「ある日、その時」(40)2015年3月6日ー

<掲載内容>

<番外日誌20150310> 460.俗臭芬々たる「故人を偲ぶ会」 461.指名手配の写真?462.まさに衆愚政治463.ニュースも茶番 464.廃屋に 465.樹下石上 466.全部が道化、幇間では・・・467.「ねずみ男」のように468.「粛々と」葬列は進む<番外日誌20150415>政が乱れると天の機嫌も悪いと見える<番外日誌20150417>やってきたことがすべて469.「ホンネで話す」?470.悪魔の論理「原発」

 

                                                  (転載・複製厳禁)



 

470.悪魔の論理「原発」


 

 悪魔の誘惑などというレベルではない。悪魔の論理とはこのようなものであろうと思われるのが「原発」そのものである。どのように言い逃れようともいったんその論理に乗ったら最後、抜け出るのは容易なことではない。しかし、ここで「原発」を「経済」レベルで終始したり、脱原発が困難であるがごとき論調のすべては例外なく「悪魔の論理」にはまっていると言ってよいだろう。そして、それは完全に人間の終焉を意味する。資本主義の論理と「悪魔の論理」とは否応なく重なり合いながら同体化し、一方を断ち切ることはもう一方の内外出血を余儀なくさせることになる。だから、怪しげな者たちが集まってはもっともらしい「ご開陳」をして何だかんだと喧しいことになるのであるが、実際にチェルノブイリしかり、福島しかり、人間の手では収めようがないのである。人間にはとても後始末できないものと引き換えに人間の最も欲するものを与える。これが悪魔の常套手段であることなどは世界の誰もが「知っている」ことでもあろう。宇宙で最低の知的生命体に多少なりとも知恵が残されているのならそれを振り絞るしか他に生き延びる手立てはあるまい。

                                                                                                                 2015 4/?

 


 

469.「ホンネで話す」?


 

 「ホンネで話す」?そんな「こと」ができる人間がどこにいるのか?確かに、ざっくばらんあけすけにものを言うのはいるが、それも「ホンネ」となるとかなり怪しいものがある。本心とたてまえの区別さえ鮮明でない者が「ホンネ」などといってみても、それはたてまえの「変種」といった方が適切であろう。さらに「ホンネ」が「真実」、「事実」とは限らないということである。「ホンネで話す」奴が大嘘つきということもあり得るのである。実際に「ホンネで話す」などといってやっていることは、要するに最大公約数的な欲望をいかに巧みに代弁するかという領域を一歩も出ることはないということである。その時点ですでに嘘があるのであるが、たとえその領域から一歩踏み出したにしても自己の限りない欲望の一角を見せたということだけに過ぎないのである。ほんとうに「ホンネで話す」者がいたとすれば、遅かれ早かれ「自己解体」(自己崩壊ではない)を起こすことになる。もしそうならなければ嘘を本然的なものと見なす単なる拝金主義者であろう。世の中には嘘をつくことを商売にしている者は限りなくいるのでいちいちそんなことを取り上げていたら切りもないが、「ホンネ」らしきことことを言っているつもりの偽悪者気取りに鼻持ちならないものを感じるのでつい言いたくなるのである。「ホンネで話す」などという御大層な内容の実態とは、要するにお手軽な「ガス抜き自在弁」程度のもので、それ以上のものでもない。ただ、臭うのでつい「それで?」、「だから?」と聞き返したくなるのである。

                                                                                                                      2015 4/22


 

<番外日誌20150417>やってきたことがすべて

 どちらにしても人間はやってきたことがすべてでそれ以外には在り様もなく、何もないといってよい。配管工は配管工、不動産屋は不動産屋、飲み屋のオヤジは飲み屋のオヤジ、御用学者は飽くまで御用学者、ハンドル握ってその一生を終えれば運転手としての生涯以外には実のところ何もない。レンズ磨きで生計を立てていた世界的哲学者・スピノザもあの膨大な著作がなければレンズ磨き以外ではあり得ないのと同様である。最近流行りのコピペ作業で寄せ集めたような情報知識でいくら取り繕ってもそれは飽くまでキッチュ。それを見抜けない者もまた「まがい物」の域を出るものではないということに過ぎない。思いの丈をいくら「合成」して言ってみても、「為したこと」がすべてである以上如何とも仕方がないのである。内容にも依るが「呟き」などは飽くまで「ツブヤキ」以上のものではあり得ず、よくて市場調査の無償モニター、犯罪調査の資料提供者といったところではなかろうか。

 


<番外日誌20150415>政(まつりごと)が乱れると天の機嫌も悪いと見える

 

 やはり、政が乱れると天の機嫌も悪いと見える。「77年生きてきて、こんなのは初めてです。」と言われるような大小様々な天変地異がこの何年かの間に頻繁に起きている。そして、身近な日々の気象状況などにしても妙に変なものを感じる時が多い。人心の乱れと、政の乱れと、天災地変、どこかでその小さな周期は一致しているのであろう。


 

468.「粛々と」葬列は進む


 

 最近の「粛々と」の遣われ方は、実によく現実の様相を表現している。すなわち、「粛々と」葬列は進んでいるのである。さらに付け加えれば、静かに秘かにしっかりと進んでいるのである。どこへ?もちろん「墓穴」である。「粛々と」などという言葉も、軽薄で内実困窮している者が「人知れず秘かに隠れて」という意味で自らを取り繕う時に頻繁に遣う言葉でもあり、「ひきしまった」、「慎み深さ」などという意味合いは現実的にはほとんどないと言っていいだろう。古色蒼然たる言葉に寄りかかり託けるだけでは空疎であることを際立たせるだけである。

 しかし、他国の走狗となって馬脚の全体が現われてしまっている者にこれ以上一体何を期待するというのか?そういう意味では今後のすべての在り様は火を見るより明らかである。

 もっとも、紀元前から「愚か者に説教すると馬鹿にされる」ということもあるので、少なくとも自らだけはすべてを知って答えられるようにしておくつもりである。

                                                                                                      2015 4./8

 


 

467.「ねずみ男」のように


 

 「葛藤(かっとう)、そんなものあるわけないでしょ。そんなもの持ち合わせる程、ワタシはヤワじゃないの。そんなものとっくの昔に近所のドブに投げ捨ててしまいましたよ。」

 かなり前のことなので正確な台詞は忘れたが、これは「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)の中の「ねすみ男」がいつもその場限りの嘘八百ばかりを言っていることを追究されて吐き捨てた台詞であるが、昨今では「上から下まで」ねずみ男そのままという「人間」ばかりで肝心な主人公「鬼太郎」の類がほとんど見当たらない。それが現実だなどとうそぶくのも気恥ずかしくなるような大人振りでしかなく、また、もっともらしく「現実」を分析的に収めたにしても実のところ現実がどこまで見えているかは甚だ疑問である。現実がたとえねずみ男の正当性を見出し得るものであったにせよ百鬼夜行だけの話というのはそもそもがそれ自体が不自然なのである。我々には光もない闇そのものの中で闇を通して見ることなどは不可能だからである。闇を観いているつもりでも実際のところ何も見えてこないし、見ることさえできていないだろう。たとえそのようなことをなしたにしても、「だから?それで?それがどうした?」という無限の問いかけだけが充満するだけである。・・・しかし、欲望の餌食となったという以外何もない者たち。どんなに取り繕ってもその実像はみすぼらしい「ねずみ男」そのものでしかないが、実情は「ねずみ男」さえも憐れに見える程モンスター化している。

                                                                                                        2015 4/2

 


 

466.全部が道化、幇間では・・・


 

 真摯に物事に関わっている者が一人としていない中で全員が道化、幇間、茶番師のような者ばかりでは実際にお話にもならないが、あらゆる場面でそのような実情を見せつけられることが多い。道化、幇間などは飽くまで「中心部分」が確固としていてはじめて成り立つ存在であるが、すべてが道化、幇間では精神的破綻をきたしているとしか言いようがない。そんなものをいつまでも見せられては吐き気を催すのは至極当然の反応であろう。そこには救いようのない絶望そのものしかあり得ないのであるが、それを意識化、自己認識するエネルギーすら残されていないというのがさらなる悲劇である。それどころか存在意識そのものが自覚症状もなく変質、変形させられてしまっているとも言えるから尚怖い。それはもはや「人間」としても「像を結ばぬもの」である。もし、それも含めて「人間」という言葉で括るのであるなら、あらゆる犯罪の「意義」と「価値」も見出されてしかるべきということになる。

 しかし、有権者の17%程の支持しかない者たちがわがもの顔で事を成す様は狂乱そのものである。大方の機関が彼らの懐柔策に、言ってみれば「兵糧攻め」に手もなく従わされているというのがその実情でもあろう。要するに手も足も出ない、食攻めにされて動けないのである。つまらない「城」にこだわり、立てこもるから見透かされるのである。現状にしがみつけばつくほど彼らの思うつぼなのである。そして、辛うじてあった「本丸」もやがて地に堕ちる。それにしても、しかつめらしいらしい顔をして、いざとなれば糞袴に小便洩らして命乞いでは見るも無残であろう。しかし、それが多くの実情であることを日々見せつけられている。堕落の極み、「堕落論」の安吾もここまでの堕落は予想だにしなかったであろうと思われる。人間失格、そうでない者が何人いる?

 

                                                                                                                       2015 3/31


 

465.樹下石上


 

 紅潮し気色ばみ始めた桜の木の下で体を休める。

桜の花のどこにこれ程の紅を秘めていたのか不思議なくらいである。

碧空に紅に散らし、足元に名も知らぬ双葉が揺れる

花はどこにも見えぬが辺りは花の気で充たされている。

花の宴も無縁の境涯 実に静謐である。

                                                                                               2015 3/26

 


 

464.廃屋に


 廃屋に 木蓮の花 咲き乱れ   魯孤

 ある町を歩いていた時に見た片隅の風景であったが実に見事な風情であった。

これがなべて世の実相でもあろう。

                                                                                                   2015 3月某日

 


 

463.ニュースも茶番


 

 日本で流されるテレビなどの「ニュース」も「政府宣伝」なのか「ニュース」なのか区別がつかないことが多いが、「ニュース」とは「政府広報」のこととして見ているのでそのまま鵜呑みにすることはまったくない。「茶番師」を必要としない「ニュース」(天災など)以外は大方が茶番劇としてみてまず問題はなかろう。しかし、観る側が「黄門シンドローム」と言ってもいいような、すなわち我が身の身上も忘れすぐに「お上」と同化してしまう認知不全状態、あるいは「阿Qシンドローム」では如何ともし難く、たやすくあらぬ方向に誘導されてしまうのは目に見ている。テレビのスイッチを入れると同時に繰り返し垂れ流される三百代言風の「コンテンツ」はいつとはなしに脳細胞の隙間に入り込み、あとは「発酵」、「合成」を待つだけなのであろう。問題意識、想像力の欠如した者であれば即効性はさらに高くなり、やがて自動傀儡化する。ルーティン化された動きの中で、あるいは疲れて思考停止状態でぼーっと画面を見ていることがどれだけ危険か一度考えてみた方がいいだろう。もう手遅れかもしれないが。

                                                              2015 3/19

 


 

462.まさに衆愚政治(ochlocracy)


 

 これを民主政治の堕落形態と言わずして何と言おうか。すなわち衆愚政治(ochlocracy)である。民主政治の最も堕落した形態の中ではもはや大衆(the general public)など存在しない。そこにはただ衆愚(the ignorant masses)が蠢いているだけである。したがって、衆愚の世論調査など何の基準にもならず、せいぜい「衆愚度」,すなわち堕落傾向の確認にしかならない。

 これはすべてに敷衍される。

 

                                                                                                                      2015 3/15

 


 

461.指名手配の写真?


 

 以前、顔について書いたことがあるが人間というのはほんとうに自分については見えないものであるらしい。ネッ ト上には指名手配の顔写真かと思われるような自分の顔の正面どアップ写真を載せている者もいるが、こうした写真は他人に不快感しか与えないだろうと思われる。もし、これでよいと思って載せているのなら相当神経が損傷しているのだろうと思われる。何をやってきたかも定かでない人物の味も素っ気もない証明書写真のようなものを見せられたところで身内の人間ならいざ知らず第三者にはまったく無意味である。家族のスナップ写真の類なども公開しようとしまいと飽くまで身内、知り合いだけにしか意味がない。実際、絶世の美男美女ならともかく見も知らない他人のありふれた顔写真など見せられても何とも致し方ないのである。たとえ興味の対象になり得たとしても、せいぜい人相の分析、捜査材料に使われる程度であろう。

                                                                                                                2015 3/12

 


 

460.俗臭芬々たる「故人を偲ぶ会」

 


 

 今までこのような会には一度しか行ったことがない。昨年もたまたま縁のあった者の「偲ぶ会」などがあったが、「偲ぶ」とは根本的に秘かに一人静かに思うことで、寄り集まってやることでもない。大体このような会を仕立てる意図は故人とはまったく関係ないところにあり、俗臭芬々たるものがあるので行く気がしないのである。集う者達の質にもよるが,これまた有象無象の集まりであれば故人に対する根も葉もない、さりとて枯葉程の情趣もない単なるゴシップの領域で終始するのが落ちであろう。要するに「偲ぶ」などという行為とはかけ離れるばかりで、「商談」、「アリバイ工作」の類と言った方が適当かと思われる。最近は特に「愚かしい」と思われる、時間の無駄となるような行為は極力避けているのでそのような所に行くこともない。

                                                                                                                2015 3/11


 

<番外日誌20150310>

Abe syndrome :虚言症の具体的一症例。分析対象としては恰好の具体例。

 最近はアル中はあまり見かけなくなったが、その代替現象というべきか、裏で薬中、表でスマ中(スマホ中毒)というのが趨勢のようである。縁無き衆生に物申すのも愚かだが、どちらにしても救いようがないというのが多くの実態である。スマ中などは頭の中は四六時中、数センチ四方の平面光源体に占められていて身動きがつかない。憐れを通り越してただ愚か。

 

 

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