにその第三者の特定には至っていない。そして、いずれ近い内に直接に手を下したものが逮捕されたとしてもその背後関係まで含めた真相究明となるとまだまだ先の話と言うより、また藪の中かも知れぬ。
ゴビンダ受刑者がオーバーステイのネパール人であったことも検察のシナリオ作成には都合がよかったであろうことは容易に想像できる。これが韓国人、中国人、もちろん欧米人であったらまた話は別で、検察のシナリオは成り立たなくなるか、軌道修正を余儀なくさせられたのではないかと思われる。ネパールは日本が援助している国家でもあり、ネパール国内でもゴビンダ受刑者の冤罪を訴える声が上がっているにも拘らず日本に対する抗議にまではいかないのはネパール国家にしても、ネパールの「人権団体」にしても自国の重要な援助国家である日本に対してそこまではできないという共通認識が成り立っているからでもある。要するに、金で「正当な動き」を封じられているのである。したがって、この件に関してはネパールからの抗議行動などの圧力がかかることもなく、今までは何とか検察の「体面」も保たれてはいたが、殺人現場で被害者と直接関係した第三者の存在が確定してしまった現在、このまま放置したりすれば日本の司法に対する不信感とその根幹部分の恥部を世界にさらすことになるのは確かであろう。この間の経緯で、もうすでに検察の威信などは充分過ぎるほど失墜しているのである。今後、司法が「健全」に機能することだけを切に祈りたい。
2011 7/29
194.発電か生命か、それが問題である。
原発による発電によって生命が脅かされている時に、電気なしでどうするのか、原発なしでは必要電力は確保できない(そんなことはあり得ないが)、産業が立ち行かないなどという話はどのように体裁を整えようが人類の危急存亡の時に扇風機が動かなくてもいいのかと言っているようなものなのである。
驚くことに未だに「ー略ー東電に責任を押し付けるのはおかしい。ー略ー日本は農林水産だけでは食べていけない。ー略ー」などとまことしやかに毎日新聞紙上で述べている電力総連関係の藤原正司という民主党参議院議員がいるが、決して忘れてはいけない、このような目先のものしか見えない一見現実的な者によって確実にこの国は滅ぼされるのである。電力総連とは正式には全国電力関連産業労働組合総連合で飽くまで自己産業に関連する者達のためにあるだけのような団体で多くの国民の側に立つものではない。当然、「原発村」すなわち「原発マフィア」と言ってもよい「複合体」とも関連を持つ組織でもある。したがって、彼らの発言は終始一貫自分たちの関連機関の「利害」に基づく発言であると見るべきで、そこで語られる一切の「お為ごかし」、国を憂えるがごときのもっともらしい「論」もすべては虚偽であると思って間違いはない。そこにあるのは「民」の視座でも、その生存に拘わる配慮でもなく、「国と称した」複合体と一部の者達の「利害」に関わることだけである。
3・11以後、化けの皮が剥がれてしまった者達の狼狽振りは見るも無残であるが、狼狽するのはまだ良い方で、呆れることに逆に開き直って何事もなかったごとくに「正論」を嘯く者さえいる。つくづく「人間」とはどうしようもなく欺瞞的な生き物だというのが最近の日々の実感で、このままでは日本人は世界に先駆けて絶滅するのではないかとさえ思えてしまう。もうここまで来ると、中には死なば諸共などと考えている者もいるのではないかと思うが、いてもまったく不思議ではないという状況である。実際に、こうしている間にも原発は「活動中」で毎日途方もない汚染水を排出している。日々あきもせず繰り返される「幕間狂言」の幕一枚裏側は絶壁なのである。
自然災害だけであれば、日本の復興ももっとエネルギッシュで再生の意義も見つけ易かったであろうが、常にその上にはいつ終わるとも知れない人間の手の負えない不可視な「化け物」が覆い被さっているのである。一体誰が責任を持ってこの「化け物」を取り除けるというのか。先ごろ亡くなった小松左京は福島原発が運転を開始した2年後に、今から40年近く前にSF小説「日本沈没」を書いたが、それは地殻変動が起こす巨大地震によって日本が沈没するという話である。現在の日本各地の原発情勢を見れば、日本は沈没しないまでも成り行き如何では日本全土が死地と化す可能性が高い。日本の風土を愛し、歴史を大切に思う者であれば、絶対に原発依存だけは避けなければならないというのがすべての大前提になるはずである。それに異を唱える者とはもはや日本人とは言えまい。それは日本のすべてを滅びに至らせる者ということしか意味しないからである。
2011 7/28
193.ノルウェーのテロ
結論から言えば、これは単なる「私憤」から発せられているものに短絡的に「正義」を与え、生殺与奪の至福の時を味わった自己陶酔型の狂人の所業と言えるだろう。そこには、ある意味ではファシストの原型とも言えるものが見える。自分のことを「キリスト教原理主義」などと言っているようだが、それは、最近欧州でも出始めた多文化主義の問題と移民排斥運動、そのような状況の中で単純に構図化されたイスラム教対キリスト教、そこから派生する反イスラム、反移民、そのような感情に訴えやすい単純化された内容の「題目」、「名称」が繰り返されることで形造られてきたと言ってもいい空疎な便宜上の名称程度以上のものではない。しかし、そのような執拗な繰り返しによって日々喚起される「憎悪」は秘かに人々の中に蓄積されていく。日本の「政治と金」などという単純化された分かったような分からないような括り方などもその類である。そのような状況の中でやり場のない「私憤」を抱え込んだ者が繰り返される「題目」にいつしか取り込まれ触発され、一気に「自己実現」の道を見出し突っ走ってしまうということは容易に想像できることである。家庭的にも恵まれなかったこの犯人が元外交官で労働党支持者でもあった父親に「見捨てられた」と思い込み、日頃から父親に対する憎しみを募らせながら移民受け入れを行った労働党にも敵意を膨らませる。そして、彼の中で反イスラム、反移民の方向ですべてが心地よく収斂されて行く。彼は「自己実現」と父への復讐を同時に果たしたのである。彼には協力者もいたであろうが組織犯罪とは成り得ないだろう。彼のようなタイプは利用され易いが、組織にとってもリスクが大き過ぎて、敬遠されるか、あるいはいずれ切り捨てられてしまうような存在である。ナチスドイツの突撃隊のようなものである。彼と接した者は、「私憤」に振り回されてコントロールが効かない「人間」の危うさと奇妙な「共感」を感じたはずである。彼が射殺した多くの青少年達は、彼にとっては自分を捨てて「父が選び取った」青年達でもある。
これ程の大量殺人を行ってもノルウェーは死刑廃止国家で、最高刑は禁固21年である。しかし、この件に関しては死刑復活、無期懲役の声もあるようだ。もし彼が禁固21年ということになれば21年後、「自分は無罪である」と言い切っているこの53歳の狂人が再び世界に登場することになる。その時は彼の興味の対象でもある日本にも来るのではないかと思われる。忘れることとすぐに風化させるこにかけては右に出るものはいない日本国民である。その時には、この男の所業も忘れられているのであろう。
最近、この男の精神鑑定が行われているようであるが、ここまできてしまった「人間」の精神構造を変えることは我々「人間」には決してできない。もし、できるという者がいるなら、それは「神」を騙る恐れも知らぬ者とも言えるだろう。さらに敷衍すれば、我々は柄にもなく「神」のごとく振る舞う「もの」や「こと」すべてに対してをもっと警戒すべきだということでもある。(7/26)
2011 7/25
192.2041年「彼岸にて」の制作発表
「彼岸にて」 作・演出・美術 平山勝
〈出演〉
原田芳雄 太地喜和子
緒方拳 杉村春子
中村伸郎 岸田今日子
仲谷昇 賀原夏子
三国連太郎
山崎努
特別出演
三島由紀夫
場所 テアトロ彼岸
此岸期日 2041年365日 上演時間 24時間
※出演者、スタッフ等の変更、追加については随時通知。
2011 7/23
191.小沢一郎に関する百冊
小沢一郎にに関してこれ程の量の本が書かれているとは思わなかった。それもどれもが人目に引く売れ筋狙いの題で、内容的には大方が小沢批判である。これらの本によって小沢は百人近い売文業者を食わせていることになる。「大したもの」である。一般的に「大物」批判をやれば本は売れるのである。そういう意味でも小沢は「大物」と言うことになってしまう。今これだけの本が出ている現役の政治家は小沢一郎くらいしかいないのではないかと思う。私は、小沢が「大物」であるか「小物」であるかそんなことは興味もなく、知るつもりもない。況やプライベートのことなどどうでもよいのである。ただ、彼の言動、政治的理念を追う限りでは、一筋縄ではいかぬ気骨ある「政治屋」ではない「政治家」であるとは思える。そして、「本来」の民主政治自体が、愚民政治を仕掛ける者達によってますます遠のいている現状を鑑みると、執拗な小沢排除の「論」がどのような体裁を取ったにしてもいかがわしいものに見えてくるのは当然であろう。そして、気になるのはどこから金が出て何のために書いているのか、売文業者やマスメディアの「金回り」、金の流れの方である。今でも手を変え品を変え飽きもせずさり気なく行われている「小沢=悪」の構図の刷り込み、これだけは実に異様な熱の入れようである。これは怪しいと思うのが「普通」の感覚で、彼ら(既得権益側)にとっていかに小沢が脅威であるかの証左であると同時に、それは取りも直さず政治家・小沢の立ち位置が常に国民の側にいることの証ともなっているのである。しかしながら、国民各自がもっと民主主主義国家の一員として成熟しない限り、「官報」のようなマスメディアにまるめ込まれている幼稚な段階では小沢の出番はないだろう。小沢を物知り風にCTスキャンのごとく分断、分析しても、身近なものが身辺雑事をその本質であるがごとくに書き記したところで、その総体、全体の機能は見えてこない。それは脳を取り出して、いくら切り刻んでもその志向性、理念などは何も見えてこないのと同様である。
ある対談の中で、小沢は、「よく言うように、国民のレベル以上のリーダーは出ない。衆愚の中からは衆愚しか生まれない。だから、国民のレベルアップをしないといいリーダーも育たない。その意味でどうしたらいいのか。そういうことをもう少し日本人は自分で考えなきゃいけない。」と言っている。すなわち、民主主義は一人一人が「考える」ことが前提となっているのである。それは「判断力」と「意識」をもった人々がいない限り成り立たない「珍しい」政治体制ということでもある。もし、それが成り立たないのであれば民主主義とは名ばかりで、実質的にはファシズム、愚民政治に移行していると見るのが妥当であろう。現状を見る限りでは、国民には「民主主義」を育てる気も、再生させる気もないのではないかと思われることの方が多い。そして、すぐに安手の「ニヒリズム」に逃げ込む、実はこれは「ニヒリズム」でも何でもない、単なる怠惰な「ご都合主義」に近い。これがやっかいなのは、自分では賢いつもりでやっているこの怠惰なご都合主義が何の痛みも伴わず自分自身を壊死させていくことである。その壊死は蚕食されるがごとく拡がっていく。そして・・・
2011 7/21
190.「なでしこジャパン」に思うこと
彼女たちのプレーを楽しませてもらったひとりであるが、帰国後のマスメディアなどの一連の動きを見ていると寄って集って彼女たちを弄んでいるようにしか思えない。今後もこのような動きは続くのであろうがそれによって彼女たちの純度の高いスピリットが失われて行くことを懸念している。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、そこには興味本位ばかりが先行して「見守る」という感性が全く欠如しているのである。実際に、彼女たちはほとんど誰の助けも借りずに自分で自分を育ててきたと言っても過言ではない。それは諸外国の文化・スポーツに対する国を挙げての育成ということから比較しても言えることで、そこには雲泥の差があるのである。したがって、今回の勝利は彼女たちのスピリットが導きだした奇跡的とも言える結実なのである。もちろんこの勝利は今後も彼女たちにとってもまた周囲にとっても「突破口」の象徴ともなり得るものであろう。
しかし、それに反して相も変わらずのマスメディアの対応はマスメディア全体の旧態然とした内情をよく表している。特にテレビなどの視聴者を馬鹿扱いした構成、そして、「街で ※この部分から186までいつの間にか消えていた。以前にもあったがこういうことがあるのである。要注意! 〈以下再構成〉
「街で拾う声」、これでは街には「お子チャマ」と「おバカ」しか歩いていないのかと思われても仕方あるまい。もう少し何とかならないものかと思う。
2011 7/20
189.それを「冷静な対応」とは言わない
188.久しぶりにテレビを観れば・・・
187性懲りもなく繰り返されて
186痛くはないのか、恐くはないのか、それでも生きられるのか・・・
※以上の個所が消失したのでカテゴリー「五叉路」ー非編年体時々その2ーにて再構成※