「ある日、その時」 (6) 2011年1月18ー

 




<掲載内容>

110.「空気を読む」者達に仕掛けられた罠   111.小沢一郎は利用されただけなのか 112.相も変らぬ大手マスメディアの扇動 113「.白い巨塔」を降りた医師たち 114,鳥越俊太郎 降板に見える嘘 115.官房機密費の行方と検察審査会の徹底検証 116.問答無用 117.ラ ノゼ 118.市川房枝を語る騙り119.雪だるまが消えた街 120.Politique de Japon 121.もはやネット上に匿名は存在せず122.封建的な圭角とは123.最近の民衆蜂起に思うこと 124.噂のようなマスコミ報道 125.内閣支持率17%??? 126.マルグリット・デュラスの「苦悩」 127.アルジャジーラとアルアラビーヤ 128.自然の猛威の前で 129.原発事故報道の疑問点 130.放射線の影響 131.国民に「冷静さ」を強いる無能な政府 132.今頃、「命懸けで立ち向かう」?! 133.今度は救援、復旧作業が遅れたことの言い訳か?134節電はテレビ局から <番外>菅(すげ)枝の 蓮(はす)朽ち果てて 迷い舫(ふね) 135. 風評被害 136.「放射能がなぜ怖いか・・・」音楽家・坂本龍一



 


136.「放射能がなぜ怖いか。その理由がわかります。」(音楽家 坂本龍一)


  これは柳沢桂子著「いのちと放射線」(2007年9/10 ちくま文庫)と言う本に坂本龍一が書いた所感である。この本の内容は「私たちは原子力に頼っていて本当によいのか。なぜ放射性物質による汚染は、科学物質とは比較にならないほど恐ろしいのか。放射能によって癌や突然変異が引き起こされる仕組み、大人より子供に影響が大きい理由を、生命科学者がわかりやすく解説」」した本である。すでに原発保有国になってしまっている日本の国民が危機管理の上からも、自らの生命を守るという意味からもしっかりと把握しておかなければならい内容なのであるが、「国策」の名の下に「甘い汁」に群がる者達があたかも「神の技」のごとくその「技術」を誇りながら「絶対的安全」をでっちあげ、そのような見解を封殺してきたのが今までの実情である。3年半前に出版されたこの本は現在、出版社には在庫もなく、絶版状態であるが、それだけではなく東京23区の図書館にもまったくないのである。普通ならどんなつまらない本でもどこかの図書館に1冊くらいはあるものであるが、それが驚くほどまったくなく、現在入手不可能の本になってしまっている。これは一体何を意味するのか。参考までに、東京都知事の石原慎太郎は原発推進派の旗手である。この本だけではないが、過去にもこのような事例はあった。その時も指摘追及されたある大手会社が出版された本を瞬時に買占め、人の目に触れることもなかった。こうした社会的に「影響」のあるものに対する実質的な「言論統制」は今も平然とまかり通っているのが現実なのである。巧妙な「あめとむち」の「悪魔の囁き」に乗るのはもうやめて「あめ」を相手に投げつけるくらいの「気概」を持って生きない限り、たとえ、一時「あめ」にすがって自分に「利」をもたらしたとしても、このままでは拠って立つ日本国全体が「崩壊熱」で崩れ去ることにもなりかねないということを肝に銘じるべきであろう。より賢明な選択が否応なく求められてくる。

 今回の見るも無残な福島原発の結果、そして、おそまつな事故の終息への経緯(現場で命懸けで終息に向けて作業をした人々のことではない。),どこを取っても、何を言っても言い訳の余地はない。

 

 

                                                                         2011  3/26               


135.風評被害


 火のないところに煙は立たずというのも風評であるが、火のないところにも煙を立たせるというのも風評である。風評被害と言う以上は後者であることは言わずもがなであるが、それは、私憤、愉快犯によるデマ、扇動に至るまで今まで様々な形で起こされてきた。そして、多くの者達が「火のない煙」に動かされてきたのも事実である。風評被害に対して「冷静な対応」を呼びかける政府、マスメディア自体も今まで不明瞭な「風評」、偏った不正確な情報、見解を押し付けてきたのも事実であろう。どちらにしても、風評の類に対しては受け取る側も「冷静」というより「賢明」な判断を余儀なくされるのである。そして、もしそれができなければ自分自身も悪しき風評の渦中に飲み込まれ身動きできなくなってしまうということである。

 農作物の放射性物質による汚染についても、一旦出荷規制、停止が出てしまえば、まったく放射性物質が検出されないものにまでもその被害は及ぶ。たとえば、ほうれん草と言えば「関係のない」すべてのほうれん草もシャットアウトするという類である。これは明らかに風評被害と言えるが、そのあまりの「冷静さ」を欠いた過剰反応に驚きもする。しかし、買う側に正確な信頼できる情報が流されていない以上、また賢明な判断能力がなければ、ある意味ではその反応は致し方ないものがあるだろう。そして、原発がある所ではどこにいても常にその危険性はあるということである。さらに、今回のような事故が起こり汚染されれば、その土地は復旧も再興も不可能な「死の大地」となってしまうことを明確に認識しておかなければならない。

 それから、今回の地震、津波の「大災害」について語る者が、誰が言い出したかは知らぬが、「千年に一度の」という表現を枕詞のように遣うが、これはまったく根拠のない言葉で、「想定外」と同様に人知の「浅はかさ」、「傲慢さの」の表れであると同時に、捏造した「安全性」が容易く打ち砕かれたことに対する「言い訳」でしかないことを押さえておく必要があろう。

                                                2011 3/25


<番外> 菅、枝野、蓮舫、仙谷・・・

      菅(すげ)枝の  蓮(はす)朽ち果てて 迷い舫(ふね)

      迷い舫 千石積みて 沈み行き

      沈み行く 国をとらえて 縄を綯う

              

           


134.節電はテレビ局から


 テレビ局は軽佻浮薄な番組を垂れ流しているよりは節電した方が世のためである。節電が死活問題になっている人々に対して節電の協力を求めるより、あってもなくてもいいような番組を流しているテレビ局が節電することの方が先決である。それが不可能なら、そんなことはあり得ないが、視聴者が今必要な情報以外はテレビを消すことである。これでいくらかでも節電ができる。現状は、供給不足は言うに及ばず、電気は突然切られる、原発は煙を出している、農作物、水道水は汚染する(現在は微量であっても今後は保証の限りではない),そこから派生する様々な問題、疑問を抱えて右往左往しざるを得ない人々の不安で充ちている。このような状況の中で誰が三文役者並みのニュースキャスター気取り、コメンテイター、タレントの話など聞く気になるのか。そんなことをしているよりもっと現地取材をするべきであろう。今、テレビの報道番組、その他の番組で節電以上の価値を見出せるのは極限られている。

 今後は、軽佻浮薄な番組は益々「白々しさ」を増すだけで、多くの者の共感を得ることはできなくなるだろう。今までの病的な「笑い」の希求そのものがそのまま絶望的状況の証左であったということに過ぎないが、今や、その「絶望的状況」を「甘受」することすら許されないというのが実情に近い。しかし、どういう訳か今まで以上にテレビの画面に出て来る者達が何か「未成熟な」、「奇怪な」感じがしてしまうのはなぜか、そして矛盾だらけの事象をどこでどのように整合させているのか不可解な「尤もらしさ」でまとめて納得してしまう者達、それらの様子はさながら世にも不思議な物語を見ているようでもある。

                                                 

  今回の原発事故で、この小さな豊かな文化を持つ日本国を取り返しの付かない破壊に導く者達の正体が鮮明になってきたのではないか。我々は利便性のみを追及するのではない自らのライフ・スタイルを真に検証すべく迫られている。

                                                                                                                                              2011 3/24


133.救援、復旧作業が遅れたことの言い訳か?


 個人の財産の問題もあるので、壊れていても泥だらけでも簡単には撤去できない、それをびくびくしないでスムーズに行うためには法的整備が必要ではないのかと言う法務大臣。それではその問題があったから今まで補給路すら確保できなかったとでも言いたいのか。この非常事態で生死を彷徨っている人間が数え切れなくいる時に、救助、補給のためにたとえ家屋を壊したり、排除したからと言って誰が咎めるというのか、もし、そのために「びくびく」して行動が取れなかったとするならば、「命懸けで立ち向かう」と言うのは口先だけということになろう。今後も政府の不手際で何人も死ぬことになるのかと思うとぞっとする。今に始まったことではないが、この国の為政者達は一体誰のために、何のためにいるのか?

 今回の大災害に対する一連の政府の動きに対して、いまだに「政府発表の指示に従って」、「政府も大変なのでしょう」などと政府擁護の発言をしながら「物資も人手も足らない」などと民間レベルに訴えているが、訴える方向が違うのではないか。政府がやるべきことをやってそれでも足らない部分を民間レベルが補うというのなら納得できるが、実情は逆である。

 そして、アメリカの福島原発事故の分析結果に多くの国民がいくらかほっとしているのが現状であろう。自国の事故の調査、分析を諸外国に頼らざるを得ないとは情けない話で、それまでの「政府発表」、「専門家」、「学者」、※「解説委員」などのマスメディア報道はほとんど信用されていないということである。それは無理もないことで今までが今までなのであるから仕方あるまい。根幹部分の改革をしない限り、今後もそれはますますエスカレートするであろうし、たとえ隠蔽してもすぐに世界の視野に入って来るので今までのような日本流ディベートでは隠し通せなくなるのは必定である。

            

※原発事故のテレビ報道の中ではNHKの解説委員・水野倫之の解説が最も誠実、的確であった。その他はすべて見るべき、聞くべき価値のある内容ではなかった。

                                   

                                                        2011 3/22                                


132.今頃、「命懸けで立ち向かう」?!


 巷から聞こえてくる声は、「馬鹿菅」、「阿呆菅」、「トロ菅」、「ボケ菅」、「ぶん殴ってやりたい」、「顔を見ると吐き気がする」、「首にロープをつけて原発まで連れて行って働かせたい」etcそのような声が其処彼処から聞こえてくる。念のために、これは「時」の「首相」のことである。そのように「呟く」人々の多くは被災者のことを考えて今はそれ以上は言わず、その気持ちを押さえ込んでいるようにも見える。被災したその日、どのようになるかはある程度は掌握できたにもかかわらず、国民にメッセージも出さず、2日も経って顔を出したと思ったらヘリコプターで被災地「見学」である。そんなことしている暇にやるべきことはあったはずであるが、それらのことも原因して初動が大幅に遅れ、その後も途方もない後手対応となってしまった。これに関しては原子力安全保安院、東電、関係諸機関すべてが該当するが、「基本的」危機管理が欠如してるとしか思えない。3/20になって漸く医薬品が送り出された。ここは一体どこの国なのか、補給路を断たれた激戦地か、これは明らかにいつまでも政治力学に現を抜かして者達の単なる初動、管理対応の初歩的ミスである。こんな初歩的ミスで全国民が危険に晒されているのである。巷の「呟き」には心底からの怒りが込められている。果たしてこの国に税金を取る資格があるのか。妄想都知事に迷走首相、ディベートだけの三文役者ばかりが亡者となった集団ではお先真っ暗である。今後、国民がマスメディアに踊らされることなく賢明な選択をすることが求められている。

  このような状況下ではその「人間」の「人間性」が否応なく丸見えになってしまうものである。我先に遠隔地に逃げる者達、被災地に救援に向かう者達、被災していながら救援活動を続ける者達、冷静に見続けながら今できることをいかにするかを考える者達、そこではどのような人物が信用するに足るのかが確実に見えてくる。

 それにしてもこの大変な時に政治家の被災地「見学」はやめて欲しいものである、ただ邪魔なだけである。政治家とは何んなのかもう一度捉え直した方がよい。現実的には、その救援活動全般を事あるごとに「妨害」して、すべてに渡って致命的な遅れを生じさせただけなのである。

 この原発事故を真に教訓化して「与太話」に惑わされることなく、全国の原発周辺地域の人々は明日はわが身と思って考えておく必要があろう。「自信」を持って「安全性」を訴える者は「御墨付き」の詐欺師だけである。取り返しのつかないことが起きることのないよう今はただ祈るのみである。

                                                    2011 3/20


131.国民に「冷静さ」を強いる無能な政府


 「賢明な冷静さ」を求める者であれば別であるが、政府が国民に必要以上に求める「冷静さ」とは「賢明な冷静さ」とはまったく別物で、むしろそのようなケースは稀といった方がよいであろう。それは、言ってみれば「お上に逆らわぬ愚直な冷静さ」とも言えるものである。「賢明な冷静さ」を求めるものであれば、要求する内容自体について「明解な」部分が多く、納得することは可能であるが、「愚直な冷静さ」を強いる者とは、内容的には「自己」の利害関係でしかないものを「必然性」を装って糊塗していることが多いので不明瞭な部分、すなわち嘘が多いということである。そして、その虚偽をベースに「論理」をでっち上げ、その間隙に「心情」をうまく練り込む作業で、自らに向かってくる「行動」を巧妙に封殺しながら悲惨な状況に置かれた人々に対して「冷静に」「静に死に往く」ことを強いるものである。

 たとえば、最近、政府は福島原発事故の諸外国の反応を「保守的対応」という訳の分からぬ言葉で括り、いとも「容易く」「片付けた」が、これで何が分かるのか。これについても「記者か?サクラか?」「選ばれた記者」達は当然のごとく質問しない。原発事故に対する「保守的対応」とはどのような対応なのか?またそのように言い得る根拠は何か?むしろ諸外国の反応の方が正常であって、日本の反応の方が異常なのである。今後は諸外国の分析を基準に考え、行動した方が賢明であろうと思われる。なぜなら、直接利害関係がないだけに、嘘は少なく、彼らにとっても自国の格好の研究材料になるので、その指摘は客観的で容赦がなくなるからである。それに反して、日本の「識者」諸氏はほとんどが当てにならないと見るべきであろう。研究費欲しさに「本音」(=真実)が言えない2流の学者の話などをいつまでもありがたがって聞いていても意味はないのである。彼等は実質的に政府の隠蔽工作に加担している者達ということになる。

 現在、日本には60基以上の原発(建設中、準備中含めて、運転中は54基)があるが、アメリカの1州、カリフォルニア州の面積にも足りない日本の国土でアメリカの半分以上の原発を保持しているのである。それこそ冷静に見つめればぞっとする光景である。目先の利に駆られた者達によって日本が滅び去る日は近いのかもしれない。

 世界各国から、的確に現在必要な救援物資(防護服、マスク、etc)が次々と送られてきている。これだけの量の原発事故に絞った救援物資を一国(フランス)で送れるということは危機管理体制がいかに整っているかの証左でもあろう。わが国では屋内退避指示を出しておいて、今もってまったくの放置状態である。多くの国は救援の手を差し伸べようとしているにもかかわらずいまだに受け入れ態勢も整わない。まったく国としての機能をなしていないと言える。そのことを察してか、阪神淡路大震災との規模の違いを説明することで現在の対応の遅れを言い訳しているような局の解説もあったが、何と恥知らずなことをやっているのかと思う。そんなことは被災日、少なくともその2日後にはその実態は把握できたはずである。そして想像力のある為政者であれば次に何が必要になるのか、どうなるかは読めたはずである。この政府はやはり心底無能な人々の集まりであった。さらに、原発に関しては以前よりあった恐るべき危機管理能力のなさが世界の前にさらけ出された。放射性物質にホウ酸を柄杓でかけた作業員(3か月後死亡)がいた東海村原発事故(1999年)以後も、実質的に何も教訓化されず、危機管理体制も充実されぬまま捏造した「安全性」にただ己の利害のためにのみしがみついてきた結果であろう。

 そして、気になることとして、政府が最近強調し始めたのが原発作業員、自衛隊、警察関係者が命がけで原発事故の終息に向けて努力しているということであるが、それは確かに大変な作業ではあるが、それと政府の危機管理の怠慢と危機管理能力の欠如は別問題で、それらは否定できない事実であることを明確に認識するべきである。現実的には危機的状況でしかないにもかかわらず「安全性」という机上の空論のみを強調するのは詐欺にも等しい行為である。さらに言えば利に目の眩んだ狂信集団の言動と同様であろう。この事故は山火事の消火作業とは訳が違うのである。相手はまだまだ未知の領域を秘めた悪魔的な力を持つ「怪物」である。その「気分」次第では一瞬にしてすべてを廃墟と化してしまうのである。

 今尚、民放のチャンネルからは、「バライティー」が映し出される。世界は笑っているいる内に終焉を迎えるという言葉が頭を過ぎる。少なくとも最期まで直視し続けたいものである。

 

                                                                                                                                          2011  3/17


130. 放射線の影響


 東京まで飛散した「微量」の放射性物質。政府、マスメディア関係者は「人体に影響のない程度」と言うことを繰り返し、レントゲン、CTスキャンを受けた程度などと具体例を出しているが、レントゲン、CTスキャンを長時間、必要以上に繰り返されることはあり得ないことであるが、現実にはそのレベルの線量を長時間浴びることになるのである。その照射「時間」を考慮せず、割り出された数値のみについて具体例を出して説明しても意味はなく、そのような「分かりやすい」比較で即「人体には影響を与えるものではない」と断定することには問題がある。分子生物学者の柳沢桂子は「いのちと放射線」(2007年)の中で<放射線はいくら微弱でも体内へのダメージは確実にある。特に小児、胎児への影響は計り知れない>というようなことを述べている。もし、それを否定するなら科学的根拠を提示しながら、もしくは踏まえて解説するべきなのだが、そのようなことはまったくせず、「見解」の相違程度で片付けて容易く「断定」する、それはもはや「思い込み」にも等しいことなのであるが、それを平然と行っているのが実情である。そして、たとえ今回の事故が原因であったとしても時間の経過とともにその因果関係は究明困難となる。

 今回の福島原発事故で、原発の「安全性」を常に訴え続け推進してきたことでも「有名な」東京都知事 石原慎太郎とその関係者も当然その責任を免れ得ないであろう。

 また、この大災害に対する被災者の「忍耐強さ」が世界的視点から好感を持たれたようだが、それは国家とはまったく別問題である。現在(3/16)に至っても被災地の声からは、国の「救済の動き」はまったくと言って程見えて来ない。この国は国家として体を成していないとも言えるだろう。被災地の各地からは、個人はもちろん知事レベルからも※「正確な情報がほしい」、※「国の救援を求める」という悲痛な声が聞こえてくる。このような事態を見て、これは国家として恥であると言った者もいたが、当然であろう。

 

※「正確な情報」 特に原発事故関係は政府、原発関係者の直接報道を聞いていても何を言っているのか不明な部分が多く、これでは不安になるのも当たり前である。(1)官房長官の記者会見にしても、説明は常に不明瞭で、記者も国民が聞きたいような質問をすることはなく、通り一遍で切り込みもなく、とても記者の質問とは思えないものが多かった。その後、避難範囲は3キロ、10キロ 20キロ と拡大し、 30キロは屋内退避となり、変更のたびに被災者は移動させられたがその説明はまったくなされていない。ただ、「落ち着いて」、「冷静に」では、いくら「おとなしい」国民でも不安が膨れ上がるのは当然であろう。屋内退避も政府指示であるにも拘わらず退避させたまま放置状態でライフラインはまったく確保されていない。これではそこで餓死せよと言っているようなものである。非常事態であるからいくつかの段取りのズレは生じるのは致し方ないが、もはやその限界は通り越している。こんな政府ではむしろない方がもっとうまく機能するのではないかとさえ思われる。もう見たくもなかったが、また、政府の無能な実態が露呈した。

 被災地は1週間も経過してなおあらゆるものが不足しているにもかかわらず、蓮舫「担当」大臣は「買いだめ」の状況の視察と称してスーパーの視察である。その間にも多くの被災者は衰弱し、どれだけの者が死んでいるのか。これでは被災者は助かったまではよかったが今度は生き地獄である。

 今後、二次災害を最小限度に食い止め、回復に向かったとしても、それは民間レベルの救援と海外の協力を抜きにはまったく考えられないことであり、政府のやっていることは被災者をただ死に追いやっているだけで、すべてに於いて問題がある。

(1)官房長官の記者会見は、政府側が選んだ記者しか会見室には入れなかったらしい。然もありなんである。

 

※「国の救援を求める」 これを発した「屋内退避」を強いられた人々、SOSを発信した人々、雪降る中、水もない、食料もない、毛布もない、電気も灯油もないと発信した人々は今生きているのだろうか。これは日本国内の目と鼻の先で起こっていることである。

<3/18日現在の状況> 

 孤立地域では、低体温症になる人が増加して、食料は一人一日おにぎり一個。医者も医薬品も足りない。イラク戦争やコソボ紛争などの戦争取材でも、これほどヒドイ状態は見たことがありません。<現地取材中のジャーナリスト 森住卓の報告より>

                                                    3/18追記

                                                            2011 3/16

 


129.原発事故報道の疑問点 


 政治報道に関しては驚くほど一律であった日本のマスメディアは、自然災害、原発事故の報道内容ではばらばらであった。これは本来なら逆でなければならないことである。特に政府、原発の直接担当者は、肝心なところになると「現時点では分からない」の連続。3月15日に至っても同様である。一体彼らは何のためにいるのか?分からないと言っていながら具体的な避難範囲の特定だけは早く、そして、「念のため」であることを強調する。ここで察知能力の高い者ならすぐに感じたはずである。案の定、避難範囲は半径3キロ以上、10キロ以上、20キロ以上と拡大し、結局30キロ以上(3/15)まで拡がった。原発事故の現象面だけを見ていても深刻な事態であることは見て取れるが、1号機爆発の事故当初から、「原子炉は確保されているからそれ程心配ない」、「放射物質の量も微量である」、「人体には影響ない」、「海水で冷却するのでその内終息するだろう」、etc そして、とにかく「落ち着いて」、「冷静に」の連呼である。そんな中で3号機爆発、2号機爆発、4号機火災である。相手は詭弁の通用する人間ではない良くも悪くも正直に結果が出てくる。今までの危機管理、検証のあまさが見事に現出したまでである。それでも「努力」の評価を求め、楽観論を装う政府関係者、それは今後9基の原発を建設するための布石なのか。彼らは事故の詳細についてはすぐに直接の担当者に振ってしまうが、その直接の関係者である東京電力、原発の安全保安院がまた何を言っているのかまったく不明瞭で,その何かを隠しつつ縫うような話し方は聞いている方をますます混乱させた。その対応の仕方そのものは1986年に起きたチェルノブイリ原発事故時の対応内容と酷似している。

 現在(3/15)3号機付近の観測では400ミリシーベルトの放射能が検出されている。これは人体に大きな影響を与える放射線量である。さらに4号機の火災で放射性物質は大気に舞い上がっている。これがどこまで到達するかは不明である。現在、微量ではあるが200キロ圏まで放射性物質は広がっている(3/15)。これはスリーマイル島原発事故と言うよりむしろチェルノブイリに次ぐ規模と見た方が妥当であろう。

 政府は正確な情報公開をすべきである。今後、たとえどのように隠蔽しても、いずれは世界の視線の前で厳しく問われるこにとになるのは確実であろう。そこでは日本国内でしか成り立たないようなディベートはもはや通用しないのである。

 それから、被ばくについて、「直ちに健康に影響を与えるものではない」という奇妙な、不気味な文言があるが、それは「直ちに」人体に影響を与えることはなくとも時間の経過と共に影響が出てくる可能性もあるが、その因果関係については不明ということなのか。そうでないなら「直ちに」は取るべきである。

 

                                                 2011  3/15


 128. 自然の猛威の前で


 実に人知の及ぶところではないことを思い知らされる。まったくなされれるままなす術もない。日本の観測史上初の巨大地震(マグニチュード8.8→9.0)の前であらゆるものが無力化され、多くのものが消え去って行った。残された我々がやれることは、また「人知」が試されるのはこれからであろう。そう思わずにはいられない。

 地震の影響で起こった原発事故ついても、様々な状態を「想定」して作られたものではなかったのか?この地震大国、日本で関東大震災(M7.9)レベルを想定した設計でしかないのなら、「安全」などと言える根拠はなく、それは「人知」の浅はかというより「無謀」と言ってもよいものであろう。世界でもM9クラスの地震は何件か起きているのである。少なくとも「安全」と言うのならM9クラスを想定しなくてはなるまい。一頃、原発を増やしているのは日本だけであったが「地球温暖化」、「エネルギー供給」等の問題などで世界も再び原発を再検討し、シフトしている国もあるようだが、今回の原発事故にしてもやはり「人知」の「思い上がり」、「浅はかさ」を露呈したとしか思えないものがある。そして一旦放射能汚染されれば元に戻すことは難しく、場合によっては還元不可能になる。それは現在のみならず将来に渡って取り返しのつかない危険を背負って生きることでもある。3/12 9::00地震の影響で原子炉は止まったが、冷却装置が故障したと言う。冷却装置が機能しなければ原子炉は高温、高圧となり爆発する可能性も出てくる。ここで政府が出した避難命令は「念のため半径3キロ以上に避難して下さい。」これは飽くまで「念のため」であることを強調していたが、それから数時間後、避難指示は半径10キロ以上に訂正になった。しかし、その時点でも原発関係者の話は原発内部についての具体的説明はなく、要領を得ない。その後、避難指示は半径20キロに変更になったが、その理由についての具体的説明は20:45以降でほぼ12時間後である。その説明内容の中でM8.8(→9.0)は想定外であったことを何度か言い訳のように繰り返していたが、それは設計時の設定のミスでしかなく、言い訳にもならない。要するに「安全」ではないのである。

 現在、地震、津波、火災の被害は甚大であるが、その上、放射能汚染ともなれば、あまりにも失うものが多す過ぎる。

<原発事故内容>

〇冷却装置が機能しない。

〇ベントもうまく機能しない。(ベント=排気口)

〇水素爆発で外壁が飛ぶ。1号機に続いて3号機も爆発(3/14)、さらに2号機も冷却するため海水を注入していたがポンプの燃料切れでできなくなり、炉心が露出しメルトダウン寸前となる。

〇被ばくが検出される。

〇炉心溶融ー日本原発では初めて

 

 政府説明は、今以て「安全」、「落ち着くこと」を強調するばかりであるが、疑問点が多い。

 たとえば、※海水とホウ酸を混ぜたものを原子炉内に入れると言っているが高圧、高熱の原子炉内にどのように入れるのか、原子炉と原子炉を囲むものとの間にいれて間接的に冷やすのではないのか?もしそうならやはり原子炉内の炉心は露出したままで、これでは炉心溶融は防げないであろう※。このような未知の(効果検証データがない)一事しのぎ方法でどこまで維持、改善できるのか。最悪の事態は避けたいが、それも考えられるということではないのか。無意味な「安全神話」をでっち上げるより、被害を最小限に止めるためにも最悪のことを考えるべきであろう。現に政府、関係機関がもたついている間に数キロから10キロ近く離れたところにいた者が爆発直後に被ばくしているのである。それは単に放射性物質の多寡の問題ではなかろう。それとも、その程度は想定内とでも言いいたいのか。もしそうならその「想定」は「原子力エネルギー」に関しては「絶対」にあってはならないことである。

※海水は消火系配管を使ってポンプ車で原子炉内に注入するということである。(3/14 20:20)。そして、ポンプ車の燃料切れで注入が出来なくなり炉心が全部露出してしまったという。これはメルトダウンのカウントダウンであろう。その後すぐにまた注入を開始したというが、まったく危機意識、危機管理がなっていない。これは国家の責任である。

 3/14 3号機爆発の際、6人の負傷者が出たがその詳細は不明、1号機の時も体調不良を訴えた者がいたが当局は後日、打撲などと言っていたがそれも信憑性が薄い。そのような事態に於いても政府は「格納容器の健全性は保たれている」ので「大量」の放射性物質の放出という心配はないというようなことを繰り返し述べ、現場の「専門家」と確認をとりながら対応していきたいと言っているが、実はこの「専門家」にとっても今回の事態は「未知の対応」であろう。「大量」の放射線放出はないということは、「大量」ではない「中量」「少量」「不確定」な放出は常にあるということである。1号機より大型な3号機の爆発である、放射能放出はさらに多いはずである。原発事故には常に不鮮明な、隠蔽工作の匂いがつきまとうのはなぜか?これは過去の事故事例の教訓化も明確になされないまま目先の利潤の方にのみ軸足を置いてきた当然の結果とも言えるだろう。そして「専門家」、「識者」と言われている者達が(御用学者は論外)現実的には、いかに無力で<「事実」だけを伝えるもの>以上の価値さえどこにも見出せないことが改めて確認できたのではないか。その「判断」、「判定」に明確な根拠、確証がないのである。自然とはいつも「人知」をはるかに超えているのである。かつてニュートンは自分の発見したものは海浜の砂粒ひとつに過ぎないと言ったが、もう少し自然に対しては謙虚になるべきなのではないか。(追記)

概して、政府関係者、原発関係者は要するに何を言っているのか不明なところが多く、特に政府関係者は国民にきちんと知らせるべきものも知らせず詳細は告げず言い逃れができるような持って回った言い方ばかりが目立つ。それが虚しく、苛立たしくも響く。                                               

                                                        2011  3/12

 


127. アルジャジーラとアルアラビーヤ


 両者ともアラブ系のメディアであるが、アルジャジーラはその沿革を見ても分かるように今でも自由な報道姿勢は変わっていないが、アルアラビーヤはアラブ首長国連邦に本部を置く英国資本の衛星放送MBCの傘下で、サウジアラビア政府、企業がMBCに多額の出資を行っている。米政府高官などのアラビア語圏のテレビ出演はアルアラビーヤである。ブッシュ、オバマもそうである。アラブ系メディアである以上、報道傾向が完全に欧米向きということはあり得ないがその統制化にあることは明らかである。最近の一連のアラブ情報も主にアルアラビーヤが流しているか、それ経由であろうと思われる。したがって、その情報がデマゴーグなのか確かな情報なのか判別しにくい。どちらにせよ検証不能な一方向のみの報道を鵜呑みにするのは危険でもあり、それが真実とは言い難いということは多くの者が「経験」しているはずである。「アルアラビーヤが報じた」というのは、ただ単に「報じた」に過ぎないのであって、検証に堪え得る証拠が提示されない限り、それは、事実であるかどうかも不明で、それに正当性があるかどうかも保証の限りではなく、飽くまで一つの「主張」の範囲でしかない。況や現在のイスラム圏内の民族問題も含めたアラブの情勢分析などは「既成」ジャーナリズムのレベルで到底成し得ることでもない。実際に納得できる報道内容も説得力のある報道も見出すことはできない。すべてがある陣営からの意識的に断片化された定点観測ではいつまで経っても全体像は見えてこないのは誰も否定できない道理であろう。

 すべての報道はどのような些細なことでも一言一句検証するしかあるまい。それが実感であるが、日本の大手マスメディアに関しては今更言うも疎か、もはや瓦解、解体寸前で内容的に検証する段階にもない。要するに買って読む価値がないということである。だからどこかの待合室、食堂でパラパラと流し読みをするだけで充分なのである。不買、これも抗議の一つである。

 私には特別会計330兆円を隠し持って、平然と増税を強いる国の方が悪しき不可解な国に見えてしまう。もしそれを否定するなら,もうすでに既得権益側に巧妙に絡め取られているということであろう。

                                                    2011  3/8


126. マルグリット・デュラスの「苦悩」


 昨日、バスで静岡まで行ってきた。マルグリット・デュラスの作品「苦悩」を観るためである。内容はレジスタンス、解放、収容所と決して明るい題材でもなく、「恐るべきテキスト」(パトリス・シェロー)であるが、1時間20分のドミニク・ブランの一人芝居は実に素晴らしいものであった。彼女の感性、知性が程よく溶け込んだ想像力溢れる演技は舞台上のどの位置からも「存在すること」の面妖さを意識の変容の中で確実に捉え再現してくれた。そして、一切の無駄を排した簡潔な舞台演出にも好感が持てた。

 ドミニク・ブランは周知のように2008年「他者」でヴェネチア国際映画祭最優秀女優賞、2010年この「苦悩」という作品で2度目のモリエール最優秀女優賞を受賞している。映画ではルイ・マル監督の「5月のミル」などにも出演している。

 昨今、私はこのレベルの日本女優を、舞台をまったく知らない。それは単に演技的、演出的領域だけの問題ではない。おそらくこのような「恐るべきテキスト」を取り上げることすらしないであろう。この作品を敢えて取り上げ苦痛でさえあるその時代と向き合い、それを声高ではなく現代に向けて発信しようとしたドミニク・ブランと演出のパトリス・シェローの仕事にあらためて敬意を表する。

 日本ではどうしてこのような舞台が存在しないのか。存在し得ないのか。

 先月、ひょんなきっかけで某劇団の再演作品「ササフラスの枝にそよ風」(ルネ・ド・オバルディア)を観たが、初演時(1976年)とあまりの質の格差に驚くと同時にその「後退の姿」をまざまざと見せ付けられ、役者と演出に対して憤りを通り越して「積み重ね」の出来ない時間の虚しさを感じたばかりであった。そして、寒さも緩み始めた頃、2010年フランスで出会えなかった「苦悩」という作品に出会い、まったく異質の、次元の違う心地よさと味わい深さを感じることができた。これこそが真の演劇の醍醐味であろう。

※マルグリット・デュラス(1914-1996) フランスの女流作家。「モデラート・カンタービレ」、「広場」、映画シナリオ「ヒロシマ、わが愛」(映画名「24時間の情事」アラン・レネ監督)。1984年ゴンクール賞受賞。 

 

                                                     2011 3/5

 

 


125.内閣支持率17%???


  今でも17%もあること自体が不可解。これまでのケースでは平均±5%が操作領域である。したがって、12%程度が実際の数値であろうと思われるが、効果を考慮しての調整であろう。私に言わせれば、支持率数%以下がいいところで,民主主義の常識から考えても即刻退陣すべき内閣なのである。

 世界でも類稀な超少子化、超高齢化とは、国民の<前意識>の段階にあるものから発せられた国家に対する日本人らしい奥ゆかしき反逆である。しかし、それは取り返しの付かない恐ろしき反逆でもある。これは「少子化対策」などという取ってつけたような方策で解消できる問題ではなく、政治全体の問題である。これでは日本は近い内に世界的枠組みから外れてしまうか、取り残されるしかあるまい。

 戦後、アメリカに「レイプ」された「女」はしたたかに、形振り構わずアメリカにしがみつきながら、それでも格好をつけて生きてきたが、もはやそのアメリカから見捨てられる日も近い。そこでマスメディアなどが煽っているのが総じて「アメリカのご機嫌うかがい」(TPPなども含めて)である、その様、娘を売り飛ばした守銭奴のごとく、気になる一事は金主の顔色ばかり、娘の様態などは知ったことではない。どうしてここまで堕ちたか、それは今に至るまでこの国が自らを見極めもせず、独自の「道」を見出すことを怠ってしまっただけのことである。遅かれ早かれ、この国の実態は余すところなく、「アメリカ自身」から逆に明かされることになるのだろう。アメリカとは良くも悪くもそういう国なのである。

 それにしても「小沢問題」を担当した検事達はもはや蜘蛛の子を散らしたようにいなくなっている。さすがに察知能力も逃げるのも早い。もはや責任の所在は不明である。要するに実質的に「無罪」を証明しているような動きである。今まではそうやって逃げ切ってきたのだろうが、これからはそうはいかない.今ではこの検事達の名前、現所属なども日本国内はもちろんのこと世界に簡単に知れ渡ってしまうのである。これは検事たちに限らず、「政治屋」、マスメディア関係者も同様である。この一連の「小沢問題」は最初から彼らの想定内の「戦略」で、明らかに「政治的介入」であるということは良識ある識者であれば誰も否定はするまい。

 時間稼ぎのためにだけ、また権力維持のためにだけあるような内閣、とっくに彼らの出番は終わっているにも拘わらず、まだ退陣の「サイン」がでないのか?裏の準備が整わないのか。だらだらと続いている。それにしても何もないのに時間稼ぎだけの役割と権力維持だけが最大目標とは、もはや支離滅裂もすでに通り越し、普通の「人間」なら狂うところであるが、それでも狂わないのはすでに完全に狂っているからである。もう少しがんばって日本をガタガタにしてくれると真の意味の「政変」が起きるかもしれないなどと思ったりもするが、その前に何とかしなければ明日の糧にも事欠くことになり兼ねない。

 

                                                   2011 3/1

 

 



124.噂のようなマスコミ報道


 連日マスメディアを賑わしているアラブ諸国の政変についての報道内容は「小沢問題」同様、芸能週刊誌並である。情報源も乏しい上にアラビア語も出来ない記者が大方であろうからせいぜい英語圏経由の情報を取るのが精一杯、勢いリビアのカダフィについてはアメリカのレーガン政権時に遣われた「アラブの狂犬」などという形容をそのまま遣うお粗末さ、ジャーナリストの意地などは微塵も感じられない。何かと言えばカダフィの枕詞のようにその言葉は飛び交い、内容もそれに合わせて取り繕われたようなものばかり、私はカダフィを弁護するつもりも、その理由もないが、そのあまりに現象面だけをなぞっただけの、事実のみではない無用な形容詞の多用は逆にジャーナリズムの視点、切り込みの甘さが見えてくる。それは要するにアメリカ戦略機構のコピペと言ってもよい程のものである。それはどこで拾って来たか分からない噂話、ゴッシップ記事レベルのものを体よく収めた寄せ集めのようなものでもある。そこに登場するのは毎度お馴染みの、読売、毎日、朝日、産経etc,そしてテレビ、今更言うまでもない有名無実の報道機関が名前を連ねる。それは日本政府の政府広報からアメリカ政府の政府広報に変わっただけの話である。アメリカの戦略機構の走狗のような報道ばかりでは世界全体を捉え切ることはできまい。少なくともジャーナリズムの名に値するものであれば、日本政府、アメリカ政府はもちろんのこと、社会主義諸国、アラブ・イスラム世界からも距離を置いたところから明解な論理的視点を保ちながら問題提起をするべきであろう。もちろん、対象から「距離を置く」作業は対象そのものを充分に把握していないとできることではない。それを正体不明の井戸端会議ごときものから拾ってきた情報を、またはでっち上げに等しいような情報まで検証もせず大真面目な顔をしてそのまま載せているようではその存在意義は皆無、むしろ罪悪である。走狗はいずれ煮られる身ではあるが、尻尾を振りながら自ら煮られる日を待っているに等しい状況をいつまでも続けるしかないというのは、ただ情けないの一言に尽きる。

 

                                                2011 2/26 


123.最近の民衆蜂起に思うこと


 国民のことをまったく顧みない我が事のみの独裁的国家に対して民衆蜂起が起こるのであれば、分かりやすく至極当然のことと思われるが、事ほど左様に簡単には行かないのが世の常である。チュニジア、エジプトまではその「動き」が明確に見えるが、リビア、アルジェリアの民衆蜂起となると、いくつかの疑問点が出てくる。まずリビアであるが、リビアは2008年度国民一人当たりのGDPはアフリカ最上位で16114ドルと比較的裕福なのである。因みに、チュニジア3900ドル、エジプト2160ドル、アルジェリア4588ドルで比較して見れば一目瞭然であろう。さらに、現在リビアの反体制運動の旗は以前の王政時代の旗が使われている。これは先祖返りにも成りかねない由々しき側面も同時に持っているということを意味する。リビアもアルジェリアとも天然資源が豊富でリビアの石油埋蔵量はアフリカ最大である。両国ともソ連、中国との関係が強いのでアメリカにとっては隙あらば介入して現政権を倒して親米路線を確立したいのである。当然CIAは暗躍しているであろうし、それによって反体制運動が動かされていると見る方が現実的である。カダフィの「過剰反応」もそうしたアメリカの動きを察知しての行動である。カダフィはこの民衆蜂起を自然発生的な「一般民衆」の蜂起とは見ていないはずである。王党派などにアメリカの工作員が入り込み扇動していると捉えざるを得ない状況であろうと思われる。これはカダフィにとって欧米諸国、特にアメリカとの歴史的因縁を持つ「対決」の再開である。この「対決」をカダフィはアメリカとの「最終戦」と捉えていることであろう。何があっても不思議ではない。もはや流血を避けらることは不可能であろう。もし、フセイン政権打倒を画策したCIAがカダフィとフセインを同一視した戦略を立てているとするなら、それは大きな誤算を生じるのではないか。しかし、すでに戦いの火蓋は切って落とされてしまった。もはや小手先の「技」では収拾はできまい。

 エジプトでは、リビア情勢について「カダフィ追放がリビアに光をもたらす」と訴えたそうであるが、その光とはどのような光なのか、王党派によるアメリカの傀儡政権樹立のことを指して言っているのか、それではまた元の木阿弥であろう。どちらにしてもまた多難な道を歩まざるを得ないことだけは確かである。 

 

                                             2011 2/25

 それにしてもカダフィ政権は長すぎた。それが実質的に独裁政権であれば、如何なる者であろうといつしか危険極まりないものとなる。そして、御多分に洩れず血族の骨肉の争い、後はお決まりのコースで衰退の一途である。カダフィの息子達は「国営石油会社から大金をせしめていたが、石油輸出は停止になった。資金源を失った兄弟間争いで政権瓦解ーというのが最良のシナリオかもしれない。」(春名幹夫).それに近いところで収まるようならそれが現状の必然的帰結であろう。しかし、この国の反対勢力は確認できるだけで五つある。表向きは「兄弟争い」であったにしても実は内情はリビア国民連盟と王党派もしくはイスラム系過激テロ組織の争いであたり、そして欧米諸国が自国のためにテコ入れするのがリビア救国国民戦線なのか、リビア民主同盟なのか、王党派なのかによってもさらに違った様相を呈することにもなろう。当然、欧米諸国の出方によってはソ連、中国も「動き出す」ことになる。

 英仏首脳はカダフィの退陣とEUがリビアの「国民評議会」を「唯一の交渉相手」とするよう求めたと言う。「国民評議会」とはリビア国内にある反対勢力の民主主義政権確立を目指す「リビア国民連盟」、「リビア民主運動」のどちらかを言っているのか、合体したものなのか、または別の新たな組織を言っているのかその内容は不明である。この国もカダフィ以後は、また欧米の、中ソの思惑で激しく揺れ動くのであろう。 

 実のところ、カダフィはもうずっと以前にすでに終わっているのである。そして、将来を見据えた体制作りをして去るべき時に去っていれば、国民にとってもよかったであろうと思われるが、権力とは恐ろしいものである。すでに時遅し、このような事態には成るべくしてなったとしか言いようがない。

                                                     3/10加筆

 


122.封建的な圭角とは


 封建的な圭角はどんな仕事に於いても邪魔になるのである,と大佛次郎は「敗戦日記」に書いている。これは岸田国士が地方文学について書いたことについて、大佛次郎がその見解を述べたものではあるが、敷衍すれば「封建的な圭角」とは、たまたま運よく齢を重ねて手に入れた小さな世界の経験則を金科玉条のごとく思い込み傲慢に振舞う者達のことでもあり、また因循姑息な者達のことでもあろう。彼らの言動の多くは内容的には希薄であるにも拘らず小振りにまとまっているだけに強圧的でもある。これはすべての世界に共通することでもあるが、精神的な歩みを止めて「思い込みの」世界にだけ生きる圭角とは自ずと邪魔な存在となってしまうということである。それは、彼らが意識すとしないに拘わらずこれから育つものの芽を摘んでしまうか、押さえつける方向にしか働かないのである。自然界では自ら精一杯生き、そして時がくれば次世代の者達にすべてを託すことが極自然に行われていることであるが、この「人間界」ではどうもそうは行かないようである。宇宙における「最低の知的生命体」、すなわち我々が今出来ることは何かをまず考えなくてはなるまい。

 それから・・・、そう・・

 最近、アラブ諸国の政変を興味深く解読しながら、地図を見ているうちに改めて国境について考えてしまった。地球上に無数に勝手に描かれた線引き、それらをつくづくと見ていると「ここは本来わが国の領土」と言いえる根拠とは一体何なのか、それはいつまで遡ってどこを基準に定めての見解なのか、たとえその基準点が定められたとしても歴史的にはかなり怪しいものが残る。今更、美辞麗句で粉飾するのはやめた方がよかろう。これは煎じ詰めれば結局のところ「人間」の損得勘定がなせる「技」としか言いようがないものである。この「技」の如何によっては「人間」はいつでも「最低の知的生命体」の名に最もふさわしいものになってしまうであろう。そして、もしこの「技」の使用方法を間違えれば「人類の英知」などとは画餅ほどの意味さえもなくなってしまうのである。

 

※(アラブ諸国の政変については、「新しい形の大規模な民衆蜂起によって既存の体制を倒すことが出来るという認識が、チュニジア、エジプトの実例によって定着した。」(池内恵 東京大学)というのは確かであろう。それは当然、先進諸国の社会運動、政治運動などにも様々な形で影響を与えると同時に世界は新たな局面を迎えることになる。)

 

 「人間」の損得勘定に関しては、ある意味では、「頭のよい者」と見做され周囲から認められていた者が、実は明解な智慧を持つ「賢い者」を意味するのではなく、目先の利にさとい現実主義者でしかなかったこと、換言すれば単に理念、理想のない現実主義者に過ぎなかったということに対して我々が今まで何ら問題意識も持ち得ず、少なくともそれをよしとしてきた世界そのものがもはや限界を通り越して自己矛盾に耐え切れず瓦解し始めていると見ることもできる。もう少し具体的に今の日本の状況に合わせて言うと、目先の利にさとい現実主義者とは「究極の現実主義者」すなわち自己目的のためには「何でもあり」の「人間」達のことである。彼らにとっては理念のある現実主義者の存在はどうにも邪魔なのである。官僚、大手メディア、既得権益側がバックアップするのも「理念なき現実主義者」、すなわち実質的に傀儡として否応なく反国民的ならざるを得ない者達だけなのである。それを直接的にも、間接的にも容認してしまうことがどういう意味を持つのかを考るべきなのである。

 

                                                2011 2/20

 


121.もはやネット上で匿名は存在せず


 1週間程前、「新宿で人を殺す」などと掲示板に書き込んだ中学生が翌日には逮捕されていた。実に早い。本人は匿名で分からないと思ったのだろうが、すでに捜査当局にキャッチされていた。掲示板などで無責任に言いたい放題、憂さ晴らしをしていると当局には筒抜けということでもある。もうすでにかなりの者がリストアップされているのであろうと思われる。愚かな犯罪には適切な対応であってもこれもまた度を越すと問題になってくる。

 私は匿名でものを言うこと自体に不信感を持っていると同時に,そのことによって真実を伝え得るとは到底思えないので、匿名で書かれたブログ、ツイッターなどは「参考」にする程度で信用はしていない。その多くは2,3行の文章でその人間の精神構造が透けて見えてしまうものばかりであるが、書いている者にはそのことが分かっていなのであろう、だから得意になって書けるのである。自分の「人相書き」をわざわざ差し出しているようなものである。必要があってさらにその人間にポイントを絞れば経歴、住所まで特定できるのが現状である。言えば言うほど捜査当局に証拠を提出しているようなものである。どちらにしても、いい大人であるならもっと責任ある言動をすべきであろう。とは言ってもこの国のヘッドまでがあれではそれ以上は言はん方なしである。

 

                                               2011  2/19


120. Politique de Japon


 Politique de Japon est démocratie   mais seulement de nom. La politique réel est l’autocratie du bureaucrate. Le premier ministre n’est qu’un pantin mû par la bureaucratie.  La  plupart  des peuples   se laissent attraper par les façons adroites.

"Problème Ozawa"   aprés tout  c’était  la bataille  entre la bureaucratie et un homme politique.   Et elle a éliminé l’homme politique qui le sacrifie à démocratie. C’est tout.

Un autre jour  l’autocratie de bureaucrate se brisera. Sans cela  il n’y a pas d’avenir  au moins nous ne pouvons pas avancer.

 

                                                                                                                        2011 2/16

 


119.雪だるまが消えた街


 寒い、寒いと言いながら、迷惑そうに雪掻きをする。雪は無造作に脇に寄せられている。それは極普通の冬の風情でもあろう。しかし、そこにはいつもどこかに佇んでいた雪だるまの姿がなかった。雪国の、家が潰されかねない大雪であれば雪だるま位置も存在もそれほど気にはならないが、積雪5-10センチの雪である。積もるそばから雪は払い落とされ、排除され、、街の其処彼処に掻き集められた雪はごみのように、汚れた包帯のように打ち捨てられている。雪だるまの消えた街は、「遊び心」のなくなった街、子供のいない街、「余裕」のなくなった街とも言える。街には路面を削る雪掻きの音だけが響き渡り、どこにも雪だるまの姿はない。

 私は、今年ばかりの冬往かんとす、久しぶりに「キュ、キュ」と靴の底で鳴る雪の感触を楽しんでいた。

 

                                           2011  2/ 雪の日に


118.市川房枝を語る騙り


 あらゆるジャンルでよくあるパターンと言ってしまえばそれまでである。

彼は(名前を出す気にもならない)は権力を握ったから変貌したのではない。そうかと言って、もともとそのような要素が実体的にあったと言うつもりもない。意識されてていたかいないかは別としてすべての「関わり方」そのもの中にすでに立ち現れていたものがさらに増幅され、具象的に現在のように明確なものとして現れたに過ぎない。市川房枝という存在を今でも自分の都合のいい見え透いた文脈の中で利用して行こうとするその「幼児性」、それは欺瞞を欺瞞とも思わない、裏切りを裏切りとも思えないように容易く正当化し得る恐るべき「幼児性」である。サイコパスという人格障害を歪められた「幼児性」の発露として捉えると、サイコパスの「普通」では考えられない独特の幼児性を帯びた「情念」が見えてくる。以前にもサイコパスの典型的症例とも言える首相がいたが同根であろう。このような人間を「究極のリアリスト」と称するなら、「究極のリアリスト」とは悪である。

 それは、目的達成のためには人を殺さなければ何でも良しとすることを実質的には奨励しているような現代のある一面を体現しているとも言える現象である。

 また、政治的にはこの一連の動きは、小沢一郎無罪に備えたものとも言える。小沢無罪でもその責任の所在をぼやかし、その胡散臭さを限りなく残すために今では皆無となってしまった「清廉潔白」の政治家、市川房枝の存在が必要なのである。自分を市川と重ね合わせ、それに対する「政治と金」=小沢一郎という分かりやすい単純な図式で検察、大手マスコミと結託しながら「推定有罪」を限りなく「取り仕切る」つもりなのであろう。言っておくが、市川房枝とこの男とは根本的なところで類似点を見出すことは不可能である。むしろ本質的に違うと言った方がよい。

 しかし、この往生際の悪さは前代未聞である。内閣、検察、大手マスコミはもはや恥も外聞もなくなったと見える。これでは恥知らずな日本人が多くなっても仕方あるまい。市川房枝も草葉の陰で泣かずにはいられないのではないか。いやいや今にも飛び出して来そうな形相になっているのが見えるようだ。

 

                                               2011  2/12

 


117.ラ ノゼ


  久しぶりに会った友とつい最近の社会情勢の話になった時、彼女は「ラ ノゼ~」と半ば歌うように言った。それについては私も同感なので具体的な話も野暮なのでそれ以上の話はせず、自ずと他の話題に移って行った。「ラ ノゼ」とはフランス語で「吐き気」のこと、すなわちサルトルの「嘔吐」に引っ掛けて茶化したまでのことではあるが、彼女の軽く流した底には激しい怒りが秘められていることが感じ取られた。彼女もまた一通りの日本人ではなかった。<生きている>「人間」である。

                                                   2011 2/11


116. 問答無用


 これは現政権、民主党執行部に対して持っている多くの者の感情であろう。これだけ裏切られ弄ばれた上に、黙って言いたいことを言わせているとしたらこの国の国民は世界でも例がない国民となってしまうだろう。それはまさに世界の「秘境」である。もし「普通」に反応できる人々がいるとするなら、それら多くの人々の中には怒りを通り越した憎悪が蓄積されているのではないか、そして、それがもはや限界点に近づいているのではないかとさえ思える。このようなエネルギーがどこに向かって収斂して行くのか、また収斂されて行くのか、もし、それが一視点の拡大解釈に過ぎないのなら、また、実際にそのような気配すらないとするなら、これはやはり「普通」ではなく、完全に大手マスメディアに洗脳された阿Q的愚民かマゾ的趣向をもつ「秘境」の民としか言いようがない。まさに悪しき為政者の天国である。今も舞台裏では毎度お馴染みの官僚諸氏が暗躍しているのが透けて見えている。このような官僚の傀儡政権はもはや拒否すべき政権であるにもかかわらず、明解な批判もせずむしろ政権維持の方向でただ煽り立てているのが反国民的な大手の、大手による、大手のための大手マスメディアである。そこにはもはやジャーナリズムなどまったく存在し得ない。そのような彼らの口車に乗ったら、それですべては終わりである。彼らと妥協すべき点はもはやない。国民が言うべきことは、即刻退陣、「解散」、「総選挙」、これだけである。それで困るのは国民ではない。今でも「政治生命をかけてやる」などと、この期に及んでまだ寝言戯言を繰り返しているが、傀儡に政治生命などはない。

 彼らが選んだ大先生の「ころころ一国の首相が変わるのは如何なものか」というもっともらしい戯言を聞いて分かったように頷いていてはもう彼らの手の内である。駄目であるから変えるのである、ただそれだけのことであろう。

 しかし、これだけ騙されて大衆の抗議運動が巻き起こらないことに関しては様々な意見があるようだが、たとえば、この国の国民は自分のことで精一杯、自分のことしか考えていない、エネルギー不足etc,そのようなことは今に始まったことではない。私は、執拗に繰り返され、捏造され、脚色された大手マスメディア報道、すなわち官僚独裁政治に完全にマインドコントロールされている結果だと思っている。よく見れば人々の顔もどこか以前のオウム真理教の信者の表情をほうふつとさせる。血の気は失せ、肝心な何かが抜き取られている感じである。これでは抗議行動どころではない。これは、小さな檻、それは牢獄と言ってもいいようなものの中に何の抵抗もなく自ら入り込んで幻想に囲まれて朽ち果てるしかない者の表情である。そして、さらに悲惨なのは自分は自由に生きていると錯覚していることである。

 そして、多くの国民がこの政権はその内潰れる、だからわざわざ抗議行動を起こすまでもないと思っているとしたら、しかし、そう思わせるのが政治戦略だとしたらどうするのか。これは巧妙な抗議行動封殺の戦略でもあり得る。どの政権もその内終わるのである、それは確かであるがその間に彼らはやれるだけのことをやってしまうのである。こうしている間にも裏面では様々なことが着々と進められている。

※2/13 イタリアではイタリア女性が首相の辞任を求めて100万人デモを展開。この女性グループは2月初旬に創設された「もし今でなかたら、いつ?」というグループである。何ともさり気なく粋な名称である。会長は映画監督のクリスティーナ・コメンチーニ。(2/14 加筆)

 現在、問題になっている検察審査会にしても、その権限が「勧告的議決」から「強制起訴」の権限を持つようになったのは2004年小泉政権の時からである。何のために抽選で選ばれた無責任なメンバーに「勧告的議決」から「強制起訴」などと言うその責任を背負い切れない強い権限を持たせたのか。これについては違憲であるとする論文が最近発表されている。このようにして彼らの「思惑」の中で次から次へといつの間にかなし崩し的に物事が決められているのである。それは反国民的なことであることに間違いはあるまい。

 

                                                      2011  2/10


115.官房機密費の行方と検察審査会の徹底検証


 今の大手マスメディア、検察の動きを見ていると、やはり官房機密費や検察審査会の徹底的検証も必要になってくると思われる。これでは民主国家とは名ばかりの巧妙な官僚独裁国家である。「小沢問題」で中道正義は我にありとばかりに煽る大手マスメディアの言動はもはや度を越して狂気さえ帯びている。そこから見えてくるものは、既得権益、検察の「黒い巨塔」にメスを入れようとしたことから巻き起こった凄まじいまでの反撃である。

 そのようなことから、口封じと扇動活動費として大手マスメディア関係者にどの位の官房機密費が使われたのか、実際に誰に渡ったのかという尽きせぬ疑問も湧き上がってくる。また検察審査会の怪しげな実態とは(これについては以前にも書いたので詳細は省略するが),たとえば、「無作為に選ばれた」と言う審査員の平均30.9歳以下になる確率は0.12%,これは奇跡に近い数値であるとすでに数学者が指摘しているところでもある。このようなことが不明のまま「独裁的権力」を握った者がどのようにでも国家を動かすなどとは民主国家を装った独裁国家としか言いようがあるまい。これは「小沢問題」で丸見えになった、多くの者が感じた具体的「恐怖」であろう。そして、このまま進めばこれは単なる「小沢問題」では済まされない危険な状態になってくることは容易に想像できることである。

 大手マスメディアの欺瞞的報道内容はすでに多くの者によって見透かされているにも拘らず、いまだに恥じも外聞もなく、むしろ憐れみさえ感じさせるほど一律である。もはや政府広報以外は解体の道しか残されていないのであろう。検察も正義があるというのならスネィキーなまねはせず世界にその実態を示したらどうか。その時に現れるものがアメリカに隷属する「独裁者」の姿でないことを願っている。とにかく検察に対する徹底的な真相究明は不可欠であり、急務である。

 今も尚、独立した民主主義国家としての日本国の姿はまったく見えない。

 今後も決して忘れてはならないことは、忘却が「彼ら」を増長させ、巨大化させてしまうということである。1市民として今すぐできることはあるはず。彼らの言動を記すべし。ただそれだけでその欺瞞性は炙り出されて来る。そして、そんなことをして何になるという人々が多ければ多いほど日本の滅亡の時は早くなる。ただ、それだけのことかも知れない。

                                                   

                                                  2011  2/4

 


114. 鳥越俊太郎 降板に見える嘘


 以前にも、報道には製作費をあまり使えないのでという報道内容の質の劣化に対する言い訳のような「弁明」があったが、それは嘘であろう。製作費削減という名の下に局の方針に合わないコメンテイターの排除がその主な眼目である。事情通、マスコミ関係者と称する者達の意見の中には、「70歳という年齢を考えれば仕方ない面もある。」とか、「そもそもメイン司会者よりギャラが高いコメンテイターというのも変な話しなんです。」などと分かったような分からないようなもっともらしい意見もあるようだが、どれも解せない。鳥越は「スーパーモーニング」では唯一「良識」を持った、ものごとを歪曲せず「普通」に問題を投げかけることのできるコメンテイターでもあり得た存在である。安く、局の方針(=政界、財界)に従順に従う社員を司会兼コメンテイターとして使えば局にとってはそれは言うことはないであろうが、そこでなされる報道などは、不偏不党、報道の自由などとは絵空事の偏向報道、誘導報道、広報機関としての扇動報道にしかなり得ないというのが実情である。実際、そうでないと明確に言い切れる者はいないはずである。大手マスメディアの報道とは大手による、大手のためのマスメディア報道であって、いくら庶民的なポーズをしても、理路整然と「お為ごかし」を言ってみても、決して「国民」、「市民」、「庶民」のためのマスメディア報道にはなり得ないと言うことを再度確認する必要があろう。

 

                                                 2011  1/29


113.「 白い巨塔」を降りた医師たち


 近藤誠医師の著書に出会ったのは、母を癌で亡くした直後であるからもう20年近くも前になる。その内容は様々な点で納得のできるものであったが、当時は乳癌などもハルステッド手術(癌細胞の周辺を広範囲にすべて切り取る手術)が主流で、近藤医師の主張は今までの方向をくつがえすものであった。彼は患者たちの悲痛な姿を見るに見かねてこの本を書く決意をしたと言っていたが、それは医師としての出世の道を閉ざすことを意味していた。当時ですら、ハルステッド手術は欧米ではもはや時代遅れと言われていたが日本の医学界全体の趨勢がハルステッド手術であった。これに異を唱える者は「白い巨塔」から突き落とされた時代でもある。しかし、彼は患者を救う道を選んだ。彼の本が出た時、私はどうしてもっと早くこのような本を出してくれなかったのかと彼を恨んだ。母の死の前に近藤医師の著書を読んでいれば具体的に対処プランが立てられたからである。母は気丈な人で、術後も担当医師に言われるままに抗がん剤治療その他の治療を続け、かなり苦しそうであったがよく耐えていた。そして、63歳で亡くなった。

 時折、母のことを想うと、登場してくるのは担当医師ではなく、直接にはまったく関係のない近藤医師なのである。私の無念な気持ちと、それ以前にはどうしても登場できなかった近藤医師の葛藤がどこかで共鳴し合っているのかもしれないと思った。

 最近、某日刊紙に近藤医師の写真が載っていた。本文を読むと20年前と内容も基本姿勢もまったくブレていない、揺るぎない姿勢で研究を重ねてこられたことが見える、嬉しくもあり、懐かしくもあった。

 どのような道においても同様であろう。捨て身にならなければ、何がもっとも重要なことなのかが見えてこないのである。

                                               2011 1/26

                                                



112. 相も変らぬ大手マスメディアの扇動


 言ってみれば、「由(よ)らしむべし知らしむべからず」の為政者の広報機関と成り果てたと言うべきであろうが、今やそれは現在の「弥縫(びほう)内閣」を補完するかのように、と言うよりこれ幸いとばかりに肝心なことは一切伝達せず、一方向に「煽る」ことばかりをしているというのが実情である。実際、1社たりともそのメリット、デメリットについて適切に語っているところがない。たとえば、「TPP」(環太平洋連携協定)の問題がそうである。ここまで来てしまっては、新聞、テレビなどはもはや必要ないと言わざるを得ない。心身に百害あって一利なし、知らなければ知らないで済んでしまう内容である。特に、最近では注意深く検証すれば情報収集には事欠かない。むしろ、大手マスメディアの記事、情報内容こそ細心の注意が必要なのでる。すべてを疑ってかかるべきであろう。もはや彼らは悪しき為政者以上に為政者気取りなのである。彼らの最大の問題は、「言論の自由」を盾に「扇動」しておいて肝心なところでは自らの言論に責任を取らないということである。馬鹿を見るのはその扇動に「乗せられた」者達だけである。すなわち国民なのである。今、ひとりひとりが自らで考え、感じるべき時である。大手マスメディアの新聞社、テレビの解説者に頼って、いいように丸め込まれていては明日はない。

 現在では、見ざる、聞かざる、買わざる、されど言い得るのである。各自がしっかり現状を見据え、感じさえしていれば「面白い」時代でもある。

                                                    2011 1/25

                       


111. 小沢一郎は利用されただけなのか


 小沢一郎の財力と政治的行動力をうまく利用し、目的達成後は予定通りアメリカの政治戦略機構と検察がさらに強固に手を組み、その手先として容易に動く為政者を中枢に置き、マスメディアを巻き込みつつ、政治主導を最期まで押し通す既得権益側には極めて有害な小沢に対して訳の分からぬ微罪をあたかも巨悪のごとくでっち上げ排除したというのが、今までのデータ検証から割り出した私の簡潔な見解である。

 したがって、小沢は五体がばらばらになっても戻らねばならないのである。それが政治家である。今では市民の名に値する多くの者がそれを望んでいることだろう。

 

                                                     2011   1/23


110.「空気を読む」者達に仕掛けられた罠


 大手マスメディアがなぜ経費を節約した世論調査、支持率などを必要以上に頻繁に提示するのか、それは「空気を読む」ことに長けた国民の性向を熟知していて、それを逆手に取って彼らの「思惑」通りに誘導しようとするひとつの現れでもあり、同時に彼らの「効果測定」の意味もあろう。「5ポイントアップ」などあたかも精度の高い数値のように見せているが、そもそもこのように割り出された数値などは彼らの意のままにできる数値なのである。自社の新聞社の調査であれば尚更である。実際に、最近の内閣支持率においても、新聞社の自社調査で29%(毎日  )34%(読売 )という数値が出ているが、もし毎日新聞社の5ポイントアップの29%が正しければ、読売新聞社の34%はさらに5ポイントも「下駄をはかせている」ことになる。このようなことが極当たり前に行われているのが現状である。おおよそこの程度ということで見ておけばよい数値でしかないものを、それを根拠に毎回妙に細かな分析を始めるのが気になるところであるが、どちらにしても、これで特に読売新聞社関連がこの内閣をバックアップしていることが見えてくる。、私にしてみれば、この内閣の支持率が29%ー34%もあるということ自体がとても信じ難いことである。万が一これが実情であれば為政者、官僚、その他の関係機関にとってまだまだ続く「天国」であろう。それは国民にとっては「地獄」ということである。

 このような実情を鑑みて、抗議の手段として非買運動があるように私はテレビ、ラジオの非視聴をすすめる。現実的にテレビ、ラジオをまったく排除することは不可能であろうから、観たくない、聞きたくない部分があればすぐに消すことである。垂れ流しが一番危険である。特に、ニュースをバライティー化して見せるニュースショーは「空気を読む」者達に仕掛けられた巧妙な罠が至るところに敷設されている危険性が高い。彼らは総じて口がうまい、それが彼らの仕事であると思っていないと、観ている者はいつの間にか朝三暮四の猿にされてしまうということである。テレビをすぐに切る。このことだけで電気代も節約できる、読書の時間は増える、考える時間は増える、言うことはないはずである。

 因みに、私は祖父母の代から東京都に住んでいるが、父母からも、私自身も世論調査、視聴率、支持率など関して聞かれたことは一度もない。 その間少なくとも半世紀以上である。                                              

                                                     

 今でも時折「報道の自由」などということを耳にするが、毎日、朝日、読売各紙の報道スタンス、内容はほぼ同一、NHK,民放などもその報道内容は横並び一列(最近、一部で変化は見られるが),本当に「報道の自由」が実践されているのであれば、このような現れ方はしないだろうし、あり得ないことである。これは言論統制下の報道の自由ともいうべき「一律さ」である。新聞社、局の単なる社員なら別だが、ジャーナリストであろうとするならこんな堕落したところにはいつまでもいられまい。「報道の自由」などと称していつまでも当たり障りのない「報道のコーディネイト」などしている間に、自分の足で探り、自分の頭で問題点を論理的に追求すべきである。そういう記事はやはり「面白い」のである。それに反して低レベルで俗悪なのがテレビ局の社員であるコメンテター(解説者)である。それに呼応して局の女性アナウンサーまでその気になっているのには呆れ返る段階を通り越している。具体的には、TBS「朝ズバッ」、テレビ朝日の三反園(みたぞの)がその典型的例であろう。どこの広報局といいたくなるくらいである。その内にまた内閣官房機密費の流れもチュックしなくてはならないのではないかと思われる。節約の折、金を出してくれるところがあり、安く使える者がいれば誰でもいいのであろう。三反園などは数年前から問題視されている人物であるが、テレビ朝日は社員である三反園をそのまま使い続けているといのがその実情である。

 まあ、古き残滓が剥がれ落ちるのを待つしか為す術はないのかもしれないが、それにしても人間の営為とは常に「人類の英知」などとはかけ離れたところにある、と言うより「人類の英知」からかけ離れたところでしか成り立ち得ないかのような様相を呈している。すなわち、「人類の英知」などとは実際には「無」に等しく、あり得ない「もの」の美称なのである。空語と言ってもよいだろう。空語に取り囲まれて、吸い寄せられ死に絶える者達・・・それがわれわれである。

                                                     2011   1/20加筆

                                                                                                                                     2011   1/18

 


 

 

 

 

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