<掲載・内容>
682.感心するCMと 683.「愛国心」を強要する「政権」とは 684.見苦しい男の末路 685.気味の悪い微笑みと涙 686.「お笑い芸人はオワコン」687.「ネット住民に一家言」とは?688.「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」という問題なのか?689.「首相、内閣はウソはつかない」???
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689.「首相、内閣はウソをつかない」???
これは「森友問題」が出てきた頃に、テレビに出ていたコメンテーターの類がさりげなく言ったことであるが、ここはどこの国かと思われた。要するに、「お上」はウソをつかないと言っているのである。この「感覚」、少なくとも、民主主義義が「根付いている」国ならあり得ないことであろう。たとえ怪しげな学園の怪しげな理事長の言動であろうと、それだけで言っている「すべて」を虚偽と見なすことも問題であるが、その相手が首相、内閣であればさらに論外だと言わんばかりの姿勢そのものにも大きな問題が残る。特にこの「森友問題」については、両者には「日本会議」という共通の接点があり、それを介した関係でもあることは周知の事実。この理事長の「怪しさ」は、言ってみれば首相、内閣の「怪しさ」でもある。そこには表ざたにしたくはない「本音」のつながりがなくては成り立たぬ事柄が多々あり、それを否定する方が困難であろう。憲法を無視した「教育勅語」を前面に押し出した幼児、児童教育にしてもアベの改憲、歴史修正の思惑と一致する。
しかし、ああ言えば、こう言う御仁は後を絶たないものである。忖度(そんたく)について、「良い忖度もあり、悪い忖度もある云々」などと詭弁を弄している大阪の政治屋さん、それでは良い忖度とは、悪い忖度とはどのようなものなのか、その判断基準とは?そもそも相手の思っていること、考えていることなど正確に知ることなど不可能なことである。その中で忖度するとなれば、その人間の言動に即して動くしかあるまい。忖度するとは、実際に相手のやっていること、言っていることに合わせて動いているのであって、良いも悪いもないのである。個人の善悪判断など入る余地がない。だからあれよあれよという間に怖いことにもなるのである。物証が残らぬことをいいことに、忖度をフル活用すればどうなるか。それが現状でもある。この全体が偽らざる事実なのである。
2017 3/25
688.「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」という問題なのか?
これも某「お笑いタレント」が言っていたことである。「言葉を刈るのではなく、増やせばいい」、一見もっともらしく聞こえるが、そんなことはアベ君たちが日常茶飯事に官僚のおじさんたちとやっていること。同一内容をどう言い回すか、その昔、カルト集団が「殺し」を「ポワ」と言っていたが、実質的なことは何も変わっていないにもかかわらず「もの」、「こと」を妙に「軽く」して、現世離れしたものに変質させ、呪文のように「思い込み」を実行に移しやすくする効果を持たせる。言ってみれば、騙しのテクニックである。
言葉を「刈る」とはどういうことなのか、言葉を「増やす」とはどういうことなのか、アバウトに感覚的に遣っているとかなり危うい。何事であろうと正当な批判は常に必要であり、またそれについての検証、吟味も必要である。感情過多の反応だけでは何も生み出しはしないということだけは確かなのである。そうでなくとも「ポスト・トゥルース」、すなわち真実からの乖離はいたるところで幅をきかせているのである。あまりにも笑止千万な感情の虚偽が多過ぎるのである。これではいずれ笑止千万なことで死ぬことにもなろう。
しかし、「お笑いタレント」の三百代言化はニュースのバラエティー化がもたらした弊害でもあろう。いつの間にか何者かになったごとくの言動ではあるが、所詮は走狗の域を出ない。そう、ガキの使いはしないが権力の使いはいつでもするのである。これは何もお笑いタレントに限ったことではないが。
2017 3/20
687.「ネット住民に一家言」とは?
私は自分が「ネット住民」だと思ったことはないが、それがネットユーザーという意味も含むのであれば私も「ネット住民」ということになるのであろう。しかし、今ネットユーザーではない者を探す方が容易ではないくらいである。要するに、「ネット住民に一家言」というのは実質的に大多数の国民に向けて一家言を発信していることになるが、その内容たるや支離滅裂でヘートスピーチ系のオヤジとたいして変わるところがない。もともとその傾向はあった男であるが、ここにきてアンテナがさび付いてきたのかますますひどくなってきた。バカ言って稼いでいる奴といっしょになってその気になっていれば大バカになるだけである。この男、バカ言って恰好つけているようだが、以前は東電の広告塔になって原発施設についてお追従を言っていた男でもある。その男がもっともらしく言う内容のひとつひとつに突っ込みを入れてやろうかと思ったがその個所があまりに多くバカバカしく、時間もないのでやめることにした。この男の「正体」も改めて確認、見届けることができた。
煎じ詰めれば、耳目を引く、金になりそうなことを思いつきで言っているだけとも見えるが、かなり意図的である。
一つ二つ例を挙げれば、「世の中の空気がそうなれば、国会議員も考え直すんだよ。」(オメデタイ人間だ)、「昔だって貧乏人の子だくさん、その時だって飢え死にしたって聞いたことがない云々」(餓死、間引きの実情も知らないのである)、「人から見たらバカげてたって、それで平気でいられなきゃいけない」(今度はバカの賛歌である)等々、支離滅裂というより認知症の域にいるといってもよい。
「お笑いがわかっていないバカが多すぎる。世の中真面目すぎる」(真面目すぎる???)
「ネットをそのまま信用する、本質読み取る力がなくなっているやつが多くて困る」(本質???)
ネットユーザーのどのような部分と接点を持っているのか知らないが最悪の部分とだけ接点を持っているようだ。
しかし、「バカ」、「マヌケ」の類の多いこと、ヘートスピーチ系のオヤジとさしたる違いはないと思われる。同じ調子で返すと・・・
「バカが多すぎる」って、それであんたたち成り立っていたんだろ、「真面目すぎる」って、大橋巨泉なんかが全盛期の時代ならまだしも、今はあんたみたいな不埒な奴らが多すぎるんだよ。あんたに本質論をぶつ資格あるのか、バカが本質論をぶつ、インチキ会議、インチキ学園の理事長でもあるまいし、もっとまじめにバカやれよ。・・とでもなるか・・・
この男は人生相談までやっているというからブラックである。冗談で笑っているうちに死にたい者はこの男の話をよく聞くといい。
この男はまた、「人から見たらバカげてたって、それで平気でいられなきゃいけない」と自身と「ネット住民」にエールを送っているのである。というより自分が自己撞着を起こしていることさえわかっていないのであろう。
その男とは誰か?言わぬが花であろう。「弱者」の個人攻撃となっては私のスタンスとは離反する。
やはり、これも終焉の時を迎えている。
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これも最終章だな。
2017 3/13
686.「お笑い芸人はオワコン」
「お笑い芸人はオワコン」とは周知のとおり、茂木健一郎の指摘であるが、そのとおりであると思っているというより私も以前からお笑い芸人についてはほぼ同一内容のことを機会あるごとにこのサイトでも取り上げてきたので茂木の指摘を斬新な切り込みだとは思っていない。これに対して大田何某が噛みつき、吠えているようだが、吠え方も噛みつき方も陳腐である。大田がそう思いたいのはわかるが、これは個人が逆立ちしても何とかなる問題ではない。大田のシンパも援護をしているようだがその内容も実情を直視していない希望的観測と自画自賛の域を出ない。もともとキッチュ文化が蔓延している日本だからこそ成り立つものでしかなかったという認識もなく大層なことをしてきたつもりになっている以上、今後も展開はあり得ない。お笑い芸人だけではなくバラエティー番組なども「オワコン」なのである。そもそもお笑い芸人たちがやってきたことなどは、安易で金になる軽佻浮薄の量産、増幅くらいであろう。さらに言えば、「お笑い芸人はオワコン」などという生易しいものではない、彼らの「在り方」自体がもはや罪悪なのである。それは飽くまで「在り方」の問題で、個人の意識とは無関係。だから自分がどう思おうがその実態、すなわちその在り方が変わらない以上変わりようはないのである。生業を変えた方が賢明であろう。
2017 3/10
追記:後日、茂木はお笑い芸人の生業まで奪うのは忍びないと思ったのか、これ以上言ってみても始まらないと思ったのか、「素人が口出しするすることでもないので」ということで「オワコン騒ぎ」を収めてしまったようだ。しかし、「素人の口出し」を拒否したところで何が成り立つのか?政治しかり、視聴者、観客を必要とするすべてのものは素人のきちんとした、時には辛辣な口出しなければよりよき展開は望めないのである。たとえ茂木の見解を否定し、葬り去ったところで何も進展は期待できない。
また後日、松本何某が「風刺とか、下から上の人たちに何かいうのは、笑いのとり方として一番安易で簡単なこと。云々」とまったく進展など期待できない発言があった。安易で簡単ならたまにはやってみたらどうか。チャップリンはヒットラーが勢いを増している時にヒットラーを茶化した。それはあまりにも有名なシーンとして残っている。風刺する「上の者」によっては身の危険さえあるのが普通である。実際、やり方によっては抹殺されることもある。安易で簡単というより怖くてできないというのが正直なところであろう。身近にも好例はいくらでもある。試しにアベ君を風刺してみてはどうか。近頃は風刺漫画さえ見なくなったから刺激になるのではないか。因みにこの松本何某がセンスがあると思ったことなどかつて一度もない。それはセンスではなく単なる処世術であろう。
685.気味の悪い微笑みと涙
微笑みも涙も、時と場所によっては「人間性」の豊かさの表われともなり得るが、自分の位置も在り様もわかっていないような者が微笑んだり、涙をこぼすのを見ると何とも薄気味の悪さを感じると同時にオツムの具合を疑いたくなる。やはり、わかっていないと思われる場合が多いが、何か勘違いしているのか、なめているのか。そうでなければ根本的なものが欠如しているのである。
その微笑みと涙もさることながら、最近よく見かける「日本会議」の関係者、驚くほど風貌も精神構造も類似している。薄笑い、イントネーション、アーティキュレーション、間合いetc 特に顔だち仕草などは血縁関係があるのではないかとさえ思われるほどである。日本の文化、歴史を自分たちの都合のいいようにアレンジして、それがあたかも日本の精神風土の根幹であるようような「思い込み」、それで主流を気取っているから恐れ入るが、とても世界に発信できる代物ではない。「日本的」と言われる「十八番」でもあるが、あるようなないような事を美辞麗句で飾って情に掉し流して通用するのは一部の身の程知らずだけである。ほんとうに右派を気取るなら下心ばかりの政治に腐心するのではなく日本文化にも精通すべきであろう。しかし、言うことなすことすべてはそれを裏切っている。実際、言っていることは日本的ムード、ポーズ、単なるイメージ、やっていることは後退を余儀なくされる日本的時代錯誤。それではあまりにも智慧がなさ過ぎる。「気持ちの悪い集団」と映るのは当然である。今後の動きにも注意が必要な危うい「集団」である。
笑いにも、涙にもやはり質があり、質が文化なのである。何について笑うか、怒るか、涙するかでその人間の資質も見える。資質とはその人間が培ってきた文化の吸収度でもある。そういう意味でもアベとアベの周辺は日本文化とは無縁で、あまりにもペラペラである。そして今では、自身の醜い姿を露呈することになる「森友学園問題」から国民の目が日本海に落ちた怪しげなロケット「花火」に一瞬間でも移ったことを喜んでいることであろう。「お国の一大事に何をつまらない事を」と言い出しかねないしたり顔である。また逃げ切るつもりであろうが、今度はそうも行くまい。この手の「人間」にはポーズと三枚舌が奏でる「音声」だけがあるのみで、自分にとって都合のいい意味しか存在しないのである。第三者を必要
としない、他者が存在しないのであるから恥も外聞もないのは当然である。こんな者たちに身を託す者とは余程の命知らずかオメデタイ人間である。
2017 3/5ー
684.見苦しい男の末路
最期の最期まで言い訳がましい、いざとなると責任転嫁ばかりを繰り返してきた男の末路を今しかと見届けている。そして、生き恥をさらすより死をと勇ましいことを言って人々を死に追いやり、自らは生き恥をさらした者と重ね合わせている。やはり、この男も同じ轍を踏んでいる。因果応報、それこそ「ばちが当たった」のである。見るも無残な最期であるが、やりたい放題してきたのであるから当然であろう。後はどこまで醜くなるか、「座して死を待つつもりはない」のであるから思う存分やるがいい。それがそれこそ最後に残された「けじめ」であるが、果たしてどこまでできるのか。この男に「けじめ」などつけられるのかと思っている。「果たし合い」、「座して死を待つより云々」等々、どれもこれも勇ましいが常に自分自身のこと、自分自身に執着しているだけで他者に対する「配慮」など微塵もないのである。都民のことなど一瞬間も考えようがなかったであろう。あれだけ偉そうなことを言っておいて、肝心なことは「専門家ではないからわからない」と言う。それでは統括、監督責任放棄で、要するに自分は都知事として無能であったと言っているに過ぎない。こんな人間しか選べぬ選挙民も情けないというより愚か過ぎる。同じ三百代言は西にも東にもいるが、大体この手の大口をたたく奴にろくな者はいないと見るべきである。
※この男については、このサイトを始めた7,8年前にも取り上げたことがあるが、案の定の展開、終焉であった。
2017 3/3
683.「愛国心」を強要する「政権」とは
「愛国心」を強要する政権とは、無能破たん政権という証でもある。「愛国心」などというものはわざわざ言い出さずとも、誰でもが持っている心情である。それは自分が住み慣れた大地、風土に対する親しみ、情愛でもある。「愛国心」を強要する「集団」とは、例外なく自分に都合のいい政権と「国」(定義も不明瞭)とを同一化させ、国を愛するなら身を粉にして国のために、すなわち「自分たち」のために尽くすのが当然であると言っているに過ぎないのである。「愛国心」という言葉は先が見えて追い詰められた「どうにもならなくなった者」たちの最後のよりどころとなるものでもある。自らの力不足がもたらした結果でしかない実情を直視もできず、欲望だけは人一倍あるものたちが最後にすがるものが「錦の御旗」である。日本人はどこへ行っても日本人なのである。たとえ日本人である自分が嫌いであってもわれわれは徹頭徹尾日本人であることから抜け出せないというのが実情である。それを「砂糖は甘い」、「甘い甘い砂糖」と同様のことをいっているようでは、自恃の念の欠如といってもよいであろう。「国」と「政権」とは違うのである。日本の風土を愛するが故に政権と対峙することなどいくらでもあり得ることである。そういう意味でも「愛国心」なるものを強要するものは実は自分自身に酔っているだけで、もはや「旗」以外よりどころを見出せぬ者たちともいえるのである。
議論にも、日本語にもなっていない国会のやり取り、それこそほんとうに日本人かと聞きたくもなる日本文化に対する無知。質問に対して答えようともしない姿勢はもはや民主政治の議論の場ではなく、「わが政権のやることにとやかく言うな」黙って従えばいいと言わんばかりである。これはどう言い繕ってもやがて衰退を余儀なくされる「全体主義国家」と同様である。
「レイシズム(人種差別)を主張するウルトラ・ナショナリスト教育機関」(英ガーディアン紙)である森友学園、「日本会議」などとただならぬ関係であることがすでに海外でも白日の下にさらされているにも関わらず、なおしらを切る。知らぬは自国民だけというどこかの国と同様では話にもならない。今後はこの御仁の渡航もさらに限られてくるだろう。行くだけ無駄で、「お商売」どころか危険視されて友好さえ危ぶまれる。
・・・終わったな・・・・・
2017 3/2
追記:死因は、VXガスではなく心臓発作だという某国、この期に及んでこれである。彼らにとって事実はいくらでもあるのであろう。DNA鑑定ですら遺伝子操作をした云々、その内にあれは交通事故であったとでも言い出しかねない。これは対岸の事象ではなく、此岸とて五十歩百歩なのである。受け取る側が能天気ではいつか五体はバラバラになっている。
682.感心するCMと
騒音以外の何ものでもないCMが多い中、感心すると同時に印象深いCMもあるものである。最近のものでは、YKKの「窓」がその一つで、その出来は抜きんでている。以前、サントリーのCMで開高健なんかがかかわっていたころはそのコピーも香り立つものがあったが、最近では安っぽさと上滑りが目立ち過ぎて、センスがいい悪い以前の、ただけたたましいだけの安易なピンボケCMが多すぎる。それがそのままその会社、商品のイメージにつながることが本当にわかっているのかとさえ思ってしまうのである。私が社長だったら絶対に許さないだろうと思われるものがほとんどである。さらに付け加えれば、顔が売れている、「有名」であるという理由だけで作られたCMなどでいいものは100%ない。安易すぎると同時にイメージが限定されて面白味がないのである。これでは消費など伸びるわけがない。
「なめたら、いかんぜよ」とは何に対しても言えること。やがてそのしっぺ返しは必ずくる。
2017 2/23