「ある日、その時」 (9) 2011年6月13ー

 

 

<掲載内容>


173.ジャーナリズムが成り立たない国、日本  174.被災地住民はもっと怒るべき 175.菅原文太と西田敏行にある正当な義 176.「水戸黄門症候群」 177.水桶、柄杓、ホースで宇宙の方程式に立ち向かう様は・・・ 178. 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・ 179. 不死鳥は決して飛び立たない  180.白々しい復興音頭と「冷静さ」を煽る者たち 181.「原発文化人」の似非深度 182.レディーガガに花を贈るより前に・・・ 183.熊取6人衆番外 184.「われあり、故にわれ思う」派とは?185.政治不在の狂人政治・・・

          

                 

                                                                                                             (転載・複製厳禁)

 




 

185政治不在の狂人政治


 首相を頻繁に変えることに対してもっともらしい疑問を投げかけ、政治不在の「不安」を煽り、導びかれてきたのが現状でもある。しかし、実はこの現状こそが政治不在そのものであった。既得権益の「複合体」がどのようにも手の内で転がせると思っていた「人間」が実は狂っていたことにようやく気付き始め、思うように動かせぬというその「誤算」に慌て始めたというのが今の実情に近い。常にその「複合体」と連動していた大方のマスメディアは国民をその意図する方向に誘導し、それによって作り出されたものが結果的に破綻を生じてくると今度は国民の側に立って物知り風な「ふくみ」をもたせてながら自らが導いた政治体制を嘲笑う。そして、そのミスリードにつての謝罪は一切しない。いつものことながら、そのあまりの無責任さに呆れ返るばかりである。改めて彼らとは一体何者なのか?騙りか三百代言か。近い内に彼らの実態(主に金の流れ)も詳細に検証しなくてはなるまい。

 

 今、国民の中に、放っておいてもいずれ近々つぶれる内閣などという「思い」があるとするとかなり危険な事になるのではないか。そもそもこの「首相」は典型的な亡者の権化と言ってもよい類の「人間」である。彼にしがみつかれたら大方の人間は命の危機にさらされることになる。だから、誰も近寄ろうとはしないのである。すべてが政治的駆け引きの対象でしかないこの「人間」には理念も倫理も微塵も存在し得ない。あるのは権力に対する異常な執着と執念だけである。

 しかし、鳩山の元側近と言う民主党議員が海江田議員は経産省の官僚にも「頭がいい」と評価されていると得意げに話していたが、どうやらこの議員は官僚に評価されることが「政治家」であると思っているようである。官僚達に「頭がいい」などと言われてその気になっているようでは情けない。それは御しやすい半人前の政治家でしかないという意味である。未だにこんな未成熟な議員がいるようでは日本の民主主義まだまだ遠く、官僚政治から抜け出すことはできないだろう。私の知る限りでは、官僚関係者の発言として、元大蔵官僚幹部の口から直接聞いた「小沢一郎は政治家らしい政治家です」と言う一言が意外でもあったので今でも印象に残っている。彼は小沢一郎については決して「頭がいい」などという表現は使わず、「筋が通っている」ことを強調していた。実際にこのような場合、「頭がいい」とは「筋を通さない」または彼らにとって「都合のいい」ことの言い換えに過ぎない場合が多いのである。その時、彼は財界人の経済学の不勉強についても「経済原論さえ理解していない」と嘆いていた。僅かではあろうが、官僚と言われる人々の中にもこのような「人物」が「いた」ことも事実なのである。そして今、政治家らしい政治家がいないのも事実である。国民は「頭の良い」政治家など求めてはいない。それは官・財にとって都合が良い「頭のよさ」でしかないからである。

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Le premier ministre de Japon est fou à lier. Il est possédé du démon du pouvoir.En ce moment ce qui est en question c’est la pruduction d’électricité d’origin atomique.Il a l’intention d’utiliser la tendance d’antiénergie atomique pour la stratégie politique.Le mensonge à  effet  c’est tout.


 

184.「われあり、故にわれ思う」派とは?


 

 これは周知のようにデカルトの「われ思う、故にわれあり」(cogito ergo sum)を「もじった」某作家が遣った表現であるが、「われ思う、故にわれあり」という命題自体も世界に知れ渡っている割にその真意はどこまで把握されているかかなり疑わしいものがあるにも拘わらず、その「もじり」となるとさらに分かったような分からないようなことになる。どうしてそうなるのか、それは「われ思う」という認識論から「われあり」という存在論は導き出せないというところからくる。もちろんデカルトの哲学世界ではそれを「成立させよう」とはしているが、彼のそこまでに至る過程を追わないとその本来の意義、面白さは見出し得ないだろう。私はこの命題をスピノザのように「私は思いつつ、ある」と解釈している。そして、カントがergo(故に)を不要だとした考え方に納得できる。要するに、この命題を三段論法的展開としてではなく単一命題として捉え直すと理解できるのである。デカルト自身もergoの不要性については考えていたようである。したがって、「われ思う、故にわれあり」と言おうが、「われあり、故にわれ思う」と言おうが、そもそもそれは「認識論」から「存在論」を、またその逆も導き出せない命題なのであって、それは「経験的命題」、「自意識による」ものでしかないということになる。「われ思う、故にわれあり」にしても「われあり、故にわれ思う」にしても「私は思いつつ、ある」という単一命題に収斂されて行くのである。もしその「もじり」に何か見出そうとしても「自意識」の不明瞭な差異程度のものしか見出し得ない。

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183.熊取6人衆番外


 

 「歌よみが幇間のごとく成る 場合場合を思いみながら しばらく休む」と「詠った」のは土屋文明である。それでも強引に成り上がろうすれば自ずと幇間のようになって行くのは避けられず、時折作る厳しい表情さえも醜悪さだけが際立ってくる。人生、事ほど左様に手の内には収まらぬもので、今までの所業のすべてが顔に、声に、挙動、あるいは芸術一般にまで敷衍され、凝縮され表出されてしまうものである。

 「声を聞いて道理を理解し、表情を見て心理を判断する」とは古くから中国にある「千字文」という漢字4字から成る韻文の中にある。30年以上前、映画監督・衣笠貞之助に認められていた女優でもあり演出家から、ある時、「あなたは電話で話をしただけなのでしょう?どうして相手のそんなことまで分かるの?」と聞かれたことがあった。実際に、聴覚だけで作られたその人物のイメージと実際に会って得た人物像にそれほどの狂いはなかった。今でも声の抑揚、発声、声質、息継ぎ、言葉遣いで相手のスケッチは出来上がってしまう。後は色付けだけである。「表情を見て、心理を判断する」というのは誰でもがやっていることではあるが、表情はいくらでも嘘をつく、瞬時に去来するものを読み取り損なうと面倒なことにもなる。そうかと言って実際には相手の顔をじっと見つめることもできない。その結果いつからか「声」の読み取り作業が始まったのであろうと思われる。、私にとっては「表情を見て、心理を理解する」などとは二義的なものでしかなく、「心理」などにはあまり興味もなく、もっと「本質的なもの」を探ろうとしていたのかもしれない。「表情を見て、心理を判断する」ことが巧みであればある程、それは「幇間芸」の領域でもある。今では日本の演出家と言われている者の多くはこの「幇間芸」ができないと成り立たない状態になってしまっている。それは演出家に限ることでもないが、試しに思いつく日本の演出家と言われている者たちの顔を思い浮かべて比較して見ればいい。どこか共通するものが必ず見つかるであろう。そこに立ち現われてくるものは、妙に人当たりのよさそうな相手の心理を「読む」ことだけは巧みな「幇間」の顔である。

 少し前、土屋文明のような気分で、私は舞台演出の仕事に関しては無期限の休止を書き記した。昔、援助するという「誘い」を意に反することはできず断ったことを改めて確認し、納得している。今の心境はと問われれば、今まで経済的にも思うようにできなかったという面もあるが、ある意味では「熊取6人衆」のように爽快である。

※幇間:(ほいかん)たいこもち、男芸者。

※「熊取6人衆」:原子力利用の危険性について研究し、追究してきた京都大学原子炉実験所原子力安全研究の6人の科学者の通称。最期まで科学者の誇りを忘れずにメフィストの買収にも応じず首尾一貫そのスタンスを崩さなかった科学者達である。海老沢徹、小林圭二、川野真治、現職では小出裕章、今中哲二がいる。1994年に瀬尾健(58歳)が亡くなり、現在は5人。

※衣笠貞之助:欧米で最も早く世界的評価を受けた日本人映画監督。1926年「狂った1頁」→1982年にサウンド版を全世界で公開、大成功を収める。1928年「十字路」、1953年「地獄門」カンヌ国際映画祭グランプリ、米アカデミー賞名誉賞、ニューヨーク映画批評家賞外国語特別賞。1958年「白鷺」カンヌ国際映画祭特別賞。私は彼の最晩年に会ったことがある。

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182.レディーガガに花を贈る前に


 

レディー ガガにバラの花を贈る前に、東日本大震災以後、過労死、突然死、自殺へと追い込まれた人々に対して哀悼の意を添えて花を手向けるのが筋ではないのか。

 ガガとは関係ないが、菅直人が贈った花を市川房枝がごみ箱に突っ込んだという話を思い出してしまった。こういう夫婦なのである。

 どのようなこと言っても、政権を担当している以上、それは国民の意思だと見なされる。諸外国の多くの人々は一国の首相を通して日本人を見ていることを忘れてはならない。史上最低の大統領と言われたブッシュを通して世界の多くの人々がアメリカ人を見ていたようにである。

 因みに、レディー ガガは、ビジュアル性も然ることながら、歌唱力もあり、感性を全開できる素地を持っている。さらにシンディー・ローパーなどもそうであるが社会に対する意識が非常に高い。日本にはこのようなシンガーは一人もいないと言うより、そのようなシンガーが育ち得る土壌さえもないと言った方がいいだろう。詩人ライナー・マリア・リルケを愛すると言うレディー・ガガ、やはり明確なスタンスを持ってる。

 

                                                                                                                                                                           2011  (6/3)


 

181.「原発文化人」の似非深度


 

 先日、6月30日に佐高信の「原発文化人50人斬り」を読んだ。私が今までブログなどで書いてきたこと、考えていたことと共鳴し合うところも多かった。今後も徹底的にこの種の「原発文化人」を追跡するべきである。なぜなら、忘却こそが彼らの滋養で、忘却が彼らを復活させる「呪術」となるからである。彼らを忘れ去った時、彼らは再び甦ってくるのである。原子力政策を強行に推し進めてきた、アドルフ・ヒットラーを唯一尊敬する中曽根康弘にみごとに絡め取られた梅原猛、そして吉本隆明、彼らの思想的間隙とその間隙を埋めようとするかのような言動から危うさが仄見える。ビート・たけしにしても、タモリなどよりは買っていたが、今となっては「おいら」などという言葉で「自然体」の「庶民」を装った妙に「自虐的な」ポーズから発せられる「台詞」なども茶坊主の井戸端談義に過ぎなかったということになる。権力の忠実な下部が「安全地帯」で発する「言いたい放題」を「毒舌」とは言わない。それは毒にも薬にもならぬ単なる下世話な「ひねり」でしかない。因みに、彼の映画にしてもそのエネルギーは認めていたが、佳作も秀作も1本もないと思っている。

 彼らだけではない、この本の中に登場する者たちは以下の通りー

班目春樹、渡部恒三、大前研一、堺屋太一、弘兼憲史、与謝野馨、幸田真音、茂木健一郎、養老猛司、荻野アンナ、松本零士、大林宣彦、中畑清、渡瀬恒彦、寺田農、中島みゆき、星野仙一、三宅久之、草野仁、大宅映子、木場弘子、そして「電波芸者」田原総一郎etc 

 東電は以上の者たちに湯水のごとく金を使ったのである。 後は知りたければ買って読むべき、今後の参考資料となるだろう。

  この本の中には出てこないが、中曽根康弘とレーガンの日本での対談を「仕切った」のが演出家・浅利慶太(劇団四季)であるから彼も「中曽根系文化人」の一人であろう。そして、原発推進派の旗手である東京都知事・石原慎太郎と密接なパイプを持つ野田秀樹(東京芸術劇場・芸術監督)、現政権の内閣官房参与・平田オリザetc このような人物達も含めすべての相関図はさらに検証されてしかるべきである。後の世のために。

 ※ナチス・ドイツ時代に世界的知性の一人でもあった哲学者・ハイディガーですらアドルフ・ヒットラーに絡め取られたのである。「人間」は間違いを犯す、だからこそ、その後の姿勢、言動が重要になってくるのである。しかし、上記の者たちにはその「重さ」が見えず、誠実さに欠けるところがある。

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私が言う、B・B・C・I とは

 

BARK  BITE  CLAIM AND INSPIREのことである。すなわち、吼えろ、噛みつけ、主張しろ、そして、それを通して自らに霊感を与える、自らの心に働きかけよということである。ACTIONなくしてINSIREは起こり得ない、INSPIREされないACTIONは無意味である。

恐怖におののく自意識などに明日はない・・・・

 


 

180.白々しい復興音頭と「冷静さ」を煽る者たち


 

 実際に「傷」を受けた者のしか「傷の痛み」はほんとうには分からない。こんな当たり前のことが自分に、または身内の者に起こらない限りやはりほんとうには分かり得ないのも「人間」である。被災地住民に向かって行われる「がんばれ」の連呼と「癒し」の押し売り、やっている方は気持がいいだろうが、多くの深手を受けた者たちにとっては、さらに他者に対する気遣いまでしなくてはならずむしろ苦痛でさえあるのではないか。彼らが辛うじて作る笑顔、あるいは流す涙は訪れた者に対する感謝ではなく、一瞬にこみ上げる「慈悲」のようにさえ見える。人助けをするということは、自己の善意の証、存在証明を考えるのではなく、たとえ相手に無視されようがさり気なく寄り添い継続的に助けるくらいの覚悟が必要になってくる。政府、マスメディア関係者、その他の「著名人」などの「被災地詣り」には歴史的事象との記念撮影、存在証明以上の内容はほとんど見出せないので論外とする。

 また、一方では放射性物質に対する「冷静な対応」の偏執狂的「呼びかけ」である。今ではこれだけで発信元の「底」が割れてしまうという現状になってしまっているが、こんなことを言わなくとも被災地住民はもう充分過ぎるほど「冷静である。一部被災地住民の放射性物質の過剰な反応を「感情論」として諌めるような記事もあるようだが、異常事態の正常な反応で何ら問題のあるものではない。問題にする方がむしろ問題である。この期に及んで「冷静さ」を呼びかけている方が異常に見えるのである。「冷静さ」を呼びかける本当の理由は一体何か?そして、個人的にガイガーカウンターを購入してまで身を守らなくてはならないように追い込んだのは誰なのか?そのような市民の当然な動きに対して、測定の不備を指摘して公的機関が行う空間放射線量調査に従っていればよいと言わんかりの主張は大いに問題となるところであるが、現在、東大の研究者グループが福島の15000か所での測定を行っているはずであるからその内に正確な数値が出てくることであろう。さらに、放射線の専門家も個人的に福島県内の実態調査をおこなっている。そのような調査の結果を見て判断すれば済むことである。このようなことは本来、国が主導してやるべきことである。それにも拘わらず、「冷静さ」を呼びかける者たちは、「いま必要なのは、やみくもに測定より正しい知識である。まして『煽り派』は、放射能をバラ撒いた東電以上に国を悪くしている。」と言う。それでは「正しい知識」とは何か。ここで言っているのは「技術的知識」のことでそれも「ガイガーカウンターの操作要領は慎重に」という程度のことである。これは機器の仕様書を読んでいて突然国家論が出てきたような文章である。その程度の文章なので「綻び」を逐一取り上げていると切りがないので、一つ例を挙げると、文章中で「『年間20ミリシーベルト』が『間違いなく健康被害が出る被曝量』ではないことも事実である。このレベルで被曝の健康被害が確認された疫学データは世界に一つもない」と言っているが、まず、「健康被害が確認された」という「確認」の問題である。どのような確認なのか、確認方法は?そして、「疫学データ」とは、どのように絞り込もうが蓋然性の域を免れない領域である。すなわち飽くまで相対的であるということである。したがって、この文章をより正確に「分かりやすく」言い換えれば、蓋然的かつ相対的なデータを基に割り出された結果によれば、年間20ミリシーベルトで健康被害が現在の科学的パラダイムの中では認められるものはまだ一例も見出されていないということである。したがって、この内容自体が結論として断定し得るものではないにも拘わらず、それを根拠に「間違いなく健康被害が出る被曝量ではない」ことを事実として措定しているのである。「世界に一つもない」ということは、その時点で調査対象漏れがまったくなかったことを前提にしたうえでの「一時的報告」であって、それ以後増える可能性も否定でないことを意味している。さらに因果関係のはっきりしない確認の枠外の特異例は外されていることも考え合わせる必要がある。それもすべて現時点での科学的知識の枠組み内での判断である。誠実な科学者であれば、未知の領域に対する断定は海浜の砂一粒程度のものでさえも避ける。シーベルトに関しては、その砂一粒の確実な発見さえもないデータ検証のみであることをそれこそ「確認」しておく必要があろう。核エネルギー、放射性物質に対してたかだか半世紀程度のデータで分かったようなことを言うのではないと言うのが私の見解である。「想定外」などということも、金に目がくらんで「自然」を「宇宙の方程式」をなめた結果であろう。核エネルギーについては正当に恐れなくてはならないのは今後も変わることはない。その恐れがなくなった時が人類の本当の最期となる。

 しかし、今でも、「国を悪くしている」などと言い得る人間がいること自体にに奇異な感じがしてしまう。この論者はよほど今までのこの国がよかったと見えるが、すでにこの国はこれ以上悪くなりようがないところまできているのである。それすら見えていなのであろうか。これでは、「東電」、「政府」から後押し、すなわち金が流れていると言われても仕方あるまい。このような内容で今までやってこられた、済んでいたといのが、日本の大方のマスメディアの現状なのであろう。そこにはジャーナリズムなどは微塵もない。もちろん理念もない。

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 179.不死鳥は決して飛び立たない


 

 嘗て、焦土と化したいかなる大地の灰からも不死鳥は飛び立った。しかし、チェルノブイリ、スリーマイル島、福島からは不死鳥は飛び立てない。たとえ、甦っても不死鳥に片目もなく、片翼だけの一本足であれば、それはもはや不死鳥ではあるまい。それは焦土ではなく2度と「人間」の手には戻らぬ死地なのである。不死鳥が飛び立てないところに「人間」の復活など決してありえない。それは「人間」の完全なる敗北、死を意味する。「人間」が半減期2万年の「動的」物質」に対応することも、責任など取ることもできないのは明々白々なことである。1年先さえ覚束ない寿命7,80年程度の生命体である「人間」が今後数万年も「生き続ける」ものを相手に一体何ができると思っているのか。

 現在も福島では、増え続ける放射能汚染度土が産廃業者の不法投棄のようにごみ袋に入れられ山積みされ防水シートで覆われている。事故の当初からの不手際、その後の子供だましのような対応を見ていて、ふとこれは近々神主でも現れるのではないかと思ったくらいである。多くの者は、手の施しようがないものに対する場当たり的な思いつきとしか言いようのない一時しのぎの対処を見続けて、一体今まで何をしていたのか,今後どうするつもりなのかと思ったことであろう。今でも実際やっていることと言えば原子炉を相手に「江戸火消し」と何ら変わるところがないのである。この際、「学者」、「政府」、「東電」の諸君は原子炉建屋の前で「火消し」の「木遣り(きやり)」でもやるべきであろう。そうでなくとも県民は芸も実もない土下座などにはもう見飽きてうんざりしているのである。蔭では薄笑いを浮かべて「燃え尽きるまでやる」などと威勢のいいことを言っている口先出まかせ男には梯子のてっぺんで決めてもらおうではないか。どちらにしてもこのままではこの国は産・官・学に食い尽くされ滅ぼされるしかあるまい。すべての「楽観論」はこの産・官・学の複合体から発せられ、それによって動かされていると思って間違いない。それが虚偽であるということは破壊された原発自体が徐々に確実に証明していくことであろう。そして、さしたる根拠もない「楽観論」に酔った者達は、さらに様々な事象で虚偽に振り回され、結局「詐欺師」たちに踊らされただけということを思い知らされることになる。国民は、この原発事故の現状、事実を見据えない限り、この「民」不在の複合体によって亡国の道を歩まされることになる。今、確実に言えることは、実質的に復興、復旧などはあり得ないこと、もはや決して元には戻れないということと同時に将来に対する人類の判断の枠組みを通り越したところで未来の一部にして全体が閉ざされたということである。

 「原発マフィア」、すなわち「原発村」と称されている(政)・産・官・学の複合体とそれと一体化している多くのマスメディア、それから派生する関与機関のすべて、それらに関係する者達を一人残らずリストアップしてその相関図を作成してみれば、「いかさま師達」の今までの行状、経緯がより鮮明に見てくるはずである。それがそのまま日本の実情でもある。因みに、「御用学者」、「大本営発表」などという名称は2009年頃に私のブログで頻繁に遣った言葉でもあるが、最近ではそのコンセプトの具体例に枚挙に暇がない程で、どぎつく鮮明になり過ぎてしまった嫌いさえある。しかし、実質的な志向性を的確に捉えている名称だと思っている。

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178. 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・・


 

 ふと、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。

 相も変わらず「議論」、「討論」と称して政治ショーのイベントが繰り返されている。話している方はいいが、聞いている方は堪ったものではない。しかし、いつも思うがそれを聞いている者達の忍耐強さには恐れ入る。決して半歩も前進することのないいつ終わるとも知れない空疎な「議論」、「討論」。これはもはや「議論」でも「討論」でもあるまい。そこにあるのは決して核心部分に触れることのない政治ショーを仕切る者と「製作者」との線引き合戦で割り出された可もなく不可もない、形骸化した内容のものばかりで新たな発見などはない。結局、何が言いたいのか、やりたいのかも不明。抽象的世界で受け取り手の不具合でキャッチできないのとは別次元の問題で、具体的世界でこれでは意味を成さない。「ガス抜き」にもならず、これは「ガス」をため込ませるつもりなのかと穿った気持にもなってしまうが、そんな「ガス」もわずかな時間の経過で自然消滅していつしか所在不明の滓となる。結局のところ、何も残らないないのである。

 今宵、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・。為政者は、この姿勢で臨むのがやはり国民にとっても自然なのかも知れないなどとと思ってしまう。いつかノーマン・メイラーも「人間は子供の時から命令されるのに慣れていて、ファシズムの環境の方がむしろ自然なのだ」と言っていたが、人々の「動き」を見ているとつくづくそう思える。また、彼は「次世代のために、毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方だ。その退屈さに耐えるには、判断力と意識をもった人々がいることが前提になる。」とも言っている。今、日本に「判断力」と「意識」を持った本当の意味での「大人」が一体「何人」いるのか。この間の政治に対するマスメディア、国民の「動き」を見ていても未成熟さばかりが目につき、そのような「大人」を見ることは稀であった。「政治と金」などという単純なレッテル工作で、レッテル工作は単純で繰り返しが容易なものが効果的であるが、簡単に分かったような錯覚に陥り頷いてしまうようではとても「大人」の領域にはいないことになる。これは以前にも何度もブログで取り上げたことではあるが、この日本ではいまだに民主主義は形式だけで一度として成立したと言い得るような経緯はないのである。それは「民主主義は常に育てていくものであり、再生させていかなければならない」という意味でもそうなのである。今まで、国民の中にいつ民主主義を「育てる」、「再生させる」などという意識があったのか。

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Maintenant  encore  Fukusima (de Japon)  est  comme le camp de concentration. Il faut de la mesure en tout. Mais la situation de Japon depasse les bornes. Le gouvernement  et  les mass-medias ne disent pas  toujours les faits. Je crois que la plupart de japonais sont les sujets apprivoisés.Dans cette situation  ceux qui restent  maître de soi-même sont les sujets apprivoisés ou les métaphysiciens.Naturellment  ils ne sont pas les métaphysiciens・・・


 

177.水桶、柄杓、ホースで宇宙の方程式に立ち向かう様は・・・


 

 その様、いつかどこかで見た風景でもある。第二次大戦末、愚かな指導者の下で「竹槍」で立ち向かうことさえ強いられ、ついにはヒロシマ、ナガサキで止めを刺された人々。しかし,今度は相手が違う。

 福島原発事故で働く現場作業員の多くは雇用契約書もなければ、社会保険もない、すなわち原発で働いていた証明書がないことになる。アリバイがないのである。許容以上の放射線を浴びているにも拘らず現在所在不明となっている者もいる。現状を見ているとこのケースは今後ますます増大するであろうと思われる。その結果、人体に対する放射性物質の影響の正確な追跡調査は困難となり、また仮にこのような人々が何年か後に放射線の影響で障害、疾病を起こしても存在証明がないので保障されることも、データに残ることもない。これは実質的に、旧ソ連のチェルノブイリと何ら変わるところはなく、現場作業員の存在は必要がなくなれば「抹殺」され、被曝調査対象から外されているのである(6/20現在で、125名が被曝測定不能。69名程度の者が身元特定不能である)。これでどれだけ正確な被曝調査ができるというのか。この日本の社会問題もやがて世界の視野に入ってくることであろう。この福島原発の事故は明らかに人災であり、それは原発を国策として進めてきた国家の取り返しのつかない責任である。今後その容赦のない責任追及を免れることはできまい。

 当初、福島の被災地住民を見て、日本人の「自制心」について高く評価する海外の声もあったが、一方では、ヒロシマで敗者となった戦後の日本は自らの伝統、精神性を放棄しつつ、勝者の価値観に同調しながら突き進んできた小国、そして、人々は馬鹿丁寧にぺこぺこし、常に「自制心」を失わず、能率の良さ、時間を厳守する。これらについては何の魅了も感じないという海外の視点もあることをこの際再確認すべきであろう。この状況の中で「自制心」を殊更取り上げ強調し、天皇までも登場させ「人心」を操作しようとする為政者、これもいつか見た光景である。実際に、この間日本を動かしてきた「エコノミック・アニマル」と称された日本の「戦士達」がまったく自らを顧みることもなく「突撃」を仕掛けた結果が現在の日本の状態で、その無謀な行為の弊害を否応なく今被らざるを得なくなっているだけのことである。しかし、その代償は具体的な領域だけには留まらず、自らが依って立つ伝統、精神性もすでに跡形もなく蚕食され尽くされていたということである。空洞化された精神の脆弱性については様々な事件の中にも見出せるが、まだ記憶に新しい「オウム真理教事件」などにも見られる。麻原彰晃(教祖)と菅直人(首相)の間に本質的な違いは見出せぬと思っている。そして菅や麻原はどこにでもいるのである。両者ともに戦後の「すべて」を吸収していることだけは間違いない。それが一体何を意味するのか。なぜそうなったのか。すでにその「答」は見えているであろう。

                                                                                                2011 6/22

 


 

176.「水戸黄門症候群」


 

 大方の日本人には「水戸黄門症候群」と言ってもいいような「症状」が見られる。すなわち、自らの位置を忘れていつの間にか権力側の論理に巻き込まれ権力側に立ってものを見ていることに何の不思議も感じなくなっているのである。そこには「寄らば大樹の陰」などと言う、ある意味では小賢しい「冷静」な視点はない。むしろ陰にいることさえ忘れて大樹と同化して自らを大樹と思い込んでいると言った方がいいかもしれない。ただ、両者に共通するところは相手を「下」と見なした時には強圧的になるが、「お上」、「権威」に対しては端から腰砕け状態で恐ろしく従順なのである。この傾向はあらゆる所で立ち現われてくる。

 たとえば、「ウィキリークス」についても、自分が所属する「庶民レベル」では何の問題にもなりようがない、むしろ関係のないことでも「ウィキリークス」がターゲットにしている独裁的政府、独占的大企業と同調するかのような反応を示すことがある。これも言ってみれば「水戸黄門症候群」とも言える症状である。自分が依って立っている「庶民レベル」の位置とそのような政府、大企業とは対極にありすべてにおいて対峙しざるを得ないということがまったく忘れ去られているのである。「ウィキリークス」はニューヨーク・タイムズをはじめすでに海外ではジャーナリズムとして認められているにも拘わらず日本のマスメディアだけが否定的なのである。これだけを取って見ても日本のマスメディアがいかに視野狭窄的で偏向的かが分かるが、それと同時にそこには根本的にジャーナリズムから外れてしまった政府広報誌のような不健全さ、異常さが見られるのである。どちらにしても「ウィキリークス」を否定する者達や恐れる者達とは、結局のところ暴かれてはまずい悪事、または何か後ろめたいものを隠し持っている者達ということになってしまうのである。そのような者達といしょになってまったく関係ないものが好き好んで気をもむこともあるまい。

 そして、「アノニマス」についても賛否両論であるが、それを否定する者達の「見解」はと言えば、「どれだけ正義を尽くしもいたずらでしかない」、「所詮犯罪」etcである。もう少しもっともらしい論点すり替えの「お為ごかし」などが出てくるかと思いきやあまりに素直に権力側に立って陳腐な「正論」を言っているので呆れてしまった。為政者にとっては、彼らはどれほど愛しい奴隷、臣民達であろうかと思われる。少なくとも「アノニマス」には当初より「義」があった。シャーウッドの森のロビン・フッドが単なる犯罪者ではなかったのと同様にである。今やロビン・フッド達もVフォーベンデッタ達も一国に留まる必然性がなくなっただけのことなのであろう。

 今後、「アノニマス」に便乗した全く異質の「義」のない集団も現れることであろうが、その検証は比較的容易である。その集団の矛先を見ればよいだけのことである。その矛先に巨大組織、独裁権力機構があるかどうかである。ただし、偽装集団が常にそうであるように巧妙にフェイントをかけてくる場合もあるので注意が必要である。

                                                                                                                                                                        2011 6/21

 


 

175.菅原文太と西田敏行にある正当な義


 

 昨今では、「演劇人」、「芸能人」と称される者達の小賢しい浅薄さばかりが目につき、そのような世界からは距離を置くようになってしまったが、菅原文太、西田敏行のようなレベルの俳優達が原発に対して明確な意思表示をすることは現状では重要な意味を持ってくると思われる。これはもはや原発だけにとどまらず、意識するとしないに拘わらず、今までの政治の在り方、国の在り方の根幹部分に対する検証を迫っていることにもなる。

 菅原も西田も東北には深い縁のある俳優達で、福島原発事故は現実的にも他人事ではあるまい。菅原については、「小沢問題」の時以来、やはり気骨のある役者であるということを再確認していたが、現在も山梨で自ら農業を行っているという。生き方としても立派である。茶坊主ばかりが跋扈している芸能界にあってはこのような俳優は少数派である。西田にしてもそうであろう。西田は「釣りバカ日誌」で各地の日本の風光明媚な土地、海を見ているはずである。そんな彼が今回の福島原発で失われて二度と戻らぬ故郷の大地や海を見てどのような思いでいるのか。それは今回の彼の意志表示ではっきりと伝わってくる。このような俳優、すなわち「人間」が真の意味で「復活」しない限り、「芸能一般」に限らず、全ての領域での衰退は避けられないだろう。もはや、今までの用意された選択肢から選びと取れる状況ではないのである。原子炉の炉心溶融もさることながら、肝心の「人間」の炉心溶融は何としても回避しなくてはならない。もし、それが開始されれば世界のメルトダウンは目と鼻の先である。文太の「反原発三国同盟」(日本、ドイツ、イタリア)は面白い、大いに賛成である。現実化すべきである。

  私は、あなた方が発した「義」に対し賛同し、応援する。

                                                                                                2011 6/17

 


 

174. 被災地住民はもっと怒るべき


 

 大震災後3か月以上も経とうというのに被災地の現状はとても日本だとは思えない目を疑うばかりの状況である。誰が見ても被災地住民は見捨てられているとしか思えないであろう。これはもう震災だから仕方ないでは済まされない段階である。しかしながら、国は、民間に頼れるものは頼り、金銭的には出し渋るボランティア依存国家の様相を呈している。実際、政府のやっていることと言えば役にも立たない「専門家」、「識者」を集めたアリバイ工作にも似た「歴史に残る」「実績作り」とマスメディアが取り上げ易い目立つ被災地の気休め程度の「配給」、そして、死に行く人々などまったく眼中にない金の配分計算と増税である。さらに、いつまで続くか分からぬ「終息」のない国辱的な原発事故である。被災地住民はいまだに強制収容所のような生活を強いられている。これから,さらにそこには熱気と悪臭、集団発生した蠅や蚊、そして台風までが襲ってくるであろう。また死者が出ることは分かり切ったことで、事は急を要しているのである。そのような充分に「想定内」のことですら今もって具体的方策は出されていない。これもボランティアに任せる気なのか、やはりこの国は国としての体を成していない国家であると言わざるを得ない。このような国家に誰が信を置くと言うのか、もしそのような者がいるとするならそれは「狂信者」であろう。

〇6月11日、相馬市の酪農家が自殺。牛乳が出荷停止となり、牛乳を搾っては捨てることを繰り返し、6月上旬までに30頭の牛を処分。出荷停止となった上に、国からの補償もなければ死ねと言われているようなもので、がんばりようがあるまい。

〇南相馬市では義援金を収入認定して、住民に対してしっかりとした説明もないまま(同市福祉課の意見と住民側の意見は食い違っている)生活保護を打ちきり(厚生省通知)である。その結果、住宅扶助もなくなる。これでは生活再建どころか早く死んでくれと言わんばかりである。 国民は政府の対応を冷静に見て、これ以上義援金を出すことを見合わせた方が賢明である。「一つになろう」で使途不明の義援金を無心するは、その上増税では堪ったものではない。

〇 「福島原発のリスクを軽視している」とされる長崎大学教授・山下俊一の解任要求は当然である。

山下俊一は、放射性物質と人体の影響について「科学的根拠」を明確に提示してる訳ではない。例えば、水の分子構造がどのようなものかというような明快なものを積み上げた結果の「推論」「推定」であればある程度納得もできようが、彼の言っていることは旧ソ連のチェルノブイリなどでの20年程度の「データ解析」を根拠にしているだけである。それだけでは揺るぎのない「科学的根拠」とは成り得ないのである。たとえば、「100ミリシーベルトで5人くらいの癌リスクが上がることが長年の調査結果で分かっている。100ミリシーベルト以下は分からない。明らかな発癌リスクは観察されていないし、これからも、それを証明することは非常に困難」」。この彼の言説で納得できる人たちを私はまったく理解できないのである。まず、「長年の調査結果」とはどのような調査なのか、また旧ソ連の国家体質の中で調査対象はどこまでの範囲で可能であったのか、データ観察から割り出した「5人<くらい>の癌リスクが」上がる」という「結論」が何を科学的根拠とした「絶対結論」なのか、そして「100ミリシーベルト以下は<分からない>」ということである。ここで重要なのは<分からない>ということは<放射性物質の人体に対する影響がない>ということではないということである。核分裂生成物は何百種類もあるのである、この教授はヨウ素と癌の関係くらいしか調査してないと見えるが、核分裂生成物質の人体に与える影響は何も癌だけに限らず、奇形、心臓疾患、まだいくらでも不明の部分があるのである。にもかかわらず、彼は「放射線はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」などと福島県民をおちょくった発言をしている「学者」でもある。また、彼は文科省原子力損害賠償紛争審査会の委員でもあり、典型的な「御用学者」なのである。こんな人間にかかったら明らかに癌と放射線の因果関係のあるものまで隠ぺいされてしまうのではないかと思われる。。しかし、この福島県民の山下俊一解任要求について、ツウィターなどでは「専門家でもないものが、感情論で盾ついても意味ない」とか、「科学的実験に基づいて反論してほしい」、中には「ヒステリックな魔女狩りだけは止めておいた方がいい反論は科学的根拠に基づくべき」etc.彼らに共通していることは、福島県民の立場にいないこと、県民の痛みがまったく分かっていないということである。そして、それらの文章からは「権威」「お上」にはすぐにへつらう独立心の欠如,自我意識の成育不全が垣間見られるのである。「魔女狩り」に至っては笑ってしまったが、そもそも権力の中枢部分に位置してその意図をくんで行動している者がどうして「魔女狩り」の対象となり得るのか。この山下俊一解任要求は福島県民の当然の「抗議」である。核分裂生成物と人体の影響に関してたとえどのような権威だろうが、どのような調査結果であろうが、いまだに明確な科学的根拠を提出し得ない領域が存在するのである。したがて、そのような領域に関する断定的言辞は避けるべきであり、もしそのような断定的言辞が発せられたら虚偽と見るべきである。

 「国の指針に従うのが国民の義務」と言った山下俊一のような「学者」は戦時中にも戦前にもいた。彼は長崎の被爆二世であることが自らの中で何ら教訓化されていないのであろう。これは恐るべきことである。これを「御用学者」と言わず何と呼ぶのか。明らかに国に非があるにも拘らず、このような「似非学者」の言う通りにしていたら福島県民に明日はない。

                                                                                                      2011 6/15

 


 

 173.ジャーナリズムが成り立たない国、日本

    ージャーナリスト・上杉隆についてー


 

 2010年2月12号の「週刊朝日」に掲載された検察問題を扱った「子供を人質に女性秘書『恫喝』10時間」と言う上杉隆の記事内容以来、日本にもようやく気骨ある体を張った真にジャーナリストの名に値する者が現れたと思い、できることは応援しようと喜んでいたが、2011年、彼は「ジャーナリスト無期限休業宣言」を出した。残念ではあるが、これも彼のジャーナリストとしての誠実さの表れと見る。確かに彼のスタンスを維持するにはあまりに日本の現状は筆舌に尽くしがたく酷いものがある。ジャーナリストを名乗り続けていられること自体が欺瞞の証ともなり得る状況でもある。彼自身も言っているとおり、この日本の現状ではジャーナリストを名乗ることなど不可能と言うよりも、ジャーナリストを通そうとする姿勢そのものが成立しないのである。このような中で、彼一人が果敢に戦ったにしても多勢に無勢で、ただ無駄に命を削るということにもなり兼ねない。ここはさらに前進するために一歩後退した方が賢明かもしれない。日本では、彼のようなジャーナリストと呼ぶに相応しいスタンスと覚悟を持ったジャーナリストは私の知る限りでは数人しかいない。(テレビに出てくる者の多くは論外)その他の者達はジャーナリストとは名ばかりで、やっていることは因循姑息な官僚や内容空疎な小手先勝負の「政治屋」達と何ら変わるところはない。ニセモノが闊歩するのはいつの世も変わらないが、所詮はニセモノ、いずれ自ら溶解するか、糾弾の対象となることは避けられまい。

                                                     

※上杉隆の「子供を人質に女性秘書『恫喝』10時間」の記事については、2月3日東京地検次席・谷川恒太の名前で抗議文が出されたが、現在に至っては、検察問題は様々なところで露呈され、すでに周知の事実であろう。また、この記事については検察と密接な関係にある立花隆が検察擁護をしていた。、

                                                                                                                                                                        2011     6/10

 

 


 

 

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