「ある日、その時」 (8) 2011年5月11日ー

<掲載内容>

157.自ら滅亡の道を選び取った日本 158.瞬時によぎる振幅(4)<「パニックになるのを恐れて?」、「ツウィター」、「一つになろう日本」??、「日赤」「ユニセフ」の危うさ、「原発は風呂屋の釜か!」、「ビンラディンの日記」、「今、フランスでは・・・」etc> 159.滅亡の時 160.坊主来て くわえタバコで 位牌書く 161.「御用演劇人」 162.癌と放射性物質に思うこと2,3 163.パニックを恐れるあまりに,風評作り 164.瞬時によぎる振幅(5)<「原発事故報道記事は・・・」、「日本のマスメディア」、「簡潔に言えば・・・」、「「急流で馬を乗り換えるな」とは!?「舟歌」さえも奪って・・・、etc>165.身に染み付いた「平和ボケ」166.「冷静さ」の押し売りとボケた「楽観論」167.小出裕章氏(原子力工学)に対する共感 168.「政争」、「ドタバタ劇」という言葉に見える狡猾さ 169,福島原発は国の恥 170.青森県知事再選に見る国民性 171.報道管制下の日本 172.原発村ではなく原発マフィア

 

                                               (転載・複製厳禁) 

 



 


172.原発村ではなく原発マフィア


 「原発村」などとはその実態とそぐわない名称で、やはり「原発マフィア」が一番妥当であろう。したがって、原発推進派とはこの「原発マフィア」の一員であると位置付けして置いた方が賢明である。彼らは(政)・産・官・学の複合体の一員で、あらゆる機関と密接に繋がっている。今まで、彼等にたて突くものはすぐに「抹殺」されてきた。ある時は「遠吠え」として無視され、客観的かつ正当な論、言説は「反原発的」であるという理由で排除され、いとも容易に葬り去られてきた。そして、この「原発マフィア」の「情宣部」を大方のマスメディアが担ってきたのである。そのように全体を捉え直すと、すべてが浮き上がって鮮明に見えてくる。

 しかし、この誰も手出しができないと思われた巨大で堅固な「原発マフィア」の一角がすっ飛んだ。土手っ腹を穿ったのは皮肉にも彼らが信奉する「ご本尊」、すなわち原発、原子炉そのものであった。いよいよ「原発マフィア」の崩壊が始まったのである。今後も福島原発事故の「収束」の動きにほぼ比例してあらゆる実態が白日の下にさらされることであろう。「商人」のもっともらしい講釈もそのよって立つ基盤、大地さえ覚束なくなれば、肝心の「商売」なども成立せず、その行為自体がまったく無意味なものと化す。現状のままの「商い優先」で進行すれば明らかに立ち行かなくなることは目に見えているのである。それは、日本だけでなく世界的規模でもそうであろう。

※以下参考までに「週刊現代」が面白いアンケートをしたのでそのいくつかを載せる。

アンケート内容は単純明快「原発やめますか、続けますか?」それを大手企業100社に向けたものである。

いくつか現状に即した誠実なコメントをする企業もあったが、そのほとんどは、「無回答」、「答えられない」「社長不在、確認とれず、」「該当なし」などであった。

選択肢 1.国内にある54基の原発を、できる限り早く、全て運転停止するべし。(全て停止)

      2.段階を踏んで、順次停止していくべき。(段階的に停止)

      3.福島第1、浜岡の2つのみ停止し、それ以外は稼働を続けるべき。(福島・浜岡は停止)

      4.浜岡原発も含め、安全性が確認され次第稼働すべき」(条件付きで稼働)

      5.答えられない。 

○敢えて「原発マフィア」の「情宣部」に絞ってみると、「朝日新聞」(該当なし)○「毎日新聞」(答えられない)○「読売新聞」(アンケート受け取り拒否)○TBS(社長の時間がとれない)○テレビ朝日(無回答)○電通(答えられない)etc 因みに、噂のソフトバンクは「アンケートを辞退したい」

※読売新聞は社説(6・10)で、原発の再開を強く説いている。このような新聞を読んでいられる読売新聞の読者とは、原発推進派かその方向で体良く丸め込まれている羊たちの群れのような存在であろう。この守銭奴達の代弁者にいつまでも誘導されていては日本は亡国に至る道を歩むより他はない。今に始まったことではないが、毎日、朝日なども同様で、そこにはジャーナリズムなどはまったく存在しないと言ってよい。彼らをジャーナリストとは決して言わない、もしそう言い得るのであればジャーナリストを定義し直さなくてはならない。

※今頃もっともらしく「脱原発と電力確保のトレードオフをどうするか」である。この国は上から下まで目先の利にしか頭にない無能集団が群れているだけなのかと思われる。原発事故も然り、相も変わらずどこを切り取っても「泥棒を捕えて縄を綯う」で、想像力の欠如か、普通に考えれば出てくるレベルの帰結が見えていなか、敢えて見ようとしない者ばかりである。独立国家としての矜持も緊張感もないまま、だらだらと日米同盟によりかかってきた経緯そのものが全ての者にしみ込んでいるとしか思えない。「保護者」であるアメリカに、ある時は「淫らに」恥も外聞もなく、ある時は子供のようにすり寄って何とか取り繕ってきた経緯そのものが全ての日本人を未成熟な「未成年」のままの状態に留め置いたとも言える。脱原発と電力確保がトレードオフの関係にあるなどと誰に向かっていっているのか?これでもし何か言っているつもり、または分かったようになっているとしたら、それ自体がすでに仕掛けられた稚拙な罠にはまっていることになる。

 未成年者達が国の中枢でさらに未熟な未成年者達を仕切っている国、それが日本である。                                                          

                                                       (6/13加筆)

                                                      2011 6/7

 


171.報道管制下の日本


 現在、福島原発の現状についての詳細は、あたかも原発事故が収束に向かいつつあるがごとくに報道されていないが、放射性物質は音もなく確実に大地に海洋に広がっているのである。これでは風評被害が出ても仕方あるまい。この状態は、自国の悲惨な状況については自国民にも海外にも見せようとはしない反民主主義的な隠ぺい体質の欺瞞的国家と同質である。テレビなどを観ていても、報道番組に限らず、ほとんどの番組で何か白々しさを感じるのはなぜか、それは事実から執拗に目をそらせようとする不自然な「明るさ」と作為的「高揚感」が全体主義国家の報道管制を思い起こさせるからである。福島原発事故の悲惨な状況に関しても自国民は正確な情報も知らされないまま放置され、諸外国の方が的確にその状況を把握しているということもその一例であろう。実はこの報道管制は3・11以後始った訳はなく今までも巧妙に継続的になされていたのであるが3・11以後それが鮮明に具体的に否応なく「露呈」されたと言った方が適当であろう。

                                                       2011 6/6


 170.青森県知事再選に見る国民性


 青森県では原発推進派の知事が3期当選を果たした。

一言で言えば、日本の塀の外の懲りない面々の性(さが)をよく表している。目先の利害だけに明け暮れ、絡め取られて、結果的には自分の故郷の、国土の喪失につながることに対して何の主張も抗議もしない。そこに、飼い慣らされ、無知に甘え切った日本の国民性の一面を再確認できるのである。それはDNAレベルで培われてきた国民性と言ってもいいくらいに手の施しようのない根強い「症状」であり、目と鼻の先にある自国の福島原発の事故でさえ何ら教訓化できない、または敢えて教訓化しようとしない恐ろしく「貧しい」人々ということでもある。このような県が多くなればなるほど日本の「死期」は早まるだけなのである。これは先進国とは名ばかりの未開発後進国の精神状態と言った方が現実的には適切であろう。

 このことは東京都についても同様である。東京都民は、たとえ都知事候補者に適当な者がいなかったにしても、福島原発事故の最中に原発推進派である石原慎太郎を知事にしたのである。しかし、今となってはこのような否定しようもなく増殖する現実を前にして原発推進派が徐々にでも元原発推進派、脱原発派にシフトすることを期待するしかあるまい。もし今後さらに原発を推進をさせるのであれば、その方向の先に見えるものは、この小さな国の至る所に現れる石棺と汚染された大地と海洋である。、そして、それは同時に世界の格好の放射性物質の実験場にもなるだろう。それが経済大国すなわち精神的営為を疎かにしてきた拝金国家の成れの果てである。そうではないと明言できる根拠は何もないのが実情である。

                                                       2011 6/5


169.福島原発は国の恥


 読売の「全国世論調査」(?)によると、次期首相候補のトップは前原誠司(14%)で次いで枝野、岡田だそうだ。これは読売新聞社が推す候補者と読むべきであろう。それによって読売の近未来は確保されたにせよ日本の未来はない。これはその程度かそれ以下のものでしかない。どちらにしても菅直人の尻拭いどころか、この危機的状態に火に油を注ぐような顔ぶれである。共通しているのは官僚指令はもちろんのこと、それより何よりワシントン指令に逆らわない者たちであるということである。今後もますます福島原発事故はアメリカの格好の実験場と化して行くであろう。(このことについては3月の時点でもブログに書いた)。アメリカは今後少なくとも2,30年間に福島原発事故に関して日本などとは問題にならない程の世界でも類のない極めて貴重な実験データを手にいれることになるだろう。アメリカにしてみれば、福島原発はチェルノブイリとは比較にならない程、当初より自由に何でもできたはずである、日本の知らぬ、または知っていても公表しないデータはもうすでに膨大な量になっているはずである。知らぬは原発事故当時国の日本だけということにもなりかねない。このような状況の中で、金に目の眩んだ傀儡、ピエロ、守銭奴ばかりでは日本の行く末はまったく見えてこないと言うより限りなく暗い。どんなに取り繕ったところで、効果的な方策も具体的プランも定まらぬまま国土は着実に放射性物質によって汚染されているのは事実であり、やがてそれはそのまま世界に広がって行く。この日本の実情はそのまま国の恥としてを世界に向けてさらされているのである。今は、一刻も早く原発事故「収束」(飽くまで一時的「収束」で、終息はほぼ永遠に来ないと見た方が賢明である。)に向けて持てる力のすべてを出し切るしか手はない。それでも予測不能なのがこの「怪物」である。それは「神の火」に手を出してしまった人類が背負わざるをえない報いであり、そして、くすねた「神の火」の消し方も知らず、扱い方も不十分なまま突き進んできた結果でもある。

 つくづく人間の「愚かさ」ばかりが際立って見えてくる昨今である。テレビに、新聞に登場する「人間」達の顔を見ていると、やはり、もう本当に「人間」は死んでいるのかもしれないと思ったりする。そうでなければ「人間」そのものの定義をし直す必要があろう。神は死に、「人間」が死に、次に死ぬのは何か?すなわち誕生するものは何か?今のすべては、「立ち止まること」を忘れてしまった者達の、「考えること」を放棄してしまった者達の集積の必然的結果である。

                                                     2011 6/4

 ※6・4 福島原発1号機で「水蒸気爆発」を起こし、周辺の放射性物質は3・11以後最大の4000ミリシーベルトに達したがテレビなどでは詳細な報道はまったくなされていない。東京にある私のガイガーカウンターも一瞬ではあるが今までにない数値(0.47μsv/hー平常時ではありえない)で警告音を発する時があった。残念なことではあるが今や多くの人々にとって、温度計、湿度計の他にガイガーカウンターを観ることが日常化してしまった。私はと言えば、もう腹を括っているのでそれほど気にしている訳ではないが、ただ虚偽で振り回されることだけはできるだけ避けたいという思いがある。

○「水蒸気爆発」という言葉は一瞬マスメディアに現れたが、現在は「湯気が立ちあがり」という表現になって、あたかも温泉地のようなのどかな風景を思い浮かべさせるような細工が施されている。そのような小細工の前にそうであるなら「水蒸気爆発」の厳密な定義をするべきであろう。このようなどちらとも取れるようなことをしているから「風評被害」なるものが発生するのである。「風評被害」を生んでいるのは政府・東電・マスメディアであることを改めて確認すべきである。


168.「政争」、「ドタバタ劇」という言葉に見える狡猾さ


 とうとうここまで来たか、すっとこどっこいと言う感じである。日本のマスメディアは、「迅速なる復興」を妨げてきた張本人である菅直人に関しては特に追及もせず、むしろかばうかのような言動が多いのが実情である。被災地救済、復興などを含めた現在の危機的状況から必然的に出て来たのが「内閣不信任案」である。それにも拘わらず、マスメディアは一見被災地住民に寄り添うポーズを取りつつ予め用意された「政争」「ドタバタ劇」などの言葉で括るべく被災地住民を誘導尋問的に導きながら、現政府の最大の問題点をぼやかし、ようやく首相「退陣」に迫る動きさえも現状維持路線の方向でこれが「被災地の声」とばかりにその論点を反らす声の「作成」に余念がなかった。この狡猾にして稚拙な「演出」に気がつかない者は以前ほど多くはないと思うが、まだまだ気を許す状態ではない。今更敢えて言うほどのことでもないが、彼らは明らかに政府の広報戦略機関である。彼らが「拾った」と言う住民の声を注意深くチェックすると、そのパラ言語からその前に発せられたマスメディアの誘導尋問の内容が見えてくる。たとえばこんな調子である。

<マスメディア 「こんなに皆さんが大変な状態なのに、政治争いなんかやっている場合じゃないですよね。そう でなくとも復興が遅れているのにネエ、まったく・・・>

ー以上はオフ、映像・音声は出ない。以下の部分が画面に現れるー

住民   「ほんと、ほんとに怒っている。そんなことしている場合じゃないわよ。私、何にも持っていないのよ。どうすればいいの、何とかしてよ、そんなことしているよりここの状態見てほしいわ・・・」

 こんな具合である。現政権には矛先が向かないように何気なく誘導されている。他の例でも現政権に対する抗議はまったくない。と言うよりたとえそのようなものがあったにしてもカットされているのであろう。海外であれば、握りこぶしを挙げて「辞めろ、菅」「打倒、菅政権」の掛け声くらいは入ってくる、また、それを取り上げて流す局も必ずある。しかし、日本ではどれもこれも自主規制、整理されて同じなのである。これは薄気味悪く異常な現象で、少なくとも健全ではないことだけは確かである。それにしても被災地の首長は県民のことを思っているのならもっと強く現政権に対して抗議するべきであろう、弱過ぎる。

 

 それから、鳩山由紀夫(前首相)さん、あなたは政界に不向きである。動乱の世にも策士達にいいように弄ばれて利用された心優しい「お公家さん」達がいたが、あなたを見ていると彼らの姿と重なってくる。あなたは少なくとも政治屋ではないが政治家でもない。「政治家」は優しい人では務まらないのである。菅直人は策士の中でもかなり質の悪い策士である。一瞬の油断が命取りとなったまで、しかし国民のことを本当に考えているならもっと厳しい態度で臨むべきであった。今後、菅政権で日本はさらにボロボロになって行くことだろう。しかし、今となってはそのような日本を直視しながら私は私なりに被災地に手を差し延べようと思ってる。しかし、「一つになろう」などという「加害者」を助けるような連帯は断固拒否する。

                                                     2011 6/3

 


167.小出裕章氏(原子力工学)に対する共感  

※この文章の途中から157まで、いつの間にか抜け落ちていたので再度書き込み中(6/10確認)。数日前、突然パソコンが修復不能に陥り、現在修理中である。


 彼の生き方、そしてその選択と覚悟に対しては共感以上のものを感じる。それは、彼のような人間がまだ実際に日本にも存在していたということが奇跡のようでもあり一縷の望みにもなるからである。やはり、自分が選び取った生き方、スタンスというものは風貌にすべて表われるものである。彼のその凛とした姿からは、敢えて仕官の道を自ら切って捨てわが道を歩んだ武士(もののふ)の姿を彷彿とさせる。私にはどこか懐かしい原風景である。

 一方、彼を排除してきた者達はと言えば、ある者は肥え太り脂ぎり、またある者は目と口だけがアンバランスに僅かに動く蝋人形のごく、そして、貪欲そうな死んだような眼は己が深い闇を覆い隠し、言葉は二つに裂けた蛇舌から零れ落ちる間もなく霧散する根も葉もない形骸ばかり。

 さて、どちらの者が信用するに足りるのか?

 科学の領域においてもまだまだ未知のことばかり、「権威」などと言われる者達の「判断」が如何に危ういものであるかは枚挙に暇がない。定量分析にせよ、定性分析にせよ、それは飽くまで客観的目安であって、それを絶対根拠として論を展開し、「結論付け」、敷衍させることは「客観」信仰を生み、逆に科学万能主義に戻ってしまう危険性がある。それは、人間の驕りと思い込みでしかない。絶対結論は存在し得ないのである。

 一般人が科学の学術論文を読み解くのは困難であろう。したがって、科学者と称し、それが真実と言うのなら自ら「体」を張って」説明し、実際にできるものについては見せて証明しなくてはならない。たとえばプルト二ウムが飲んでも安全なものであると言うのであれば、自ら飲んで証明しなくてはならない。(大橋弘忠教授に学者としての責任と良識があるのなら、できるだけ早い時期にプルトニウムを飲まなくてはいけない。)放射線についても同様である。一体何のための、誰のための「科学」なのか、マッドサイエンスが好みなら別だが、再度そこから「科学」を検証し直すべきである。

 それでもなお、金と詭弁に丸め込まれて原発と共に麻薬中毒者のような病んだ人生を選び取るなら、それが人類の宿命なのであろう。

もし、そうなら

C’est ton affaire!     Adieu!

                                                                                                                          2011 6/1


166.「冷静さ」の押し売りとボケた「楽観論」


 原発事故という非常事態に「冷静さ」と「楽観論」を諭す異常さは、異常な状況の正常な反応さえも奪い取り、麻痺させ、中和させようとするものである。そして、今なお崩れ去った「安全神話」にしがみつきながら隙あらばその「正当性」を差し挟もうとする金に絡め取られた「原発教」の「狂信集団」は政・官・財・マスメディアにネットを張りマフィアのごとく連携している。「理念」も「人格」も「倫理」も全くない「何でもあり」のこの集団には常にチェックを入れて置かないと何をするか分からないという状況である。彼らの「お為ごかしの」の講釈、論議に巻き込まれないように、それこそ「冷静に」一つ一つ微に入り細を穿つがごとく検証しないといつの間にか地の果ての崖っぷちである。彼らの「論理展開らしきもの」には必ずさり気なく隠された盲点、死角がある。その中にはどのように取り繕っても、その整合性に変形要因が見られるものが多々ある。変形要因とは、言ってみれば<自己増殖する虚偽> である。それはやがて「作りだされた真実」となる。事実を適度に配合させながら自分の「金主」に都合のよい方向に展開させる「論理」、それは<増殖する虚偽>そのものである(このようなことは「人間」の歴史が始まって以来繰り返されてきたことではあるが)。「そこが知りたい」などと言ったところで、それが「核心部分」であればあるほどそれにまともに答える者などは皆無であるということを思い知った上で行動し、詰めていかないと物事は何も見えて来ないし、始まらない。

 簡潔に言えば、原発推進派には「庶民」などというものは存在しないのである。少なくとも自分たちと同じ「人間」であるとは思っていないということである。だから、彼らの言動はどのように「遠回り」しても、結局のところ安全地帯から発する原発の「正当性」と「安全性」とその「お為ごかし」に行きつくのである。福島県民に土下座している東電関係者も、政府関係者もその意識構造は動物園の檻の中にいる「動物」に向かって頭を下げているようなもので、とても「人間」に向かってやっているとは思えない。原発推進派とは、もはや「人間の尊厳」を捨て去り、金のために身も心も「悪魔」に委ねた者達ということでしかなくなってしまった。今や福島は有刺鉄線のない緩慢なるアウシュヴィッツになりつつある。もうすでになっているのかもしれない。さらに、放射性物質による細胞レベルの時間的致死・変形作用を考えると、来年の「収束」も覚束ない原発が放出、流出し続ける放射性物質の影響には恐ろしいものがある。それを完全に否定し得る根拠がまったくない以上、それが日本の実情なのである。たとえ、どんなにそれを否定するための「資料」、「論文」を拾い集めて原発擁護論を構築したところでそれ自体が愚かしい無益な作業である。

                                              2011  5/31

 


  恐怖におののく自意識などに明日はない・・・

冷静に矛先を定めよ そこに見えてくるものが明日の手掛かりを創る。

En regardant cette situation tranquillement .Bark!  Bite! Clain! Now silence is not gold. It’s death.

Action!!!

                                                         (5/26)


165,身に染みついた「平和ボケ」ー金で買われた命ー


 「平和ボケ」は今に始まったことではない。少なくとも40年前1970年代には始まっている現象である。したがって、現在40歳前後、またはそれより若い人々は大なり小なりこの「平和ボケ」の中に育ち、「成長」したことになる。もちろん60歳代でもそれに該当する者はいるだろう。この「平和ボケ」が身に染みついてしまった者達の共通する特徴の一つに「本物」に対する現状認識の希薄さがある(これについては想像力の問題も絡んでくるが)。たとえば、モデルガン(imitaition)などの扱い方はよく知っていて上手だが、本物のガンには触れたこともない(マニアックな者たちは、問題点が違うのでここでは除外する)、また模造刀は自在に操れるが本身(本物の刀)は手にしたこともない。要するに、本物の「怖さ」を知ることもなく、また知ろうともしない内にいつしかニセモノ文化に飼いならされ、手なずけられてしまっていることに本人自身も気がつかないということがある。本物の危険性を知らないまま過ごしてきたということは、本物に接した際にも本人にとってはそれはどこか「ニセモノ」で、そのような捉え方扱い方では危険度が増してくるにも拘わらず、それを本人は現実的には認知し得ていないのである。そして、それが本物であると<真に><「気付いた」時>にはすでに致命的な状況になっているということが起こる。

 いまだに、実際の原子炉の危険性を漠然とは感じていても、その危険性を「現実的」に「把握」できていない者が多いのは事実であろう。危険なものは危険で「恐ろしい」ものなのである。そこに「平和ボケ」した楽観論が入り込むから却って危険な状態を作り上げるのである。すでに原発の安全神話は崩壊したが、本来なら危険なものを危険なものとして明確に把握した上で具体的に対処すべき問題であるにも拘わらず、隙あらばその安全性のみを強調し、あたかも原発そのものが安全であるがごとくに思わせるのは明らかに詐欺行為であると言う以上にそれ自体が極めて危険な行為であると言わざるを得ない。原発に関わったすべての驕り高ぶる者達は、もはや如何なる弁解もできぬということを思い知るべきである。さらに言えば、今後の状況次第では「未必の故意」による大量殺人ともなり得る。その加害者とは政府、東電、学者である。

 今もって、チェルノブイリと比較するのは「大袈裟だ」などと言う見解を出すマスメディアがあるが、その根拠は不明。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発事故をどこまで検証したのか。福島原発はいまだに「収束」のめども立たず、「収束」至る工程表さえ覚束ず、今なお進行形なのである。「大袈裟だ」などと能天気なことを言っている場合なのか。この「大袈裟だ」と言う不明な「結論」の先にはまた「想定外」の言葉がちらつく。言ってみれば、これが「平和ボケ」そのものなのである。まだ、「敵」の恐ろしさが分かっていないと見える。今はもう、金で買われた命が「作り出す」「真実」に耳を傾ける時間はない。

 

                                                     2011 5/26


 164.瞬時によぎる振幅(5)ーこの項は別枠として同時進行ー


○小沢一郎が5・27にウォール・ストリート・ジャーナルとのインタビューで語った自らの心境・姿勢は、数ヶ月以上前に小沢一郎について私がブログで書いたこととすべてに渡って一致していた。然もありなんである。

○小泉元首相は、原発行政の非を認める発言をするなど実にまともな政治家であることをアピールしてはいるが、そのまま素直に受け入れることはできないだろう。少なくとも、与謝野馨などよりは機を観るに敏と言う意味でも是非は別として政治的センスは確かにある。だから、国民は翻弄されたのである。彼の言っていることは間違いではない。しかし、彼の政治家本体としての問題がある。それは理念の欠如もしくは不明瞭な点で、大衆が求めていることには敏感に反応するのよいとしても、それに合わせて実は「考えてもいない」(理念に照合させた論理的かつ具体的プランがないという意味)ことを平然と言えてしまうとい「政治家」としての資質である。したがって、彼の言動は危険な要素も秘めていることを見据えて置かなくてはならない。要するに、ポイントの絞り込みはいいが、理念に基づく緻密なプランがないということに尽きる。ある意味では、その場で一番受けそうなことを言うことしか頭にない「タレント」などと本質的には同質だとも言える。ただ、一方の虚偽は許せないものとなるが、もう一方の虚偽は笑いで相殺されると言う違いはある。それは三文タレント菅直人についても同様である。そして今、小泉が原発行政の非を言い出しているということは、それを認めた上でないと今後の行政を展開することはできないことを意味している。しかし、、いざとなれば吐き出される小泉の「迷言」は今までも事欠かなかった。「人生いろいろ」(閣僚の進退を問われて)、「私が知る訳ないでしょう」(自衛隊派遣の際、非武装地帯の安全性を問われて)etc。彼には追及されれば用意されている言葉は山ほどある。そして、「民」不在の実態不明の「構造改革」の御旗の下に「民」にのみに「痛み分け」を強いた彼の政治工作はまだ記憶に新しい。その「負の遺産」は国民各自に背負わされたままで、今もって何ら解決されていないのである。

                                                             (5/27)

○原発事故関係の報道は、警鐘から「煽り」までさまざまであるが(ここでは愉快犯のごとき売れ筋狙いの「煽り」は論外とする)、その中には警鐘までも「煽り」と取らせるような意図的偏向報道もある。なぜそのようなことをするかについて今さら多くを語る必要もない。時間の無駄である。概して、原発事故について「冷静さ」を強いるもの、またはその「安全性」を訴える傾向にあるものの多くが地元住民の側、すなわち「民」の側にはいないことだけは確かなのである。彼らの「お為ごかし」の言説がいくら「真実を装っても」説得力に欠けるのは、彼らの立ち「位置」に起因するのである。どこから、どこの視座からものを言っているのかが問題なのである。よく観れば、どこにポイントを絞っているかが言葉の端々に現れてきて、すぐにその発信者の「位置」と全貌が浮かび上がってくる。原発事故に関しては、人間ごときが気張って「真実」などを書く必要はない。日々変化する事象の的確な観察を基に事実だけを書けばいいだけの話で、遅かれ早かれ「真実」は真実となって極自然にこの透明な「怪物」自身が告げてくれるはずである。それでも隙あらば歪曲化、捏造するのが亡者でもある「人間」である。

 

                                                                                                                                                      (5/26)

 ○日本のマス・メディアの金の流れもすべてチェックする必要があると思っている。話はそれからである。論調、登場人物でおおよそはその金の出所、流れは推定できるが、金の動きがすべてなのか、そうでないのかはジャーナリズムの生き死にがかかてくる問題である。現状は悲惨である。ジャーナリズムの体を成していないものがほとんどである。解体するしかあるまい。

○「急流で馬を乗り換えるな」!?それは馬にもよるだろう。目も利かず、足も不自由な馬に乗っていては急流に流される仕方あるまい。これは言い換えれば、日本は急流に飲み込まれるより他に道はないと言っているようなものである。今や日本は衰退の一途をたどることはもはや避けられないことで、とても対症療法で救える段階ではない。だからこそ賢明なるソフトランディングが必要なのであるが、菅政権下では日本は良くても胴体着陸で突っ込んで解体してしまう確率の方が高いのである。すでにいくつものその劣化箇所が認められている以上、そして、さらにその劣化が進んでいる今、それは火を見るより明らかなことであろう。しかし、いまだに内閣支持率が30%もあることには驚かされる。何と御しやすく、おめでたい人々よ。日本にいる限り彼らと共に滅亡の道を歩まざるを得ないのかもしれないとも思う。また一方の不支持60%にしてもどこまで期待できるのかその内容にもよるだろう。どちらにしても、もはや夢のような日本の「回復」は絶対にあり得ないと思っていた方が現実的で、それが日本の実情に最も近い。またそのような認識に立てば、目先の我欲だけで突き動かされている「守銭奴」達の甘言に乗せられて日本の死期を早めることもないだろう。

                                                            (5/23)

○原発事故で変容してしまった都はるみの「舟歌」

「沖のかもめに深酒させてヨー 愛しいあの娘を奪い去り、海や大地も荒れ果てて、何もかもが消え去った・・・断腸ネェー・・・海が見える窓さえあればよかったあの時に、想いを馳せればこみ上げる、ああ断腸ネェー・・・ルルルール、ルルルー・・・・     

地元の漁師も、もはや昔と同じようにこの歌を聞くことはできないだろう。

                             


163.パニックを恐れるあまりに、風評作り


 パニックを恐れて「ストレートな報道を手控える」とは一見筋の通った道理のように見えるが、一方では新たに危険な状態を作り出すこともある。「ストレートな報道」を控える主な理由は、突発的な危険を目前にして多くの者が視野狭窄的な思い込みで認知混乱に陥ることを回避することでもあるが、それは操作を誤ると報道の信ぴょう性低下させ、繰り返されることにより必然的に風評の発生を煽ってしまうことになる。そして、その風評が新たな恐怖を作り上げる。またそのようなことと同時並行的に人々の中には「正常化バイアス」(optimistic bias-楽観的バイアス)が働き」始める。すなわち、いつまでも事態の緊急性、危険性を認めない、または認めようとしない判断バイアスで、実際に致命的危機の直前までその実情を認知できない心的状態に陥る。ある意味では非常に危険な状態である。分かりやすく言えば、「自分だけは大丈夫(危機的状況にはならない)」という盲信のような楽観的思い込みそのものの危険性である。「ストレートな報道」の規制・操作、自主規制は、すなわち真実を伝えぬ報道は、この「楽観的姿勢・見解」を増長させるだけで、それが一体何を意味するのかについては多くの解説は必要あるまい。

 それは、破壊された原子炉建屋の前で笑みを浮かべて記念撮影をしているようなものである。

                                                     20111 5/22

     


162.癌と放射性物質に思うこと2,3


  今回の福島原発事故以後、被曝とそれに伴う発癌率の問題がよく取り沙汰されて、25年前のチェルノブイリ原発のデータ比較などからいとも容易く「神経質になる必要はない」、「心配ない」などとしたり顔の「学者諸氏」が数多く登場してきたが、彼らが断定的に主張するその「安全性」の根拠となるものにさしたる確証はない。その「根拠」らしきものを形作っているのは、具体的には横断面資料と時系列資料を併用した分析であろうが、25年程度の時系列分析の暫定結果に過ぎないようなものを根拠に断定するにはまだ証拠不十分であろう。それ以外の方法で驚異的な分析方法があるのなら別だが、多くの場合その分析方法は具体的に示されていない。なおかつ旧ソ連の社会体質の中で果たしてどれだけ正確なデータ収集が可能であったのか、それは限りなく疑問の余地を残す。そして、その分析は主に癌と放射性物質の関係が中心で、心臓疾患、その他の疾患について、さらに病名のない奇病に関してはほとんど言及されていないと言うより分からないと言った方が適当なのであろう。そこに於いて、は分からないものは「存在しないもの」として論が進められているということに注意しなくてはならない。それは、現時点では癌だけに絞る方が分かりやすい、それしかできないと言った方がより正確かもしれない。換言すれば、放射性物質と癌の関係がようやく分かってきたということに過ぎないのであって、それ以外に放射性物質の影響がまったくないという証明はなされておらず、まだその領域に関しては充分に把握できていないというだけのことなのである。それを研究され尽くした結果であるごとく説いている「学者とは無能と言うよりは犯罪的であるとしか言いようがない。

 このような嘆かわしい状況の中でも福島原発事故収束に向けて、老体に鞭打って「次世代に負の遺産を残さないためという思い」で「原発決死隊」(福島原発爆発阻止行動プロジェクト・山田恭暉)を立ち上げた大学教授、エンジニア達もいる。頭が下がる思いである。「プルトニウムなど飲んでも大丈夫」、「神経質になることはない」、「メルトダウンはあり得ない」などと言っていた「御用学者」」達はどこに行ってしまったのか?

※横断分析: この場合は、放射性物質の影響について、放射性物質と癌の関係を分析するために被曝した様々な人々を一定時点の統計資料に基づいてする分析。

 時系列分析: この場合は、被曝した人、あるいは一定範囲の被曝した人を集計したものを対象として時間経過によって変動する様態を観察した資料に基づいてする分析。

(文章中では、「横断分析」、「時系列分析」を以上のような意味でつかっている。)

                                                  2011 5/21


 161.「御用演劇人」


 最近は、「御用」と名の付く者達が其処彼処でその全貌を惜し気もなく見せてくれる。演劇界にも数多くの「御用演劇人」がいるが社会的にもそれ程の意味もなく害もないので問題視されることもなかったというのが実情であろう。「芸能界」などは敢えて「御用」などと付ける必要もなく、大方は実質的に茶坊主である。ここで登場してもらうのは、よくマスメディアにもにこやかに顔を出す野田秀樹と平田オリザである。野田は、少し前「アエラ」の表紙に抗議した文章そのもので彼自身の存在証明をすると同時にその姿勢と立ち位置を様々な関係性の中で明らかにした。その内容は要するに原発事故による放射性物質の拡散について、その危険性を必要以上に「煽っている」ことに対する抗議であった。これは政府・東電・学者が原発の「安全性」がさらに崩されることに神経質になり、正当な危険性に対する警鐘さえも封殺することに躍起になっていた時期でもあった。抗議文からはそのような動きと一線を画するような見解はまったく見られず、むしろ、「煽り」そのものに対する感情的な反発が不自然に全面的に出ていた。実際に、野田は原発推進派の都知事・石原慎太郎との関係もある。原発推進派とは産・官・学に広範囲なネットを持つ組織の一員とも言えるのである。今やその組織の一角が崩れ始めている。

 さて、平田については以前ブログでも取り上げたが、今回のソウル市内での発言は当然であろうと思っている。平田が内閣官房参与として、ソウル市内で「東京電力が福島原発から放射能汚染水を海に捨てたのは米国の要請だった」と言ったことについて、どの程度の確証があったかも定かではないが、これで東電、政府に対する責任追及をかわすつもりであったのであろうが、ここでもうすでに完全に権力構造に取り込まれているのが見て取れる。それについては平田を擁護する政治レベルの「穿った見解」もあるようであるが、どちらにしても、それは政治ゲーム愛好会の「穿ち組」、「深読み組」の領域で本質的なことではない。

 真の芸術とは敢えて言わない、すべての芸術は本来、根本的に「反権力」なのである。

 茶坊主に成り果てた者達に一体何ができるというのか。

※中曽根康弘とレーガンの日本での会談を仕切ったのは浅利慶太(劇団「四季」)であるが、彼の場合は「演劇人」と言うよりは演劇実業家と言うべきであろう。

                                                       2011 5/20


 160. 坊主をり くわえタバコで 位牌書き


  このような時代というものは、地に堕ちた者同士がどこかで結託していると見えてあらゆる領域でさまざまな形で問題が一気に噴出してくるものである。例えば、日本仏教界なども葬式仏教と言われて久しいが今もって大方がその通りである。そして、相も変わらず日々見聞きすることと言えば、儲からない「生もの」は相手にしない葬式仏教そのもの(これは完全な本末転倒である)、その一つ一つを述べ連ねるのも億劫なので七五調で流す。

棺(ひつぎ)背に くわえタバコで 位牌書き

布施(ふせ)せがむ  坊主外車で 通夜法話

葬儀せず 寺と葬儀屋 ぐるになり

門前に 殺猫剤まく ご住職

 これは俳句でも川柳でもない。ただ、気になる事象を五七五で留め置いたまでである。

                                                    2011 5/18


 159. 滅亡の時ーメルトダウン「開始」、どこまでのカウントダウンかー


  すべての楽観論は虚偽である。

そうかと言って「悲観論」で身を苛むのも愚かである。ただ、それが実情であるということを認めざるを得ないと言うことである。

しかし、私が生きている時に、実際に人類滅亡の序曲に直面するとは思っていなかった。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発事故、そして今後も続くであろう原発事故と、人間には実質的に不可能な放射性物質の後始末。このままでは、もはや日本の、世界のどこに逃げても無駄であろう。せめてもの「幸せ」は人類滅亡の最終章にいなかったことくらいであろうか。今、私は「人間」のここまでに至る「愚かしさ」、「醜悪さ」、「狂気」を徹底的に見据えてから死のうと思っている。だから、取り繕われたすべての軽々しく明るい嘘に自ずと身は添うことを拒み、叛く。それは汝の偽りごとのために我が時を奪うなという思いでもある。「人間」の愚かしく狂った脳髄の様を、そして、我々人類が地球にとって如何に「悪質」な生物であったかを見届けてから死ぬということは、同時必然的に「人間」に辛うじて残されている「良質部分」の抽出、検証ということにもなる。単細胞的に陥りやすい安っぽい「人間讃歌」は危険であると同時に、明快な世界観の欠如した楽観論が虚偽であるように虚偽である。

                                               2011 5/13(金)

<現在、消失箇所確認再生中>


158.瞬時によぎる振幅(4)ーこの項は別枠として同時進行ー 


〇「パニックになるのを恐れて真実を伝えなかった」?それは嘘である。まず第一に、政権・既得権益崩壊を恐れてのことである。その代償として今後も多くの被爆者を出し続けるのである。パニックを恐れて「ストレートな報道を手控えた」にしても限度がある。当初の政府発表の避難地域は「念のため半径3キロ」である。この直後にアメリカは半径80キロを提示している。以前にも言ったことであるが、相手は「怪物」である、人間ごときの「浅知恵」、「狡猾さ」、「小手先」、「小細工」などで収まる対象ではないのである。たとえパニックを恐れて操作された嘘であろうと、嘘はその日の内に覆される。今やこの「怪物」の息の根を止めることはできなくなっている。福島は完全に死地となりつつある。そして、いまだに住民はいつか戻れると思っている。これでいいのか?これは地域住民を騙していることであろう。

 このまま突き進めばチェルノブイリどころではなく、世界最大の原発事故となり得ると思っている。

                                                               (5/17)

〇「一つになろう日本」、これを聞くたびに鳥肌立ち、虫唾が走る。要するに、この標語自体が手の施しようもなく、とんでもない欺瞞性に満ちているということである。これで納得できる者達、こういう標語でしか動けない者達とは何時の時代にもいる、簡単に為政者に取り込まれ同調する自分自身がない者達である。

〇国と一体化している「日赤」、「ユニセフ」は信用できないので、「国境なき医師団」に東北大震災の義援金を送った。以前、黒柳徹子もユニセフ親善大使などと称してジャーナリスチックに「活動」していたが、これもユニセフの広告塔の役割を果たしただけの単なる演出された偽善的行為であったと言うしかあるまい。そうこうしている内にユニセフはいつの間にか立派な「自社ビル」を建ててしまった。その金は一体どこから出て来たのか?我々の支援金であろう。私も一時期「ユニセフ」には支援金を送っていたので裏切られたという思いが強い。

                                                         (516)

〇今、フランスでは・・・

 原発大国でもあるフランスでは、福島原発の成り行きに神経をとがらせていて、日々絶え間のない論争が続いているらしい。日本とはえらい違いで、どちらが当事国なのか分からない状況である。そして、4月の段階で、彼らにとって日本はもはや偲ばれる国となっているのである。

                                                       2011 5/12

<現在、消失箇所再生中>


 

 

 

 

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