「ある日、その時」 (3) 2010年4月ー

 


77.存在しない「街の声」 


 どれもが例外なくマスメディアにコントロールされた「声」である。それでも本人は「自分」の意見のつもりでいるから何とも恐ろしい現象である。その意見たるやTBS系、日テレ系、フジ系、朝日系、読売系、毎日系などの大同小異の見解の受け売りである。これら日本のマスメディアの報道内容の同一性ということに於いては軍事政権下の言論統制されたマスメディアとほぼ同じ様相を呈している。その間にある僅かな差異は「巧妙さ」だけである。これは異常であろう。この異常さに気付かない健全な異常さというものはカタストロフの「下準備」がすでにできたということの証左なのかもしれない。

 

                                              2010 11/21


76.「赤い」官房長官?どこが?


 ピンボケの一言で片が付く。「赤い」官房長官などと言う比喩で何か気の利いたことを言っているつもりならとんでもなく滑稽で、時代錯誤も甚だしい。戦中、終戦直後ならともかく、もはや「赤い」などという形容詞は指し示す実体を失っている。少なくとも、現在に至るまで共産主義は理論として存在していても実現不可能なものであることを証明したに過ぎない。現実にあるのは共産主義とは名ばかりの単なる独裁体制国家というものがほとんどで、たとえそうでないにしてもその変質を余儀なくされているのが実情である。今の世界の現実的動向からすればそのような訳の分からぬ「赤色イメージ」に拘っている限り明晰な判断ができなくなり、結果的に足を掬われることになる。敢えて言えば、仙谷何某などは限りなく黒に近いこげ茶であろう。色彩感覚すら失った「ジャーナリスト」、政治「家」などは受像できぬアンテナを持ち歩いているようなもので、もはや無意味と言うより百害あって一利なし、むしろ危険なデマゴーグともなり得る可能性がある。君子危うきに近寄らず、巻き込まれたら最期、くれぐれも怠りなきよう見定めるべしというところであろうか。

 そして今や,政治不在でシヴィリアンコントロールが崩れ、大戦前夜のような軍部独裁を恐れる声もあるが、大戦前夜とは状況がまったく異質である。官僚機構のある部分が巨大化する恐れはあるが、それがたとえ独走したとしても現在の世界情勢の中では待ってましたとばかりに寄ってたかって一挙に潰される可能性の方が高い。それが客観的視点というものである。もし「巨大化したもの」に独走を許せばそれが日本の滅亡の時であろう。日本が「分割」されぬよう政治レベルでの手腕を発揮すべき時に何をやっているのかという思い頻りである。

 

                                              2010 11/20


 75.(株)てんびん社の電子書籍


 

 11月17日、(株)てんびん社の申請がApple本社の審査も通過し、登録され、その最初の電子書籍として再登場するのが「日本古典演劇遺産の問題」(辻部政太郎)である。そして、その次のフェーズがてんびん社とも関係が深い京都学派の流れを汲む「天才美学者」・中井正一の登場である。近年、再びそのメディア論が注目され再評価の動きも高まっていると言われている。

中井正一の著作「生きている空間」、「アフォリズム」、「論理とその実践」などを予定している。

尚、(株)てんびん社のHPは現在再調整製作中。11/26製作終了 http://www.tenbinsha.com/

 

                                            2010  11/18

 


74.「コツ」壺ばかりの闇


 どこの本屋に行ってもあるのが、「How to」モノ、と「上達のコツ」シリーズである。人生の何から何までほんとうに「やり方」、「コツ」で何とかできるのではないかと思わせる勢いである。「How to eat」、「How to live」、「How to sex」、やはり人間には根本的に「本能」などというものは欠如しているのであろうとつくづく思う。さらに例を挙げれば、「話し方」、「見方」、「歩き方」、「走り方」、「書き方」、「読み方」、「踊り方」、「考え方」、等などの「コツ」シリーズ。このように簡便に「見て」、「聞いて」、「話す」コツを伝授されたからと言ってどれだけのものが身に付くというのであろうか。たとえ、それを巧みに身に付けたとしても単に著者の分身を演じているだけであろう。そして、その著者がつかんでいると思っているやり方、コツなどというものも果たして他者に合致し、他者を生かし得るのかどうかも実は不明で、さらにそれを文字で伝えるとなればその著者の「文才」、言語的「閃き」などによっても伝わり方が違ってくるはずである。結局のところ、何をするにも急がば回れということを思い知らされのが落ちで、事ほど左様に何事も簡単には行かないのが世の常であろう。

 いくら「コツ」を拾い歩いたとしても生きた我と我が身を生かし、成り立たせることは到底できない。そんなものは「コツ」壺に封印して、すべてに於いて全身全霊、体当たりで行くくらいの気迫で生きるより仕方あるまい。小賢しい生き方では、せいぜい利き腕の手の内に入るものしか手に入れることはできない。

                                                2010 11/11


73. 「内閣官房参与に聞く」?一体何を?


 

 こんな見出しは「週刊文春」、「文芸春秋」ですらつけまい。これは演劇の季刊会報の特集の見出しである。大方の者が現在の内閣には呆れ返っているのが実情であるにも関わらずこの見出しである。(今までの内閣がよかったなどと言うつもりは微塵もない。)ただ、「演劇関係者」の意識も「ここまで」来てしまったのかというのが正直な感じで、演劇の基軸も随分と変質してしまったものだと言う思いが一入である。一方では社会的に認知させるための組織固めが優先して、会員を増やすことに躍起になっているのが大方の組織、協会と言われているものの実情である。窮すれば通じるならよいが、貧すれば鈍するであっては困る。

 「内閣官房参与」などは学者であれば、私は「御用学者」ですと言っているようなものである。行政の中枢と末端との取り持ち役、言ってみれば「密偵」のようなものである。権力に近づいてミイラ取りがミイラになる例は枚挙に暇がない。それだけ危険が伴う。このようなことは何も演劇に限ったことでもなく、あらゆるところで起こり得る。たとえば、仏教においても、天海などと言う僧侶は徳川幕府の権力を背景に大衆に仏教を根付かせるがごとき体裁を取りつつ、実は「寺請制度」などをはじめ様々な形で民衆を監視させる行政の末端として機能させる(権力)構造を整備させ、実質的に日本における仏教を形骸化させた張本人でもある。この点に関してはまた切りがなくなるのでここまでとする。

 要は、「内閣官房参与」などという「役職」で多くの者達(この場合は演劇関係者達)に意義あるコンテンツを発信し得ることなどはないということである。あったとしても一部関係者のみであろう。なぜなら、この「役職」(役割)自体が持つ方向性が違うからである。

 批判ばかりしていても「対案」を出さなくてはいけないというようなことをこの「内閣官房参与」は言っていたが、もうすでにどこかで聞いたような慣用表現になって来ている。批判ばかりしていても確かに埒は明かぬが、それでは批判するものはすべて対案を持っていなくてはならないということになるが、それはおかしな話で、対案提示を求めることは自己の無能、さらなる改善の余地に対する不誠実な姿勢を露呈すると同時に相手の意見封殺にもなりかねないことをこそ戒めるべきである。「国民」に対案を求めてどうするのか?ということにもなる。「国民」と称される人々は「批判」だけで充分なのである。(ただし、単なるマスメディアの受け売りではなく)むしろ、その彼らが自主規制を始めた時の方が危険であろう。

 

 <追記> 最近、床屋に行って蜷川幸雄(演出家)が文化勲章を受章したことを知った。半ば照れたような自嘲気味の言葉と写真が載っていた。彼は反新劇路線でラディカルな舞台作りをしてきた演出家でもある。この時、私の脳裏には文学座の杉村春子が毅然として文化勲章を辞退した姿が蘇っていた。民間の賞はお受けしますが、「お上」からの賞、文化勲章などは自らの姿勢に反すると言う理由からの辞退であった。その時、私は彼女の精神的「核」とも言うべきものの激しさを感じ取ったのを覚えている。そして、床屋の椅子の中で、やはり蜷川などは質的にも「軽る」過ぎるという思いで彼のいくつかの舞台を反すうしていた。                                                     

                                                       2010  11/9


72.コピペ「作家」たち


  「コピペ」とはコピーアンドペースト、他人の文章などをそのままいただいて自分が作り上げたごとくに貼り付ける作業全体を指して言うことである。

 かつて、立松和平が他の作家の文章をそのまま載せて問題になったことがあるが、(この当時はPCもいま程普及しておらず「コピペ」などというコンセプトもなかった。)今やそれどころではない。簡単に他人の文章をコピーして貼り付け全編ほとんど貼り付けたものを自分の作品として発表することが日常茶飯事化しているようだ。しかし、悪いことはできないものでこのコピペを発見するソフトがもうすでにできているのである。(これについては以前にも書いたことである。)コピペは遅かれ早かれ発覚する。

 出版業界も斜陽業界になるつつある上に、この不景気である。なんとか新人流行作家を出して復興を図りたいのであろうが、邪道は邪道である。中にはどちらが作家か分からぬ編集作業もある。もっとも、このような邪道は今に始まったことではないが,どちらにしても否定されるべきものであろう。いつの時代も真贋はその内分かる、発覚する。今後コピペ発見ソフトが急速に発展することは必定で、それによってその書き手が誰と誰の影響が強く、どこまでそれを浸透させているか単なるコピーかどうかさえ容易にかつ的確に絞り込めるようになるだろう。

 因みに、タレント本などの類の本の気の利いた文章、表現などはすべてとは言わないが大方は本人によるかまたはゴーストライター的編集者によるコピペ若しくはそれに近いものが多い。実に、虚構の中の虚飾の世界である。

                                                      2010 11/6

 


71. フランスからの便り


 久ぶりにフランスから便りが来た。

私の企画にフランスの作家も喜んでいるという。

 それから、パリ大学の名誉教授である私の知人が自宅のサロンで知人、友人たちの希望でレクチャーの会を定期的に始めたということである。第1回目は、ジュリアン・グラック、アヌイ、クロード・シモンが挙がっているという。何とも羨ましい次第である。社会的には大規模なストライキが起こる社会情勢の中でのこの余裕である。ここで重要なのは彼らがその情勢から目を逸らしていないということ。そして、これが特別の人々の集まりではないということである。これだけのことでも、もはや日本と比較する気にもならない。比較すればその精神構造の格差に眩暈を起こすからである。これはある意味では夏目漱石以来西欧の文化に真摯に関わった多くの者が否応なく感じざるを得なかった格差でもあろう。

                                                   

                                                2010 11/1      


 70. 電子書籍の限界性


 電子書籍は確かに便利な面もあるが、人類の眼球が今のままであり続ける限りは紙面上の活字の方が自然で、優しいことは確かであろう。個人的体験からも液晶パネルから発せられる文字は過度に眼球に負担をかけ、何度も読み返すのにはやはり不適当であると思われる。ここ数年、パソコンの普及に伴い、目薬を差している人間が多くなったこともその証左であろう。人類もその内、漫画のキャラクターや宇宙人のように眼球が大きくなっていくのではないだろうか。その時には電子書籍のようなものが趨勢となり今ある書籍などは博物館か古文書館などでしか見られなくなってしまっているのだろう。しかし、液晶パネルにような発光パネルに適応した将来の人類の眼球とはどのような大きさ、形となりうるのか、いつか眼科医に聞いてみたいと思っている。

 ここで言う「電子書籍の限界性」は電子書籍そのものの存在意義を否定するものではないし、またそれは否定するしないに関わらずくあり続けるものであろう。敢えて言えば、現段階での技術的な改良の余地のある問題を含めた「限界性」という程の意味である。

 

※「流されゆく日々」(「日刊ゲンダイ」連載10・21)「電子書籍に何を望むか(3)」と題した五木寛之氏の考え方に対しては共感できるし、同感である。いますぐにというのは難しいかもしれぬが今後はそのようになっていくのだろうと思っている。

<以下「電子書籍に何を望むか(3)」より抜粋>

 「私は新しい技術や様式に対して、いささかも偏見を持っていない ー  つもりである。」、「国会図書館が丸ごと電子化されて、それが自由に読めるようにでもなれば、どんなに面白いだろう。」、「私の個人的な希望をいえば、絶版になっている今後、復刊される当てのない作品は、無料で公開してもいいと思っている。・・・中略・・・こういう作品は、著作権などとケチなことをいわずに、無料で電子書籍化して、青空文庫のように自由に読んでもらえばいいのだ。・・・」等々。 

                                                  

                                                        2010 10/19

                                                          10/20加筆


69. 最近の弁護士上がりの政治「家」たち


 今のところ共通しているのが、法的逃げ道は心得ているが根本的理念の希薄さ、大局的見通しのなさからくる目先の小手先勝負ばかりが目につく。やはり微動だにしない根本理念を持った人間の側近として初めて生きる者たちなのだろう。秘書、側近などとしては限りなく能力を発揮する者でも政治の表舞台ではその能力が開花しない者たちはいくらでもいる。そのような政治的センスを持ち合わせていない者達がその気になってものを言うものだから余計にこんがらかってしまうということもよくある。そうかと言って、自民党の復活などはあり得ないのは同調者以外なら誰の目にも明らかであろう。いつの間にやら現体制そのものが自民党政治の写し絵のようになってしまっていて今や自民党の存在理由などはほとんどないに等しいのである。彼らが現体制にいくら「吠えて」みたところでそれはそのまま自身に返ってくることばかりで滑稽以外の何ものでもない。何か醜悪な「茶番劇」を観ているような気がして気恥かしささえこみ上げてくる。本人達が気付いていないとしたら悲惨だが、分かっていたとしてももはや動きようがないというのが実情であろう。どちらにしても終焉の時である。

 今後の可能性としては、現体制の徹底的な再編成という方向で動き出すか、それこそ「真」の第二政党の結党を目指すしかあるまい。そうでないなら詭弁的逃げ口上で作り上げたその写し絵もまたいつしかぼかし絵となり、写し絵以前に描かれたはずの国民の思いのこもった原版は棚上げされたまま葬り去られる。国民の衰退は国の衰退である。国会で裁判所の真似ごとなどをしている時間はない。今、往来に出て人々をよく観察すればすぐに感じられるはずである。彼らは荒みまったく生気がない。そうかと言って彼らにどうしたらいいかなどと問いを発する愚行は政治家としては失格であろう。それを考えるのが政治家である。国民は問題を提起するだけであって指針を与える者ではあり得ない。

                                          2010  10/18 

                                          


68. 谷亮子は真の大和撫子


 ヤワラちゃん時代(彼女が柔道の選手として登場してきた頃)は本当に気立てのよい元気なそれでいて芯の強い女の子と言う感じがしていたが、最近は妻となり、母となり、さらに自ら思うところに誠実にかかわろうとする彼女が醸し出す凛とした姿勢、言動は今の日本女性が喪失してしまった真の大和撫子を彷彿とさせる。そのような女性に異論を唱える者はまずもって大和撫子ではあり得ない、または堕落せし者と言わざるを得ない者達なのであろう。大和撫子に小賢しさ、右顧左眄は似合わない、思うことを思う通りにやればいい、ただ最後まで一本の筋を通すことだけは忘れずに。今後の歩みを密かに期待している。

                                             (2010 10/16一部加筆) 

                                              2010 10/15

 


67. 「政界の自浄力」に関連して「自浄作用」とは?


 「自浄力」、「自浄作用」などと言う比喩表現がまだそれなりに有効性を持ち、「説得力」を持ていたのはもう過去のことである。「自浄作用」に期待する行為そのものは「他力本願」の範疇であり、ある意味では「神頼み」の領域でもある。「他力本願」を「人任せ」のように誤用し、相手を攻撃する言葉として遣っておきながら雲行きが怪しくなると、今度は本来その言い換えでしかない「自浄作用」にすがる。このようなご都合主義の意味不明のやりとりで腑に落ちる人々とはどのような人たちなのであろうか。「欲望」というフィルターにかければその構造も3Dの立体画像となって鮮明に浮かび上がるのであろうが、その「欲望」自体に振り回されて自浄能力が限界点に達している者達に「自浄作用」などは期待できない。それは人間界に対してと同様に自然界に対しても同様である。今後はさらに個々の者がすべてに於いて意識するしないに関係なく否応なく何らかの決断に迫られるとしか言いようがない。果たしてそのようなすべての「動き」そのものを称して「自浄作用」と言い得るものなのか、もし、そうならまさしく「政界の自浄力」などと言う比喩も「他力本願」そのものの派生比喩とも言えるが、しかし、そこには単に誤用として遣われる意味の「人任せ」「神頼み」以上のものは読み取れない、肝心要の「人間」に於いては「自力」も「他力」も根源的には同一であるという「厳しさ」がないのである。

 

 「ある日、その時」というコンセプトで始めたブログなので、次の「その時」には違う思いがよぎる。

 テレビなどのニュース報道がここまで堕落した元凶はニュースを「ニュースショー」化したことから始まったと思っている。それについての詳細な論述は長くなるのでまた違う機会に。

 

 しかし、国会での質疑応答はすべてが見え透いた茶番劇、何のためにこんな無意味なことをいつまでもやっているのかと思う。この際すべての政党は解体、再構築した方が賢明であろう。自民党の諸君ももう悪あがきはやめた方がいい、みっともない。もし二大政党としての存在価値をマスメディアと共に作り出そうとしてるのならこんな稚拙な茶番劇ではその内ブーイングの嵐である。とは言っても「国民」不在では観ているのも撮影しているカメラマンくらいなのかもしれないが、そう言えば最近なぜか国会中継のカメラマンは市川崑(映画監督)並みのカメラワークが多くなった。そのせいなのか「出演」議員もすべてもっともらしい振舞い、しかし所詮は三文役者、見え透いた小技ばかりが目につく。内容的には何もないに等しいのだからもう少し「芸」をするべきであろう。無内容の割には感情過多、声もよくない、顔も悪い、芸もない。蓮舫がたまたま受けたのは多少「芸」があったということに過ぎない。しかし、彼女もすでにその方向性を見誤っているか、すでに完全に絡め取られてしまっている。なぜそうなるか、それは権力構造の中枢に、またはその周辺に身を置く者が陥り易い陥穽でもある。それを越えるには文字通りの政治生命だけではない、自らの命をかけるくらいの気迫がなければ到底越えられるものではない。小賢しい政治屋さんでばかりでは埒は何時まで経っても開かないのである。これは彼女だけではない、このままでは他の多くの者も身動きがつくまい。だから、解党、再構築が必要なのである。もう一回、いや二回でも三回でも再編成した方が世の為である。しかし、それはあくまで因循姑息な官僚制度維持者と政治屋さんの為の再編成ではないことを肝に銘じて戴きたい。(2010 10/16 一部加筆)

                                                                                                                              

                                                        2010 10/14


  66. 而して後 衆を離れぬ


 深夜、散歩をしていて頭が妙に漢文調になってきたのでそれをそのまま言の葉に乗せてみた。

  狂人 狂気を知らず

  堕落 奈落を知らず

  愚者 無知を知らず

  賢者 その悉くを知るも

  もはや為す術もなしに

  而して後 衆を離れぬ

 しばらく歩いていると、いつかの猫を思い出した。

  月天心 八幡の森 猫とをり

 それが行きつく先と言うより、本来の姿のような気がした。

 

                                                   2010年 10/13

 



Au sujet  du mass média de Japon   c’est  inutil quoi qu’il puisse dire déjà sur cela. Je reste bouche bée. et puis c’est très pitoyable. Pourquoi est-ce qu’il est tombé comme cela?(principalement  le grand mass média)

Le Parlement n’etait qu’uncoup monté d’absence nationale.

 

Tous les jours je n’en reviens pas.

 



 65.髑髏(どくろ)が原


 これは最近の棄老現象を言っている訳ではない。京都の鳥野辺一帯を六波羅(六原)と言うが、それは「髑髏が原」が転訛したものだろうと言われている。その名の通りこの辺りは髑髏が散在していたのである。

 日本の各地もまだあまり知らないのに、世界旅行なんてと言う人が時々いるが、私などは逆に※「今の日本の町は、どこへ行っても人間の欲望が満ちていて」どうも行く気がしなかったが、ただ、京都、奈良だけは別であった。しかし、かつての日本の町はそうではなかったはずで、※「人間が生活するささやかな空間は、死霊が生活する、より広い空間に囲まれていた。」のである。この京都の東にある鳥野辺という辺りは死者を埋葬する場所であった。埋葬とは言っても死者の遺骸をこの地に捨てて、後は鳥たちに任せたのである。「捨てる」などとは聞こえがよくないが、古い日本語では埋葬のことを「ハフル」と言い、「放る」「捨てる」を意味したのである。このようにかつては死の場所と生の場所が常に隣り合わせに「生きて」いた。

 そこでは「生」と「死」の空間がほど良いバランスで共存していたのであろう。「明」と「暗」がどちらかに偏り過ぎるとやはり精神にも支障をきたすものらしい。「闇」を執拗に排除する現代文明は精神を絶えずハレーション状態に置き、ものが直視できない環境を作り上げる。その結果恐怖心ばかりが必要以上に膨れ上がる。その一方では精神的強靭さは損なわれ委縮して行く。「怪奇ブーム」的現象一般なども「ごっこ」的な「闇」の代替物の設定であるが、飽くまで間に合わせの「闇」の代替物で、代替物がもたらすものはやはり代替物でしかありようがない。言ってみればニセモノなのであるが、ニセモノであるが故にそれはかえって危険な面も持っている。

 このようなことを考えているとすぐに思い浮かぶことがある。それはガンジス川の畔で結婚式をあげている若い二人の後方をガンジスの流れに従って死体(遺骸はガンジスに流される)がゆっくりと動いて行く、その遺骸を鳥が啄んでいるという風景である。明暗が対等に配置され生活の中にバランスよく溶け込んだ姿でもある。

 常に明るいハレーション状態の中にいるという不自然な状態に置かれた者は、自己の内部に「闇」を人工的にため込む、その「闇」は蓄積し、必要以上に「増幅」し続ける。この「闇」は非常にやっかいで、それは途方もなく増殖しながら浮遊する妄想と言ってもよい。これは病的な状態となって進行する。こうなると一生その「闇」との葛藤か、それに押しつぶされてしまうかである。

 その昔、髑髏が原の近辺では宴の席にたとえ人骨が飛んできたとしても、それを何らかの吉凶の判断として使う「作為」がない限り、本来は「闇」そのものの部分の一つの「現われ」として全身で受け止めていたことであろう。そこには、不自然に増殖した「人工的な闇」の入り込む隙はない。

 

※部分は梅原猛の著作より

                                                               2010  10/11


64.とある神社で


 私が帰り道いつも立ち寄る神社で、さい銭箱の脇で深夜黒人の男と日本女性が絡み合っていた。毎日様々な思いを込めて人々が祈りに来る場所である。黒人に対して不快感を持ったのは当然であるが、日本女性に対しては今いる自分の位置がまったく分かっていないことに対して強い腹立たしさを感じた。同時に日本の女もここまで堕落してしまったのかという思いがした。女が堕落すれば当然男も堕落する。そして、その国も止めどもなくころがり落ちて行く。この黒人も自国の礼拝堂の前でもこのような行為に及ぶのであろうか。もちろんこのような人間ばかりではないが、日本や海外での外国人排斥の感情も、彼らのような無知蒙昧からくる無軌道さが経済問題と相まってその国の住民感情を逆なですることからも起きる。そして、悲劇はいつでも起こり得る。この日本女性は単なる娼婦であったのだろうか。

                                                   2010 9/10


63.巨大な絵画


 最近、高架線に乗ると思いだすことがある。8月の終わりころであった。高円寺から新宿に向かう電車の中で車窓に流れる風景を見ていると、北西の方向に見事な色彩の饗宴、不思議なグラデェーションを持つ巨大な絵画が現われた。分かりやすく少々雑に言えば、オーロラの中に惑星を誕生させた時の様な光と影と色彩の乱舞である。私は思わず声を出してしまったが、誰一人その巨大な絵画に気付く者はいなかった。その時、車内には、本を手にしている者、携帯電話の上で手を小刻みに動かしている者、眠っている者、食べている者など数十人はいたであろうか。

 私はその絵画が視界から消え去るまで夢中になって見続けていた。パリのオルセー美術館にいたときのように。

 今はもうその方向にはグレーの空間があるだけで、あの時の跡形すらない。私は天文学的確率の瞬間に居合わせたのだと密かに思っている。

 

 

                                             2010 10/9                


62.Au sujet du problème Ozawa


 いやいや、まったく「小沢問題」に関する大手マスコミ報道の馬鹿らしさは筆舌に尽くし難い。本当にどうなっているのか、自分でやっていること言っていることの意味が本当に分かっているのだろうかと聞きたくなる。とても報道担当者、ジャーナリストとは思えない。居酒屋談義の酔漢並みである。酔漢の方がまだ正直なところがある。それからアナウンサーのお兄さん、お姉さん方、何か勘違いしてないか?君たちの作られた底が割れている感想など聞いてみても仕方がない。むしろ不愉快になってくるから気張らないで余計なことは言わない方がいい。

 もうあきれて日本語で書く気もしないので、それにだんだん言葉が強く汚くなって来そうなのでJe murmure à haute voix

C’est un fait que les média ne fonctionnent pas normalement.

Les mass-média de Japon sont fous.Si ce n’est pas juste  ils sont complètement corrompus.Ils peuvent dire qu’il n’y a déjà aucune qualification comme un journaliste.Dans un certain sens la situation de Japon est en désordre terriblement. Ce spectacle est vraiment atroce.

 Je pense que la conscience de citoyen ne grandit pas encore dans le peuple japonais. Pas encore pas encore—–

Dans une étape présumée  c’est innocent.  Est-ce qu’ils comprennent cela? Ils vont fabriquer le crime d’une façon ou d’autre.Cet acte en lui-même est affreux.

Maintenant  le but de média est agiter le public par le mensonge maladroit. 

A partir de maintenant  la vérification approfondie est exigée sous toutes ses aspects.

 

                                                                                                                  

                                                                                                                                 2010 9/7

                                                                                                           


61. 検察審査会の男女11名の素性


  「抽選」で選ばれた男女11名、まずどのような「抽選」であったのか具体的に聞きたい。そして、「国民の代表」などと「言われる」者たちである以上はその名前、経歴くらいは発表すべきであろう。この11人によって政局が大きく変動する可能性があるのであれば大多数の国民もその11人については知りたがっているはずである。さらには、その審査過程の詳細な報告もなされないまま、秘密裏に進められている事に関しては良識ある多くの国民が不信と不安をつのらせているのも頷ける。今まで検察が組織的に「見込み」捜査をしてできなかったものを「素人集団」の男女11名の「判断」と言うより根拠の定かでない(「国民」感情)で吊るし上げようとしているならそれも大きな問題であろうし、それ自体も吟味が必要となってくる。また、検察サイドもしくはその関係団体(広範囲)がそのようにお膳立てしたとしか思えないような検察審査会の「もの言い」に対して胡散臭さ以上のものを感じるのは「衆愚」ではない国民であれば当然であろう。これで納得してしまう国民とは一体どんな国民なのか?それこそ「ねつ造」「改ざん」された「国民」であるとしか言いようがない。とにかく、ここまで来れば裁判で決着させるしかあるまいが、しかし、この時期に敢えて起訴するということは小沢一郎が冤罪であるにしても(冤罪は確実であろうが)政治的効果としては有効性を持つもので、それを狙ったということは否めない事実であろう。そして、「巨大」検察が「投げてしまった」ことを今度は「弱小」弁護士集団で何ができるのか、彼らも「できる」とは思ってはいまい、もし、やれるとするならまたしても「ねつ造」か政治戦略の走狗と成り果てることでしか成し得ない事柄である。しかし、「彼ら」はすでに起訴に持ち込むということだけで充分その政治的的効果は発揮され、政治戦略の走狗としての機能は果たしているのである。この政治的策謀で一体誰が「一番」利するのか、それを見ればその策謀の主体は明らかであろう。

 

  しかし、「推定無罪」であるにもかかわらず、あたかも「犯罪者」のごとくに扱うマス・メディアとそれに踊らされる者たち、この国は民主国家としても法治国家としてもまだまだ未成熟なのであろう。すべてを徹頭徹尾検証しなければならない時期に来ている。それなくしてはもはや「その先」もないのだろう。

  

 この際、良識あるジャーナリスト諸氏に是非お願いしたい。この審査会の11人とそれに関係した者たち、そして、その審査内容は近い将来重要な資料となるので調査し、機会を見て発表してもらいたい。

 <以下随時追加>

※「週刊朝日」は知りたいところをよく押さえて丁寧に調べて情報を提供している。良識あるジャーナリストががんばっている証左であろう。以下「週刊朝日」の情報を参考に検察審査会の不明部分について、私が思っていたことに確証が得られた部分のみを書き加える。

 まず、検察審査会の審査員が抽選で選ばれたと言っているが、住民基本台帳から東京都の20歳から69歳の人口(今年元旦)881万6900人。平均年齢43.659歳。審査員の平均30.9歳以下になる確率は0.12%でコインが10回連続で表を出す確率だそうである。「今回の審査会が本当に無作為で選ばれたとするならば、極めて珍しいことが起こったとしか言いようがありません」と数学者の芳沢光男氏は語っている。ますます秘密裏に何が行われていたのか気になるところではあるが、検査審査会の委員長を務めた者が「新聞で小沢さんの議決の要旨を読んだが、ああいう難しいことは、審査員は書けないし、言わない。そもそも、検察官が何度も調べて不起訴にしたのに、素人が数回会議したところで分かるはずがないですよ」と言っている。因みにその時の審査員はスナックのママ、個人タクシーの運転手、赤ん坊を抱えた若い女性などであったらしい。

 そして、ある検察関係者は「素人の審査員なんて簡単に誘導できる」と言っている等など。もう充分にその審査内容については何がなされていたかは察知できる。いつの間にか、選ばれ方も不可解な実態不明の匿名集団の検察審査会は「世論」の代名詞となり、巧妙に操作されつつ恐るべき権力機関として膨れ上がってしまった。それに加担し続けたメディアの責任も大きい。根本的な検証、改善は早急の課題であろう。

                                                       (2010 10/11)  

※小沢問題で起訴議決が出されたのは9月14日(民主党代表選)それについて上記の11名を審査補助した吉田繁実弁護士は「重なったのはたまたま。当日は一日中審議しており、影響はなかった。」と言っている。「重なったのはたまたま・・・」こんなことが通ると思っているのだろうか、これ自体がすでに審議すべき由々しき事態である。さらに、この吉田繁実は暴力団の共謀の成否が争点となった判例などを持ち出して、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい。」と11名ののものに訴えている。いやしくも国民が1票を投じた「政治家」に対して暴力団との違いは考えずになどとは、何をか言わんや、言はん方なしである。権力の走狗と成り果てると「与えられた」自分の「仕事」しか見えなくなるものらしい。いや、自分の「仕事」しか見えなくなった時、いつの間にか権力の走狗として重宝に使われていると言った方がいいのかもしれない。この弁護士もいずれ「煮られる」ことになるのだろう。ご愁傷さまである。

 

※10/9の朝日新聞の紙上で、検察にこよなく愛されている立花隆が「検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。」などと言って喜んでいる。視野狭窄になっている検事、弁護士ならともかく、こんな葦の髄から天井をのぞくようなことをやっていてよく評論家だ、ジャーナリストなどと恥ずかしげもなく言えるものかと感心する。余程検事か何かになりたかったのだろう。常にその姿勢は検察とべったりである。そして、さらに気になるのはその言動に緻密さがないことである、例えば小沢が関わっている傍証なら「山ほどある」という、それならばその「山ほどある」傍証を全部どのようにチェックしたのか、「山ほど」ある傍証が改ざん、ねつ造されたものではないと検証できたのか、ありとあらゆる手を使って検察は行き詰まったという結果はすでに出ているのである。したがって、それを言うならそれ以上の「もの」、「こと」についての確証があって初めて言えることでろう。にも拘らず、言っていることはただそれを認めることができないというだけに過ぎない、それ以上の域を出ないものである。その姿を見ていると、それに乗っかって作り上げた自らの行き詰まった説を何としても死守しようとする憐れな老人と言った感は免れ得ない。だから検察審査会そのものの検証などどうでもいいのである。しかし、怖い話である。彼らの言うことを仰せごもっともなどと聞いているといつの間にか崖っぷちである。傍証はいくらでもある、あいつは犯人だということが簡単に成り立つということである。推定有罪である。これは、いつあなたもこの手で犯人に仕立て上げられるか分からないということでもある。  (2010 10/9)

 

 

 

                                                         2010 10/4


60. Divertissement


<Qui a pris les quatre saisons de Japon ?>

Il pleut aussi aujourd’hui

Même l’image d’été qui a disparu soudainement

ne peut pas être trouvée

Aujourd’hui l’automne est mort

peut-être hier  je ne sais pas

Et  l’hiver est venu

 

un murmure  d’un jour  un jour d’un murmure 

et  sans doute le murmure sans date

 

                                                               ー M・Hー

 

                                                                                                                             2010 9/30


59. 演劇の神に見放された日本の演劇


○もはや日本の演劇の舞台に神が降り立つことはない。

 それを暫くの間というべきなのか?

 

Dieu ne descend plus sur la scène de théâtre de Japon.

Est-ce qu’il devrait l’appeler "pendant quelque temps"?

 

                             M・Hirayama                                                                                                                                                                           

                                                   2010 9/28

 


58.不気味なコンビ 


  芸能評論家の肥留間何がしとか言う者が、「どうしても考えを聞きたい数少ないコメンテーター」として岸井成格(毎日新聞 主筆)の名前を挙げて、「政治を語らせたらこの人の右に出る者はいない」などと持ち上げていたが、この岸井などは基本姿勢そのものが「大本営発表」のスピーカーで、とてもジャーナリストなどとは思えぬ者達の筆頭であろう。私はこの男とみのもんたの公共の電波を使った醜悪な政治工作的コメントを聞いていて腹が立ってテレビからさらに遠のいたと言ってもよい。したがって、このヨイショには許せないものを感じるのである。「口髭のトレードマークを政治家は一目も二目も置いているのである」、この書き方、典型的な芸能担当者のイイカゲンさがにじみ出ている。それでは一体その岸井に一目も二目も置く政治家とはどのような政治家なのかを聞きたくなる。そこが一番問題なのである。もっとも、そんなことを芸能評論家などに問いただしたところで仕方あるまいが、それにしても言うなら言うでもう少し内容的に「詰める」べきであろう。これでは単なる岸井のファンクラブ代表の弁である。これで芸能評論家とはそんなところからも金をもらうのかと思われても仕方あるまい。

 こんなことは書きたくもないことであったが、テレビが唾棄すべきものになってしまった一つの要因となってしまったことなのでついつい書いてしまった。馬鹿は休み休みも語るべきではない。

 

※以前にも書いたが、テレビにも10%ほどの比率で見るべきものはある。誠実に丁寧に作られているものもある。最悪なのがこの政治報道なのである。肥留間の言うように「いい加減にしてくれ」というようなコメンテターは実に多いのも事実であるが、そうかと言って岸井の考えていることなど聞きたいとは思わない。なぜなら今までもそうであるが、彼が何を言うか言う前にすべて分かってしまうからである。何時だったか知人に、次は岸井はこのように言うぞと言ってその内容を言い当てて大笑いしたこともあるくらいである。この男の立ち位置、方向、利害はその「揺れ幅」も含めてすでにすべて掌握済みなのである。だから、これ以上聞く必要などはまったくないのである。もっともその「揺れ幅」以上に方向が変われば別であるが、それは総合的に判断してあり得ないことである。そして、その他の主婦を装った、主婦にも失礼であろうと思われるようなぼけたコメント、質問などをするコメンテイターなどはもう論外であろう。

                                                   2010 9/27

 


57. 「生粋の文化」などは存在せず。


 以前、何のCMだったか忘れてしまったが、京都、奈良あたりの風景をバックにしてどこかのおばさんが和服で出てきて「日本のこころ云々」というコピーで始まるコマーシャルがあった。学生時代から京都、奈良には好きでよく行っていた私としては、それを日本文化、日本のこころなどと言われてもどこかピントのずれた、胡散臭いものにしか感じられなかった。戦時中に中学生であった某作家は、日本文化、日本精神の故郷などと言われて、京都、奈良を見て回ったあげくについつぶやいてしまったそうだ。「何だこれは、みな朝鮮とシナじゃないか」。これはまったく素直な、頭脳明晰な青年の反応であろう。歴史的に見ても京都、奈良は朝鮮、シナの影響を受けているのは歴史的事実である。もし、これらの事実を排して、これを純粋な「日本精神」の故郷などとするなら歴史の流れをまったく無視したものとなる。文化そのものは異文化との接触、ぶつかり合いの中で展開、成長していくものであってみれば「生粋」、「純粋」などという言葉に酔う必要もなければ、実際にはそのような在り様をする文化などは世界史的にも存在しないのである。

 

                                                     2010 9/26


 56.中学で「人生設計を考える」特別授業?


  これは大田区の中学校で行われた保険会社が主催した特別授業だそうだ。校長のもっともらしい意見も含め、正直言ってあきれ返っている。中学でもう一生の金計算である。夢が最初からプラスチックである。これではすぐに行き詰まってしまうだろう。大事な時期の教育者としてもっと他にいくらでもやることはあると思うが、もうこれ以上中産階級幻想にどっぷり浸かった守銭奴を作りだすことはあるまい。たとえば、河川敷や長屋でゴルフの練習などをしている姿はどうみても「旦那様ごっこ」をしている「召使い」である。もちろん、中には仕事上やむなくやらざるを得ない者もいるだろうが、それはともかくとしてそのような「旦那様ごっこ」などするより自分たちにしかできぬ独自の「遊び」を作りだすくらいのことはして欲しいものである。そのようなことを含めての教育である。日本の中産階級などは実質サブプライム、すなわち貧困層である。そんな虚しい恰好の付け方ではなく、やれること、やらなくてはいけないことが他にいくらでもある。最近では、「5000万円あれば安心の老後」などと何を根拠に割り出したかわからないような数値を出しているようなものまであるが、笑止である。できるできないは別としてこの時期の子供にはそのような金計算より「根本的なこと」を教えるべきであろう。そのようなことが予想外に強靭なエネルギーを生むのである。(このことは私が以前、小・中学生2000人以上を教えて得られた実践的データからも割り出せることである。後に聞くところによれば、私が辞めた後も生徒の中に私は存在していたようである。)現在、そのようなことことが教えらる教師不足は否めない事実ではあるが、教育が重要というのであれば教師育成に励むべきである。小・中学校の教師は本来なら大学の教授クラスと同等レベルの「見識」がなければならない。(最近は特に教師の情けない記事ばかりが目につく)知的レベルはともかく、小学校教師の社会的地位が大学教授レベルという国は実際にもある。それほど児童教育は重要なのである。このままでは精神構造は委縮する一方である。それはそのままこの国の委縮でもある。

                                                  2010 9/24


55.なぜか顔つき、表情がヒムラー


 ハインリッヒ・ヒムラーとは、ナチス・ドイツの親衛隊隊長で何百万ものユダヤ人たちを死の収容所アウシュビッツに送り虐殺した男である。いわゆる「地獄の使者」である。しかし、その顔つきは童顔で、笑みは子供のようである。彼を見ていると、頬に傷跡、脛に傷もつ刺青者が分かりやすく安心できるから不思議である。

 ようやく表に出てきた検察官僚、検事達の写真を見ていると、その顔つきはどれもこのヒムラーとどことなく似ている。机上操作は「正義の使者」のごとく迅速かつ明敏に、最後の仕上げの「操作」、「細工」はお手の物、上司の意に沿う業務を速やかに完遂させる。そして、出世街道まっしぐら、少なくとも今までは非の打ち所のないみごとな「仕事」であった。しかし、実際にやっていることは「地獄の使者」とそれほど変わるところはなかったのである。その深みのない童顔がヒムラーを彷彿とさせるのも頷ける。

 それにしても、検察の走狗と成り果て名をなしたジャーナリストはその顔ですら醜悪そのものであるのはなぜか?どちらにしても走狗は「時間」によって煮られるのがその宿命。もはやその全貌が見え過ぎてしまったものをこれ以上追いかけても無意味であろう。

 

                                                    2010 9/23

 


 54.「悪魔的」な「匿名性」


 匿名性という世界は「自由」な領域でもあるが、同時にその一隅には「悪魔」の居住地がある。「悪魔」に酔わされることはさぞかし心地よいのであろう。それに突き動かされる者は崖っぷちに立たされるまで気が付かないか、たとえ気付いたにしても崖っぷちを崖っぷちとして認識することすらできなくなっている。一種、麻薬に侵された状態である。そして、余裕もなく、許容量の少ない者たちはわずかな事で過剰反応し、攻撃態勢に入る。その様は、あたかも溜め込まれた吐しゃ物と共に自らのすべての体液を相手に向けて吐きだすがごとくである。この状態は「悪魔」がこの上もなく喜ぶ姿でもある。そして、さらに極限まで追い詰めるがもはやこれまでと思うと「悪魔」はすぐさまその「人間」を現実世界の「地獄」に捨て去るが、本人は気が付かない。その「人間」はと言えば、相手にぶつけた言葉、その内容について作家が書くように鮮明に覚えていることはほとんどない。、それもそのはずで、そのほとんどが感情にまかせて吐き出した吐シャ物のようなものばかりであってみればそれは当然であろう。彼らは自分の「やった行為」そのものだけを記憶にとどめ、時折突き上げてくる自らが吐き出したお気に入りの類型的表現を反すうすることで事足りているのである。一方、やられた方はひき逃げされた者のごとくに倒れ傷ついている。

 このようなことを見ていると、以前、自宅を開放し、貧しき者たちを救っていたアメリカの牧師が黒人に惨殺された事件やそれに類するいくつかの事件を思いだす。インターネット上で外に開いた自由な交流などというのは確かに広がりを持つものでそれ自体決して否定すべきものではないが、それには常に危険が伴うのも事実であろう。匿名にする必然性がある場合を除いて、匿名使用者の背後には常に胡散臭さが付きまとうのである。そにには時折、「人間」の声というより、「悪魔の波長」にはまってしまった者特有の「うねり」が見えることさえある。そのような時にいつも痛感することは、放置すれば「人間」などというコンセプトはいとも容易く壊れるものだということと、「悪魔の波長」を「人間の波長」と見間違えてしまうとすぐに悲劇は序奏を開始するということである。

 

 「戦い」の萌芽はつねに平和時の文明の中にある、という15年も前の作家の言葉を思い出す。そして、その萌芽はすでに「花」をつけ、「戦い」の火ぶたは切って落とされているのである。

 

                                                      2010 9/22


53.「左翼」、「右翼」などはもはや死語


 それは死語でなければ「死に体」であろう。であるにも関わらず雑誌、新聞などではいまだによく遣われる言葉である。もう少しその実態を的確に具体的に表す言葉はないものかと思う。なぜなら、もはやそのようなコンセプトでは捉え切れないか、あるいはそれが本来指し示すべき「本体」そのものがないか、変形、変質してしまっているからである。

 たとえば、仙石由人について「仙石は典型的な左翼活動家気質の政治家なんです。<中略> 熱くなるのは権力闘争に興じているときだけ、理想を掲げ、国民を引っ張る熱意があるとは思えません。」(某政治家)などと言ってみても、実際のところ何を言いたいのか不明で、これで何か言っているつもりになっていることも不思議である。仙石が「左翼活動家気質」などと言っても、東大闘争時代の中枢にいた者は彼の名前さえ知らない。たとえ、その渦中にいたとしてもおそらく安全地帯でその周囲を徘徊していた戦力外の人間であったのであろう。これはその当時としては普通の学生の状態である。中にはこれ幸いとばかり麻雀に明け暮れていた学生もいたが、このような人間達に対して左翼的、右翼的などと言ってみてもあまり意味のないことである。問題のある体制に対して反体制的な見解を持つことは、安っぽいニヒリズムをチラつかせる臆病な利己主義者以外、利害関係のないごく普通の人間にとっては自然な成り行きであろう。ただし、それには「理念」も「理想」も特に必要とはしない。しかし、そのような者がその気になって政界入りでもすればいつしか権力闘争に絡め取られて身動きできなくなるというのは見あきた風景でもある。権力闘争自体に絡め取られることなく権力闘争をするにはまた別の能力を必要とするが、問題を段階的に解決するにせよ、それを阻むその時々の真の「敵」を明確につかみ、最大優先事項を定められないような政治家を政治家とは言わない。「理想」も「理念」も特に必要としない単なる抗議集団の長ならともかく、それでは一国のかじ取りは不可能である。

 

                                                                 2010  9/21


52.フランスのブドウ畑と我が家の庭


 これらには何の関連性もない。ただ、そこにいた1980年代の日本人に共通するものがあるだけである。

フランスのブドウ畑では、 

あるとき、フランスの豊かな農村を、日本のある会社の社長と一緒に旅行をしたことがあった。その社長曰く、

「フランス人ッてバカだねぇ。こんなところで葡萄なんかつくらないで。ゴルフ場にすれば儲かるのにねぇ」

                                            (「日々の過ぎ方」堀田善衛より)

我が家の庭では、

 父が丹精込めて作り上げ、手入れの行き届いた庭を前に客人と酒を飲み交わしている時である。その客人が言ったそうである。

「この庭のスペースもったいないな、もっと有効活用すれば儲かるのに」

 その結果が現在の日本の姿であろう。どんぶりだけは日本製、中身はすべて外国製といった状態は何も食料事情だけではない。精神的営為もその通りであろう。緑もない、スペースもない、収容所ではないかと見紛うばかりの建物が林立する中で身を粉にしながら働き、精神的に支障をきたしていることすら分からず、初めて見る緑の空間が青木が原の樹海ではあまりに悲しいのではないか。そして、多くの者が自分だけはそうならないと思っている、思わされているところが余計に憐れである。

 

                                                  2010   9/20

       


51.走狗(そうく)は煮られる。それが鉄則。


 2010年は、実に走狗たちが浮き彫りになった年でもあった。まだ終わっていないが。

走狗と成り果てたジャーナリスト、学者、マスメディア、そのそれぞれの固有名詞を並べ立てて批判することは可能であるが、私にはそのような無意味なというか、一瞬でもできればそのようなことに関わりたくないそれほどの価値もない、時間の無駄という思いの方が強い。そもそも走狗は煮られるのが鉄則であってみれば、何も私などが時間をかけて手を下す必要もないことである。いずれ必ず何者かがやらざるをえなくなることでもある。すでに走狗たちの数多くの消しようもない事実、証拠は残されてしまったのであるから。

 

※走狗  他人の手先となって使役される人。「権力の走狗」など。

                                                  2010 9/19


50. 落書き


  先日、久しぶりに公衆便所に入った。小便とへどの臭いに耐えながら用をたしていると、落書きが目に入ってきた。そこには裏切り集団 無能菅助、万石千太、主婦連蓬、他にもいくつかあったが読み取れなかった。酔いの頭に最初は何のことか分からなかったが、あくびのような笑いがこみ上げてきて、ついほくそ笑んでしまった。傘を忘れて戻ったがそこにはもう傘はなかった。

                                                 2010 9/ 16 深夜

                                               

 

 


49.わが愛しき<ダークマター>よ、御身の名は<無>なり。されど、あらまほしき<もの>なり。


 <無>とは実は何もないことではないく、我々にはそれを「実体」として把握することが「不可能」なもの、あるいは形を成さない無限のエネルギーを持つ動き、働き、作用そのものというような<もの>で<ある>。

 そのような<在り方>をする(「実体」として把握できないもの)ひとつとして<ダークマター>の存在が科学的に確認されつつある。「特異点」しかり、「ダークマター」しかり、それらはブディスム的世界観の「無」をますます豊饒なものにしていく。紀元前の賢者の「直観」にあらためて敬服する。

このダークマターについてテレビでは立花隆が解説していたが、なんでこの人間が出てくるのか不明。今迄の科学者たちの心地よい誠実さに溢れる説明が一挙に消し飛んだ。検察と連携することによって得られた情報を基に活動してきただけと言ってもいい人間がとうとうボロを出し始めた最近の言動。その厚顔無恥さ加減にはあきれ返っていた矢先に今度は「ダークマター」である。要するにこの男にとって耳目を集められる「ネタ」であれば何でもいいのである。空間に浮遊するダークマターが彼の周りから逃げて行ったように思えた。 

※賢者とは釈尊のこと。

※「ダークマター」とは、存在する証拠は得られているが、電磁波での観測では見ることができない未知の物質のこと。現在、宇宙で観測できる(目に見える)物質は全体の4%程度で、その数倍がこの「ダークマター」が占めているということである。今後、新しい理論による未発見の素粒子の解明が必要となる。そのひとつが「ニュートラリーノ」という素粒子である。

 

                                                 2010  9/13


48.ー 日々盛装ー


  1日1日をできるだけ大事に生きようとすると、着のみ着のままならともかく、1日中スウェット上下で過ごしたくはない。たとえば、世界の少数民族を見ていると、祭りの時はもちろんのこと、作業する日常の時間帯の中でも「おしゃれ」である。そこには自分達のルーツに対する敬意と誇りと日々生きることに対する「思い」が混然一体となって流れている。弛緩した顔はなく、笑顔は限りなく優しく、眼には濁りがない。

 我々は時にはスウェットを着る、しかし、日々それで間に合わせてしまうという姿勢そのものが、その時間の流れ方そのものがその人間の死生観を形造っていまうということに気が付かないことが多い。半ばズリ落ちたスウェットパンツのまま尻をかきながら携帯電話をかけることが習い性となってしまった者と、日々盛装しながら作業し、生きる彼らとは1日の生き方の充実度が根本的に違うことは明らかであろう。老少不定であってみれば日々盛装は理に適っている。それは生き方の基本でもある。(日々盛装とは単に着飾ることだけを言っているわけでもなく、ファッションなどとはまったく関係ない、たとえ「ダサク」てもいいのである。そのような「気持ち」で生きることが大切であると言う意味である。、しかし、彼らの衣装の色使いは実にあでやかでファッショナブルである。)

 私はやはり絶滅少数民族に近いのか、いやいや、パリにいる知人(パリ大学名誉教授)は私ごときを出迎えてくれるのにいつも蝶ネクタイの正装である。彼もまた日々生きることを非常に大事にしている人である。今ごろはまた例の美術館で一人瞑想しているのではないかと思う。

 

※「日々盛装」とは私の造語である。

 

                                                                                                                                               2010 9/11


※このブログを始めて早いもので1年と4か月、いつのまにか原稿用紙500枚ほど(整理したものも含めて)になってしまった。この間にこのHPに訪れた方は意外にも多く、もうすでに何万という単位に達してしまった。このHPで私は名前、プロフィールを出してはいるが、それは無責任なことを言いたくないので出しているまでである。私は匿名の「憂さ晴らし」風のものには一切興味がないし、信用もしていない。そうかと言って単なる個人的行状記を逐一記すつもりもない。それは多くの者にとって見も知らない他人のスナップ写真を見せられているようなものであろう。井戸端会議、ツイッター、掲示板の書き込みなどにしても公衆トイレの落書きのようなもので、裏面で蠢動するものの1部をキャッチするのには面白いのではないかと思う程度である。実のところ、その類はあまり見ることはないのであるが、またその内に公衆便所にでも行った時に見られるだろうと思っている。

                                                                            2010 9/10


 


47.越えてはならない一線を越え続ける検察


 それは検察のファッショ化(独裁化)を意味する。検察批判を真っ向から受け、改善すべきところは改善し、追及すべきところは徹底的に追及するという懐の広さもバランス感覚も喪失してしまったような、一見追い詰められた者のなりふり構わぬめった切りのような様相を呈しているが、それが計算された政治戦略なら、それはもはやいかに取り繕っても「正義」の使者ではあり得ないことの証左になる。

 「捜査で世の中や制度を変えようとすると検察ファッショ(検察独裁)になる。それは許されない。」とは一体誰が言ったのか。それは東京地検特捜部の生みの親、河井信太郎である。本来、検察はこのような人々で構成されていなければならない。それによって初めて検察の存在意義が鮮明となり、国民の信頼度も増すのである。しかし、現状は恐ろしいくらいに異質なものになっている。今回の検察の一連の動きはいずれ検察史上の汚点ともなり、事あるごとに検証され、負の参考資料として有効利用されることであろう。今後、このような問題点がさらに「高密度」なものとしていかなる形で噴出してくるかが「楽しみ」である。

※今回の「小沢問題」における世論操作による政治的介入は検察ファッショ(検察独裁)を如実に物語るものである。それは許されないことである。

 

                                                  2010  9/9

 

※「郵便不正事件」データ改ざん 主任検事逮捕 (2010  9/21)

<この主任検事は、逮捕前の聴取で、コピーしたデータの中身を書き変えて遊んでいたことによって起こったもので、故意ではないなどと言っていたそうである。>(時事通信より)

※主任検事の単独犯行と言うより組織的な犯行であることが立証されつつある。(2010 9/22)   

<当時の大阪地検特捜部長が、証拠品のFDのデータが改ざんされた可能性があると指摘を受けながら、地検上層部に「問題ない」と報告していたことがすでに明らかとなっている。> (時事通信より)                                               

 

                                                                                                                                           


46.コロコロ首相が変わって困るのは国民ではない


 必要ならば、いつでも首相を変えることになんら問題はない。コロコロだろうがダラダラだろうが問題があれば変えるべきである。それについての御為ごかしや否定的言説は詭弁であろう。それならどのような「長期政権」がお望みなのか伺いたい。最近の「(長期)政権」(小泉政権)の行った経済面での総括も明確になされないまま今に至ってその教訓化の片りんすら見えない状況の中で何をか言わんやである。「ファシスト政権」をお望みなら話は別である。そのような例なら歴史的にも、現実的にも存在する「長期政権」がある。おおよそ「長期政権」などと言われているものは健全な民主主義国家とは相反するもので成り立つか、民主主義そのものを形骸化させることでしか維持することはできない。特に、このような時期には常に変動するのが当然であろう。これを「対外的に見ても」「一国の首相がコロコロ変わるのは如何なものか」などとご大層な「客観的」状況分析風の言説もあるが、それは、実のところ自分たちにとって都合が良いか悪いかいうことであろう。これは明らかに既得権益側にとって都合が良いということであって、我々国民とはまったく関係ないことである。すでに彼らにまんまと乗せられた「国民」もいるようだが、これは自分の首を切ろうとしている首切り役人と微笑みながら握手をしているようなものである。寝ぼけ眼で50年以上が過ぎ、まだ寝足りないとみえる。その内に寝ぼけ眼で青木ヶ原、東尋坊などを彷徨うことにならないように気を付けた方がよかろう。愚かな、見ていても恥ずかしくなるようなテレビ、大手マスメディアの「御為ごかし」には乗らない方が賢明であることは言うまでもないが、彼らも「正義」のため(この場合は「正当な報道のため」と言った方が良いだろう。)ではなく、金で動いていることを忘れてはならない。すなわち、自らが不利益なことは絶対にしないということである。それがたとえ「正義」であろうとも。

 蓋を開ければ、「金」と「私憤」で突き動かされている者ばかり、しかし、それが凡夫の唯一のエネルギー源でもあるという事実はいつの世も変わらないということを改めて思い知らされる。紀元前から変わることのない、発展変容の兆しすらないその事実はやはり真実なのであろう。

 しかし、テレビドラマもひどくなったものである(内容、演技共に)。観ていると(数10秒位)こっちがほんとうにそれこそ鳥肌立つほど恥ずかしくなってくる。ここまで堕ちたかという感しきりである。ため息か呼吸か区別がつかぬ昨今である。何をやろうとしているのか?愚民政策の一環か?フウーーウ・・・

 

                                             2010  9/7

 


45.エネルギッシュな国民と去勢された国民と


 フランスでは、年金改革反対で100万人規模の一斉抗議行動が起きている。一方、日本の国民は何が起きても微動だにしない。大したものである。それは、もちろん問題がないと言うことではなく、我慢強い(これに関しては悪しき我慢強さ)、さもなくば完全に飼いならされているか、去勢されてしまっているとしか言いようがない。たとえば、日本であれば黙々と死地へと赴くのではないかと思えるような者でもパリではメトロの中で恥も外聞もなく(日本的観点)自分の受けた不当解雇について熱く訴えたりしている場面に出っくわすことがある。これは「お国柄」で日本とは違うなどと分かったようなコンセプトで割り切れるものでもなく、またそのような収め方は不当でもあろう。問題は飽くまで問題であり。その問題について異議申し立てをする、抗議することは正常な状態と言うべきである。それがなされていないということは、この国はと言うより国民は正常な状態に置かれていないと見るべきであろう。簡単に言えば、恰好をつけることばかりに気を取られる国民の「性向」を逆手に取って、巧みに操作されてしまっていると言ってもよい。もはや、日本は経済大国ではないが、そうであった時ですら欧米の富裕層とは一桁も二桁も格が違うのである。今、日本は残念ながら精神面でも、経済面でも「貧しい国」に成り果ててしまって、実際のところ恰好のつけようもないのが実情なのである。特に、精神面での凋落は甚だしいものがある。

                                

                                               2010  9/6


44.ミステリアスな自殺者30000人超


 日本の自殺者数は1998年以降30000人以下になったことがないのはもうすでに周知の事実であろう。この自殺の問題については2001年の公演の折、私も少し触れたことがあるが、最近思いがけない事実に直面した。その自殺者数の中には殺人事件、他殺の可能性もある者も含まれるということである。日本では「かなり疑わしい死体でも司法解剖にまわされないケースが多く、2007年の司法解剖率はわずか3.8パーセントにとどまっている。」(欧州諸国は50パーセント)ということである。「刑事訴訟法では検視官が変死体の検視を行うと規定しているが、実際には警察官による法医学者の判断も伴わない非科学的手法で代行されるケースが大半だという。」

 2006年の殺人事件の検挙率96・8パーセント。(「犯罪白書」)だそうだが、どうも現実的に不可解な数値であると思っていたが、それは殺人事件の「認知件数」自体が最小限度に抑えられているのであるから「検挙率」は高くなるのは当然なのである。司法解剖率3.8パーセントという世界最低レベルのところでいくら「検挙率」を割り出しても現実の問題とは乖離するだけである。

 殺人事件であるにもかかわらず、自殺、事故、病死などとして片づけられる可能性も大いにありうるとするなら、30000人を超える「自殺者」は実は自殺者だけではないことになる。

 

※参考書籍 「強いられる死」 斎藤貴男著

                                                    2010 9/3

 


43.「小沢問題」は実に有意義であった。


 この「小沢問題」によって旧体制とマスメディアの具体的結びつき、さらには検察の実態が改めて白日の下に曝されたと言っても過言ではない。そういう意味では、すでに小沢一郎は充分にその役目を果たしたとも言える。本来なら機を見て、若い世代に民主政治を任せたかったのであろうが、ふたを開ければ頭の薄くなった「オコチャマ」政治家や右顧左眄組ばかりでそうも行かず複雑な心境であったであろう。しかし、この問題で特に大手マスメディアは戦後最大レベルでその存在意義と信頼度を完膚無きまでに失墜させた。もはや何を言っても、言えば言うほど滑稽ですらある。小沢一郎を「むきになって」攻撃すればするほど(それはアジテーションに近い)逆にその本体を曝け出してしまうのである。それが、この資本主義体制の民主主義国家の中での小沢一郎の「在り方」そのものなのである。馬鹿の一つ覚えのごとく「政治と金」などという単純化した無意味なコンセプトで捉え切れるものではないものを「単純化」する。それこそが「彼ら」の狙いであったのであるが、それが逆に彼ら自身の醜悪さを曝け出すということに気づいていないか、気付いていたとしてももはや奈落への加速は多少の減速くらいが関の山で防ぎようもない。それにだまされるのは国民とは名ばかりの単なる衆愚以外の何者でもないであろう。そして、今や単純化したものを執拗に繰り返すことによって相手に忌まわし像を強引に焼き付けるというファシズム的デマゴーグの常套手段を言論の自由の名の下に行っているだけである。これが大方のマスメディアのやっていることである。(これで金の流れが特定できる) 公の場における言論の自由とは他の視点を封殺した上で成り立つものではあってはならない事は言うまでもない。今、民主政治を衆愚政治へと拍車をかけているのはマスメディアそのものである。なぜここまで身を持ち崩したのか、それは常に旧体制と結びついた既得権益の死守というものが大前提にあるからである。要するに「金」である。この際、マスメディアも金の流れを洗い直してできるだけ「まともな報道」ができるような状態を作り上げるべきであろう。ただし、それはリフォーム程度の小細工ではもはや不可能である。

 「人間の英知」などは、いともたやすく欲望と名のつくもので変質する、そして、その有無でさえ判然としない。しかし、その頼りないものに頼るしかもはや「人間」が生き延びる手立てはないというところに、この最低の知的生命体の宿業を見る。

                                             2010 9/1


42.五月蠅い者達 (その1) ー売れる安易な商売ー


 某週刊誌で有名人の写真を載せてはファッションチェックしている(イチャモンと言った方が適切)ファッションデザイナーがいる。普段はそんなものは気にも留めないが、その週刊誌を定期購読(情報チェックのため)しているのでついつい目に入って来るのである。「お遊び」と言ってしまえばそれまでであるが、何か妙に小蠅のように小うるさくなる時がある。小気味よくハチャメチャな内容であれば「お遊び」として楽しめるが、空疎な割にはもっともらしいのである。

 たとえば、「人の内面はファッションに出るって本当だ。」 本人が言ったのか、誰が言ったのか知らぬが、この場合の「内面」とは、実際には、その時の気分程度のことを「内面」などと言っているのであろうが、こういう訳の分からぬことをあたかも分かったように括って生業にしているものが実に多い。それでは、申し分のないファッションはそれを着こなしている人間の「内面」も申し分のない「内面」であるということになる。この男に言わせれば、「ダサイ」恰好をした作家はその「内面」もダサク、、たとえば着のみ着のままであったゴッホやモディリアー二などもダサイ「内面」の人間達なのであろう。

 この男、人の「内面」は顔に出るということが分かっていないらしい。ファッションは言わばカモフラージュなのである。顔はたとえ特殊メイクをしても「目」の動きで心的状態は察することができる。この男の写真をいくつか観ると、その写真から言動の一部始終は察知できる。彼自身のファッションも言ってみればサーカスのピエロかマネージャ、「人の内面はファッションに出ている」のなら、彼の「内面」はマネージャ兼ピエロと言ったところであろう。さらに言えばその内面の「哀れさ」もよく出ている。

                                                     2010 8/30 


41.現代不明言語群 その1 (「世論」、「市民団体」、「クリーンな政治」etc)


 ○「世論」

 「世論」とは、結局「何者」かによって「選ばれた」1000人の「意見」、「感想」に過ぎなかった。選択基準は今もって不明。「世論」という名の「私論」をでっち上げることなどはいかようにも操作可能。

 

○「市民団体」

「市民団体」と言うと、「一般市民」と言う人々があたかも存在するかのような錯覚を起こさせるが、実際には存在しない。現実に「市民団体」として成り立ち得る集合体の多くは革新系左派の「市民団体」、保守系右派の「市民団体」、そして、社会問題化した問題解決のためにそれに賛同するものたちが集まった団体などである。左派系、右派系などという分類自体がもう古いと言うか、ある時期に停止してしまったコンセプトでもあるのでどこか釈然としないが、より具体的に言えば旧体制の既得権益擁護の側にいるのか、そうでないかと言った方が現実的であろう。例えば、小沢問題を追及している「市民団体」が「政治と金」なるものを正義の御旗に「機」(政治的動静)を見ては行動しているのであれば、これは保守系右派の「市民団体」などというコンセプトは通り越して「市民団体」と言う名の政治結社もしくは政治工作班、敵対する政党の別働隊と見る方が適切であろう。マス・メディアは敢えてその実態を明かそうとはしない。その点も問題で、ここまで社会的に影響を与えた「市民団体」である以上、その「団体」の実態、代表者、中心メンバーの名前は伝えるべきであろうが、つまらぬ饒舌ばかりが多く、国民の「知る権利」にはまったくと言っていいほど答えていない。

 

○「クリーンな政治」

 小学校低学年生か、大の大人が言葉に酔うのも程がある、ここまで来ると気持ちが悪くなる。歴史上こんな政治がいつあったのか聞きたくなる。言う方も言う方だが、それを取り上げるマス・メディアもそんな見え透いた演出などに現を抜かしていないで、少しは我が身のこととして「クリーンな報道」を心がけた方がよかろうと言いたくなる。この国は資本主義国家ではなかったのか、資本主義大国のアメリカは「政治は金だ」とはっきりと言っているではないか。資本主義国で現実的に金が集められない者には政治ができないのは否定できない事実であろう。この点がこの国の中途半端で、むしろ欺瞞的な面であろう。要は、自分が政治家として支持してくれる国民からどれだけ金を集められるか、そして、それを私利私欲ではなく自己の政治理念を通すためにどれだけ有効に使うことができるかが問題であり、それが政治家としての指標でもあろうことは資本主義国家にいる以上至極当然のことであろう。

「害虫のいない、蝶や鳥の飛び交うクリーンな街造り」この標語の矛盾点にすら気付かず、空疎な美辞麗句に酔っているのと同様で、「クリーンな政治」、「クリーンな人間」、「クリーンな戦争」etc.このような意味不明なものは目指しようがないのである。

 そして、いまだに続く薄気味悪い横並びのマスコミ報道。「金と政治」、「ねじれ国会」、「迷走」etc,いつまでヒステリー女の繰り言のような内容を垂れ流し、子供じみた内容に拘泥してるのか、そんな暇はないはずである。公共の電波を使い一方的に言いたい放題の報道を流しているこの不健全さは同時に「メディアと金」の全貌を浮き上がらせる。

 

※「朝日」、「毎日」、「読売」の横並び報道にはもはや異様を通り越して、命運尽き果てるものの断末魔のあがきとしか見えないものがある。そして、仮にその横並びの報道を冷静かつ客観的分析であると思っているようであれば(「こっけい」、「劇画的」などの使用語句からも伺い知ることができる) あわれ、アンテナの根元が傾いている。もしそれすら認知できないのであれば終焉はほんとうに間近なのであろう。

 

 マス・メディアよ、報道につまらぬ演出はいらぬ。もし君達が演出を加えればそれはマインドコントロールになる。君たちの見え透いた3流の演出などはとても観てはいられないと言うよりうんざりなのである。そうかと言って1流の演出も必要ない。そして、最悪なのはテレビ報道などで、つまらないキャラで小細工を弄して国民を愚弄することである。もうこれ以上国民を巻き込み、愚弄するのはやめなさい。君たちは何もしなくていいのである。もはや国民は君たちの汚れた唾液で噛んで含められる対象ではなくなりつつある。ただひたすら事実を伝えなさい。取捨選択するのは君達ではない国民である。 

 

※テレビ局の現状は人不足、金不足などで「報道や言論」などは二の次」だそうだが、そんなものを聞かされる方たまったものではない、もしそうなら一度解体すべきであろう。事実を事実としてきちんと伝えるという根本的な姿勢が崩れているということを指摘しているにも関わらず、人不足、金不足で「報道や言論」が二の次になっているという弁解がましい現状説明、そして、二の次、三の次になっている割には事実に巧妙な加工、作為を施す時間と労力を惜しまないのはどう言う理由なのか。(分かり切ったことを敢えて聞きたくなる。)                                           

 

2010 8/26  mada mada tuzuku・・・

 

 


40.「コピー・アンド・ペースト」について


 「コピー・アンド・ペースト」(コピペ)とは「他人の文章を切り張りして自分の文章にする」こと,とある。これは文字通りそれがそのままその人間の人生であり、「実り」などはまったく期待できない。要するに、身についていない、借りものの人生では肝心な時に機能しないのである。さらには糊付けされたものがはがれでもしたら悲惨な状態となる。いかに社会の動きの速度が増しても、いざという時に自らが自らに問いかける核心の部分の育成には時間がかかるのである。今、必要なことは他人の思惑など意に介さず平然と「自己の課題」に誠実に立ち向かう姿勢そのものであろう。

 「コピー・アンド・ペースト」とは自分にも他人にも嘘をつく作業であることを肝に銘じるべきである。その行為自体が将来的には結局、「身から出た錆(さび)」というようなことになってしまう。錆(さび)が出る頃にはもう本体は回復不能で手遅れなのである。

 

                                                     2010 8/24


39. 死体の体温は40度


  クーラーも扇風機もない部屋で、熱中症で死んだ男の体温は死後数時間も経っていたにもかかわらず40度もあったそうである。これはもう体温と言うより物体の温度と言った方が正確であろう。「熱中症で死亡」と言うと何か気象現象などの不可抗力で死んだような印象を与えるが、実は必ずしもそうではない。この夏、何人もの高齢者、経済的弱者と言われている人々が灼熱地獄で息絶えた。見渡せば、野辺は野辺と化し、棄老による髑髏(どくろ)はそこかしこ現われ出でて、自ら命を絶つ者は跡を絶たず、ここはいずちの国かと聞きたくなるのも不思議ではあるまい。これがこの世の「現実」と、したり顔でもの言う者も、たまさかの運の良き事にかこつけて勝者気取りでいれば明日は我が身ということもつゆ忘れ、自らの力及ばぬところから自身の境涯を思い知らされる頃にはもはや打つ手もないというのが実情であろう。

                                     

                                                2010  8/23


38.「野ざらしを心に・・・」、やはり「棄老」は伝説ではなかった。


 「野ざらしを心に風のしむ身かな」とは、言わずと知れた芭蕉の句である。旅の行く末に、また自らの道半ばで「野ざらし」となることも辞さない寥々たる中にも清澄な思いを感じさせる句である。「野ざらし」とは風雨にさらされた髑髏(どくろ)ことである。しかし、今や旅という非日常性の中で自らの死を予感するまでもなく、ありふれた日常の中で「野ざらし」が至る所でころがっているというまさにブラックユーモアのような世界がそのまま今の日本の現状である。この国で「老いる」ということは、どこにいようとも「野ざらし」を覚悟しなければならないということでもある。もはや芭蕉の句は台所で、トイレで「呟く」句となってしまった。そこにあるのはただ寥々たる思いだけであろう。これが先進国、民主国家と言われている国の実情である。国家的「未必の故意」とも言える「棄老」は伝説としてではなく現実の事実として残った。これはどのような詭弁を弄しようが旧体制によってもたらされた必然的結果であることを付け加えねばなるまい。そして、それが充分に想定内であったと考えるなら、これは国家的犯罪とも言えるだろう。

 

                                                       2010 8/20 


37.「死ぬときに後悔すること25」について


 某週刊誌が緩和医療医の著作を紹介していたが、その中に「死ぬ時に後悔すること」として25項目が挙げられていた。この医療医は1000人以上の死を見届けてきたらしいからその内のほとんどの者がこの25項目のどれかに振り分けられるのだろう。25項目の内2,3を除くと、その内容は具体的であると同時にやろうと思えばすぐにでも可能であったであろうと思われるものばかりである。その1歩が踏み出せないままこの地上から消え去って行く、何とも情けない話である。これがほんとうに死ぬ直前の思いなのか、実はまだ死ぬとは思っていないのではないか、この質問が発せられた時期がその患者のどのような時期であったのかは定かではないが、このような質問の前で言いたいことは山ほどあるがまとめようがないことからくる強引な括り方、恰好の付け方ではないかとも思える。

 25項目の中の一つ「夢がかなえられなかったこと」なども、棒ほど願って針ほど叶うのが世の常であってみれば、これは万人のツブヤキでもあろうし、これはその個人である必要がない「後悔」でもある。また、「子供を結婚させなかったこと」、これは親が考えることではあるまい。考えてどうにかなると思っていること自体が不可解な「後悔」である。そして、「生と死の問題を乗り越えられなかったこと」、ここに至っては絶句。これは古今東西の聖人、哲学者、などですら完全には答えられない、乗り越えられていないと言ってもよいことである。言っている意味、事の大きさに気づいていないのであろうか、これは人が一生を賭しても見出し得るかどうか分からぬ問題で、「後悔」の対象にはならないだろう。

 ただし、終末医療に関わる者としては相手の全的「受容」が大前提としてある。したがって、「死ぬときに後悔すること25」はすべての一般的価値基準を排除して患者の発信したものすべてをそのまま拾った結果であろう。しかし、私はそのような作られた「受容」の中で、演出された「穏やかな死」を迎えるつもりはない。たとえば、雷鳴とどろく中、稲妻に向かって握り拳を振りかざして死ぬのも一つの生き方、死に方でもあり、また、ある高僧が死の直前に「死にとうない」と言って見守る弟子たちを驚かせたというのもまた一興であると思っている。 

 

 

                                                     2010 8/16


 36.臓器移植に想うこと


 臓器移植でしかもう直しようがない、また助かる見込みがない人々に対して、私には沈痛な思いで見守るしか他になす術もないが、どうしても解せないことが常に残る、と言うよりは時に恐怖さえ感じることがある。それは一縷の望みとして臓器移植を提示されることによって他人の死を待ち望むことになるというそのこと自体から発生する。臓器提供者が現われたということは、移植を待っている人間には朗報であるが、それは他人の不幸によってもたらされたものである。

 そして、一方では臓器移植は医療産業にとって大きな利潤をもたらすものでもある。10数年前のことである、某国では死刑が頻繁に行われていたが、その死刑囚の死体はすぐさま臓器移植に回されるということを、ある大学の講師から聞いたことがある。そして、臓器移植のために死体を一体解体すると病院が一棟建つというくらいに利潤を得ることができるということであった。その話から、私はいつの間にか姿を消してしまうストリートチルドレンのことも考えざるを得なくなってしまった。需要がある限り、供給は止むことはなく、それは我々の限りない欲望に突き動かされてすぐに度を越してしまうということを我々は今迄にも何度となく見てきたはずである。「人命救済」という名の下に医療産業の「思惑」が見え隠れするのである。

 そして、何よりも脳死はほんとうに死なのか?と言う問いに対してもまだ「完全」には答え切れていないのが実情である。もし、将来的に脳死は完全なる死ではないという結論が明確な科学的根拠をもって出されたら一体誰がその責任をとるのか。脳死の後、まだ生きている細胞が「暫くの間」その脳の代替活動を担っているとしたら、たとえそうではなくとも脳死の直後にすぐに解体される死者の最後は「やすらかな死」ではあり得ないことだけは確かであろう。

 

                                                 2010 8/10


35. 仏教と墓とは無関係


 先日亡くなった つかこうへいが、私は仏教徒でもないので墓は不要、骨は対馬海峡辺りにでもまいてくれというようなことを言ったらしいが、本来、仏教と墓とは何の関係もない。釈尊(釈迦)自身も死者の為に丁重に葬儀を行い、墓を作って埋葬すべきであるなどとはどこにも言っていない。むしろ、そのようなことは生きている者に任せて、今生きて道(この場合は仏道)に励めということしか言っていない。要するに墓を持つなどはどうでもいいことであり、それより生きて励むべきことに集中せよとだけ言っているのである。

 私は、厳密なる仏教として原始仏教から中論、そして日本における「正法眼蔵」に至る仏教の経緯の中にしか真実の仏教は見出し得ないと思っているので、残念ながら今の世俗葬式仏教には全く興味がない。もちろん、日本にも数多くの素晴らしい僧侶は存在したが、彼らの真の「教え」はほとんど浸透していないと言ってよいだろう。つかこうへいなども仏教を日本の一般的通俗仏教の枠の中でしか捉えていないことがそのもの言いから知れるが、彼の意に反してやっていること、為したことについてはブディスム的であるとも言えなくもない。

 私は、イスラム教、キリスト教でも、また神道のような民族宗教の前でも「合掌」する。それはそれぞれの「祈り」に対する「敬意」である。

 

                                                    2010  8/8

 


34.「人を殺さなければ、何をしてもよい。」とは?


 「するべきこと」ということに身動きつかなくなった者に対して、少しでも自己の欲望に忠実になれという過激なエールとして成り立たなくもないが、同時にそれは危険な要素も併せ持つ。「人を殺さなければ、何をしてもよい。」ということは、「人を殺さなければ、いかなる嘘をついてもよい。」ということでもあり、それは現実世界にまたさらに「嘘の殿堂」を拡張することにも繋がり、それによってまた人々の疑心暗鬼による心の歪みも増長し、「未必の故意」なども日常茶飯事となるということである。また、それによる「殺人」も許容の範囲にもなり得るだろう。罪となる事実の発生を積極的に意図、希望したわけではないが、自己の欲望の果てに、結果的に他者を追い詰め、死に至らしめることを承知しつつも、それを回避しようとはせず、是認する方向に向かう、その時、直接的には人を殺していないということだけでそれをいかようにも自己正当化することが可能になる。それはまた新たな「地獄」を、「地獄」の変種を作り上げる作業とも言える。

 「人を殺さなければ、何をしてもよい。」とは各自の自由活動を後押ししているようだが、「人を殺さなければ、どんな地獄を作っても勝手、たくましく疑獄を生き抜こう。」などと言うくらいに捉えていた方が無難で、危険な面を持っていることに気が付かなくてはなるまい。殺人以外は何でも可という「自由活動」の破たんはすでにあらゆるところで噴出している。その「自由」のツケは意識するとしないに関わらず各自が背負うことになる。

因みに、刑務所内の囚人の間では殺人犯は単なるドジな馬鹿者扱いであるらしい。 

                                                2010 8/4


33. 死を待ち望まれる人々


  30年近くも前に、長く入院している年老いた父親の面倒を見ている知人が、「こんなことは言いたくないが、早く死んで欲しいと思っています。」と言った。その時、彼もすでに30代半ばを過ぎていたと思うが、いくら残業しても給料の半分以上は医療費に持って行かれて自分の生活もままならず結婚などはとても考えられないと言う。その後、彼とは会う機会もなくどうなったのかと思うが、まじめな彼のことである父親の面倒を最後までみたのであろう。そうだとすれば彼には家庭を持つことはできなかったはずである。また、もはや持ちたいとも思わなかったかもしれない。「早く死んで欲しい」という気持ちが起こることに対して一番無念に思っているのは彼自身ではなかったか。自分の今やれることのすべてを出し切っても打開できぬ問題を抱え込んでしまった人々の心に「殺意」をいだかせ、追い詰めて行くものの所在は明確なのである。たまたま運の良かっただけに過ぎぬ者達が彼のような境涯に置かれた者達の「呟き」を真っ向から責め立てるのは身の程知らずの傲慢さと言わざるを得ない。これは個人で解消できる問題ではない。国が助けなければらない問題である。今ごろ少子化問題など取り上げているようでは遅過ぎるのである。たとえ取り上げたところで為す術もあるまい。そこには経済、医療、保障問題などのすべてがからんでいるのである。だから少子化問題対象者の中でも無謀な人々以外は政府が打ち出してきた少子化対策程度で踊り出すことはないのである。(少子化問題の対象者は一般に「富裕層」ではない)

 最近では、100歳以上の老人の行方不明者が続出、それも2,30年前にすでに行方不明となっている者達である。多くは行方不明の届出も出しているのか定かではない。事実上の「厄介払い」であろう。このままでは、この国は先進国とは名ばかりの「棄老伝説」姨捨山を地で行くことになるだろう。私の身近なところでも、最近、老人の腐乱死体が発見されたり、商店街を垂れ流し状態で悪臭を放ちながら歩く老人がいたりと具体例には事欠かない。このような醜悪な姿を常に見せつけられる者達がこの国にいる我が身の行く末をどう感じるかは分かり切ったことである。身を捨てる程の国家ではないと思うのは当然のことであろう。長寿を祝うなどと欺瞞的なことをやっている前にやることは山積していたはずである。しかし、とめどもなく出てくる旧体制自民党政権下の負の遺産である。彼らは一体何をやっていたのか?

                                                  2010 8/3


32.「人間の役に立つより、神様の役に立て」


 これは、ある作家の父親が息子に言ったことである。

 もはや、「人間」そのものが特定できない状況の中では核心を衝いた表現である。「人間」の役に立つこととは何なのか、「人間」を楽しませることとは一体何なのか、この恐ろしく怪しげな化け物「人間」、この「化け物」の「役に立つ」こととは、この「化け物」を楽しませることとは、一体何なのか。もちろん、これは「人間」という多面体の一面を言っているに過ぎないが、それは確実に存在し、光の方向を見失えば一瞬にしてその全面を覆う一面でもある。このような在り方しかできないのが「人間」である。したがって、なんびとに対しても必要以上に謙虚になる必要はもうとうないのである。謙虚に受け止めるべきは「人間」の作為が遠く及ばぬ「神」の領域(広義の意味で、例えば大きくは「大宇宙のリズム」、小さくは「人間」の他面で辛うじて息づく限りなく祈りに近い「呟き」とでも言うべきもの)の「声」である。

 「人間の役に立つより、神様の役に立て」とは、「人間」を楽しませるより、「神」を楽しませたいと思うのと同様に、それが誠実な精神の在り様であろう。それは「偽善」からも「偽悪」からも距離を置ける唯一の道でもある。

 

 

                                                      2010  7/30

 


31. 笛吹けど踊らなくなった時


  マスメディアがいくら笛吹けど踊らなくなった時、それは各自が「旧体制」の呪縛、洗脳からようやく解き放たれた時でもある。そして、各自が真に「自らのリズム」で踊り始めた時、ある部分の「洗脳」は解けたと言うべきであろう。いつまでもマスメディア一般が旧体制から脱却できないのも、日刊新聞法(1951年制定)、電波法、放送法などに守られた既得権益の問題があるからである。そして、旧体制は少なくともその既得権益について切り込むことはなかった。今まで連携していた相手が自滅して行く中で慌てふためいているというのがマスメディア一般の実情に一番近いだろう。あわれ、彼らのアンテナは完全に狂っている。否、アンテナはそもそもなかたのかもしれぬが、アンテナではなくもうすでに本体が腐臭を放っているのである。

 

※良識ある1部マスメディアは除く。

 

 

                                                                                                              2010 7/26     


 30. 哀れな「偽悪者」の死


 ある「作家」が書いた本に「反応」して、読者が作家を殺すという事件が起きた。それだけ見ると、そこまでインパクトを与える作家がいたのかと思う反面、事態が考えている以上に深刻化しているのではないかとも感じたが、敢えて調べるまでもなくその構図は見て取れた。適度に味付けされ、加工が可能な「偽悪」は面白がられ、マスメディアはそれにすぐ乗るが、雲行き次第では途中下車、いつものパターンでもある。これは作りだされた「偽悪」作家とそれに踊らされた者との「悲劇」である。さらに詳細な事実が判明したとしてもこの基本構造は変わることはあるまい。我々は幸いにも「絶対善」にも、「絶対悪」にも到達することは稀であり、むしろ不可能と見る方が賢明であろう。残された方向は「偽善」か「偽悪」しかない。両者とも嘘が多く常に「検証」を必要とするが、「偽悪」は悪臭を放つだけで、何ものをも創り出さない。そして、今や、「偽善者」よりも「偽悪者」の方が多いのではないかと思われる状況である。「偽悪」的、一見「反体制」的言動も何か「事」が起きれば、その後は「反省ポーズ」ですぐにその「腐敗しきった」「社会復帰」を目指すというお決まりの回路である。その程度の「偽悪」でこれ以上社会を「下品」にすることはない。もうすでに充分に、文化レベルも含めて「下品」なのである。「偽悪」は反理想主義的という意味でも、その「反体制的」言動にも関わらず実は「腐った体制」に都合のいい「体制的」な要素を持っている。

 

※犯人は「神経症」云々とまたいつものの精神病理上の規定もあったが、今生きている者たちに精神病理の精密検査をすれば、ほとんどの人間が何らかの病名を言い渡されるだろう。テレビなどに出演している者達などもある意味では精神病棟にいてもおかしくない者ばかりである。したがって、精神病理上の規定を行為の根幹要素の解釈として必要以上に援用するのは避けるべきである。

                                          2010 7/24


29. 今年ばかりの夏行かんとす


 正岡子規の短歌に「いちはつの花咲き出でて我目には今年ばかりの春行かんとす」という短歌がある。この短歌は、自らの死を悟って、もはや二度と訪れることのない「春」そのものに対する惜別を詠ったものである。しかし、私にとっては春夏秋冬すべてが「今年ばかり」なのである。本来、すべての出会いが一期一会であってみればそれはごく自然な道理である。もう二度と味わうことができないと思うと、この酷暑も何らかの生きた証となって自身に残る。暑さは飽くまで暑く、しかし、そのただ中で暑さそのものが必要以上に「私」と対峙しないのである。

                               

                                               2010 7/23


28. 愚かな税率論議


 「増税で経済成長を唱える愚かなメディアと評論家」

 彼らは多くの視聴者の状況からはまったくかけ離れたところにいて、既得権益死守の代弁者的「自己主張」を続けている。欧州の例を出して税率論議をするのであれば、まず日本の「消費税」の実態について正確に伝えるところから始めなければいけない。それについては、田中康夫が指摘するとおり「欧州と同様にインヴォイスを導入した上で、付加価値税としての消費税の在り方を論議すべき」なのである。そうでない限り、結果的には「税率引き上げによって、零細業者から大企業への大規模な所得の移転が生じてしまう」のである。またまた巧妙に国民を欺く罠を仕掛けようとしているメディアとその周辺機器である。

 

                                                   2010 7/20


27. 谷岡ヤスジのような「夏」 


 今年の「夏」は、「全国的にナツー!!!」と「ムジ鳥」が空中で羽ばたいているような突然の到来であった。こんなことを連想するとはつくづくと時の流れを感じてしまうが、同時に自分の中にもまだ分別臭さを感じさせぬアナーキーなエネルギーが残っているのかと思えることが楽しい。「ムジ鳥」が空中で雄叫びを発し、周りにいる者たちは鼻血を「ブー」と大量に飛び散らす。何とも異様なパワーを感じさせる世界ではある。今の人たちでは、見ているだけで貧血を起こすのではないかと思われる漫画である。当時、私は谷岡ヤスジの漫画はあまり好きになれなかったが、よく知ってはいた。それがどうして今頃そんなことを連想させるのか、それは現状に流される安っぽい「ニヒリズム」(虚無主義)と、いつからともなく巧妙に「去勢」されて行くことに対する拒絶反応なのかもしれない。

 サンングラスをして、耳にはイアホーン、口にはマスクで本を読んでいる姿、あるいは携帯電話をしながら無灯火で自転車を走らせる者、これだけのことでもすでにおそろしく「異常」である。しかし、その状況にどっぷり浸かっている者にはその異常性が見えてこない。だから、今、あの異様とも思える「ムジ鳥」が何とも言えず「人間性」を帯びてくるのであろう。それは健康的でさえある。

 久しぶりの強い日差しの中で、「ムジ鳥」が鳴いた。「ナツー!!!」、今、この酷暑が心地よい。

 ぺタシ、ぺタシ・・・・・「然り」とつぶやく声がする。ぺタシ、ぺタシ・・・・・

 

※「ムジ鳥」も「ぺタシ」も谷岡漫画のキャラクター

                               2010  7/ 夏になった日


26.明るい話題ばかりの異常さ


 「こんな時代だから明るい話題をする」何ともお粗末な話である。だから、ますますおかしくなるということに気が付かなければならないだろう。まず、我々には知る権利がある。そして光と影があることでものを全的に捉えることができるのである。「明るい話題ばかりする」ということは影の部分を排除するこでもある。そうするとどうなるか、簡単に言えば、頭の中はハレーション状態で、ものが的確に見えない状態で闇の部分だけは人工的に増幅されていくのである。

 日本のマスメディアは特に、「暗い」ニュースを避ける傾向がる。「明る」、「暗い」は関係なくあった事実をできるだけ正確に伝えるのが本来の務めであり、我々には知る権利があるにも関わらずそれがほとんどなされていない。たまにそれらしきことがあっても必要のないところまで「ボカシ」がかかている。彼らにとって国民はいつまでたっても18歳未満であるらしい。国民をなめているとしか言いようがないのであるが、一方では国民自身もどこかでそれに甘んじてきたということもあるだろう。踊らされているにも関わらず、自分自身の意思で踊っていると思っている日々。そのようなすべての結果が今の日本の現状である。

 五木寛之が「新聞にしても、テレビにしても、ジャーナリズムが暗いニュースを故意に無視すれば、ろくなことはない。」(7/15 日刊ゲンダイ)と言っているがその通りである。頭の中がハレーション状態のものは「闇の部分」を執拗に排除しようとするのである。しかし、「闇の部分」を見つめることを避けては、光と影が織りなす全体像は見えてこない。事実としてある「影の部分」を避けて、または隠ぺいして明るい部分だけを取り出すということは、ものが見えていないハレーション状態の人間に拍車をかけるようなものである。そのようなことを少しでも避ける意味でも、明るい話題だけではなく、日本の、世界の悲惨な状況も含めた事実を事実としてきちんと伝えることから始めなくてはなるまい。頭がハレーション状態のいくつになっても18歳未満の「お子ちゃま」国民ばかりを育てることは「植民地政策」「愚民政策」を地で行くことにもなりかねない。光も影も全身で受け止めるられるようなたくましい人間を育てることが全体をより良くするためには不可欠なことであろう。

                             

                                                          2010 7/15


25.民主主義に「迷走」、「ねじれ」は付きもの


 またまた、マスメディアの分かったような分からないような「一言くくり方教室」が始まった。「迷走」するのが民主主義、「ねじれる」のが民主主義、逆に「迷走」もせず、「ねじれる」こともない快刀乱麻にものごとを決められたのでは怖いものがある。今まで半世紀以上も1党独裁で飼いならされて結果であろうが、マスメディア自体もそれに歩調を合わせて1歩たりとも前進した気配すらもない。余程、全体主義的傾向を持つ一党独裁が好きだと見える。今までのような薄汚い「政治屋」よりは、「お子ちゃま大臣」、「アマチュア政治家」と呼ばれながらも叩かれて(ある意味では情けない)僅かでも成長していくことを期待しざるを得ないというのが大方の「良質」な国民感情であろう。これは国民にとっても、政治家にとっても、民主主義そのものを真に見直す良い契機である。つまらぬ「騒音」に惑わされることなく、「迷走」しながら、「ねじれながら」熟慮前進するしか道はないのである。因循姑息なヒステリー女のように苛立つのはマスメディアとその「周辺機器」だけで充分である。国民はそんなヒステリー女の「煽り」に揺らぐことなく、このヒステリー女を影で操るもう一方の「主権者気取り」のあり方と位置に細心の注意をはらいながら、この際、真の「主権者」に成るべきであろう。「迷走」、「ねじれ」などと言うのも、現象そのものの様態を言っているに過ぎないのであるが、マスメディアの「くくり方教室」ではいつの間にか見るも無残な醜悪な現象という意味合いばかりを敢えて一人歩きさせて、それに則って「話」を増幅させているというのがその実情である。「迷走」、「ねじれ」という現象そのものは、国民自身が問題の所在について関心を持たざるを得なくさせる、またそれによって社会問題を、自分自身の位置を確認することにもなるのである。何でも人まかせにしておいたらどうなるか、身の回りについて少し思いを馳せればすぐに分かることである。いいように食い荒らされて残ったのは残滓だけなどとならぬよう細心の注意が必要だろう。

 悲劇は自らを追い詰めた「犯罪者」に手を振っていることである。

 

                               2010 7/14


 Para mi amigo


¡ Enhorabuena¡

Campeonato Mundial de Fútbol

Para  ustedes   el fútbol  es el deporte rey

Recuerdos a Sr .Pulpo 

 


24. オグリキャップはやはり「馬格」が違う


 人間も「人となり」があるように馬にも「馬格」がある。騎手、厩務員、調教師などの話を総合してみてもやはりこの馬は並みの「馬格」ではない。そうは言っても馬には人間のように人品下劣というような「馬格」も存在しない。並みはずれた「馬格」とは人間との共感、共鳴領域が非常に広い馬とでも言えるようなものであろう。「彼」はひたすら走ることだけで多くの人間に勇気を与え、救った。この事実だけでも、本来なら人々に生きる勇気を与え、救わなくてはならない務めを持つ人間達は自らのやっていることの卑小さを改めて思い知らなくてはならないのであるが・・・

 オグリキャップに救われ、勇気をもらった人達はオグリキャップのことを「この馬」、「あの馬」とは言わない、「この方」、「あの人」と言う。これは「人」としても極自然な気持ちの流れであろう。そして、一方では、人一人も救うこともできない者達が、相も変わらず大きな顔して「識者」でございますとばかりに出てきては、したり顔で虚しい寝言、戯言をまくしたている。その無残な様を見ていると、オグリキャップがますます神々しく見えてくる。人間というのはそれとは分からぬままとんでもなく愚かにもなるものらしい。すぐに,いい「下限」が分からなくなるのである。

 

                                                                                                                                        2010 7/11


 23.人生の最終章は「中世歌物語」


 私とは一面識もない演劇人、平林恒茂(舞台演出)が癌宣告を受け、余命6カ月で選んだ人生最後の演出作品が「オーカッサンとニコレット」であったことをドキュメント(7/8放映)で知った。そのことだけでこの人物に対して何とも言えぬ共感を持ってしまった。聞けば、22年振りの舞台演出だそうで、以前は「オンシアター自由劇場」に在籍(1976-1986)していたということであるから、おそらく私とは六本木のどこかで会っているのかもしれない。当時、私はNLT(六本木)に在籍していたのでオンシアター自由劇場にも何回か行ったことがあった。NLTでの「オーカッサンとニコレット」の初演は1978年(本邦初演)で、私も違う芝居の演出をしながらもNLT在籍中はNLT公演すべてに関わっていたのでこの「オーカッサンとニコレット」も例外ではなかった。特にこの芝居は今までのNLTの枠組みから外れていたので興味深かかった。座長の賀原夏子さんもこの芝居の一般上演にはかなりの勇気を必要としたのではないかと思う。(稽古開始から上演までに1年以上かけている。)案の定、劇団内部では賛否両論が渦を巻いていた。私も賀原さんから何度か感想を聞かれたが、その不安は痛いほど分かった。この芝居はかなり「訓練された」役者がやらないと、ややもすると「学芸会」風にもなりかねない「怖い」面をもった芝居なのである。幸い、本邦初演となるこの公演は連日満員で、「ぴあ」のベストテン入りというオマケまでついた。実際に、このような芝居の場合、劇団組織でも思っている以上にかなりの稽古時間を必要とするのである。緻密にやろうとすればなおさらである。

 私も2年程前、シアターχでこの芝居を演出したが、公演形態がプロデュース公演だったので大変な作業となった。しかし、なぜ彼が人生の最終章に敢えてこの芝居を持って来たかったかということもよく分かる気がする。そして、登場人物の老婆に「人の生き死には不公平なもの」と言わせたそうだが、その台詞は、賀原さんとの打ち合わせの折、彼女が何気なく「雨の日に登場したものと、晴れの日に登場したものとでは全然違うのよ」と言ったことを思い出させた。30年以上も前のことである。

 見知らぬ友のご冥福をお祈りします。

※残念ながら、今年1月に上演されたと言う平林演出の「オーカッサンとニコレット」は観ていない。

 

                                 2010 7/9


22.「 自殺」に想うこと


悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て

此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等の

オーソリチィに價するものぞ。萬有の

眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。

既に厳頭に立つに及んで、胸中に何等の

不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は

大なる樂觀に一致するを。

 

 これは1903年(明治36年)5月22日、日露戦争前年、当時16歳の旧制一高生の藤村操が華厳の滝に飛び込む寸前にミズナラの樹肌を削って書き残した遺書「巌頭之感」である。

 藤村操の死は、美少年で一高の秀才でもあり、その「動機」がプラトニックラブの破たんであったのでこうまで世間の同情を引いたのだという説もあり、それがいつしかあれは単なる失恋の果ての自殺だと半ば嫉妬まじりの俗流の間で矮小化されていく中、彼の高校時代の教師でもあった夏目漱石は「吾輩は猫である」、「草枕」などの中でも取り上げて、彼の自殺に関する一連の矮小化に対して一線を画している。特に「草枕」の中での藤村操の死についての漱石の主張には説得力がある。すなわち、

「昔し華厳の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して、急湍に赴いた青年がある。余の視る所にては、彼の青年は美の一字の為に、捨つるべからざる命を捨てたるものと思ふ。死其物は洵に壮烈である、只其死を促すの動機に至っては解し難い。去れども死其物の壮烈をだに體し得ざるものが、如何にして藤村子の所作を嗤ひ得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐる情趣を味わい得ざるが故に、たとひ正當の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある點に於いて、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」要するに、この自殺を俗流の解釈でしたり顔をするものに笑う権利はないといっているのである。また、その「文学論」では、噴火口に飛び込み自殺をしたと言われている古代ギリシャのあのスファイロスの哲学者エンペドクレスの例にまで及んでいる。

 さらに、黒岩涙香にいたっては、「我国に哲学者無し、此の少年に於いて初めて哲学者を見る」とまで述べている。この点に関しては今でも同様であろう。命を賭す気概に於いても、また誠実さに於いても充分に納得でき得るものを持っている者は稀で、皆無に近い。単に重箱の隅を突いているだけのようなアカデミスムに明け暮れ、辛うじて見つけた吹けば飛ぶようなものにしがみついている輩とは異質であることは確かである。(黒岩涙香の指摘は、西田幾太郎が哲学者として世に登場する以前と見るべきだろう。「善の研究」は1911年である。)

 三島由紀夫もこのような死に方をすれば、完璧な切腹とともに自己完結的な美を厳頭の彼方の日輪に見て、やがてその身は飛瀑の虹の中に直下し、消えて入ったはずであるが、二番煎じを極度に嫌う彼の事である、決して厳頭に立つことはなかったであろう。そうかと言って、かのギリシャの哲学者のエンペドクレスのごとく火山の噴火口に飛び込むことなどは美的領域の住人にはできることではない。それが本来の哲学者と美的殉教者との根本的な違いである。黒岩涙香も本来の哲学者と言う意味で「我国に哲学者なし」と言ったのであるが、藤村操は、漱石が「美の一字の為に、捨つるべからざる命を捨てた」と言うように、その哲学的文面にも関わらず、哲学者というより美的殉教者に近いのではないかと思われる。

 現在、日本の自殺者はここ12年間連続、年間30000人を越えている。いくつかの事例で推測するしかないが、少なくとも藤村操のように飛び込む寸前に樹肌を削ってその思いを書き連ね、それこそ「悠々と」飛び込んだ事例は後にも先にも聞いたことがない。毎年30000人以上の死者を出す内乱状態かと思わせるような自殺者の量、そして、その多くの「動機」が「借金を苦にして」、「いじめを苦にして」、「老後を苦にして」、等々、安手の週刊誌並みの括り方で分かったようにすべては収められている。それらの遺書の多くは先立つことの「詫び」と「感謝」で終わる、「お父さん、お母さん、ありがとう」。中には戦時中の特攻隊の遺書と見間違うばかりの遺書もある。実のところ、その「動機」の多くは語られず、自己の悲痛な叫び声を上げることすらできない状況の中で、すべてを自分自身の中に溜め込みながらほぼ衝動的に死んで行くのである。これはもう武器なき内乱状態であると言ってもよいほどである。

 漱石自身も藤村操の自殺については「只其死を促すの動機に至っては解し難い。」といっているが、誠実な見解である。それについての江藤淳などの分析的論述は、特に精神分析的手法での「断定部分」に関しては「解せない」ものが残る。たとえば藤村操の「神経症」、「父からの体質遺伝」等、これを言い始めたら、すべての人間はどれかに当てはまるだろう。芸術家にその例を探し求めたら切りがない。そもそも、地球上で限りなく愚行を繰り返す人類にどれ程「まともな」人間がいるのかということにもなり、これは不治の病にただ病名だけを付けて何かをつかんだかのように思い込んでいるのと同様である。ただし、この自殺についての江藤淳の「時代に底流する不安と変化の兆候を先取りしていたことは否定しがたい事実である。日本の社会はこのとき、まさに未知の新しい時代の重圧を受けて、自らそれと知らずに激しくきしんでいたからである。」と言うその当時の歴史的背景に関する指摘は頷けるが、それでもなおこの藤村操の自殺については漱石のごとく、理解できない部分に関しては「解せない」として、そこに「見え隠れするもの」を手掛かりに綿々と各自が持ち続けるべき問題でもある、それに耐えかねて「チンケな答え」にしがみつくことは自分自身の人生を「チンケ」なものにするだけである。ドン・キホーテを単なる「誇大妄想狂」として捉えるのか、精神の冒険の守護神として捉えるのかでは自ずとその方向も展開内容も違ってくる。少なくとも前者には先がないということだけは言える。

 この藤村操の「巌頭之感」は、事件の影響を恐れた当局によってすぐに抹消されたが(その直前、地元の写真館がミズナラの大樹に墨書されたものを撮影している)日露戦争前夜の16歳の少年の自殺は当時のマスコミを賑わし、2か月余りに渡って言論界の中心的話題となった、とある。

 因みに、某週刊誌(1986年 7/11号)では<ー略ー83年後のいま自殺は「哲学的な死ではなく、恋の片思いが引き金だったことを証明する操の「恋人への遺書」が見つかった>とある。またまた俗物どもがよろこびそうな「ネタ」である。これで一体何が証明されたと思っているのか、また思いたいのか、藤村操の精神状態の一部を探る手掛かりになる程度のものですぐこの調子である、それがその真実のすべてであるがごとくの書き方である。24年前の週刊誌の記事である。「チンケな答え」にしがみつく一例である。今も変わらずこんな捉え方しかできないのが「大方」のジャーナリスト、評論家の類である。漱石に倣うなら、彼らは藤村操より人格的にも劣等なのである。

 

                                  2010 7/2


  Avec le temps 


 Avec le temps    Tout s’en va

Il y a eu la marque que l’oiseau prenait un bain froid au vase des anges.

Je n’ai plus le temps de discuter du sexe des anges.

                                                                                                             

                                                                                                               2010  6///////////////


21.ジャーナリスティクなタイトルの本であふれる新刊書コーナー


 ジャーナリスティックな題の本というのはほとんどが裏切られると思った方がいいだろう。出版社がとにかく読者に手に取ってもらい買わせるためにのみ腐心したといってもよいような題である。ジャーナリスト、編集者、若しくはどこぞの編集部などが紹介する書籍なども皮相的な内容のものが多い。実際、生前の筑紫哲也が推す書籍などでさえそうであった。ほんとうに読んでいるのかと聞きたくなるような本もあった。例えば、読売、毎日、朝日の各紙が絶賛などとあったとする、これで多くの読者は何を感じるのか、おそらく世の中全般から支持を得られているという「お墨付き」があるものと勘違いするであろうが、新聞社自体がものを言うはずもなく、各紙の担当者(多くは個人名不明)の個人的見解に近いものを載せているに過ぎないのである。

 「○○の正体」などという類の本も切り込みが甘く、胡散臭いものが多い。何より書き手に誠実さが欠けている。一つの例を挙げよう、論述の根拠となる文献の都合のよい部分だけを抜粋して、後半の相反する論点の根拠になり得る箇所は削除されているというようなことがある。(ここまで気付く読者は少ないであろうが、だから不誠実なのである。)ここまでやるかというくらいの典型的な我田引水の論述である。

 ドキュメンタリーでも、書き手の取材の努力は買うがそのような取材で一体何を伝えたいのか、伝えてどうするのか、書き手の姿勢を改めて問いたくなるような内容のものが多い。例えば、レンタルチャイルドー神に弄(もてあそ)ばれる貧しき子供達ー、ジャーナリスティクな題であるが、特にこの副題はこの書き手の理念の危うさとそのスタンスを否応なく明示している。「神に弄ばれる」,ここに書き手の根本姿勢がすべてが集約されていると言ってもよいだろう。この書き手はどこに行っても何を見ても結局のところ「神に弄ばれる」事象でしかないのではないか。そして、この「神」とはどのような神なのか、どのような「神」であれ、「神」が「弄ぶ」ことは決してない。これはメタファーとしても成立しえないのである。このような表現でインドの悲惨な状況(実際はインドだけではないが)を括ってしまう、または括ろうとする日本人である書き手の意識構造そのものがやはり問題となってくる。どちらにしてもこのような不用意な括り方は「神」との葛藤を持たぬ日本人でしかできることではないことだけは確かである。

 以前、ヴェトナム戦争の従軍カメラマンの写真がピューリツァー賞を取ったことがる。その写真とは、今にも死にそうな幼児が立ちすくむ背後でハゲタカがじっとその様子をうかがっている写真である。このカメラマンは後に追及され、良心の呵責に耐えかね自殺した。

 また、2001年9月11日、ニューヨークの貿易センタービルの倒壊の現場に居合わせた日本の「俳人」がご丁寧に季語まで入れて俳句を作って悦に入っている本に出くわしたことがある。そして、その周辺の者はその句を名句とばかりほめそやしている者がいると言う。もはや何をか言わんやである。

 ジャーナリスティックな題とは、耳目を引くことを狙った奇を衒った題でもある。その題を凌駕するような内容はほとんどないとい言ってもよい。そこには今日まったく忘れ去られてしまったとも言えるあらゆる創造活動に不可欠な誠実さの欠如がある。書店に山積みされている書籍も愚かな、敢えて愚かと言うが、そのような「知的遊び人」の営為以上のものはどこにも感じられないものがその大半である。頭の回転数だけで競い合って、弄んでいるような内容には吐き気を催すだけで、本来我々には必要のないものでもある。それは、時折発せられる「観念」の高速変則回転の音に思わず反応はするものの、その後には何も残らない、ある意味ではどうでもいいようなものでもある。音だけはけたたましいが一向に前には進まぬ「空ブカシ」にも似て苛立たしく、煩い。そして、それはまた音色を使え分けた「騒音」とも言える。

 求めているものは、より「本質的なるもの」の酸化鉄の匂いを持つ「軋み」である。それはただ「観念」を弄んでいるような、いざとなればいち早く安全地帯に逃げ込む輩からは発信不可能な領域のひとつでもある。如何に巧みに言葉を使い分けようが、如何に回転数を誇ろうが、どのような「権威者」であろうが、誠実さを欠いた「知的遊び人」の領域にいる人間の言説は胡散臭く、いかがわしく信用することはできないということである。たとえその言説が少しばかりは聞き得るものがあったにしても、それは僅かに「もて遊べる」程度のもであって、やはり信用できないことに変わりはないのである。

 

 

                              2010  6/26 


20.改めて、「識者」とは何者なのか?


 一般に「識者」と称される者達は「知恵」がついている分、基本的に詭弁を弄することが可能な人達である。したがって、彼らの「言っていること」よりも「やってきたこと」を基軸にその言っている内容を検証する必要はある。「○○大学教授」、「○○新聞論説委員」(新聞社によっては言いたいことなどは読まなくても言い当てることが可能である。)、「○○アナリスト」、「ジャーナリスト」、「○○評論家」etc。これらの肩書は彼らの言説を何ら保証するものではありえない。それらの肩書で今まで何を具体的に行ってきたのか、それが問題なのである。どのようなことを言ってみても自らが行ってきた以上の何者でもない以上、そのことがすべてなのである。しかし、マス・メディア一般はそのようなことは不透明にしたまま、聞く方も聞く方だが答える方も答える方であるというような茶番劇を綿々と日々繰り返しているというのが今の実情でもある。キャスティングされた「識者」の顔ぶれですでに聞くまでもなく、観るまでもなく、読むまでもなくその「方向」は明々白々なのである。 その「方向」とは、最近特に強くなってきた反民主主義的な民族主義を前面に押し出した全体主義国家への「方向」である。また繰り返すつもりなのかという思いである。

 日本の文化に親しみ、愛でてきた者の一人としてそのことを政治戦略の手段として使われることに不快感と憤りを感じる。日本の美意識、文化一般については日本人以上に理解し、詳しい者が諸外国にも数多くいる現代において「美しい日本」式の浅薄な日本文化の理解者がどうして真に日本を理解し、愛することができようか。もし、「理解し、愛している」と言うのなら、日本の歴史、文化も含めたすべてについて総合的に述べ伝えるべきであろう。それができないのであれば、また敢えてしようとしないなら、それは自己のアイデンティティに関わる単なる「思い込み」の領域に逃げ込むことでしかなく、検証の余地もない。自身に明解な筋道を持つことも望まず、自分の凝り固められた「意見」をただ強引に相手に押し付けることしか考えない者ばかりになることは回避しなくてはなるまい。日本の象徴的存在の名のもとにそのすべてを正当化させようとする行為は、またいつか来た道へと退行することになり、歴史を教訓化できていない愚かな国民と成り下がるだけである。敢えて歴史は繰り返されるということを地で行く必要もなく、人類には「英知」は存在しないことの「証」を作り上げる必要もない。

 妙な数学者が日本人、日本国について自己陶酔的に論述するのは勝手ではあるが、それは以前にもよく登場した民族主義者を彷彿とさせる。このような「識者」だけを前面に押し出すマス・メディアの目論見は何なのか、それは火を見るより明らかである。

 

                                           2010 6/24


19.奴隷の祈りなどとは無縁


 「私は退屈な芝居小屋から出て行く。その時、天空に神殿の扉が開かれるだろうが、なお私は言うだろう。すべては虚偽であり、すべては空の空である。」と、同時にそのままそのとおりであると。

 今日も「光と瞑想にみちた日」であった。そして、私の「牙」は常に私とともにあり続ける。たとえ、それが自らの口腔を突き破ろうとも。

<あなたがたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、なくてはならないものはひとつである。>人生はあってもなくてもどうでもいいことに関わっている程長くはない。捨て去るべきものは捨て去らなくてはなるまい。

 私には、死を前にして恐怖におびえてしか見えてこない者達の神などとは無縁である。

                        

                           2010 6/22


18.サッカー報道に見るマスメディアの醜悪さ


 私はスポーツが好きである。少年時代もベアーズ(映画「ベアーズ」のできるずっと以前である。)という野球チームに入っていた。その後、柔道、剣道、フェンシングもアーチェリーもやった。サッカーに夢中になるのもよく分かる。しかし、マスメディアが騒ぐ方向が何とも白けるというより、あまりに醜悪な幼稚さである。もう少し違う書き方があるだろうと思う。スポーツの祭典があれば、特大の色つき「金」の活字の乱舞、金、金、金・・・。マネー(カネ)、マネー、マネー、としか見えない「拝金教」を地で行く下劣さ、そうかと思えば国威高揚路線の空疎な言葉の羅列、サッカー報道にしても同様である。何を考えているのか、どこへ持って行くつもりなのか、その妙な「煽り方」が否応なく匂うのである。1946年の時点でマスメディアについて太宰治はその書簡で「大醜態」、「戦時中の新聞」と何ら変わらないと言っている。(このことについては5/20のブログでも取り上げている。)実際、半世紀以上も経って日本のマスメディア一般は今もってまったく変わらず同質なのである。彼らには歴史に学ぶなどという姿勢は端から持ち合わせていないと見える。彼らのやっていることは単なる無芸な「騒音」と言ってもよいのだが、それが一つのマインドコントロールの一環でもあることを明確に見据えておかなくてはなるまい。たまには「騒音」なしで静かにスポーツを観戦したいものである。スポーツは彼らに乗せられて観戦するわけでもなく、また「煽られて」観るものでもやるものでもない。このことは何もスポーツだけに限らない、一事が万事である。

 

                               2010  6/18    


17. 10000本の矢を放つ


 2010年4月、30年振りにアーチェリーを再開した。2か月で7000数百本の矢を放ち、来月10000本を越える。20000本は可能であろうが、腕が持たない。

 私は原初的な弓が好きなので、弓には一切付属品を付けない。最近では的に刺さった矢の頭に矢が刺さることがあるので矢の破損も多くなった。

 時折、冗談半分に聞かれる。

「オリンピックにでも出るつもりですか?」

「誰を殺す気ですか?」

そして、10000本越えたら祝宴などと嬉しいことを言ってくれる友もいる。

これは、要するに私の「気」に合っているスポーツなのである。

    

                                 2010  6/14


 16.刺激的な日々、1週間 2010 6/7-6/13


 非公開舞台(フラメンコ舞踊)のビデオ撮影が6月13日終了した。実に刺激的な日々であった。構成・振付・出演のフラメンコ舞踊家 橋本ルシアの独舞である。橋本ルシアの秘めたる自由な側面が全面開示で舞台に表出した。それを5台のカメラが追う。最近ではスタッフの質の低下も甚だしいが、今回のスタッフは全体的に良質であった。とりわけ照明の西島竹春氏、彼とはもう30年以上のお付き合いになり他と比較するレベルにはないが、多くのスタッフが現場ズレしてただ「感性」を摩耗させ惰性に走る中、未だに舞台に関わる姿勢に微塵の変節もない。彼には「更新」に耐え得る「知性」があるのである。

 そして、(株)ビデオの撮影スタッフ、私の言う意図を的確につかんで舞台撮影にかかわる姿勢は申し分がない。共同作業の現場の動きとしてもよかった。

  今後の編集作業も橋本ルシアの「月華独舞」と題した彼女のフラメンコ世界にどこまで迫れるかが最大の課題である。「安手」の演出などはただうるさいだけになるだろう。

 因みに、私は「観光フラメンコ」、「フラメンコショー」、そして内的必然性のない時代の趨勢に便乗するだけのすべてのアートにはまったく関心がない。真実を語り得ない単なる嘘だからである。 

                             2010  6/14

 

 


15.Il y a quelque temps     à Tokyo  (6)


Bonjour Monsieur

Dans votre conversation  il semble que j’apparaissais au caf’é Chez Francis.Je suis heureux de cette nouvelle.

Si nous vivions   nous nous reverrions au café Chez Francis.

Quelquefois  je pense sur tout ce que je pouvais vivre jusqu’à présent.

Aprés tout  mon professeur était la mort.  Accepter la mort  affronter la mort   c’est impossible  mais très important.  La vie et la mort   l’instant qui oublie tous les deux. C’est  le temps magnifique.

 

A  bientôt

                                                                                                                               2010  6/12  


14.非公開舞台(フラメンコ舞踊)のビデオ撮影(6/7ー6/13)


1週間に渡る劇場での舞台撮影(ビデオカメラ4台)の監督としてその作品にかかりっきりである。連日、劇場に9時間以上はいる。この作品の編集終了は9月の予定である。(何もない作業灯だけの舞台でも充分成り立つ、求心力を持つ舞踊を最大限生かす方向での映像製作になるだろう。) 

 

  先日、フランスの友人からメールが来た。カフェ シェ・フランシスの前を通るといつも私の会話になるという。嬉しい限りである。

 

                               2010  6/10


 13.日本の国民性の一端なのか本質なのか


 古代より常に日本の民衆は「良き」専制的統治者が「やって来る」ことを待ち望んできた。そして、近代、現代になってもしかり、当然「市民革命」らしきものはいっさいないと言ってよい。日本人は「市民意識」に繋がり得る過程がどこにも見出し得ぬ「湿地帯」の住人なのである。だから、いともたやすく絡め取られてしまうのである。そして、自らが作りだしたとも言える「湿地帯」で手をとられ、足をとられてもなおこれが「この世」とばかりすべてを「個人の問題」として集約させようとしてきた。したがって社会問題となりうる問題でも社会を変える「大きなうねり」とは成り得ないのである。いつの時代にも為政者にとっては恰好な国民であった。

 そして、未だに「マスコミ報道」を「玉音放送」のごとくに「無批判」に聞いていること自体が「市民意識」欠如の証左でもある。新聞、雑誌などに書いてあること、テレビで流されたことなどをあたかも「お上の通達」、「権威者のご意見」のごとくにありがたがってそのまま鵜呑みにしているのである。そこにはやむにやまれぬ自らの「思考」がない。それはカネに絡むこと以外は「思考停止」状態で生きてきたといってもよいだ程の「思考」のなさである。だから、「生きる姿勢」そのものの中に怪しげな宗教や集団の入り込む隙ができるのである。歴史的に見てもそうだが、この国にはやはり「市民意識」などは育ちようがないのかもしれない。今は、再び「悪しき」専制的統治者が現われないことだけを願うのみである。

 

                            2010 6/3


12.マスコミ報道の実態 (2)


 今更、マスコミ報道の実態について多くを語る必要もないが、ただ一言、変わることのないのは既得権益死守。「報道の自由」もへったくれもありはしない。既得権益死守のためならなりふり構わず、恥も外聞もない、もし「報道の自由」というのであればきちんと起こった事実を余計な「手」加えずすべて正確に伝えるべきである。自分達にとって都合のいい「ニュース」をだけを「報道の自由」の名の下に垂れ流しているのでは話にもならず、これは国民を愚弄するものであり、明らかに罪悪である。ただ巧妙になったというだけで戦時中の権力機構と癒着した偏向的な報道と本質的には何ら変わるところはない。これではやはり「機構」そのものを根本的に変革するより手はあるまい。

 何時だったか、知り合いの作曲家が、「朝日新聞」は左派系で、「毎日」、「読売」は保守系で云々などと言い始めたので、一瞬戸惑った、「朝日」が左派系などと思っている人が今でもいるのかという思いがしたからである。この3社については内容的には五十歩百歩で、右派系ということで括ることができるだろう。そして、多少の差があるとすれば、あるかないか分からぬ「良識」の度合いの差でしかない。

※「読売新聞」は最近、「1週間無料お試し」コーナーまで設けて読者確保に余念がないようだが、読者が減るのは当然であろう。

 現在、その他の有象無像の新聞、雑誌の論調はほとんどが右派系であると言ってもよい。今では左派系の出版物などは皆無に等しい。このこと自体がすでに不自然で偏っているということの証左でもある。

 今後も、マスメディア一般は「売れる」、「儲かる」となれば何でもする輩とたいして変わるところはないということを肝に銘じておく必要はあるだろう。したがって、すべての報道をまず疑ってかかるべきである。そして、その中から導き出された数パーセントの事実を検証すること、それが主権者たる国民の務めでもある。もしそうでなければ、今まで通りの単なる「カイライ」国民にすぎない。もちろん「カイライ師」はさらに罪は深いと言うことは言うまでもないことである。どうもこの「カイライ師」は「迷走」しない国家が好きなようで、すぐに全体主義的傾向になる。概してマスメディアの動きはファシスト,またはファシスト的人物の誕生を煽り立てるような方向にいつの間にか向かっているというのも何とも情けないことである。それは「理念」も持たず場当たり的に重箱の隅を突っつく作業だけに余念がないからである。その作業だけでは真実からは遠のくばかりで全体像は見えてこない。そのような作業から導き出される「結論らしきもの」がすべて類型的であるのも当然なことで、それは、その類型的なサンプルを提示するための微に入り細をうがつ意図的作業としてしか成り立っていないからである。

 忌々しいが、民主主義国家に「迷走」は付きもので、それをヒステリックに切り捨てることは民主主義の根幹部分を揺るがすことにもなり兼ねないので余計苛立つのであるが、ヒステリー女の状態はマスメディアの「常態」で、我々の「常態」であってはならない。しかし、どうしてこうも「女の腐った」ような輩が増えてしまったのか「憂国」どころか「憂人」の感しきりである。

 

                                                                  2010  6/1


11.「民主主義」はやはり死んでいたのか?


 1960年にもうすでに「民主主義は危機に直面している。」、「民主主義死んだ。」という説は出ている。そして、「戦後の民主主義は、民衆の中から発生したものではなく、はじめからイデオロギーとして出発した。はじめからそれは不動の権威であった。したがって、それは自己否定の契機を持っていなかった。そのために、おのずからそれは形式的なものとなる。」※ それは日本国民は当初より「民主主義」を形式的にしか理解していなかったことを意味する。そして、すでに1960年代に民主主義イデオロギーそのものは挫折し、「形式的民主主義の虚偽性が自己暴露した」※のである。言ってみれば「戦後日本」はこの時点で終息してしまったことになる。その14年前、1946年に太宰治はその書簡の中で、「いまのジャーナリズム、大醜態なり、新型便乗というものなり。文化立国もへったくれもありはしない。戦時の新聞と同じじゃないか。古いよ。とにかくみんな古い。」などと書いているが、それはそののまま今日の、変わることのない日本のジャーナリズムの「大醜態」でもある。

 2010年の日本の現状は、「民主主義」そのものの意義も分からぬまま右往左往しながら、限りない欲望の達成に余念のない大衆をいいことに、半世紀以上もジャーナリズムと結託して国民をたぶらかしてきた結果と言うより仕方あるまい。半世紀も経って未だにまったく分かっていない大方の国民は、為政者にとってほんとうに都合の良い大衆でしかなかった。騙されることが好きな、騙され上手な国民はこの先どここへ行くつもりなのか。 国民を誘導する、「空気作り(世論調査etc)]に余念のない悪しきジャーナリズムの手に導かれる限り、明日はない。

 「民主主義」そのものをとらえ返す「自己否定」の契機を自ら放棄することは、「民主主義」が危機に直面していると言うよりは「民主主義」はもうすでに死んでしまっていたのだと言うしかあるまい。

 

※の箇所 1960年の森本和夫の論文より

                                2010年 5/20

 

 


 

10. 昨今の評論


 昨今の評論は概して、「ぺダンチック」で「我田引水」的なもの、「挨拶批評」が多い。そして、たとえ「専門的」にほぼ完璧に書けていたとしても「言いおおせて何かある」ということになる。それで?と問い返す間もなく、その傍から細かく述べられた内容の消失が始まっている。況や印象に残るもの、感慨深く納得のいくもの、新たな発見のあるようなものはほとんどないと言ってよい。評論家と言う者はやはり「現役のクリエーター」(現役の実践者であるかどうかは別)でなければならないと同時に知的領域の広さ、造詣の深さを持ち合わせていなければできない作業なのである。多くが、「ぺダンチック」、「我田引水」、または偏狭な知識の中での「重箱の隅」的作業に終始してるということは、どちらにしても創造者としての関わりが弱く、知的領域の狭さなどが大きな要因としてある。その中にはあまりに偏執狂的な言述(哲学論文のような厳密さではなく)が多いので敷衍も、普遍化もできないものもある。つい、誰のための評論かと聞きたくなる。今では面白い評論(的確に切り込んだという意味)に出会うことはほんとうに稀になった。それだったら、大したこともない自己の眼力をひけらかすよりまだ「挨拶批評」の方がどれだけ「世のため」になるかとも言えるが、一方ではその「挨拶」も「強者」にはするものの、「弱者」に対してはしないという場合がある。そして、「お車代」次第で取り上げるかどうかが決まり、その論調まで変わるのでは今更何をか言わんやである。

※「良心的」かつ「誠実な」評論家が皆無と言っているわけではない。一部にはまだ確実にいる。

 

                                  2010 5/19

 

 


9.「専門誌」の実態


 一般的に、「専門誌」などと言われているものの実態はジャンルを問わず「業界紙」の域を出るものではない。それだけならまだ良い方であるが、身内、親しい者、周辺の関係者だけの「内輪」の雑誌と言っても良いようなものや、中には露骨に社長の女房、愛人、知人、利益の共有できる者達だけで成り立っているようなところもある。最悪なのは、その掲載内容までもそのような関係者が中心となっているということである。その周辺に集う「評論家らしき」、「評論家気取り」の者達の書くことと言えば、歯の浮くような皮相的な「お追従評論」ばかり、そうかと思えば「狂人を装った」小心者の「戯言」。「プロ」などと言われている者達の一面を見る思いがする。見方によっては「飯を食う」とは何と楽なことかとも思える。「専門誌」などとは体裁が良いが、この種のものは所詮は他人のフンドシたよりの「寄生虫」的なもの。「寄生虫」と共生できる「体質」の者もいれば、生理的にも受け付けないものもいる。今後、景気の如何を問わず出版業界全体も決して右肩上がりになることはなく,衰微の一途をたどる状況の中でそれは早い時期に消え去るものの一つであろう。

 

                                  2010  5/16


8.何度でも国民がコロリと騙される手法


 「論点のすりかえ」、「一般論への還元」、「感情への訴え」この3点の虚偽を巧みに使え分け、または合体させながら強硬に自己展開したのが小泉純一郎である。彼はまた「アドホックな議論」、「チキンゲーム」なども得意とした。特に大衆は「チキンゲーム」をする者に憧れる傾向がある。それは強者に自己を同一化しようとするからである。言ってみれば「狂気を装う」、または「狂気そのもの」の「狂人の理論」でもある。

 「チキンゲーム」を除いて、「論点のすりかえ」、「一般論への還元」、「感情への訴え」、「アドホックな議論」はマスコミ(TV,「有力新聞」3社など)が今頻繁に使っている虚偽である。したがって、余程注意しないと適当に操作され、あらぬ方向にいつのまにか持って行かれてしまう危険性がある。しかし、小さな嘘には目くじらを立て、大きな嘘にはまんまと引っ掛かるのも大衆である。そのことについても小泉は熟知していた。それはまたヒットラーの基本指針でもあった。

「何度でも国民がコロリと騙される手法」と言うより、「何度でも国民がコロリと騙されたい手法」と言った方がいいくらいに、この国の国民性はマゾ的である。何とも為政者にはありがたい国民性である。民主主義国家で少なくとも国民と言う名に値する人々なら、すべて「何様」でよいはずである。そして、その「何様」は一方的に流される「報道」をただありがたがって聞いているだけではなく、それが事実のすべてなのかどうかをもっとマスコミにも問いただすくらいの気概があってしかるべきなのである。常に「報道」は事実の一部しか伝えず、そしてそれすらも歪曲、矮小化されているものが少なくない。我々には余りにも知らされていないことが多いのである。

 

※「アドホックな議論」 矛盾した2つの主張を都合の良い文脈で使い分ける議論

※「チキンゲーム」 度胸を試すため、どちらが先に引き下がるか争うゲームのこと。正面衝突を避けるためハンドルを先に切った方が負けという類のゲーム。

 

                                   2010  5/14


7.   Il y a quelque temps      à Tokyo  (5)


  Bonjour Monsieur

Aujourd’hui  il fait un temps couvert

Sur la crise grecque      Je supposais depuis longtemps ce que la creise grecque arriverait.

Sur les nouvelles de Japon    Tous les nouvelles (TV.  Grand journal) rompent l’equilibre et elles sont tous pareiles comme l’Etat totalitaire.

Cela n’a fait aucun progrès depuis longtemps. maintenant c’est la situation embarrassante donc il faut voir comment vont tourner les choses.

Mais  ceux qui ne pouvaient pas affirmer  sa personnalibté sont  très  nombreux au Japon.  Je l’ai confirmé  une fois de plus.

A bientôt

                                                                                                                                 2010 5/10

                                                                                                                                     


6.テレビ、新聞報道に見る「全体主義国家」


  偏った「全体主義国家」の様相を呈するテレビ、新聞報道には抗議するか、完全無視するか。それともそれらを一切見ない、聞かない、買わないことにするか。何らかの具体的行動を迫られている。「彼ら」の報道は真実ではない。都合のいいようにつなぎ合わせた虚偽である。「彼ら」のもっともらしい恥知らずな口車に乗ってどこへ行こうというのか?毎日ほぼ決まった時間に繰り返される欺瞞報道、国民の心理のひだに巧妙に入り込む心理作戦は、アドルフ・ヒットラー率いるナチス・ドイツの巧みな大衆誘導作戦を彷彿とさせる。味付けは「お茶の間」風になっているが質的には同じである。この何気ない繰り返しがやがて功を奏するのである。経済的に疲弊している状況も、あの当時のドイツ程ではないが類似している。このことだけを根拠に近未来を「予告」するつもりはないが、油断のできない状況であることには間違いない。すでに怪しげな人物達が誌面を賑わしていることからもその兆候は表れている。「彼ら」にとっては我々は都合のいい愚民でしかないのである。そのことを「彼ら」は我々に強いているのである。もしそれすら気が付かないようではもはや手のつけられぬ愚民と言うしかあるまい。「彼ら」の報道は完全に国民を愚弄するものである。改めて、ここまで来たかという思いである。

 

いつか、この「歴史に残る政治陰謀」に加担したテレビ、新聞報道は再びその責を問われることになるだろうが、そのときまで今のような形態でテレビ、新聞が残っていればの話である。これは遠い将来のことではなく、近未来のことである。

 

 そして、良識ある識者、ジャーナリストも自分が今まで述べたことを機会あるごとに、と言うより機会を作ってでも自分も「他者」も辟易するくらい繰り返し言述するべきである。そのくらいやっても現実的には足りないだろう。ここまでくれば後は体力、気力の問題である。

 

                                                            2010 5/9


5. 誰もいない店


 「日本テレビで紹介された店」、「NHKで紹介された店」、「TBSで紹介された店」、「フジテレビで紹介された店」、「テレビ朝日で紹介された店」「○○新聞で紹介された」などと表示された店のほとんどは閑古鳥が鳴いている。中にはつぶれてしまった店もある。その内カラスでもやって来そうな店ばかりである。それに反してテレビにも取り上げられないような片隅で人知れず黙々とやっているような店が繁盛している。要するに、もはや大方の人間はテレビなどにあまり影響されず、それほど信用もしていないのである。一頃のようにテレビに出ると「何様」になったような気になる者も、そのように見る者も少なくなった。もう随分と前からテレビに出たということは2流 、 3流の証となってしまった。それでも、いつまでもそれに気が付かないとすべてに「ズレ」が生じる。その様、憐れである。

 おそらく、「世の評価」とは「でっち上げられたもの」が多いことに気付き始めているのだろう。

                              2010  5/8  


4.「高級紙」と「大衆紙」・・・


 

 「英国高級紙2紙が1日、与党労働党へ支援を撤回 云々」(産経新聞)とあった。日本では「有力紙2紙」などという表現が一般的になじみ深く分かりやすいが、「高級紙」となると何とも奇異に感じるのは、日本の新聞にはこうした「高級紙」、「大衆紙」などという区別がないので仕方あるまい。

 日本のマスコミも、今までもまったく成し得なかった「不偏不党」、「中立」などの欺瞞的ポーズは取らずに「○○党支援」とハッキリ打ち出せばよいのであるが、半世紀以上も実質「一党独裁体制」に慣らされていて旧体制(自民党政権下)支援が常態になっているものだからそこから脱し切ることは容易ではなく、その変動に対応できない、というより長期にわたる既得権益が災いして対応しようとはしないと言った方が適当かもしれない。したがって、彼らの報道は未だに実質的に「自民党支援」が中心となっていると言った方が正確なのである。

 「政治とカネ」などと騒ぎ立てている者達も結局は「カネ」で振り回され、「カネの問題」(既得権益etc)で抜き差しならぬ状態になっているのがそのほとんどである。「政治とカネ」などという日本の「大衆紙」並みのタイトルで日本の「高級紙」といわれている者達が何を論議しようというのか、実のところ何もない、虚しい、「大衆紙」的エネルギーもない論議に終始している。もっと本質的な論議がなされてしかるべきであるが、まったくその方向には行かない。本来なされてしかるべき議論は少なくとも小泉政権時の総括と、さらには今までの政治システムの根幹部分の変革、洗い直しの方向での論議である。それを抜きにして現状のシステムのままでいくらああでもないこうでもないなどと言ってみても、「政治とカネ」それがどうしたということに過ぎない。いくら「身綺麗」にしたところでカンパだけで政治などできる訳もなく、どうしても「カネ」の問題が出てくる。今のところは、明確な「理念」の下で私利私欲ではなく、どのように「カネ」を使ったかということで判断するより手立てはない。実際問題、現状のままでは政治と「カネ」を切り離して一体何ができるのかということになってしまう。マスコミなども既得権益にしがみつきながら柄にもなく「理念」などを取り上げてはいるが、「理念」で自らも動かず、そのようなことで「人」がほんとうに動くとも思っていないにもかかわらず、そのような美辞麗句で糊塗して、自分にとって都合の悪いもの(利権を脅かすもの)を「言論の自由」の名の下に独占的に使用してきた電波を通して排除しようとしているのが実情である。「理念」一つとってもそうだが、実際には「精神文化」についても、そのようなものは二の次三の次で「経済第一主義」(拝金主義)の状況の中で生きてきたというのが、ここ数十年の日本の実情であることに変わりはない。その代償として払わされた「精神の荒廃」も含め、その全ての「なれの果て」が今日の日本の現状である。

 そうでない生き方をした者、生き通した者は確かにいるが、極めて稀である。彼らの動向はつかみにくい、それは彼らの行動形態が「表」には出てこない、出ることを好まない、ある意味で存在そのものが「寡黙」であるということからくるものである。当然のごとく、彼らは「ツイッター」などと呼ばれているものなどにさえ登場してこない。それに反して、簡便な「感情吐露」を繰り返している「ツイッター愛好者」からは大衆感情の一部が垣間見えはするが、それ以上に参考になるものは少ない。そもそもの始まりが「ツブヤキ」なのであるからそれも致し方ないのかもしれないが、その「ツブヤキ」の中には彼らを「操作」しているものの「存在」さえ感じてしまうようなものもあることは否めない事実である。それがたとえ「純粋」な大衆感情であったとしても、今のところそれは瞬時にくつがえる程度の底の浅いもの(「権力複合体」から適度に「中和剤」を散布されるとすぐに収まってしまうという意味)であるからいちいち「取り込む」程のこともないだろうが「よくも悪くも」実に騒々しい面も持っている。それはまた巧妙な「マインドコントロール」の恰好の餌食ともなりうる側面も持ち合わせている。今後、「純粋な大衆感情」を装った巧みなデマゴーグに使われる可能性は充分あるだろう。(もうすでに使われているだろうが)その一方では、単なる言っただけの「ガス抜き」のための、規模は大きいようだが実は「小さなおマツリ」騒ぎで終わってしまう可能性もある。

 「ツイッター」に関連して一言付け加えると、読売新聞の「ツイッター批判」とは一線を画する。なぜなら、彼らは明らかに「ツイッター」が彼らの既得権益を脅かす要因となり得るので「神経質」に反応しているのである。そして、その「ツイッター批判」擁護の中には「思いつきの軽い言動が国民の生命財産をも危険にさらすリスクが潜在していることも認識せず、云々。」というのがあるが、それでは読売新聞の記事内容にどれ程の信憑性があるというのか、最近でも確証のない「誤報」を大々的に流し、それについての謝罪はないにも等しいものであった。さらには敢えて「悪意のある誤訳」をして開き直る。このような例は枚挙に暇がない、僅かな最近の例でもこの調子である。歴史的に見ても、常に「国民を惑わす者達」の側につき、一翼を担ってきた者達がよくも偉そうな口がきけるものだと改めてあきれ返っている。

 ただ、「ツイッター」には先程も言ったような「危険性」が付きまとうのも事実であろう。したがって、実名ではない、匿名の「発信地」のはっきりしないものは、読解、解読作業に自信があれば別であるが、注意を要する。特に「恐怖心」、「不信感」を煽る内容のものついては慎重に対応する姿勢が各個人に否応なく問われてくる。

 

 

                                 2010 5/7


3.消されるテレビと新聞「紙」と


 薄くやせ細り、時たまスイッチが入れられても十数秒後にはいともたやすく消されてしまうテレビ。それは「自分の時間」が「つまらぬもの」に消されて しまうという痙攣的嫌悪感でもあろう。

 新聞は紙くずのようにポストに押し込まれるが、すでに新聞は最初から紙くずだったのである。そして、リサイクルされるためにだけ印刷されると言ってもよいような週刊誌の数々。多くのマスコミ報道は疑わしく、それらを鵜呑みにして事足りるのは、命知らずか、マゾか、自堕落か、どちらにしても本来あるべき普通の市民感覚ではないことだけは確かである。

 風吹く日、ポストは壊れた風鈴のような金属音を立てているが、なぜか心地よい。そして、時折、「たより」の来たことを告げる無愛想な音。この「テンポ」が、実は自分と世界の程良い距離を保ちながら世界を捉え直すのに一番適した「速度」であることに気づくのに時間がかかった。

 「いわれない」ことで「不安」と「恐怖」を加速させ、この「テンポ」を崩そうとするものには対峙しなくてはなるまい。「おがくず」でこの貴重な「間」を埋めさせたりはしない。もはや、それすらできなくなった時が危機的状況の最終章となる。そして、もしここで「未来」について、「未来を想定して」、それについて事細かに「自信を持って答えられる者」が登場するならば、それはどのような体裁を取ろうが本質的に詐欺師以外の何者でもない。我々にできることは過去の歴史から学び取った明確な、限りのない教訓化から導き出されることを頼りに、致命傷には至らぬ「実りある」試行錯誤を繰り返す以外に現実的手立てはないのである。

「カラン、カラカラ、ボトン」 (こんな風に聞こえるのである。)

何か「たより」が来たようだ。しかし、いつまでも寒い日が続く4月である。

 

                                               2010 4/27

※テレビにも一部ではあるが、観るべきものはあるということを付け加える。

 


2.「等身大」と「自然体」


 どちらの言葉も最近ではあまり遣われなくなったが、それでも時折 目にすることがある。その遣われ方は感覚的で、気の利いた表現のつもりなのであろうが、いつも戸惑う、と言うよりはこれで何を言おうとしているのかが不明瞭なのである。たまたまこれらの表現が遣われた対象を知っているケースから、それらを比較対照、類推すると、「等身大」と「自然体」の共通する意味内容は、自分の欲望に逆らわない、「理念、理想の欠如した」現実主義的状態に「甘んじて」身を置けるもの、というような意味内容が浮かび上がってくる。そして、さらにそれぞれについて言えば、「等身大」とは、想像力の世界とは全くかけ離れた現実主義的世界にだけ関わりを持つことで成り立つ「身の丈」とでも言おうか、誰が言い出した言葉か知らぬが、少なくともその言い出した者は「人間」の「大きさ」については知っているつもりなのであろうが、「人間」の概念自体が危うい時に何とも「オメデタイ」話である。だから、戸惑うのである。

 「自然体」は本来の意味での遣われ方が次第に稀となってきて言葉の皮相的意味内容が勝手に歩き出したという点で「他力本願」という言葉の遣われ方に似ている。「他力本願」という言葉もどこかの愚か者が、他人の力だけを頼りにすることが「他力本願」などと、もの知り風に言ったものだから、それ以来一般的にはそのようにしか解釈されていない。さぞかし親鸞も草葉の陰で泣いていると思いきや・・・さすが親鸞である・・・

 「自然体」などと言う表現も、それが真に実現し得ているケースは「悟り」と同様稀である。この言葉もどこぞの愚か者が、たかだか「ざっくばらん」、「欲望の赴くまま」、「気さく」程度のことを知ったかぶって遣ったのが始めであろう。

「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折り合いをつけてあるべき姿のために戦わぬことだ」。一般的に安易に遣われる「自然体」、「等身大」などという言葉は、私にとっては「ありのままの人生に折り合いをつけている」姿であって、「最も憎むべき狂気」なのである。

 

 しかし、我々は実に多くの意味不明、不明瞭の言葉の中で分かったように生きているものかと改めて驚かされる。

 

 

                                2010 4/22


1.無党派層諸氏へ


 今こそ、その「存在」の恐ろしさを見せつけ、その存在の在り方の意義を明確に提示する絶好の機会である。完全に有権者をナメテいる旧体制とそのタコ女郎的付属機関と成り果てた大マスコミ(新聞、テレビ、雑誌etc)の偏向的大ボラと煽動と誘導をいつまで黙って指をくわえて聞いているつもりなのか、もはや限界を通り越している。そして、あなた方の不気味な無反応、もし、この状態であなた方が放り投げ、逃げるのであれば彼らの思うツボである。そして、彼らは無党派層に対する嘲笑、国民に対する侮蔑をさらに増長させながら、再びほくそ笑みつつその利権に群がって行くだろう。

 今回の「政権交代」と呼ばれている「変動」について「無党派層」の選択の役割は大きい。その選択についてマイナス面だけを全面に押し出し、あげつらいせせら笑っているのが大方のマスコミである。これは言ってみればあなた方を、国民の選択を嘲笑っていることになる。彼らに毎日のように侮辱され、こけにされているのは取りも直さず我々国民なのである。そのことを明確に認識して置かなくてはならない。民主主義に「迷走」はつきものである。無謀な「快刀乱麻」は心地よいが非常な危険を伴う。少なくとも、今は「鳩山政権の苦渋」は否応なく我々の苦渋でもある。それをアメリカ側に立ってあたかもアメリカの属国のような卑屈な姿勢で「鳩山政権の苦渋」を責め立てているマスコミ。これは我々の止むに止まれない選択についてアメリカの視座で非難、中傷していることにもなる。これについては純粋国粋主義者ではなくとも、彼らの姿勢を「売国奴」的姿勢であると言わざるを得ないだろう。

 我々が選んだ「方向」である。今は、それを矯正しつつも何がなんでも「育てる」ということでしか、頭の中は既得権益死守で埋め尽くされた彼らのデタラメな姿勢に対抗できる手立てはない。方向転換は「その気になれば」いつでもできる。

 再び彼らの巧妙な欺瞞的手中に収まるのか、そして、無党派層は去勢された無益な集団と見なされたいのか。自殺する命があるなら立ち上がるべきである。

これが私の無党派層に対する最期のメッセージである。

ご心配なく、私は「幸運にも」[V FOR VENDETTA」ではない。

 

                               2010 4/21

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