「ある日、その時」(42)2015年5月3日ー 

<掲載内容>

471.「笑うしかないでしょう」 472.行雲流水 473.「何をしてたの70年?」 474.幼稚、稚拙さが奇異に見えるだけ 475.「緊急地震速報発表されず」 476.「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」 477.某元県警刑事の曰く478.現在有効な「成功法」など誰が教える?479.恥の上塗り <番外日誌20150619>政(まつりごと)が悪いと・・・

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<番外日誌20150619>政(まつりごと)が悪いと・・・

 政が悪いと雨までゲリラ化すると見える。古来、政は天と密接な関係を保っていた。少なくとも天に対して謙虚であったが現在の日本の政に至っては天も何をするかわかるまい。天罰、天誅があって当然であろうと思われる。ここまで堕落するとは世も末の末、そして、それすら意識し得ぬこと自体が堕落の極みなのである。


479.恥の上塗り


 無能な者の自己陶酔ほど手に負えぬものはないが、そんな者を放置した責任も大きい。しかし、すでに肥大化し転移し始めたものの処置はどちらにしても一筋縄ではいかない。そうかと言って手を拱いていては確実に自壊に至る道しかない。もはや自浄作用を完全に失った,免疫不全症候群のようなものに対するがごとくに接するより他に手立てはあるまい。これは「独裁」とも異質で、その変種の徹頭徹尾支離滅裂な目くらまし以外には何もない「狂裁」とも言い得るものである。そして、それと同質の流れは巷の片隅にでさえ渦を巻いている。このような逆上乱心に付き合わされる方はたまったものではないが、こんなものに巻き込まれて命を落とすなど愚の骨頂である。どのような体裁を取ろうとも何の意味もない。これほど、裏切ることしかできない者の存在というのを現前にすることがかつてあっただろうか。程度の差こそあれあったのであろう。ただ、過去の再現フィルムを見ているような、こんな陳腐な手法が未だに有効性を持っていることを目の当たりに見せつけられていることに驚かされるのである。「人間」というのは放って置けばただ後退するするだけなのであろう。そういう意味では「新しい」などということ自体には何の価値もないともいえる。そして、同じ手口に性懲りもなくに引っかかっていく事態を見ていると、大衆蔑視も然もありなん、大衆操作も然もありなんと思われる。

恥の上塗りは 塗るそばから地肌が見えるものである。そして、その地肌もやがて原型をとどめることもなく溶解していく。

                                                  2015 6/16


478.現在有効な「成功法」など誰が教える?


 この手の多くは儲け口にかかわることであるが、どうしたら儲かるかなどわざわざ他人に伝授するほどの物好きなど皆無ということがわかっていればそんなものに振り回されることもない。眉唾物であるとわかっていても手を出すのは行き詰まっているからだろうが、それが却って災いすることの方が多いものである。「三流」社長は「三流」社長のままの方が独自なものを生み出せる可能性もある。口車に乗せられて「三流」社長が「一流」社長を目指し始めた時、すべては狂い始めるということを肝に銘じておく必要があろう。もうすでに単なる拝金教的な動きは末期症状を見せている。そして、既得権益側がより強固に有利になってきている現状では「三流」社長が向きになって既得権益側にとっては都合のよい「夢」の論理に乗っても「一流」社長になる隙はない。安手のハウツー物、成功の「秘伝」書の類は要するに「人間」をダメにするだけである。欲望は常に果てしもないが、のし上がった挙句に棺桶に両足突っ込んでいるのもわからず「人間」失格状態ではどうしようもあるまい。

 拝金教とは言ってみればエコノミック・マシンのことで、エコノミック・マシンは必然的にキラー・マシンにもなる。そこでは「人間」は不在で、存在し続けること自体が疑似人間化をもたらし、「人間」の境涯から乖離していくことを余儀なくされるということである。これを「人間的」事象に還元し表そうとすれば嘘そのものになるしかない。拝金教の礼拝堂のような伏魔殿には「人間」は住めないはずで、住んでいるのは言わずと知れた輩ばかりである。彼らの言動に耳を貸すこと自体がすでに過ちの一歩なのである。偽りの人ほど言葉の操作は極めて軽く、実質は何もない。そんなことは改めて言うまでもないことであろう。

                                                        2015 6/7


477.某元県警刑事の曰く


「盗癖のある人は面接でわかります」と某元県警刑事は言う。「洋服は安物なのに腕時計やバックだけは高価なブランド物の人や、目を見つめられて視線を外す人です。」(某タブロイド紙より) これで検挙率が低いこと、冤罪が跡を絶たないということが納得できた。町同心を引き立てるドジな岡っ引きのしたり顔さえ思い浮かべてしまった。実際に、この程度のレベルの人間観察で事足りるのなら何をか言わんやなのである。

 しかし、通俗心理学の小冊子片手にこんな調子で人物裁断をされたら堪ったものではないが、これが現実的というのならあまりにも愚かしく、かなり危険である。要するに「人間」を知らな過ぎるのである。

2015 6/4


476.「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」


 昔、家にあった梅の木の枝を切るときに必ず父が口にした言葉でもある。私は庭の二本の梅の木を見て育ったせいか桜の花よりも梅の花の散り方、香に情趣を感じることの方が多い。

葉桜となった桜並木の緑道から脇にそれて洒落た建物が立ち並ぶ一角に入り、暫く歩いていると横道に目を疑いたくなるような風景が100メートルばかり続いていた。桜の古木が今しがた斬首されたように、それも異様な恰好で立ち並んでいるのである。見ると至る所に切り取られたような形跡があった。老木のうろも並ではなく、それだけを見ていると朽木としか思えなかったが、上方には青葉をつけている。ここまできたら朽ちてしまった方が桜の老木らしいとも思えたが、何ともただ痛ましいばかりの様相を呈していた。緑道からわずかにずれただけでこれである。

 振り返って、月影の中のこの桜の古木たちの姿を想い描いてみると、何とも不気味な風情であった。

                                
              2015 6/3


475.「緊急地震速報発表されず」


 震源地が590キロと深かったこともあろう。「現在の技術では限界」だそうである。何もこれだけのことではなが、この地震大国で、(現にこの地震後も報道はされていないが全国数か所で地震が発生している)、マグニチュード8.5(関東大震災は7.9)というエネルギーを持った地震が震源地が深かったということだけで緊急速報もできないのである。それも技術的な限界というのが理由である。このような状況でよくも原発施設は耐震設備も万全などということで再稼働に向けて進めることができるものである。それも地殻変動を「知り尽くして」いるかのような「権威ある」「学者」のような者の「お墨付き」を根拠に事を進めようとしているのである。たとえ万が一にも「知り尽くして」いたということがあり得ても、そのようなことと防ぎ切れるかどうかは別問題である。現に「アンダーコントロール」などと称して実際にやっていることといえば計り知れない程の放射性物質に対して人海戦術で柄杓で水をかけているようなものであろう。「アンダーコントロール」などという言葉もまったく無意味で空疎、いざとなれば何とでも言い逃れができ、責任回避できる言葉でもある。その内に、「アンダーコントロールの実態」などという本も出てくることであろう。もう出版されているのかもしれぬが。とにもかくにも、またぞろ原発再稼働などに乗せられるのは目先のことしか頭にない、結局は何もかも失うことになる軽佻浮薄のお調子者か亡者といってもよい者だけである。少なくとも私はそう見なさざるを得ない。そして、もし最悪の事態になればそれはやはり自業自得ということになる。

2015 5/30


474.幼稚、稚拙さが奇異に見えるだけ


 勘違いしてはいけない。今やその精神的未成熟度が「奇異」に見えるまでに至ってしまったというに過ぎない。しかし、すべてはAbe syndromeの蔓延度を見れば一目瞭然である。これは「病気」なのである。すなわち、健全ではなく、異常であるということである。おそらく異常がどういうことかさえわかっていないのであろう。世に自覚症状もない病はいくらでもあるがこの種の病は極めて危険で、痛みも兆しもキャッチしにくいので、気付いた時には手の施しようもなくなっているのが常である。

この詳細な具体例は際限がない。

                                                       2015 5///


473.「何をしてたの70年?」


 これは大方のマスメディアに対する問いかけである。見ていても、読んでいても、こちらが気恥ずかしくなるような内容の乏しさ、臆面のなさ、ぼろぼろになった皮膜を縫いつけているかのような飽くまで皮相に留まる「御開陳」である。総じて、ここまで来るかという感じである。それでも何かやっている気でいるのであれば、彼らの罪深さは計り知れない。何をしてたの70年?もはやその形骸すら留めていないというのが大方のマスメディアの実態であろう。形骸だけは辛うじて留めていたという時期もすでに50年以上が過ぎ、言ってみればそれすらも耐用年数切れで粉砕消失したということである。しかし、これで収まるはずもなくそれに代わり得る新たなものがすでに萌し始めているのも確かなようである。

                                              2015 5/10


472.行雲流水


 「今を生きようとする」にあらず、「今を求める」にあらず、「今を想う」にあらず。もはや「今」という「時分」すらもない「有時」。

「今を生きる云々」どころか、愚かしい、救いようのない愚行の一つに粉飾され歪められた過去に酔うということがある。そこに填ればもはや破滅以外に進むべき道はないが、厄介なのはその破滅への道には、妙なドラッグ的な充足感があることである。「思い込まされた自信」などにすがる自分自身の情けなさを感じなくなったらかなり危ないということである。

                                                 2015 5/6 5/9


471.「笑うしかないでしょう」


笑いものされて「なんぼ」とは言っても、ただ痛々しいまでに芸のない幇間のような芸人などを見ていても、明日のないことをさらに思い知らされるだけであろう。憂さを晴らそうと安酒をあおってヘドを吐くようなものである。それより現実そのもの方が笑えることが多い。現実の真只中にいれば自ずと笑いがこみ上げてくることもある。本来ならそうした現実の諸様相から抽出したものを自己の世界観に照らし合わせながら一つのものに仕上げていくのが「芸人」、「芸術家」の類の役割なのであるがその位置に自己の全存在を置く者が皆無とは言わないが、現状では成り立ち難くなってしまった。

 実際に「笑うしかないでしょう」という時、笑う対象、笑いの質にも依るが、これは八方塞がりということでもある。そういう意味でしか現実が笑えないのであれば状況は思っている以上にさらに絶望的である。しかし、望みの有無などにはかかわらずこみ上げてくる笑いもある。それがある限りはまだ「生きている」といわれるような人間が存在し得ると思われる。

                                                 2015 5/4 


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