「ある日、その時」 (2) 2009年11月ー


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 45.符合するということ


  自分の考え方、帰結が他者の言述に符合することは、共に現代を歩んでいることを実感できて、何とも心地よいものである。ブログを始めて1年が過ぎようとしているが、この間にブログに書き、掲載したものは原稿用紙(400字)で優に300枚を越えてしまった。そして、その内容が後日のジャーナリスト、識者、作家の言述と一致していることが多々あったということは、そこに自分自身の姿を再確認できて楽しいものである。それは今まで見知らぬ人でしかなかった人々がその見解の確認を通じてより身近に感じられるようになるからである。

 最近も、作家の五木寛之氏が某日刊誌(4/19)で「遠慮なく言えば、新聞ももう終わった業界である。テレビは終わりかけている。出版もすでに、その歴史的使命を終えた。活字を紙に印刷して全国に配布する、というシステムはいまや20世紀の文化遺産だ。」と述べている。私も1年近く前からブログで、新聞、テレビ、出版物についてはほぼ同じようなことを書いている。(実際にそれについて書き始めたのが2009年ということで考え始めたのはもっと前である。)このことも一つの明確な確認ができた内容で、日頃感じ、思っていることを書き、それを他者の中に再び見出すことは「確認」以上のものを自分自身に与えてくれる。

 

                                 2010 4/20


 44.   某「作家」の曰く・・・?


 「生きる意味なんか考える必要がなかった時代。だからこそ生命の輝きがありました。」 何とも分かったような分からないような安手のアフォリズムの匂いがする内容である。さらに某「作家」氏は言う。「ー略ー 生きる=生存する、ということであって、生きることに意味なんか考える必要がなかった。今は生きることを一生懸命意味づけしようとするけど、それは現代人、というよりも先進国の病みたいなものかもしれませんね」。要するに、終戦直後の人々のエネルギーを讃えながら、「考える」ことを「先進国の病」と位置づけているのである。これは時代錯誤であり、状況把握が視野狭窄的で皮相的である。そこにあるのは流行作家的「狙い」の視点だけである。そもそも、これ以上「考えない人間」を大量生産してどうするつもりなのか、喜ぶのは「為政者」「権力者」の類だけであろう。むしろしっかりとものごとを考えないからオカシナことになるのであって、この「作家」の言っていることは的外れであると同時に他に「もくろみ」があるとしか思われない。今後は今以上にしっかりと「考えて」いかなければ「病」はさらに「狂気化」してしまうところまできているのである。この「作家」の「憂さ」は「酒と女と笑い」で晴れるようだが、それ以上に斬新な切り口、視点の面白さなどは感じられない。よくある「あの時代はよかった」式の回顧趣味的発想で展開されたのではさらなる飛躍など望むべくもなく、「病」の「狂気化」する過程を食いとめることなどできない。そして、戦後に焦点を合わせている以上、その描き方、論調次第では戦争肯定論に道筋を与え、さらにそれに拍車をかけることにもなりかねないのである。

 総じて、売文業者の「他意」は感じても、作家としての「良心」を感じさせない言述であった。もし、彼が作家であるならもう少し「深み」のある、説得力のある言述をすべきであろう。

                                                                                                                  20104/19


Sur les savants aux gouvernementaux 

de Japon   (1)

  43.  日本の「御用学者」たち (1)


 「週刊朝日」誌上、<国の未来があった頃・・・「坂の上の雲」の時代に学べ>と題した特集、正直言ってまたこのパターンかという気持ちである。「第二の明治維新」などと誰が言ったか知らないが、異常なまでの長期にわたり政権を担当した政党が自ら瓦解し続けた果てに民主党が形作られたというのが限りなく実情に近い。政治体制は変わらずに急激に「改革」されたかのような印象を与えたので「第二の明治維新」などと言っているのだろうが、世界情勢も歴史的状況も全く違う。感覚的に遣っている言葉と見てよいだろう。そのような言葉で括って分かったように話を進めるからますます国民は混乱するのである。以上のような指摘箇所は際限がないので、この誌上に関してはまず最初に共感できる箇所を絞ると、作家の関川夏央の「現在の日本とは社会構造が全然違う。ー略ーあの時代から直接学べることはありません。」として論を進める姿勢。そして、霍見(つるみ)芳浩(ニューヨーク市立大学教授)の「1990年代後半から小泉純一郎政権を経て、ものづくりよりも一攫千金をねらう金儲け至上主義がはびこってしまいました。これでは経済はつぶれるに決まっています。現代が取り戻すべきは、開明的な日本経営の「神髄」です。経営者の責任は金儲けではなく、社員や地域社会を守ることだと、今一度はっきりさせなくてはなりません。」という意見。この両氏の視点には納得できるが、ここで問題なのが山内昌之(東京大学大学院教授)の「カネより人だった明治期 民主党よ「志」をもて」と題した論述である。この「学者」は小泉政権、安部政権とも密接な関係があり、政財界の中枢部とも関連をもつ、要するに権力側(彼の場合は自民党を中心とした複合体としての権力機構)からの発信しかできない典型的な「御用学者」である。彼のもっともらしい「ご意見」を逐一ここで取り上げ批判している時間も惜しまれるので一つ二つ取り上げると、小泉政権時、その一翼を担っていた人間がどうして「カネより人だった 明治期」などと題して臆面もなくものが言えるのか。長く権力の中枢に関わると「人」としての羞恥心すらなくなると見える。「学者」としても、その言動から「データー解析」の域を出ない「学者」とも言える。そして、その「学者」が「事業仕分け」について、<「世界一じゃなきゃいけないのですか」という発言がありましたが、これは学問や科学技術に携わる人間に対する最大の「侮辱」と言ってもよいでしょう。1番を目指して競争して初めて、2 番、 3番という結果がでる。」(ここでつい笑ってしまった。)こういうところにも「知の軽視」が表れています。」と、こうである。一見ごもっともな「ご意見」ようだが、すでに自分は2流の「学者」ですと明言しているようなものである。今までに1番  2番を「争う」ことでやってきた「学者」にノーベル賞受賞者はいない。(ノーベル賞は分かりやすので出したまで)。あの時担ぎ出された日本のノーベル賞受賞者にしても研究費削減について抗議したまでで、山内の言っていることは、我田引水的なマスコミ、政治戦略に近い。その証拠に彼の意見に同調してそれ以上に発言する関係者はいない。と言うより真の研究者ならそんなことに関わっている時間すら惜しいのである。彼らは本来「競争」などとは無縁の人々なのである。

 最後に、山内は<理念、すなわち「志」を見極めることが大切です。そうした理想こそ、あの時代に学ぶべきことではないでしょうか。>と言ってはいるが、それでは彼自身が関わった小泉政権時のどこに「理念」が、「志」があったのか?むしろ、そこから学ぶべきであろう。実は橋本派を潰すことに過ぎなかったことを「自民党をぶっ潰す」などと三百代言風にぶち上げ、まんまと国民をその口車に乗せた小泉政権の経済面での総括すら未だになされないまま、負のすべてを棚上げしたままもっともらしいことを言い続ける、言わん方なしである。 

                                   2010 4・/10


 42.「朱蒙」(チュモン)全81話 94時間30分


 今まで観る機会がなかったので、最近になって10日間くらいで一気に全81話を観た。ある時は1日14時間連続で観ることもあった。英国BBC製作のシェイクスピア全作品などよりよくできている。脚本、演出、出演者、スタッフ全体が非常によいアンサンブルを作っている。なかなかこういう作品に巡り合うことはない。日本ではこのレベルの作品はテレビドラマとしては皆無。日本のテレビドラマなどは5分と観ていられないものがほとんどである。10分観ていられれば良い方で、中には視聴者を完全に馬鹿にしているのではないかと思われるものさえある。これをカウチポテト状態で観ている人間がいると思うとぞっとする。またそういう人間しか観ていられるものではない。だからと言ってテレビスタッフだけがいくらもがいてみても10分を15分は観ていられるようにするくらいがオチであろう。それはひとつには日本の演劇状況そのものの積み重ねからくることでもある。役者、スタッフのスタンス、意識変革などそう簡単にできるものでもない。なぜ日本のテレビドラマが5分と観ていられないか、具体的にいえば脚本が薄っぺら、観客に媚を売ることばかりの演出で、演出者の皮相な人生観、世界観、哲学のなさ、演技のあまりの稚拙さ、見え透いた小手先だけの演技、存在感、深みのなさ、でっち上げられた浅薄な才能等々、それらについては枚挙に暇がない。勘違いも甚だしい、何時からこうなったのか、少なくとも私の知る限り25年以上前から下降の一途で、一見日本の演劇は活況を呈しているようではあるが、役者、スタッフの知的レベル、エネルギーの低下(演技上、舞台上の求心力も含めて)は認めざるをえないだろう。今、「演劇」も根底からひっくり返すか、検証、洗い直しを迫られている。

 

※この作品、韓国では前代未聞の平均50%の視聴率を維持したというのも頷ける。視聴者側にもエネルギーがある。

                                                 2010  4/1     


41.   どこまで堕ちるマス・メディア


  日本のマス・メディアの堕落は今に始まったことではないが、もはや恥も外聞もなくその「本性」をさらけ出している。都合のいいように歪曲化し、粉飾した「事実」の押しつけと重箱の隅を突っつく作業に未だに明け暮れている、と言うより既得権益死守という立場上,身動きつかぬ彼らにはそれより他にやりようがないのである。

 民主主義は、ある程度の「迷走」を余儀なくされる政体である。「快刀乱麻」のリーダーシップの希求などはともすれば「全体主義」への第一歩にもなりかねない、と同時にそれは主権者である国民の堕落をも意味する。的確な批評をしつつ、その方向性に納得できるのであるなら、「迷走」しながらもその原因を見極め「育てる」という苛立たしい経緯を辿らない限り民主主義国家などは育ちようがない。そうした意味でも今回の「政権交代」は生々しい政局を国民に見せつけ、考えざるを得なくしたという点においても、また民主主義そのものの再認識という意味でも有意義なものを残したとも言える。もし、それさえも否定するのであれば、それは反民主主義的であると言わざるを得ないだろう。そして、その先兵としての役割を常にマス・メディアが担ってきたことは周知の事実で、そのことは今までのその言動からも実証されている。それは取りも直さず、日本のマス・メディアが常に「権力」と結びつき、さらには御用学者と三百代言の「政治屋」に守られて民主主義的展開を阻害する方向でしか機能してこなかったということでもある。

 

※「政権交代」という言葉は便宜上遣っているだけで、まだ2大政党の「競合」などとしては捉えられない。(一方は崩壊寸前、他方はヨチヨチ歩き)主義主張なども根本的に違っている訳でもなく(少数派は別)同一母体の「改革派の移動・再集結」と言った方が実情に近い。それでもそこに国民は「現状より違うもの」を期待しざるを得なかったのである。ともあれ、もはや後退はできない。

 

                                  2010  4/1

 


40.  Il y a quelque temps      à Tokyo      (4)


Bonjour  Monsieur

Le changement politique ne va pas sans ennuis de toute sorte.Mais  le peuple se laisse attraper facilement par des manoeuvres subtiles   des hommes de ressources et des nouvelles déformés.Je pense que le peuple japonais n’est pas encore mûr et l’article du journal n’est pas du tout  impartiale. Autrement dit   le peuple japonais ne comprend pas bien la démocratie.et le fait n’est pas le fait dans le journal.(Il y a beaucoup de mensonge) Donc Jusqu’à  maintenant  je n’ai pas pu croire tout ce que disait le journal.(principalement les grands journaux )Et puis même maintenant  le Parquet fait cavalier seul. Dans un certain sens c’est le fascism du Parquet. Je crois que c’est trés dangereux.

 

※On le présume innocent ; C’est dire qu’il n’est pas innocent au Japon.

                                                                                                                              2010  3/22 

                                    M.Hirayama

 

<Schéma conceptuel>

Adaptateur ,  Metteur en scène—————————-↓ 

                    ↓ ||                    ↓       

             《 Parquet》   ——————————– ↓        ↓                                                                           

                  ↓      ↑                                              ↓        ↓   

     ↓      ↑ ーーーー   Régisseur        《Ministère》                            

     ↓                                                     ↑

Acteur       《TV , Journal   etc》————-↑                           

                   ↓    ↓         ↓ (Il y a beaucoup de nouvelles comme un lavage de  cerveau.

                   ↓             ↓           ↓        C’est généralement le journal de Yomiuri. et  le journnal  

                 les  faits  déformés        TV  d’obédience  Yomiuri. Naturellement  il y en a beaucoup

                    ↓            ↓           ↓           d’autres)   

     ↓            ↓     ↓    Le grand média attaque obstinément le ministère pour défendre

Spectateur    《  peuple》        les droits acquis jusquéà la mort. Cela n’a aucun  rapport avec la

                                                       justice sociale. En ce moment  le gouvernement  a l’intention de

                                                        détruire les droits acquis qui deviennent  un problème.               

                                                        Alors  qu’est-ce que les droits acquis?.

                                                        Par exemple     les capitaux déterminés possèdent plusieurs

                  médias  (TV. Journal etc) etc.   C’est tellement nombreux qu’on ne

                                                      peut  pas compter.

 

                                                          (  L’événement  récent  )

                                                          Un certain Ubukata est  ridicule comme le jouet de média.Je ne

                                                         peux pas croire que Il soit  l’homme politique. Il est le malade de

                                                         démocratie.C’est  poltron  égoiste et puis Il justifie même la

                                                         trahison  au nom de la liberté de parole.Le grand publie n’est ni

                                                         stupide ni sage .et  bien sûr n’est pas Dieu . J’imagine que son

                                                         avenir soit  misèrable. 

 

○Sur le schéma compréhensible.  Le détail est pour des besoins futurs.

                                  

 


39. 相手を攻撃しつつ、自らの「本性」をさらけ出す 


 ここのところ、どこの本屋に行っても「小沢一郎」の顔と名前を目にする。そして、その内容はどれも例外なく「反小沢路線」である。今、この問題が一番売れ線なのであろうが、内容そのものはほとんど全体主義的傾向を持つ右派のものである。いつ小沢は「左翼」になったのかと見紛う程の「脅威の対象」となっている。「小沢問題」を取り上げれば、反民主側からは援助が得られる、出版物は売れる、出版社としては言うことはないのだろう。

 しかし、「脅威の対象」として小沢を取り上げ、攻撃を強めれば強めるほど逆に攻撃する側の実態も鮮明に浮かび上がってしまうから不思議なものである。新聞報道、テレビ報道、報道企画モノ、etc その構成内容の「狙い」はもうすでに見え見えなのである。つい口をついて出る言葉は「何がそんなに怖いの?]」である。それがすべてなのである。そして、本来なら一番冷静でいなくてはならないマスメディアが冷静さを装いながら一番舞い上がっている。これ自体が異常なことで、だからつい「どうしてそんなに舞い上がっているのか?」と聞きたくなるのである。しかし、この期に及んでよくもまあここまで鉄面皮にいつまでも訳の分からぬ糊塗的コメントを垂れ流してやっていられるものであると感心する。日本の民主主義とは名ばかりであると同時に未だにジャーナリズムも未成熟であることはすでに充分に証明されている。どちらにしても彼らとその裏でうごめいている者たちの「不安」と国民の「不安」とはまったく異質なのである。それを無理矢理同質化して国民を煽り立て巻き込むことだけはやめてほしいものである。しかし、そのようなことをいくら言っても虚しいことは十二分に了解している。倒れる者、落ちる者は必ず周辺を巻き込むことで自らの痛手をできるだけ最少限に食い止めようとする、彼らは国民を巻き込むことでしかもはや成り立ちようがないのである。そして、異常な程の「小沢バッシング」などもやっている方は叩いているつもりでいるのであろうが、なぜか怯えた小型犬がただ吠え立てているようにしか見えない。何が怖いのか、小沢を「独裁的権力者」に仕立て、それに立ち向かうジャーナリストとしての体裁は整えてはいるが、実は国民とは全く関係ない自分たちの,小沢によって脅かされる既得権益の死守が最重要課題なのである。それは当然検察の利害とも一致する。以前、立花隆が検察と同調しつつ、金権政治の問題を囲い込むように追及できた時代とは歴史的状況も、検察の在り方も違う。それをそのまま検証もせず当てはめようとするからおかしなことになるのである。歴史は常に動いているのであり完結点はあり得ない。小沢を田中角栄とダブらせる必要もなければ、無関係と言う必要もない、彼は保守政党の1民主主義信奉者でしかない。ただこの民主主義信奉者を叩いて、国民を煽っているのが既得権益死守のマスメディアと検察、保守残党、そして全体主義的傾向の強い右派であることを見れば、そこに見えてくるものは自ずと明らかであろう。この巧妙な罠を見ぬけないようでは死ぬまで騙され続けるしかあるまい。テレビの政治関連のニュースに素直に反応し、耳を傾けていられる内は彼らの手の内である。私にはただ五月蠅いだけである。

 

                                                                                                                          2010  3/19


38. 今、新宿ゴールデン街では・・・


  スタッフとの打ち合わせを終え、久しぶりに新宿ゴールデン街まで足を伸ばした。たまたま入った店は5坪ばかりの小さな店であった。この店のオーナーはコメディアンであるという。1人カウンターに入って働いている青年は映画を創りをしていて、脚本、監督で某コンクールで新人賞を取ったこともあるらしい。こういう前向きな人間と話していると酒の喉越しもまた違う。カウンターの傍に置いてあったこの店によく来ると言う作家の本のページを繰っていると、

「本は読みますか?」とその青年は聞く、あまりに直接的なので一瞬戸惑ったが、

「読むけど、あまり流行作家の本は読まないね。」

「どんな本を読むんですか?」

本にはさまれていた写真が2,3枚カウンターに落ちた。

「これは・・・」

「それは、ジェームズ・キャメロン監督です。隣は奥さんで、手前が僕です。」とその青年は言う。来日するとこの店にくるらしい。その写真の位置からすると私が座っているところにジェームズ・キャメロンは座っていたようである。その時、プール付きの豪邸に住みながらスラム街を彷徨うアルパチーノの姿が思い出された。やはり、アーティストとは本来どのような状態に置かれようと常にハングリーであり続けことでしか成り立ち得ないのだろう。

 心地よい酒だったせいか、30年程前の紀伊国屋公演の折、役者と来た店にも寄ってみた。主人はもうすっかり禿頭になっていった。

※ ジェームズ・キャメロン  脚本、監督、プロデューサー

「ターミネーター」、「エイリアン2」、「タイタニック」(アカデミー賞 監督賞)「アバター」、etc

                               

                                                                                                                                 2010  3/16 

 


37.  Il y a quelque temps    à Tokyo    (3)


Aujourd’hui il fait  un temps nuageux.

Je vous remercie beaucoups de votre aimable recommandation.

Mais à mon grand regret  comme je suis japonais  

Je suis désolé de ne pas pouvoir vous rendre ce service.

 

                                                              Masaru Hirayama

 ※ http://www.mlml-h.com

                                                                                                                              2010 3/15 


36. 何のための世論調査なのか?


 頻繁に行われる世論調査は何のために行われるのか? 国民が必要としている訳でもない。<大マスコミと有象無象+検察+保守残党>が合体して行っている民主党に対するネガティブキャンペーンの効果をその都度確認しているとしか思われない。このようなミスリードにまんまんと乗せられているようでは国民が主権とはなり得ないし、未成熟な国民と言わざるを得ない。「新たな芽」は宇宙でもなく、水中でもなく、土の中から出てくるのであるからどうしてもその新芽のどこかに「泥」が付着する。この「泥」についてはすでに「検査」は終了しているにもかかわらずその微細な「泥」に焦点を合わせ、その「泥」の「成分分析」ばかりをしているのが<大マスコミと有象有象+検察+保守残党>のグループである。 これにどのような意図があるのか? それは誰が見ても明らかであろう。真実を知りたいなどとは笑止、出てきたばかりの新芽(既得権益崩壊の萌芽でもある)を何が何でも踏みつぶしたいというのがその本心である。国民が蒔いた種から出たその萌芽をどのように育てるかは国民に課せられた「真に為すべきこと」であり、彼らの「都合」に合わせて彼らと一緒になって「泥の成分分析」などする必要もなければ、そんな時間もない。今、国民はその萌芽を育む実権を握っているのであるから、「詐欺師の口車」に乗ってそれを手放してはならない。それでは彼らの思う壺である。その芽が花を咲かせる前に、実をつける前に何とかその新芽を地中深く葬り去りたいというのが彼らのホンネである。なぜなら、その花も、実も、彼らにとってはすべて「都合の悪い」ものでしかないからである。要するに、国民にとって「都合のいいもの」は彼らにとって「都合のわるい」ものなのである。それを今までの政権政党は口八丁手八丁でごまかし、嘘をつき国民を欺いてきたのである。

<大マスコミ(新聞、テレビ)と有象無象+検察+保守残党>は「既得権益死守」ということでも完全に一体化しているということを明確に押さえて上で、彼らのもっともらしい主張とオタメゴカシを聞くべきであろう。「萌芽」をつぶされないためにも。

                                                                                                                        2010 2/14


35. イルカ漁に想うこと


 日本でイルカ漁があることは最近の映画の報道で知ったことであるが、このこと自体がすでにおかしい。日本人が現に日本で行われていることを知らされていない。それを外国人によって教えられる。ここにもまた日本のマスコミ報道の実態を見る思いがする。今まで何を報道していたのか、当たり障りのない可もなく不可もないものばかりを適当に混ぜ合わせ、隠ぺいし、問題のあるものも問題にせずやってきただけとしか言いようがない。今回のイルカ漁も当事者が「正当な理由」もあり、「問題ない」と考えているのであれば、隠す必要もなかろう。なぜ隠すのかが問題である。

 捕鯨の時もそうであったが、なぜ豚、牛、羊などは問題にせず、クジラ、イルカなどだけが問題になるのかということは確かにある。それは生き物を殺す「殺生」ということには何ら変わりはないからである。それは植物においても同様である。どちらにしても「殺生」しなくては「人間」も生きられないのである。その事実を大方認めた上で一言付け加えると、「人間」は本来、草食動物であり、植物には動物に食べてもらうことでその「種の保存」が成立する植物も多くある。したがって、そのような植物だけを食することが可能であれば「殺生」を避ける道もあることはあるが現実的にはそれはなかなか難しいのではないかということに過ぎないということである。そして、「人間」の場合は「殺生」が「生業」となることで否応なく利潤の追求が求められる、それは必然的に必要限度を越えることになる。どこかで制御しない限り環境バランスが崩れるのは当然のことなのである。「人間」そのものが「不自然」な生き物である以上、どこかで途方もないエネルギーを持った「有限」な自然と折り合いをつけて生きて行かなくてはこの「不自然な生き物」の今後はないのである。

 話を元に戻すと、イルカ漁の当事者は、「昔からやっているし」、「法的にも問題ない」と言っているようだが、「昔からやっている」から「よいこと」にはならず、「法的に問題ない」からと言ってそれは飽くまで相対的なもので、「絶対的に許される」ものでもない。しかし、当事者がそれだけ問題はないと言い切っているのであれば、堂々とやればいい、何も隠すことはない。なぜ隠すのか?

 また、食文化をその国の文化と関連させる意見もあるようだが、「文化」と言う名の下にすべてを正当化することはできない。やむなくそれを食べざるを得ない土地に住む人々の食は別として、「人間」の欲望の限りを尽くした食(王朝料理など)の中にはグロテスクなものもある。そのようなものが「(食)文化」であるからと言って継承される必要もないし、いずれは「悪しき(食)文化」として消滅しざるを得ないだろう。今でも韓国には犬を食べさせる店があるが、犬に癒された経験のある者達にとってそれは堪えがたいものであろう。またイルカも同様で、それによって癒された者達にはイルカ漁そのものが苦痛以外の何ものでもないだろう。

 私は犬の肉を食べたいとは思わないのと同様にイルカの肉も食べたいとは思わない。もし当事者がほんとうにイルカ漁を「誇れる生業」と思っているのなら隠す必要もあるまい。しかし、もはや世界に知れ渡り、なす術もない。今後また日本での映画上演に抗議するらしいが、それは恥の上塗りにしかならないだろう。この種の「イメージ」の払しょくには優に100年はかかる。

 

                                                                                                                                    2010  3/13 


34.  Il y a quelque temps     à Tokyo   (2)


Aujourd’hui il fait beau

Mais comme d’habitude  les restes de parti coservateur survient à honte dans la Diéte

Ce  que disent les journaux  c’est  toujours la même chose et dérangé (sur le problème politique)

Il ne s’agit plus de discourir.

Le journaliste qui s’appelle Takasi Tachibana  n’est ni journariste  ni critique   parce  que il partage l’attitude  du parquet .C’est la corruption. ( On dit qu’il est auteur d’oeuvre documentaire.)

Généralement parlant  je pense que tombe le niveau  intellectuel de Japon(certainement  l’intelligence n’est pas de simples connaissances).

Sur ce point  si l’on cite l’exemple    mais c’est tellement nombreux qu’on ne peut pas compter

Et puis   à propos de la chasse  du dauphin au Japon

Récement je l’ai su .    C’est dommage.

                                                                                             

                                                                                                                                    2010  3  12

 

                                                                                                                     M・HIRAYAMA


33. 「ピカソ」というBar


 これは高円寺にあった一番古いバーである。2年程前に通りがかったがすでに空き地になっていた。1948年、太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水自殺をした頃にできたバーである。そのバーの作りはどことなく太宰が自殺する前年まで飲んでいた銀座のバー・ルパンに似ていた。カウンターから下の部分の壁面がレンガ作りなのである。おそらく太宰も酔って帰って、山崎から「また、ルパンですか」と言われることがあったのではないか。こういうバーで飲むとズボンの膝の辺りにレンガが付着してすぐにそれと分かるのである。

 ピカソに最後に行ったのは2003年である。夭折した画家の夫と共に始めたというバーで、薄化粧をして身綺麗にしていた80を半ば過ぎたその老夫人が語る過去を、飲みながら黙って聞いていた自分をその空き地の隅に見つけた。

 バーには「幕が降りてから芝居が始まる。’80」と書かれた安岡章太郎のセピア色に染まった色紙があった。50年前、文士、画家達が行き交った大路、小路、路地裏に至るまで今はその面影はない。今は終戦直後を模したような店と古着屋、アジア、インド系の店や風俗店が軒を連ねている。

 

                                                                                                                                         2010 3/7


32.  おにぎりを買いそびれて・・・


 コンビニでおにぎりを買おうとしたら、おにぎりの包装ラップに「庶民派」を「お商売」にしているみのもんたの顔、顔、顔、とても買う気にはならずすぐに店を出た。なぜかその時パチンコ屋の騒音まで聞こえてきた。幻聴か。

 朝は、みのもんたの何のエスプリもない庶民派気取りの開き直りトークで始まり、昼飯時には、みのもんたの顔入りおにぎり食べて、仕事終わればパチンコ屋の軍艦マーチで玉はじく・・・これ、完全に「洗脳」だよ・・・頭はいつしか思考回路ゼロでおがくず状態、断線すればすぐに火がつきイケイケ突撃モード、そして、いとも容易く自爆する・・・ホント大丈夫かね、これで・・・

 みのもんたが保守残党のプロパガンダを担っていることはその言動からも明らかで、それは取りも直さず既得権益死守の側にいるということでもある。それは庶民とはまったく正反対の位置にいることになる。その人間が庶民の味方のような顔をして取り仕切っているのである。

 こんな男がでっちあげた「似非庶民」を「庶民」などとは絶対に言わせない。それはマスコミが創り上げた「虚像」でもある。彼らが作り上げた「庶民」にあえて自分をはめ込む必要はまったくない。拒否すべきである。なぜなら、それは結局は自分の首を絞め、自分をおとしめることになるからである。

 

                                                                                                                                                  2010 3/4


 

 31. 立花隆の「ズレ」と「ブレ」


 ジャーナリストとして、昨今の「小沢問題」に関連した彼の一連の言動はそのスタンスの基本軸の「ズレ」と焦点に大きな「ブレ」がある。誰が言ったのかは知らぬが、もし立花が「知の巨人」であるなら、今の日本の知的状況は憂慮すべき事態を越えている。「更新」されない「知」の集積など何の意味もない。彼にはもう状況が見えていないのである。バーゲンセールのような「知的販売人」達ならまだしも、彼の場合は少なくともそれだけでは済むまい。常に「生きた知性」を維持するためには「実践」(広義)が必要なのであるが、彼の言動にはもはやそれがない。やっているとしても、実践なき古びた「データー解析」のみであろう。それでは「現実」、「状況」に対してほんとうの「視座」は確保できない。それは研究論文ばかりに明け暮れ、名誉衝称号だけは手にしている「名医」が実際の手術は碌にできなくなっているのと同様である。その気になって手術台に望めば(現実に向かえば)どういうことになるかは分かり切ったことである。

 もし、「知の巨人」と言われた者であるならば、その影響力も大きく、その罪も深い。もうこれ以上、糊塗的欺瞞報道に現を抜かす新聞各社を倣わず、乗せられず、沈黙することを勧める。

             

                                             2010  3/3

○最近の新聞のインタビューで立花隆は「検察の捜査は終わっていない。立件するとすれば、脱税容疑だ」とその根拠すら明示せず語ったらしいが、これはもうジャーナリストでも評論家でもないと見るべきだろう。そこには、世の耳目を引くことだけに拘った根本的な世界観(哲学)を持たない単なる流行作家(ノンフィクション作家)の姿が見える。「知の巨人」などとはよく言ったものである。


30. 「週刊朝日」(3/12)記事について


「民主党バブルはなぜ崩壊したか」、この見出しの付け方でその内容は大方分かるが、さらに「党首や幹事長の金銭疑惑などが災いし、歴史的な政権交代でバブルのように膨らんだ民主党への期待は、わずか半年ではじけた。云々」。「バブル」という言葉の遣い方もすでにどこかピンボケで、この言葉の遣い方だけでもすでにその意識構造と方向性が見え透いている。これは今までの朝日新聞社の言説に対する自己弁護と正当化以外の何ものでもない。このことは何も朝日に限らず、読売、毎日も同様である。以前にも言ったことであるが、同一内容の記事を誤報も省みず繰り返し載せるような新聞社が3社もある必要もなく1社で充分であると思うのは読者の側からすれば至極当然のことである。

 「週刊朝日」は「朝日新聞」の記事とは一線を画していると思っていたが、やはり、土台切っても切れない縁、どこかに「朝日新聞」社の路線が顔を出す。私は特にこの間の3大新聞(朝日、毎日、読売)を含めた新聞各社の欺瞞的報道に関しては今でもまったく許し難いと思っているし、ジャーナリストとしてよくぞここまで堕ちたというのが今迄の実感なのである。

 対談内容は案の定、もしこれがほんとうに「気鋭の論客3人が縦横無尽に語りつくした。」という内容であるなら、この程度の事かと思うだけで、こんな分かり切ったことを今更「安全地帯」で対談する意味がどれほどあるのか?改めてその対談者の「立ち位置」、「志向性」を問いたくなる。痛くも、痒くもない「位置」での「商談」と言ったところである。対談最後の「・・・大丈夫かな。(笑い)」がすべてを象徴している。「識者」とは何のために,誰のために存在するのか? 今は根本的なことが問われているのだということに未だに気づいていない「識者」がなんと多いことか。

※「大丈夫かな」は危うい行動をする民主党に対して言っているのである。

 

因みに、その他の週刊誌については手にとることもない。その取り上げ方、内容はすべて確認済みで、単なる資源の無駄遣いとしか言いようがない。

                             

                                                                                                                           2010 3/3


29.  ー テレビは愚民政策の一環 ー


テレビは、実のところ常に「旧体制」の玩具で、うるさく、無味乾燥で、人生の味わいを半減させるものというのが実感である。人生の一角からテレビを完全に抹殺してみると、また別の世界が見えてくるのも確かである。報道関係の「コメント」などは90%以上無意味と言える。それは大事な「事実」がつまらぬ「コメント」で手込めにされ、粉飾され、歪められ、われわれのところまで来る間にほとんどその原形をとどめていないことの方が多いということである。「事実」に対する他人の「解釈」ばかりに頼るということは、ものを考えないことになる。大衆を手取り足とり面白おかしく導く、できるだけ自分自身で考えないように仕向けること、新鮮な事実は隠ぺいし手垢をつけたものだけを大衆に与える、これが要するに「愚民政策」なのである。これは「権力」にとってはこの上なく都合がよいことである。どこまで騙されれば気が済むのかということにならないようにじっくり考えることが必要である。マスコミ報道で参考にできるものは2~3%程度であると思っていないとまんまと乗せられてしまう。週刊誌なども左派系、中道系、右派系などと、自由主義諸国では一般的に分けられているが、日本ではほとんどの週刊誌が右派系で、辛うじて1社位がリベラル派と言った程度で、左派系、中道系のマスコミなど今や皆無といってよいだろう。右派系というのは基本的に生活に追われている人々とは縁もゆかりもない者たちが依って立っているところである。しかし、「体裁」は飽くまで「中道路線」である。これは、「政治法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいったん「中道政治」の幻で、瞞着せねばならない」という政治戦略にも一脈通じるものがある。ある時は、「庶民の味方」、またある時は「主婦の味方」を装って、嘘をつくのが仕事のような三百代言、いかさま師がそのプロパガンダ的役割を担った広告塔として跋扈しているのが今のテレビの実情である。

 

クルップ (椅子にゆっくり腰をかけて)そうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託すことがで    きる。アドルフ、よくやったよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬ったのだ。

ヒットラー (舞台中央に進み出て)そうです。政治は中道をいかなければなりません。

 

 ヒットラーとは、もちろんナチスドイツの総統アドルフ・ヒットラーのことである。このやり取りは三島由紀夫の「わが友ヒットラー」という戯曲の最後の台詞である。実際には、ヒットラーはこんなことも言っている。大衆は小さな嘘には敏感だが、大きな嘘にはすぐに騙される。日本にも劇場型などと言われた時期に小振りな「ヒットラー」がいた。そして、人々はまんまと騙されたにもかかわらず、今でもテレビカメラはその人物を追い、おばさん達が「ジュンちゃん」などと奇声を発して駆け寄って行く様を映し出している。騙されるのが心底好きなのであろう。騙されても騙されてもすり寄っていく、為政者にとってはほんとうに堪えられない国民性である。

 「ヒットラー」はいつの時代にも登場する機会を窺っている。人々の心の襞に入り込み、心地よく酔わそうとその出番を待っている。後は機が熟すのを待つだけである。10年、30年、100年、経済的混乱とそれによる人々の精神状態の乱れ、人々が冷静さを失った時、その時こそ彼が登場する絶好の機会となる。そして、彼のスケールはその時の経済的混乱の程度で決まる。人々の錯乱こそ彼の養分である。「ヒットラー」とはすぐ身近にいる人々にも住みついている隠れた「1要素」に過ぎないのでる。すなわち、権力(目的)のためには嘘を嘘とは思わぬ「狂気」でもある。

 そんな「化け物」を登場させないためには、思うように遅々として進まぬ民主主義の言ってみれば負の側面を国民一人一人が担わなくてはなるまい。なぜなら、主権は国民にあるのだから。国民が苛立ち、あせり、その不安を増殖させるのをその「化け物」は嬉々として待っていることだけは忘れてはならない。

 

                                                                                                                                      2010 2/25


 

28. ー恐ろしき国ー


 「特高」、「秘密警察」のごとき権力機構が暗躍し、一方表舞台では権力の宣伝機関と成り果てた大マスコミとテレビ局が正論を装い虚言、妄言を吐く。残念ながら、これが今の日本の現状である。この国はほんとうに民主主義国家なのか、法治国家なのかと改めて問いたくなる日々の連続である。今、国民が大マスコミのもっともらしい言説に乗るということは、まんまと権力の手中にはまるということである。それは結局自分の首を絞めることになるということを見据えておく必要があろう。

 古来、偽りの者ほど巧みに声高にものを言い、美辞麗句は心なき者の十八番である。

 今は、ただ、国民1人1人が日々実感していることを大事にして、それを具体的に反映させるにはどうしたらよいのかを考えなければならないだろう。権力と結びつき、自己の利権にしがみつく固執した学者、評論家、コメンテターの話などはいくら聞いても無駄である。なぜなら、彼らがいくら詭弁を弄しても、国民のことなど微塵も思っていないことだけは確実であるからである。詭弁そのものは、言ってみれば詐欺なのである。だから、詐欺商法に引っかからないよう慎重に対応するのと同様に対処すればよいだけの話なのではあるが、ついつい騙されてしまう人が跡を絶たないのも実情である。そうかと言って、政治家の言った一字一句に拘泥し過ぎると今度は単なる挙げ足とりになり、気の利いた文言、言説に引かれ過ぎると情に流される。要はそういう些末主義にも陥ることなく、流動的な歴史の流れの中で政治家が自分の言説に則り具体的に何を為したか、為そうとしているかが最重要問題なのである。歴史は常に動いている。人間には神のごとく歴史を俯瞰することはできない。人間(政治家)に「神の技」を要求することは最も危険な選択肢を選ぶことにもなる。   

 突然、「秘密警察」が訪れて身の覚えのないことで逮捕されるなどということは今も誰にでも起こり得ることなのである。いつまでも人任せにはしないで、少しは我が身のこととして考えないと大変なことになる。

 

※「小沢問題」は現在の大マスコミと検察の醜悪な実態を白日の下に晒したことは明らかである。そして、これによって国民はさらに「政治」を捉え直そうとしていることも見逃せない事実である。もし、小沢がここまで考えていた政治家であるなら並みの政治家ではない。実のところ、小沢自身はもういつ議員を辞めても本望なのではないかと思う、しかし、この期に及んでは糞尿を浴びてもやらざるを得ないだろう。今、これだけ金と政治が取り沙汰されている中、どいう言う訳か彼には論う程の私利私欲というものを感じないのである。そう思う根拠は、簡潔に言えば、変節漢ではなく、一本筋が通っているということに尽きる。政治屋ではない本来の「政治家」としての必要条件を備えていることである。それが既得権益にしがみつく因循姑息な者達には怖いのである。ただ、小沢自身としては無用な騒動を避けるためにも、自由な研究者ではないのであるから言説はもっと慎重になった方がよいとは思う。

※2月5日号の「週刊朝日」で「検察のずさんな捜査が結果として政治不信を招き、テロやクーデターを誘発するのではないかと指摘」しているが、すでに不穏な動きが現われている。現在、小沢周辺は厳戒態勢である。 (マスコと検察が癒着する流れの中で、その「ずさんな捜査」を「正義の遂行」のごとくに煽ったマスコミにもその責任は当然ある。その報道内容はどこの全体主義国家かと思わせるようにすべて一律であった。これは非常に危険な状態にあることの証左でもある。) 

※国会図書館に行けばこの間の一連の新聞社各社の欺瞞報道のすべてがチェックできる。大マスコミの報道実態とはこの程度のもので、それに踊らされることがどんなにばかばかしいことか思い知ることができるだろう。

 

                                   2010  2/23


27. 「ハリー・ポッター」とJ・K・ローリング


 私は基本的にどんなジャンルのものであれマスコミが騒ぐものには飛びつかない。理由は簡単明瞭、ほとんど裏切られるからである。このスタンスの難点は多少、世の中の流れとズレルこと位である。しかし、逆に今はそのズレを楽しんでいる。この「ハリー・ポッター」もそうである。世の中が騒げば騒ぐほど私の気持ちはこの作品から離れて行った、と言うより他に読む本がたくさんありどんどん後回しの対象になっていったと言う方が正確かもしれない。しかし、最近DVD(最終章未公開)のすべてを観て、著作をチェックしてみたが実に面白い。この作品は全作品を観なければ、また読まなくてはその本当の面白みは分からないだろう。海外では、この本が出る度に本屋に子供が並び、本を手にすると路上に座り込み夢中になって読んでいるという。「活字離れ」などと聞いた風な言葉で括って収まっている人々とはとんでもなく違う光景がここでは展開されている。前代未聞の発行部数を誇るこの本を全世界64か国以上の国々の子供達(もちろん大人も含めて)が全巻読んでいるのである。1巻だけ読んで、もしこんなものかとそこで終わってしまうのが日本の子供たちだけであったとしたら情けないことである。それはただ単に「活字離れ」などといって片づけられる問題ではないからである。

 

原作者 J・K・ローリングについて

 地獄、または真実を直視するということは、ある意味で何ものかを喪失することでもある。その喪失感(ある時は致命的な喪失感)を埋め合わせようとする命がけの営為そのものが「芸術」である。J・K・ローリングの何気ない一瞬に見せる眼差しに、淵の底を見てしまった者の寂まくとした心の様相を見る。

 彼女は確かに、奇跡が起こり得る領域に存在する「人間」である。

  もしかしたら、彼女はマグルとウィッチのハーフかもしれない。

                                     2010  2/22


26. ここ3,4年のこと(2006年~)


 スペイン、フランス、公演、転居と、実に慌ただしく過ぎ去った日々である。転居とは言っても100年以上経った一戸建ての転居である。廃棄処分だけで4t車4台、それだけではない、それに先立つこと3か月間に捨てた分を含めると4台どころか何台になっていたのか見当もつかない。さらには移動する荷物の本体である、それを運ぶのに4t車が実際に何台来たのか覚えていない。とにかく一旦は倉庫行きになった。

 転居して2年目に入るが、未だに完全には整理し切れていない。今年(2010年)は「できるだけ」静かに自分自身と回りの整理に明け暮れようと思っている。

 

                                                                                                                                   2010  2/22 


25.「死の達人」とは


 いつであったか、テレビで、初老の女性が「今後どのように暮らして行きたいですか?」と聞かれて笑いながら発したのが「ピンピンコロリ」という言葉である。要するに、死ぬまで元気で死ぬ時はコロリと逝きたいということである。しかし、これは「死の達人」の域で、実際には望んだとしても中々そのような死に方はできるものではない。この言葉を口にしたこの女性は少々肥っていてどう見ても「ピンピンコロリ」とはいかないように思えたが、やはりそのような生き方、死に方ができればよいという切なる思いがあるのだろう。

 私には「ピンピンコロリ」ですぐに具体的に思い描ける2人の老人の死がある。

 昼食時になってもいつまでも降りて来ないので、部屋まで呼びに行くと、窓は開け放たれ、揺り椅子に揺られながら眠るように死んでいたという92歳の老人のこと。

 そして、仕事の手を休めることもなく「きれいに死にたかったら、最後まで精いっぱい仕事することよ。」と言っていた93歳の老婆のこと。それから1年後のある日、その老婆は眠りから覚めることがなかった。

 私はこのような人々のことを「死の達人」と呼ぶ。それは「生の達人」なのかもしれない。

 

 


24.「市民団体」という名の「政治結社」


「市民団体」イコール民意の「現われ」のような捉え方はこの場合は危険である。「市民団体」というのならその実態を明確に提示するべきである。元新聞記者などの10人程の集団が「民意」の「現われ」などとはとんでもないことである。大体、元新聞記者などというのも胡散臭い、メディアと検察の癒着がこれだけ問題になっている時である。どこの新聞社の記者だったのか聞きたくなるのも当然である。この市民団体は小沢を起訴まで追い込んだ後(起訴できればの話だが)すぐに解散というところではないかと思っている、もしそうでないならこれだけ世間を騒がせているのだからどこのどういう団体なのか、なぜ今ここまでしなくてはならないのか、国民の前できちんと説明すべきである。それができなのであれば「市民団体」とは名ばかりのいかがわし単なる「政治工作団体」と見なされても仕方あるまい。

                                                                                                                                       2010 2/14 

 


23. Il y a quelque temps     à Tokyo   (1)


"Le problème de Ozawa" a mis au grand jour la tromperie de journalisme  et l’épouvante de Parquet

Je crois que le vrai peuple sait tout ce qu’ils mentissent par omission et usent de subterfuge sauf les fanatiques et le peuple stupide

 

 Aujourd’hui le ciel est gris et il fait froid    mais peut-être demain  je ne sais pas  ce n’est pas  mon problème

 ※simindantai:  「simindantai」 est  l’association de citoyen. Mais  dans ce cas là   tout ce que l’associacion de citoyen dit   n’est pas toujours la volonté de peuple. plutôt  les paroles et les actes de l’organisation politique(anti Ozawa)                                                                              

 ※Le journalisme  japonais (TV  journaux  revue etc)  s’unit avec le  parquet  et  les restes  du parti  conservateur.     Par   conséquent  on ne peut pas ajouter foi aux articles de journaux et commentaires de TV. 

  Celui qui est digne d’être applé journaliste n’existe presque jamais au Japon..

<TV comme démagogie  ( sur les nouvelles)>

TBS( 6chaine) (la personne chargée de TV est MINO  MONTA)+l’éditorialiste de YOMIURI >    NIPPON TV ( 4 )  >  ASAHI TV(10) >   FUJI TV(8)  etc      Sur les autres chaines de TV, c’est à peu près la même chose.

<Les  journaux comme démagogie  ( sur les nouvelles)>

YOMIURI  > SANKEI > MAINITI > ASAHI      etc      Sur les autres journaux  c’est à peu près la même chose.      Mais, sauf「NIKKAN GENDAI 」(P1-P3)  (C’ éait  imprévu)

                                                                                                                        20102/12  . 2/16

       ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

○On dit que les connaissances de mon ami  ont enfin cassé  TV  par la hache.

Quel dommage de casser le poste de tv.  Mais  Je comprends bien un tel senntiment..

      ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

○Les restes du parti conservateur survivent  tourjours à la honte dans la Diète.

   Quell pitié !    Mais   Il est vain de dire aux éhontés.

 

                                                                                                                       M・HIRAYAMA


22. テレビはますます薄く、不鮮明に、 新聞はすぐさまゴミ箱へ。


 それならば、いっそのこと見まい、聞くまい、取るまいということになるのは致し方あるまい。

 テレビが薄くなるに従って、内容もますますペラペラになり、嘘が多くなってきた。画面も大きくなってはきたが、ものごとの捉え方の枠組みはその画面の大きさとは反比例して小さくなっている。画面の鮮明さも、出ている人間の鼻毛、しわがよく見える程度で内容はボカシの比率が次第に多くなるばかりで不鮮明になっていく。

 

 新聞のレベルは下がる一方である。それは錆びついたアンテナたよりに日々の糧を得るだけの旧体制の「御用」ジャーナリストの集合体に成り果ててしまっているのだから仕方あるまい。「3大新聞」(朝日、毎日、読売)同一レベルの同一内容では3社ある必要もなく、今後のためにも会社合併を勧める。テレビも同様、どの局も五十歩百歩、同じようなものを垂れ流しているのでは民放がいくつにも分かれている必要性も、必然性もない。整理した方が賢明である。こんな状態では遅かれ早かれそうならざるを得ないだろう。もう遅いくらいである。

  

 国民が口をぽかんと開けてマスコミの言うがままになっている内に巨大な権力を蓄えてしまった検察権力に対して真っ向からジャーナリストらしい見識と感覚と取材で報道をし続けてきたのは意外にも「日刊ゲンダイ」(1面ー3面)、そして「週刊朝日」のみである。それ以外の欺瞞的報道に関しての具体的指摘は原稿用紙何百枚にもなるのでここでは差し控えるが、欺瞞的報道の共通点は、国民をある一方向に煽ることだけで国民の側の立った視点を持たない、見識がない、支離滅裂、肝心な核心部分を避け安全地帯での冗長な詭弁の繰り返しに終始しているということである。「小沢問題」を追っているなどと言われている「ジャーナリスト」なども「資金の流れ」を追った検察の視座の轍からは外れることはない。それでは検察の「吹いた風」に吹き飛ばされているだけの話である。これではジャーナリスト気取りのデータマンか、何の心配もない「御用」ジャーナリストの耳目を集める対象を扱った単なる「お商売」である。「限りなく黒に近いグレーだ」とか何だかんだと、その様、憐れで滑稽である。そんなグラデェーションを楽しんでいる前にもっとやることないのか? これが「第二の世論」の大多数の考え方である。

  

 そして、今これだけ「検察の独走」が取り沙汰されている中で、「週刊文集」は「特捜部は何をしているのか」である。そして、「小沢を起訴できるじゃないですか。」上層部に詰め寄った検事の声はなぜかき消されたのか、云々。これでは安手の刑事ドラマの台本である。あたかも起訴できる証拠はあったかのごとくの書き方であるが実はないのである。この手の書き方が他の週刊誌にも実に多い、無責任極まりない。正確に言えば、結果的に裁判所で無罪になるのは承知の上で、それでも強引にでっちあげれば起訴はできるという意味である。起訴自体にこだわり過ぎると今度は政治的意味合い強くなる。それを敢えて避けたということで、それは今後の検察にとっても賢明な判断であったと思われるが、それについてイチャモンをつけているのだから、どこの政党、政治結社のプロパガンダなのかと問われても仕方あるまい。この際はっきりとどこのスピーカーなのか、どこから資金援助をえているのか、どことつながっているのか明確にするべきである。他誌についても同様である。

 

 

                                                                                                                                  2010  2/11 

 


21. ー彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘の一個人である。ー (セリーヌより)


 これは,何ものにもしがみ付くことなく不安と真っ向から向き合い真に生きようとした者の意識の覚醒を描いたサルトルの「嘔吐」という作品のエピグラフ(巻頭引用句)でもある。

 何ものかに取りつかれたような狂信集団の群れではない「正真正銘の一個人」の内なる叫びが日増しに強くなるのを感じる。

 目先の事(多くは利権)ばかりに追われている因循姑息な輩の思惑とは裏腹に、人々は覚醒してしまったのである。もう後に戻ることはない。未だに小手先の詭弁を弄して保身に身をやつす者たちに対して、人々は今や憐れみさえ感じていることだろう。「覚醒」してしまった人々に真に応えられない限り何を言っても無駄なのである。もう戻ることはできない。そこには大きな歴史の「うねり」がある。その「うねり」は、今、音もなくますます大きくなっている。その背後にはすでに第二のさらに大きな「うねり」が見えている。

                              2010 2/5  2/9 加筆

 


20. 「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ)などの番組に対する危惧


 この手の番組(みのもんた等も然り)は芸能、スポーツだけやっていればいいものを時事報道解説まで芸能、スポーツのノリでやりだすから困ったものである。今回の「小沢問題」でもそうである。一見日常感覚でもっともらしい質問、提言をすること自体は構わないと思うが、公共の電波を使い一応は不偏不党をうたいながら「正常な」庶民を装って伝えるその内容にはかなり偏向がある(キャスティングされたコメンテーターの質も含めて)。にもかかわらず敢えてその偏向的方向にもっていこうとすることは巧妙なマインドコントロールであると言わざるをえない。この手のマインドコントロールは時間を経て功を奏してくるものだけに、その原因となるものについては次第に焦点が絞りにくくなってくるのである。

 同種の新番組誕生に際し、フジテレビ関係者が異口同音に「宮根(宮根誠司)が成功すればテレビ界が大きく変わる」と言っているそうだが、そこには以上のような意味も含めて不可解な部分が多々ある。特に、報道に関して言えば、根拠も定かでないものを適当に都合のいいように流しておいて、いざその責任を問われればオチャラケでごまかしてしまうことが今まで以上に日常茶飯事となるということである。今までの番組構成、流れを見ていてもそれは歴然としている。それは芸能、スポーツを巧みに織り交ぜることで「事の重大さ」を中和させ、肝心なことから人々の眼をそらしながら「都合のいい報道だけ」を人々にインプットさせるということである。そこには報道におけるジャーナリストとしての厳しい眼と責任はない。「ニュースショー」と言われているものの陥穽(落とし穴)である。

 笑っている内に、世界の終焉につながる幕引きをやってしまうことだけは避けたいものである。子供たちのためにも、それが「ほんとうの大人」のやることである。「老いたるは皆かしこかり、その国に身を殺す者 すべて若人」では困る。

                                    2010  2 / 4


19. 飛べない者は・・・


 飛ぶことばかりにこだわり続けるのも、一つの生き方ではあるが、飛べないなら、歩いて行けばいいだけの話である。飛ぶのに適した羽を持っているものもいれば、そうでないものもいるということ過ぎないのであるが、中には充分飛べる羽を持っているにもかかわらずそれを使いこなせないものもいるので、事ほどさように単純でもない。さらには、飛べる羽を持っていながら、飛ぶことができるにもかかわらず敢えて地を行くものもいる。地を行くにしても、大空を自在に飛びまわるにしても、死と背中合わせであることだけは確かである。

 こんな言葉がある。「勝って地獄、負けて暗黒」。これは「勝ち負け」にこだわる限り、またそのパラダイムでしか見ない、見えないものにはその先に待っているものは「地獄」か「暗黒」しかないということでもある。それは、たとえ「勝った」にしても人生はバラ色ではありえないということである。ただ、「地獄」は極彩色で「暗黒」は漆黒の闇という違いはあるだろう。

 

                                                               2010  2 / 1


18.  ー散歩ー


 とある駅を通り過ぎようとした時、まったく動かないのでそばに行くまで気が付かなかったが、じっと座って前方を見つめている犬がいた。おそらく主人を待っているのだろう。その姿はどこか凛としていて、眼差しは限りなくやさしい。足を止めてしばらくその犬の顔を見つめていると、私に気づき、少し首をこちらに向けた。その表情は、こちらが恥ずかしくなるような、とげのない思慮に満ちていた。微笑みかけると、わずかにうなずきながら元の姿にもどった。数歩歩いたところで振り返って見ると、携帯電話をしながら自転車に乗った男がその犬のそばにツバを吐いて行った。 

 動物と共に生きたいと思う人々の気持ちが痛いほど分かる。

人はうそにてくらす世に

なんぞ燕子が実相を

談じ顔なる

 「閑吟集」の歌謡の一節が思い出された。

 

○燕子(エンシ)  ツバメのこと。  ○実相  実際のありさま。真実の姿。

 

                                   2010  1/30


 17 ー失速した週刊誌報道ー


 普段は週刊誌など手にすることもないのであるが、待合室などの場所では、つい派手な見出しにつられて読んでしまうがいつも100%裏切られる。そのあまりにやすっぽさの目立つセンセーショナルなタイトルから、相当発行部数が落ちているのだろうと余計な心配までしてしまう。

 たまたま、このとき手にしたのは『週刊現代』(1・25)であるが、その中で立花隆と宗像紀夫(元東京地検特捜部長)が対談しているところがある、そこで立花が「実際、検察からのリークはあるんですか。」と尋ねると、宗像が「意図的なリークというのはないんです。云々」ここでもうばかばかしくなってしまった。立花のこんな質問にまともに応えるアホな東京地検関係者がどこにいるのか? この対談の無意味さはここに集約されている。立花がボケているのか、なれ合い対談なのか、大宅壮一が生きていたらそれこそ「馬鹿野郎」ものである。こんなボケた質問でも実りの多いものとして成り立たせるには、今のところ検察を内部告発した三井環(元大阪高検、公安部長)くらいしかいないだろう。

 しかし、今ごろ出てきてこんな対談しかできない立花は「ロッキード事件」以後一体何をしていたのかと改めて問いかけたくなる。

 それから、これは全体的に言えることであるが、ただ感情的に煽り立ててばかりいないで、もう少し冷静に自分自身で書いている内容について論理展開上問題はないのかチェックをしてみたらどうかと思う記事内容が多過ぎる。

<その1例>

「『やはり、マスコミと検察との癒着を徹底的に調査しなければならない』との議論が始まって会議が盛り上がり、云々」この個所の内容がいつの間にか「政権与党の最高意思決定機関において、公然と『気に入らない報道を潰していまえ』という話し合いが行われるなど自民党政権時代にも聞いたことはない。」という内容にすり替えられている。この書き方で読者をどこへ持って行きたいのかは明白であるが、ここに論点すり替えの虚偽がある。それ以外にも感情表現による虚偽 etc.

 「マスコミと検察の癒着を徹底的に調査しなければならない」という内容がどうして「気に入らない報道は潰してしまえ」という内容と同一なのか、または置き換わるのか、また同一内容であることを印象付けるような引用符で括りあたかも同一関係者が語っているような体裁を取るのか? 正確さを欠いた不明瞭な内容で人心を惑わすデマゴーグの所業とも言える。

 そうかと思えば、違うところでは歴史学の講議である。対談している山内昌之(東京大学教授)は小泉政権時、その私的諮問機関にいた人間でもある。編集部との対談内容は、例によってある時代の歴史上の人物と現代に生きる者との比較・照合とその敷衍である。この作業は現代を見る一つの参考になるだけであって決して近未来の予見すらできないということを明確にして置かないと危険な作業となる。彼の「講義」は全体的には、一部参考になる部分もないわけではないという程度で、ピンボケ箇所もある(特に現代の状況把握の視座に関して)。歴史のまっただ中に自らも「存在」(その「存在」の在り方も問題になる)しているという抜き差しならぬ緊張感がない。もし、それが「学者」と言うのであれば、「学者」にはデーターの解析はできても、今生きている現代の解読はできないということである。そのような意味でも、山内の「俯瞰図」が(どの位置からの俯瞰か、またその解釈などについては今は置いておく)どのようなものであれ、それは何千枚いや何十万枚の俯瞰図のうちの1枚であること以上のものを我々に与えることはない。

 

それ位で、後は見る時間もなかった。また、見る必要もないだろう。

この類の週刊誌はすべて大同小異である。これでは先はない。

ただし、「週刊朝日」は視点、論述、問題提起がしっかりしている。

                                   (敬称略)                                                                      

                              2010  1/28

 


16「東京新聞」(1・24)

ー山口二郎と藤沢久美の論述の的確さー


○「メディアの役割」と題した山口二郎の論述は簡潔にして正鵠を得ている。その1部を抜粋する。

「メディアは、小沢と検察の戦いが政治的な情報戦であることを自覚すべきである。小沢の側に不正があるなら、追及すべきである。しかし、検察が今までに犯した誤りについても、同時に明らかにしなければ、国民の知る権利に応えることはできない。」

 さらに、「メディアは、検察という巨大な権力に対する検証やチェックを怠っていると、私は考えている。」とも語っている。まさにその通りで、私も同感である。これこそまさに異常事態なのである。

 

 それについては、春名幹雄(名古屋大学大学院教授)も「世論操作にたけた東京地検特捜部は3人の逮捕者を握り、今後、小沢氏の不利な情報をどんどんメディアにリークするだろう。それが彼らの定石だ。」とすでに指摘しているにも関わらず、相も変わらずマスメディアはやれ世論だ、民意だなどと言ってはいるが、何のことはない陰で検察が巧みに世論を操作しているに過ぎないということである。こんなメディアのあり方は先進諸国の中では日本ぐらいで普通ではない。これは実際にはすべてが検察(官僚)の言うがままで、検察(官僚)の独裁体制にあるということを意味する。このような状況の中で、未だに「一方的に」検察は正しいなどと言っている人々がいること自体に危機的驚愕を覚える。

 

○「新聞の見識と主義主張」と題した藤沢久美の論述について、

 この論述も現状を的確に捉えた内容である。

「民意」が意味するものの質の変遷についての論述も的確な提示がなされている。

「東京新聞」のバランス感覚ある「読者の声」の選別基準に敬意を表しながらも、そのバランス感覚自体にさりげなく問題提起をしているのも見逃せない。「東京新聞」に限らず、この指摘をしっかり受け止めるかどうかで今後は決まって来るだろう。

 「社会のさまざまな事象の背景やプロセスなどを各方面に取材し、主義主張と見識を持って伝えることが、これからの新聞に求められることなのではないか。新聞も原点回帰の時かもしれない。」と締めくくっている。論点の定まった問題提起である。「新聞社によって編集された情報」がどれだけの「手間」をかけて作られたものなのかは非常に重要なことである。それがない以上、あえて新聞を選んでその情報を読むということはなくなるだろう。

 

 因みに、私の場合は情報収集と言えども、ネットは必要に迫られてやむなく使う程度である。それはネットで収集できるものには限界があり、内容的に浅いものが多いからである。

 

山口二郎 北海道大学教授

藤沢久美 シンクタンク・ソフィアバンク副代表

 

                                     (敬称略)

                               2010 1/25

                                   


 15「日刊ゲンダイ」 斎藤貴男の論述について


 「大新聞よ、今ごろ報道への権力介入を怒るのか」と題したこの論述は大方のところ納得できるものであるが、残念ながら、後半「しょせんは軍事システムでしかないインターネットを神のように崇め奉り、これと融和しないものをせせら笑うことしかできない連中の憎まれ口を、それでも一理あると認めざるを得ない現実がつらい。やるせない。」と少々勇み足気味の感情吐露は、筆者の状況を生々しく伝えるものではあるが、私のように好きでもないインターネットを仕事の関係上使わざるを得なくなり、その延長上に今の状態がある者にとって、「インターネットを神のように崇め奉り」と言う表現は何ともピント外れで、意味不明である。そんな人達もいるのかと言うのが率直な感想で、「これ(インターネット)と融和しない存在をせせら笑う」なども私自身はとても「融和」しているとは思えないので筆者の思考回路の枠外なのであろう。おそらく、この筆者の周辺から類推された「連中」のことであろうと思われる。

 必ずしも共有できるとは限らないものに対する必要以上の否定的誇張、増幅はただ反感を買うだけである。斎藤貴男の論述は「勇み足」の部分を除けば、納得できるものであり、参考になった。

 「つらい」、「やるせない」という気持ちを大事にして、今はもう数少なくなってしまった「真のジャーナリスト」となることだけを切に願う。

                                      (敬称略)

 ※今回の「小沢問題」に関して「日刊ゲンダイ」だけは的確な視点をもって問題提起をしている。このことについては1/20の時点でも私は指摘している。                                                                                                                                                                            

                                      2010  1/25


14 新聞・テレビの報道の解読変換コード」の必要性


 現在、マスコミ報道をそのまま鵜呑みにするにはあまりに危険な状況になってきた。その記事内容(新聞社別、発行所別)、テレビのコメント内容(局別、どのようなコメンテーターを出しているか)を吟味するためにも「各自」でその「解読変換コード」を作ってみると良いと思う。ジャーナリスト不在なのであるから、国民全員がジャーナリストの眼を持つしかない。それは、とにかく情報をそのまま受け取ることだけは避けた方がよいということでもある。それは取りも直さずデマゴーグに振り回され、巻き込まれ悲惨な道を歩むことを回避することにもなる。歴史的に観ても、現代においてもデマゴーグによってどれだけの血が流されたかは枚挙に暇がない。

<参考例> 

○取り上げた対象についての使用語句の頻度によってその方向性を見定める。

 たとえば、「机上の空論にすぎない」、「大人なら~」、「当たり前だ」、「当然だ」、「理想論」、「愛国心があるなら」、「売国奴」etc.以上は詭弁の戦略として使われる言葉でもある。そして、攻撃されていることをねつ造し、または必要以上に恐怖感を煽り、平和主義者に対しては愛国心がない、売国奴であると非難するのはファシストの常套手段であるということも一つの例として確認しておく必要があるだろう。

 特に不明語句の使用には注意を要する・例えば、「市民団体」(誰でもいかようにもでっちあげることは可能。もちろん正当な「市民団体」もあるが、マスコミのその実態把握はかなりイイカゲンである。自分に都合のいいものだけを拾っているだけとも言える。「関係者」、「関係筋」、「関係諸機関」、これらはほとんど根拠のない、確証を欠く、信憑性のないものの代名詞であると思った方が賢明である。

○論理的整合性を見る。今までの例では「論点のすりかえ」、「感情表現による虚偽」、「不明なものを根拠に自己の正当性を補強、展開する」、もう少し具体的に言うと、詭弁(論理展開が誤りである推論)として、主にドミノ理論、未知論証(証拠がないことを根拠に物事を証明する詭弁)、感情が充填された語の多用、根拠を説明せず自説を押し通そうとする詭弁、などが確認される。

 

 検事、弁護士、政治家、と言われる人達は、基本的に「詭弁術」を生業としている人達で、白を黒とすることなど容易な人々である。だから、本人にとっても両刃の剣で誘惑に負けて詭弁を弄するようになれば、いつでも単なる法律屋、政治屋と成り下がる。すなわち堕落である。それはジャーナリストも同様である。

 以上、参考までに挙げたが、分からないないこと、不明なことを分かったことにしないで、引っかかったら立ち止りチェックする。どんな「つまらない」ことでも分かったことにしてしまうとそれは彼らの思う壺にはまるということになる。その姿勢を基本にして独自の「解読変換コード」を作ってみるというのは有効性がある。簡単なものから複雑なものまで各自各様にいくらでもできると思うのでやってみると良いと思う。それはデマゴーグに振り回されないためにも、自分自身のためにも、あるいは、これからの子供たちのためにも必要なことである。

                                                                                                                              2010   1/24

 


13 ー危険なマスコミ報道ー


 今回の「小沢問題」のおかげで、マスコミ報道(主に大新聞、TV)の危うさと、罪悪が今まで以上に具体的に見えてきた。そして、今や影の独裁者となった、恐怖の検察の実情も明らかとなった。さらに、国民の知らないところで、こそついて甘い汁を吸い続けていた恥知らずな輩の実態も浮かび上がってきた。

( 検察の正当性について元特捜部副部長なる者が述べているが、今となっては何ら説得力を持たない。なぜなら検察そのものの実態が露呈されてしまっているからである。安手の刑事ドラマのような「正義」を説いても白けるだけである。「国民の皆さんが、頭をクリーンにする」何を言っているのかと呆れかえる。感情的にならずもっとクリーンにしなくてはいけないのはそちらの方である。「故意的に記載しなかったんだから、単純なミスではなくて悪質な犯罪行為という位置づけをしなくてはいけない。そこで初めて、この事件を違う視点で見られるようになる。」小学生でもあるまいしそんなことは百も承知の上である。さらには、この文言自体にすでに問題がある。その前のところで、彼は、「それが「故意的に」ということは石川容疑者も話しているという。」と言っている。これは伝聞的表現で確定表現ではないがいつの間にか確定したことになってしまっている。一事が万事、これでは本来の使命も忘れた堕落したまマスコミ対しては火に油を注ぐようなものである。それから、この問題を「単純なミスではなく悪質な犯罪行為である」と捉えているのなら、良い機会であるもっともっとこの「小沢問題」を小沢個人だけに留めないで敷衍させるべきである。誰を捜査対象にするかという特定基準も「正義」などとは程遠く、政治的である。世論操作を巧みに行いつつ自分の思う方向に持って行くなどはまったく政治的行為以外の何物でもない。

 ほとんどのマスメディアがこれほど本来の役割を忘れて、客観的正確さを欠いた感情的表現(単なる悪意)を多用したことは近年稀であろう。そのあり方そのものはデマゴーグである。そして、その元は検察である。このことからどういう構図があぶり出されるか、誰が見ても明らかだろう、マスメディアの怠慢(本来ならマスメディアが検察をチェックすべきであるが、それが逆になっているということは闇の権力者である検察に公共の電波は乗っ取られているということでもある)、いつの間にか膨れ上がってしまった検察権力とそこに寄りそう政治屋たち。誰にターゲットを絞って捜査を開始するかは推して知るべしである。今回のことで改めて不偏不党なるものが存在しえないことが露骨かつ醜く実証された。

 最近の一連の報道について「マスコミのせいだって、それはないだろう。」本気で報道関係者がそんなことをいているようではもう心底腐り果てている。まったくマスコミは報道は信用できないということである。

 

 恥知らずな者が相手に向かって「恥知らず」と言う光景も実際にはなかなか見られるものではないが、今回は見ることができた。このような者こそが心底恥知らずな者とも言える。こういう神経の輩が今までの政治を動かしてきたのだから、さもありなんである。良くなる訳がない。「義」などとは程遠い「偽」の政治屋である。

 大新聞、TV報道関係者の多くは、もうすでにジャーナリストの「誇り」などは持ちわせてはいないのだろう。その彼らがもっともらしくコメントなどをする。コメントなどする資格のない者達の言いたい放題と言った方が現状には一番ぴったりする。彼らにいちいち「指差して」もらう必要はない。そんなことはせず、今日起こったことをできるだけ正確に伝えていればそれでよいのである。現状はそのような基本的なことさえできていない。報道に面白さなど要求してはいない。余計なことなど一切するなと言いたい。それがジャーナリストの「誇り」を置き忘れた者たちが唯一最後に表せる「良心」でもある。

 

 最近のコメンテーターがよく口にする言葉「多くの国民もそう思っている」、そう思っているのはあなただけというケースはいくらでもある。

   これは人々の言っていることからではなく、実際の人々の動きから分かることであるが、それは公共の電波を使ってろくでもない、イイカゲンなことを言いたい放題垂れな流すTVなどはもういらない、面白くないと思っている国民が数多くいるということである。

 

 

  いやいや、苛立つ日々であったが、「小沢問題」そのものより、その問題の取り上げ方によって様々な箇所、場所、その位置関係、あり方、繋がりなどが鮮明に浮かび上がってきた。国民も多くは語らないが、マスコミ、などよりは冷静に見守っているはずである。

 

                                                                                                                     2010  1/23 


12.ーわが師は、「死」なりー 


 太陽を直視できないのと同様に、「死」は直視することはできない。だから私がここで言う「死」とは、「観念」のことである。それが私の師である。日々身近にいてよく私の面倒を見てくれる。やり過ぎではないかと思われるくらいの念の入れようであるが、ありがたい。私にとっては常に唯一無二の師である。

 この場合の「観念」とは主観的なものではなく、漠然としか感知しえず、正確な言語表現を与えることができないが、一般性、普遍性をもって実在する、民族や時代の特殊性によって制約され人類を推進しているもの。というプラトン的イデア(観念)に近い。

 今宵、どこからともなく現われた師は、「すべての生きとし生けるものは常に一期一会としか「あり」ようがない。」、「登山家が航海中に死ぬようなことを避けさせるために私が(死)がいるのだ」と言うようなことを呟いていた。以前にも聞いたことがあるが、師がボケているはずもなく、何か必要があって繰り返しているのだろうと思っていると、去り際に、まだ冬だと言うのに「やがて死ぬけしきも見えず蝉の声」などと夏の俳句を、それも奇妙なリズムをつけて吟じる。さすがに私の師である。もう季節感などお構いなし、あるのは生と死のみである。その俳句は芭蕉の句であるが、すなわち「両忘」である。

 


11. ー腐った安定より「変動」を望むー


 日本の大新聞、TVの報道(週刊誌は論外)の堕落、腐敗は今に始まったことではないが、政権交代以後、日に日にその「本性」を白日の下にさらけ出しはじめている。何をそんなに怖がっているのかと言いたくなる。ただ単に自分たちにとって都合の悪いことを、あたかも国民の側に立って国民に都合の悪いような印象を与えつつ、実際には自分に都合のいいように国民を扇動、マインドコントロールしているというのが実情である。これはメディアとして健全に機能していないということで非常に危険な状況である。そこで、我々としては今まで以上にメディアに踊らされることなく、冷静に事の成り行きを見守りつつ判断する必要があるだろう。

 今回の小沢問題に関しても、マスメディアはその使命をまったく果たしていない。検察のリークをそのまま何の検証もせずただ垂れ流しているだけ。先進諸国では、軍隊、検察が勝手なことをしないようチェックするのがマスメディアの大きな使命の一つでもある。ところが、日本の場合は「正義」、「反権力」を装った検察の情報を無批判にそのまま(事実であるかどうかも不明のまま)流しているだけで、またそれに乗って多くのマスメディアが「大合唱」しているのである。この光景、何とも異様で薄気味悪い。(「日刊ゲンダイ」だけは違っていた。焦点の合った問題提起をしている。)

 このような状況に至っては、今や影の権力者に成り果てた検察側とマスメディアの癒着を指摘されても仕方あるまい。これこそ世界的に見れば前代未聞なことで、日本国民は完全にマスメディアに舐められている。今回の問題でも、検察が「執拗」に小沢を追及している背景には、「正義」、「反権力」などという美辞麗句とは関係なく、「検事総長を国会同意人事にする」、「民主主義的統制下に置く」と主張し「聖域」と言われていた検察組織にメスを入れようとしてきたことに対する検察側の「聖域」の死守という構図が浮かび上がってくる。とにかく小沢をつぶしたいのである。本来、検察は「捜査で世の中や制度を変えようとかすると、検察ファッショ(検察独裁)になる。それは許されない」(東京地検特捜部の生みの親でもある河井信太郎の警告)ということをこそ死守すべきなのである。

 この「検察独裁」の方向の中で、陰で煽り立てている政権奪回だけしか頭にない、言い換えれば自分のことしか考えていない恥知らずな残党がうごめいているのも確かで、それらが未だにマスメディアの中枢とつながっているとしか言いようがないのが現在のマスメディアの報道の仕方である。今後、場合によっては、すべての報道関係者はその自分が流した報道に関して国民に謝罪し、責任を取らなくてはならないだろう。

ーマスコミ報道のチェックポイントー

○顔を隠して証言者のような恰好で出てくる者の発言は何ら確証のないものである。何を今取り上げているのかでその局の姿勢はチェックできる。今までも「ヤラセ」はいくらでもあった。

○支持率などの数値そのものはほとんど当てにならないと見た方がよい。または調査方法を確認すべきである。

○コメンテイター、ニュースキャスター、レポーターの発言については、「てにをは」、副詞の使用までチェックするとそのマインドコントロールしたい方向が見える。何気なく言うこともキーワードになる。間投詞に至るまですべて作られていると思った方がよい。

事実 → 虚構化(ねつ造、脚色、歪曲、取捨etc)したもの → 「事実化」して報道。この過程ですべてが「作り上げられる」。

 この作業は、上記のマスコミ報道だけに限らない、出版物に関しても同様である。たとえば、歴史的事実と言われてきたものについて一連の「OO事件はなかった」、「OOはこうして作られた」また「OOの正体」シリーズ、センセーショナルで、ジャーナリスチックな題で耳目を集め、ただ単に出版部数を上げるためにだけ書かれたとしか思えないような空疎な内容の本は腐るほどある。共通しているのは、根拠となるべきものの検証と考察が皮相的であるということ,それにも況して彼らが何としても持って行きたい方向に読者を向けさせるための事実の改ざん、ねつ造などが挙げられる。人が見ていない、聞いていないものについては言ったもの勝ちである。何とでも言えるのである。これではデマゴーグ(民衆煽動者)である。学術的なもの、歴史に関する考古学的なものならその内嘘はばれるが、近代、現代のそれも多くは「人間事象」に関したことである。そのような快刀乱麻では解決できないものをいとも容易く切って見せる、それは視野狭窄か、知的パラダイムが小さいかのどちらかであろう。もしそれをするなら、少なくともいくつかの視点から、さらにはどの時点からの「俯瞰」なのか、歴史の中に自らもいてどの「位置」での、どの「角度」からの「定点観測」なのか、「観測」するにあったってどのような方程式(世界観)で望んでいるのか、そもそも留まることがない歴史の中にあって「定点観測」がどこまで可能なのか、最低この位のことは論述の前提条件としてクリアーされていなければ、読む価値はない。そうでなければ、それは単なるゴシップ記事に毛が生えた程度のものと言わざるを得ない。大衆受けするスキャンダラスな内容で引き付け、漫画的に分かりやすく自分の思うところに持て行こうとする意図が見え透いている。どこに持って行きたいのか、その場所も明白である。「大衆」の「こころ」をつかまえること=金である以上、彼らが必死になるのも当然である。基本的に彼らは金になりそうな題材であれば(これについてだけはえらく敏感である)「右」も「左」も関係ないのである。しかし金があるのは大方「右」である。だからどうしても「右」に尻尾をふる内容となる。しかし。さすがにまだ「ヒットラーは存在しなかった」という本は出版されていない。しかし、滑稽ではあるが、彼らの「論法」ならそれもまた容易であろう。もう、いっそのこと「わが友、ヒットラー」という本でも出した方が自他共にはっきりするのではないか。もっとも三島由紀夫の戯曲ほどの出来栄えは期待できないだろうが。

 それにしても小手先芸というか、巧妙さというか(上記の「事実化」する行為も含め)それが「大人」だと思っている人々だけが集って「大人一般」を「大人」してそこに何が生まれてくるというのか。何も生まれては来ない。縮小再生産の果ての論理的帰結を見るだけである。                                        

                                     etc

※ 我々には、どうしてもこの「事実化」されたものに対する吟味が必要になってくる。一番危険なのはそれに感情的にすぐに反応することである。それでは扇動者の罠にまんまとはまることになる。 

 今やるべき問題は山積しているにも関わらず国民の眼を「小沢問題」を含めた権力闘争に絡め取りながら、反民主キャンペーンを行っているマスメディア、とその残党。そして、それをけん引する検察。「健全野党を目指す」聞いてあきれる。この国では二大政党路線は土台無理な話なのである。足は引っ張る、手は引っ張る、泥をかける、それも大合唱付きである。オイオイ、政策論議はどうなっているんだ。政治屋か政治家の違いで、どちらにしても聖人君主ではないのは確かなことでやるべきことをきちんとやってくれればいいのである。記載漏れだ、通帳がどうのと、多くの者はもううんざりなのである。限界に来ていると言ってもいい。この国の国政はどうなっているのかと言いたくなる。その揚句に、「なかなか進みませんね」、もう空いた口が塞がらない。これではたとえ非民主であっても民主党に同情したくなる。ハッキリ言うと、マスコミも検察も完全に国民の意識からズレている。検察もこれ以上いつまでも引っ張っていると、検察の存在意義を改めて問われることになるだろう。もう充分気持ち悪いほど国民にその存在を見せつけている。

 

 それにしても、毎度テレビでお馴染みの検察の鞄をもった黒服集団のゾロゾロ、今回ほど気持ちが悪いと思ったことはない。

        

                                                                                                                                2010  1/20


10.「宇宙における最低の知的生命体」 


 「人間」、およそ実体的な捉え方ではないこの漢語の成り立ちは意義深いが、私はこの言葉が好きになれない。だからできるだけ遣わないようにしている。それは、手垢と付着物が多すぎて、またそれによって逆に実際は手垢と付着物だけであるにもかかわらず、「形」があたかも実体的に「ある」ような錯覚を起こさせるからである。

 私の頭の中には「人間」などというコンセプトはないと言ってもよい。「ジンカン」、「ヒト」、「霊長目ヒト科」、「宇宙における最低の知的生命体」などの概念が辛うじて私の中で一瞬「人間」の像を結ばせるだけである。J・K・ローリングに倣って「マグル」なども悪くないと思っているが、今のところ「宇宙における最低の知的生命体」というコンセプトが「人間」に代わる言葉として一番落ち着く。

 

 

                                                                                                           


9. ポストは空洞のままがいい


 ポストの中に新聞が強引に押し込まれ、配達人が去ると、そのポストから大量の新聞が一挙に吐き出された。

 読みもなしないのに新聞取っているんですよ。できれば私が白骨化した頃合いに誰かが気づいてくれるんじゃないかと思いましてね。とその老人は言った。確か、手には杖を持っていた。

 公園のベンチに座って、老人は私の方はほとんど見ず、陽射しに眼を細めながら、時折独り言のようにしゃべり続けていた。その内に私もその老人と同じような恰好で話していた。「失礼ですが、おいくつですか」、「お近くですか」と突然、言葉だけが私に向かってくる。

 ・・・そうですね、1人暮らしを余儀なくされたらですか・・・実は私、今、棺桶をベッドにしているんです。時々、いや、ほとんど毎日ですね、このまま死んでもいいと思います。特に誰かに早く発見されたいなんて思いません。ポストは空洞のままがいいです。自分の最後の通知が新聞のあふれ出たポストなんて・・・何か・・・あっ、ごめんなさい・・・・・・

 太陽の目くらましが解けると、そこにもう老人はいなかった。

  私は老人を1人殺してしまったような気がした。もし、そうなら太陽のせいにしよう。

 

 


8. 「やまと心の病患」


「美しい日本」、「日本のこころ」、「やまと心」などと言うのであれば、少なくとも本居宣長以降の国学の主流とされている平田篤胤による短絡する方向での継承について検証してみる必要があろう。それは、「この上なく細やかな思いやりと、「ひたぶる」な非倫理性あるいは狂信とが、論理的屈折を経ることなく、盾の両面のように共存するという、多くの人によって繰り返し指摘された今日なおわたしたちをとらえてはなさぬ「やまと心」の病患」(坂部恵)の検証でもある。

 坂部恵氏の指摘のように、それは平田篤胤と同時期の国学者 冨士谷御杖の視座に立ち戻って検証すべき問題なのである。御杖のその透徹した思考展開が現代西欧思潮にも通低しうるのは、御杖の「人間の生死の場をひろく見渡すひろがりと深さをもっていたためにほかならないとおもわれれる。」(坂部恵)からである。それはある意味では、御杖の思考展開が世界レベルの「哲理」に匹敵するものを持っていることでもある。「主流」といわれる平田篤胤の思考展開ではそれは不可能なのである。

 この点に至ると、すべてのジャンルにおいて歴史的に「主流」といわれているものに果たしてどれほどの意味があるのかという疑問点が数多く出てくる。

 「日本のこころ」と言う表現で、言う方も言われる方も何か分かったような心情に陥るが、実はどれ程分かっているのか、自問自答してみればすぐにわかること、そこには同一レベルの共通項さえ明確には見出し得ないだろう。

 


7. ーアルチュール・ランボーの母音の色ー


  ランボーは母音を色付けし、さらに子音に形と動きまで与えている。それについてはランボー自身さして深い考えもなかったようだと言われているが、その後、様々な解釈もされ、研究、分析もされている。たとえば、「色彩のついた聴覚理論」、色彩と音響の科学学説に依拠したもの、ボードレールとの比較、さらには秘教的解釈、性交時の女体の描写とする説まであるようだ。

 しかし、それらの諸説とはまったく関係なく、私はこの「ランボーの母音の色」と「戯れる」方法を見つけた。実に面白い。それは私にとって時を忘れる作業の一つとなった。

 

 


6.「対象化する」ということ


 「対象化する」という言葉は、「自分を対象化する」とか「「時代を対象化する」などと何気なく遣われる言葉でもある。

 そこには、<あるものを認識するために、一定の意味を持った対象としてはっきり措定する。または自己の主観内にあるものを客観的対象へと具体化し、そとにあるものとして取り扱う>ということが可能であることが前提としてある。それは、まず対象として扱うものが「個」(人間)であれ、「全体」(時代)であれ、それがどのようなものとしてあるのかを明快に絞り込み、把握する作業となる。しかし、<「個」(人間)は、それを対象化しようとするあらゆる試みに逆らうもの、対象として見れば「無」以外の何ものでもないもの>と言う解釈からすれば、<「人間」は、そこにおいて「無」あるいは「空」>である以上「一定の意味を持った対象としてはっきり措定する」ことは不可能なことになる。すなわち「対象化」はできないことになる。それでも対象化しようとすれば、「ズレ」が生じ、それは「嘘」となる。たとえば、寺山修司が「私の少年時代は私の嘘だった。1度対象化されると厚化粧され見世物となる。」と言う時、それは彼の実感であり当然のことであろう。「空」そのものを「対象化」しようとするときに起きる帰結である。

 そこででき得ることは、「自覚化」ということではないかと思っている。この場合の「自覚化」には「対象化」のような認識主体と対象との距離がない。「自己を知る」ということの限りない連鎖の中で「覚醒された自己」にもたらされる対象に向けられた「収斂作用」とも言うべきものである。

 

※「空」とは一般的には「固定的実体のないこと、実体性をかいていることを意味するが、原語のサンスクリット sunnyaは世界史上最初に発見されたゼロを表し、またさらに「裸の」「ありのまま」などの意味もあることを付け加えて置く。

 


5.「をりにふれば何かはあわれならざらん」その壱


○ 「感謝されなくても結構、あなたの生命力が好き」

この獣医の呟きは、私が飼っていた今はもういないすべての愛犬と愛猫の表情を甦らせた。

 

○どうしてそんな言葉遣いをするのですか? そこの美しいお嬢さん

 あなたの発する言葉に引かれて、心も起こり、いつしかその汚い言葉があなたの心を占め、悪魔のようにあなたを引きまわすことも知らずに・・・お嬢さん、言葉は恐ろしいのですよ。

                             

○わずか1グラムにも満たないミリグラム単位の「白い粉」に振り回され、「自由、自由」と叫んでいる割には完全に自由を奪われ、「白い粉」の言いなりとは、何とも情けない、見るも無残な話である。

 <自由をつかいこなせない真面目と怠惰は管理されたユートピアを求めるが(この場合は「白い粉」による管理である)自由を好む「好色」とは、他者(男女)を裏の裏まで理解し、愛しつくすことに喜びを発見する。>のである。要するに何もかもが、薬のようなものに頼るしかない薄っぺらさなのである。そこでは「エロス」が深化されることもなく、当然それに伴う精神的展開もありえない。表面ばかりはデジタル風で内情は退化してくアナログである。

                                                     

 

 


4.日本の「プロデュース公演」(演劇)の限界点


 「新劇」のうまくできあがったものだけを見せる、実験的なことをしない自己完結的な作家中心の芝居作りそのものに面白さを見出せず、私はいつかそこから遠のいていた。(もちろんそれだけではなく様々な問題点を指摘できるが今は避ける。)私は学生時代から芝居に取りつかれていた「演劇青年」でもなく、学園紛争全盛期の行動することを余儀なくされた「文学青年」に近い。そして、その後は個的な「書く」だけの作業から「共有する場」の中での創造作業ができないものかと「演劇」の世界に足を踏み入れたと言った方が実情に近い。しかし、実際は思い描いているものから遠ざかるばかりで、フリーとなってプロデュース公演に関わることになっても、いくつかは成功したにしてもやはり共有する場において「理念的連帯」ができず、その場限りの「技術を提供し合う」関係以上のものは成り立ち得なかったということが数多くあった。

 最近の演劇のプロデュース公演を観ていると、「劇団公演」でも出演者は様々な劇団、事務所の所属者で構成されている場合が多い。観方を変えれば、「他流試合で腕を磨く」、「様々な出会いの中での広がり」、「新しい空気を吸う、入れる」などという美辞麗句で括れなくもないが、そこには大きな陥穽(落とし穴)がある。それは共有する場での「理念的連帯」がなされないまま、ただ、時間の取れるときだけ集まって、今までに身に付けた各自の「技」(出演者、スタッフ含め)をぶつけ合うだけの関係しか成立しないということである。それではとうてい納得のいく舞台は実現し得ない。

 今後は、舞台芸術(演劇)をまず以上のようなことを踏まえた創造の「場」として成り立たせることについて、またそれに伴う一切に対して私自身は妥協をしないつもりである。もし、それができないというのであれば創造の「場」に真に必要なものが成り立ち得ないにも拘らず、私利私欲、アリバイ工作、存在証明などのためにだけ、または組織運営上の問題でやむなくいくつかの舞台を「コナシテ」いるに過ぎないということになる。それが日本の演劇事情の1面かもしれぬが、そこでは「奇跡」なども起こりようがなく、納得できる舞台など望むべくもない。このような事態の継続、引き延ばしは仮にそれによって「生き延びられたにしても」愚かしく、無意味。近未来的には「罪悪」にもなり兼ねない。

 

 ○ 因みに、私が関わった舞踊公演に関してはすでに30年前から、舞踊家、主なスタッフなどとは「共有する場」での「理念的連帯」は常に更新されながら完全に創り上げられてきている。

 

                             2010年 1月


2010年 謹賀新年


  


3. ー高円寺純情商店街殺人事件ー


 高円寺に殺人事件はあったが、このような名称の殺人事件はない。

これは、とある信用金庫で順番を待っていた時に目にした本箱にある百冊余りの本がほとんど殺人事件を扱った推理小説であったので一つの例として出しただけである。「○○殺人事件」殺人事件の前の固有名詞を変えればいくらでも出来上がる「殺人事件」の大量生産である。私はこの類の本は読まないので改めてその量に驚かされた。「歌舞伎町殺人事件」、「幸町殺人事件」、「吉祥寺殺人事件」、「下北沢殺人事件」、「雲取山殺人事件」etc.そこだけ見ているとどこかの警察署内にいるような気になってくる。これは区の図書館が管理して貸し出しをしている本らしい。その詳しい経緯は知らぬが、どのような意図があるのかとも思う、おそらく、信用金庫側のお客へのサービスと図書館側の読まれなくなった図書の最期の再利用が一致した程度の問題であろう。しかし、このような場所ですぐ眼に入って来る文字が「殺人事件」ばかり、金計算に明け暮れて今の状況が見えていないとしか思えない。果たしてこのような泡沫流行作家の本ばかり並べていることがほんとうにお客のサービスになるのかどうか検討すべきである。いくらでもすばらしい本はある。ちょっと紙幣を勘定する手を休めて、考えてみてはどうか。

 

 「活字離れで、出版業界不況」こんなタイトルが思い出された。何を言っているのかと思う。そうではなく出版業界の無能さが「活字離れを」を起こしているとも言えるのである。たとえば垂れ流しのように「殺人事件」を量産しておいて、そのようなツケが返ってきているだけとも言えなくもない事態に、ただ不況のせいにする。芥川賞を取れなかった村上春樹は今や世界的著名作家であり、彼の本は世界的に読まれている。何年か前、俵万智は「サラダ記念日」を出版社に断られ自費出版し、それがベストセラーにもなっている。 まだまだあるが、とどめは、文学を堕落させたのは岩波文庫であると言った川端康成であろう。「活字離れ」を起こさせたのは出版社全体の責任でもある。少しはわが事として反省すべきである。

 

 新聞、週刊誌に至ってはもう2-3%程度しか読むところがない、これは「活字離れ」ではない。内容があまりに貧相で、アンテナが曲がって錆びついているから読まないということに過ぎない。2-3%しか読むところがないものに誰が金を出して買うかということである。だから、私は買わない、取らない、立ち読み程度で十分である。資源の無駄遣い、環境問題も視野に入れて発行部数を大幅に削減したらどうかと思う。不況だ、「活字離れだ」と騒ぐ前に、「わが社は資源、環境問題を考え、さらに内容を充実させるためにも、発行部数を25%削減します。」などと気のきいたことを言うところはないものか。私は、目先の事ばかりに追われる現実主義者には興味がないというより、そんな人間ばかりでは世の中変わりようがないのである。そして、そのような現実主義者は自らの行為が引き起こした結果については、その責任を回避するのが常であると言うこともここで付け加えておく必要があろう。

 

                               2009年 12月


2.「庶民的人間」?意味不明、「市民団体」?意味不明、そして、数字のマジックショー


  「庶民的人間」というと大方の人間は漠然と、気取らず、親しみやすい人間をイメージするだろう。それなら「親しみやすい人」と言えばいいのであるが「庶民的」となるとはっきりしなくなる。それは理想化された「裕福ではない人々」の意味合いが強くなるからであろう。私には「庶民」にも、「裕福な人々」にも同様に質の違いはあるにせよ、それぞれに独特の「病巣」が見える。だから、「庶民的人間」と言ってもどこがいいのか分からないのである。

 一般に「庶民」と言われている人々の動向を最近の情勢に合わせて言えば、彼らは何事に置いても「結果」にばかり心を奪われ、その「原因」にまでさかのぼることはしないという傾向があり、さらに、自分にとって都合の悪いことが起きると必ず身近な者のせいにして責める。これは単なる一例にしか過ぎない。

 

 それから、「市民団体」、この言葉をマスコミはよく遣うがその実態はまったくつかめない。どこが主催していて何を目的に具体的にどのような活動をしているのか、どのような人達で構成されているのかも不明な団体が多い。要注意である。言い換えれば、得体の知れない「市民団体」も数多く存在するということである。したがって、その実態を告げられない、あるいは告げることが憚られる場合にはすべて「市民団体」で括ってしまう傾向があるということである。

 

 ナンバーマジックショー、「○○率」○○%etc.調査方法がほとんど明記されていない。朝日新聞あたりが辛うじて「電話で」とある。どのように選び出した人間かも分からず、ただ電話で1000程度の人々から聞き出したことである。「本社調査」などは社員とその関係者だけという可能性もある。人口1億、中国なら10億である。1000人程度から聞き出した数値で小数点以下までこだわる神経、一体この数値そのものにどんな意味があるのか?ナンバーマジックショーである。

 

                            2009年 11月


1. 改めて「一億総ヒョウロン家」


 これは、「ほんとうの」評論家には失礼な言葉であろうが、実際のところは周囲を、または批評対象を気にした「挨拶批評」の域を出ない批評を書く評論家が多いのも事実である。そうでないと「食えない」からである。しかし、本来、評論家とはその言っている内容が真実に近ければ近いほど孤立を余儀なくされる存在でもある。すだく虫の声ではあるまいし、「一億総ヒョウロン家」などとは笑止。その責任のなさも含めてせいぜい「一億総高みの見物客」と言った方がその実態に近いだろう。

 身近なところでは、「評論風ブログ」などが挙げられるが、中には自分で見たもの、読んだものについて点数まで付けているものもある。「ご立派」と言うしかないが、一方ではかわいそうな人々だと思う。なぜなら、批評家としての眼と、観客、読者としての眼、言い換えると批評することと、楽しむ、感動することとは相容れないものだからである。「評論風ブログ」を書くこと自体が楽しみであるなら(どれもそうとしか思えないブログである。)作品自体を直に楽しむことは不可能である。もし、楽しみはあるというのであれば、それは評論家としての厳しい客観性がないと言わざるを得ない。

 昔、笑いながら怒るということをやって見せていた「奇優」がいたが、それは実現不可能なことをやっているのである。笑った表情を固定して置いて、実は怒っているだけなのである。それと同様に相反するものを「同時」に1人の中で実現させることはできない。「批評すること自体」が「楽しみ」(どのような経緯でそうなったか知る由もないし、興味もないが)になっている人には意識するしないに関わらず作品に対する主観的領域にある楽しみ、感動は失われていく。したがって、もし批評しながら、同時に楽しめたというようなことを言っていたとするなら、それはあり得ない、不可能なことをやっているので、どちらかが嘘か両方とも嘘であるということになる。

 

                                2009年 11月


 

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