「ある日、その時」(76)2020年3月ー

 <掲載内容>

832.なぜか利光哲夫さんが・・・833.「テクノロジー」?それは「悪の力」834.「やさしい独裁国家」?835.自分の言葉を持てぬ者たち 836.「生物化学兵器」説 837.「プロパガンダ企業」,「政治コンサルティング会社」等々  838.この文脈で「民度」とは!!839.白昼路上で拷問死 840.「救世観音」について841.「統計的有意性」とは?842.掃き溜めの鶴は飛び立った 843.イミテーションゴールド 844.Avec le temps  時と共に・・・

 

                                                                                                     <転載・複製厳禁> 



844.Avec le temps   時と共に


 

 パリの街を歩き回っていた時に、時々聞いていたレオ・フェレ、その中の「Avec le temps」がさりげなく蘇る。

Avec le temps, va, tout s’en va  ・・・時と共に すべては消えゆく

・・・・on oublie le visage et l’on oublie la voix  面影も声も忘れ

・le samedi soir・・quand la tendresse s’en va toute seule・・・・優しさがひとりでに消え去ってしまう土曜の夜

Pour qui l’on eùt vendu son àme pour qulques sous・・・誰のために僅かばかりの金で魂を売った

・・・・・・on oublie les passions・・・熱い想いも忘れ・・・

Et l’on se sent tout seul peut-être mais peinard ・・孤独であっても多分その方が気が楽だと感じ

Et l’on se sent floué par les annèes perdues・・・・そして、失われた歳月に騙されたと感じる・・・

・・・・・・・・・Alors vraiment・・・avec le temps・・・on n’aime plus・・・・そして、時と共に、人はもう愛さなくなる。そこで歌は終わるが、私の中では、avec le temps 、va、tout va bienが繰り返されている。そして、et c’est très bien 

 

 同じように歌っているいるようだが、何気なく入ってくる言葉も歌詞もその時々で違うものである。こんな歌詞で歌えるのはレオ・フェレくらいであろうと思われたが、カナダの女性シンガー イザベル・ブーレが歌っていた。現在の日本で、歌えると思われる歌手はいない。俳優も然り。これだけのことでも、その人間がいかにどのようなものと対峙してきたかがよくわかる。

 文化とは、取ってつけたようなものを言うのではない。さりげなく積み重ねられた揺るぎないものをいうのである。「非生産的なもの」をすべて排除する国では文化は育ちようがあるまい。やがて、そのほんとうの負の領域を思い知ることになるが、その時はすでに遅過ぎる。もう遅いくらいである。

 日本の文化的営為の実態は、簡潔に言えば、昨日まで的屋、不動産屋の類をやっていたような者が、音楽事務所、芸能事務所をやっている程度なのである。良質なレベルの高いものなどは、育ちようもなく、存在しようもない。たとえあったにしても、今度はそれを感受できる者が不在では成り立ちようがないのである。

 文化は、基礎科学のようなもの、一見無駄なように思われても、それを疎かにすると豊かな実りは全く期待できなくなるのである。

                                                                                                           2020 8/10

 


843.イミテーションゴールド


「悪貨は良貨を駆逐する」とは、あまりにも有名なグレシャムの法則であるが、やはり世の中に出回っているのはイミテーションゴールドばかりで、ゴールドに出会うことは、もはや奇跡に近い。それにしてもイミテーションゴールドが多過ぎて異様である。イミテーションが、ゴールドそのものより価値があるかのようである。実際に、その「重さ」、「光具合」もまったく区別できなくなっているが、むしろ、そんな違いなど知る必要もないかのようである。

 メディアに出てくる、為政者、官僚、御用提灯(お笑い芸人の類は問題外)のメッセージ、コメント、講釈などを聞いていても、なぜかイミテーションゴールドという言葉がフワっと出てくる。それは存在そのものがフェイクであることから発せられる波動のようなものに反応しているのかもしれぬ。何やら話しているその顔つきを見ながら、つい、言葉が違う、声が違う、目が違う、仕草が違うとダメ出しの連続である。要するに、どんなに隠しても顔にすべては現れているのである。

 イミテーションゴールド、もはやイミテーションリード(lead=鉛)ではないのか。

                                                               2020 8/2 

 


842.掃き溜めの鶴は飛び立った


 その兆候はすでに現れていたが、とうとう鶴は掃き溜めから飛び立った。もう二度と戻ることはない。自らが選んで降り立った場所とはいえ、この繊細さでよくぞ耐えたというのがその実感である。飛び立つ瞬間、「掃き溜め」からしか得られないものはもはや充分吸収して、もう思い残すことはないという表情であった。私の上空をゆっくりと2,3周したかと思うと、上昇気流に乗って一気に彼方に消えて行った。それは死などとはあまりにもかけ離れた、次元の異なる領域への旅立ち、さらなる一歩の始まりでもあった。だから、「さようなら」はない。

                                   2020 7/14  


 841.「統計的有意性」とは?


 アビガンの臨床研究で、藤田医科大学は10日、新型コロナウィルス感染者の治療薬候補アビガンの臨床研究の結果について、「アビガンを投与した患者が、投与しなかった患者に比べてウィルス消失や解熱に至りやすい傾向はみられたものの統計的有意性には達しなかった」と発表したが、初期の軽症者を対象としてウィルス消失、解熱効果があればそれで充分であろう。ここで言われている「統計的有意性」とは何か?具体的に説明すべきである。このような文脈でこのような言葉を遣うのは不適切である。「専門用語」でごまかしていると言われても仕方あるまい。

 やがてくるカタストロフを目前にして、「統計的有意性云々」などと言っている場合か?

一方では、権力取得にしか頭が回らない者と、何をしているのかわからぬ「専門家」と、これでは負けるな

 

                                  2020 7/10

 


840.「救世観音」について


 「仏像に逢いにいこう」などという「親しみやすい」題で、大橋一章(アジア文化芸術協会会長、実態詳細不明、イベント交流会なのか? 早稲田大学名誉教授etc)が、「隠された十字架ー法隆寺論」梅原猛著を取り上げて批評していたが、その内容たるや、ポイントを巧妙にすり替えた箇所などもあり、もっともらしく体裁は整えているが、研究者としてものを言うのであれば、もう少し検証してから言うべきであろう。誠実な学者とはとうてい思えない。「梅原説は読み物であっても研究ではあるまい」といっていたが、大橋一章自身の研究なども、このような言説から読み取ると、かなり危うい。専攻は東洋美術史であるようだが、歴史認識もあまく、日本書紀さえもまともに読んだとは思えない。しかし、こういう「学者」というのが多過ぎるのが実情で、罪作りな存在である。つい、何を何のために研究しているのか?と問いたくなる。歴史の中で「救世観音」がどのように「生々しく」浮かび上がってくるのか、それを見定めるにはまず「隠された十字架ー法隆寺論」そのものを読むことが最善の方法であろう。

                                2020  6/28

                                  


839.白昼路上で拷問死


 白昼路上で堂々と、白人の警察官が黒人の首を膝で押さえつけ、「息ができない苦しい」と訴える黒人を見ながら、死に至るまで、その行為を続けた。その間8分以上。公衆の面前で見せしめのごとく平然と行ったこの行為には、今までの経緯のすべてが凝縮されている。抗議行動が各地に広がっているということであるが、当然であろう。これで抗議行動もなければアメリカの衰退はさらに根深く、深刻な事態となってくる。これは単に人種差別ということ以上の問題を秘めているのである。それは人間の「境涯」にはいない者たちの増殖でもあり、主体を喪失し、巨大化した形骸の際限のないもくろみが今までになく表面化しているということでもある。これは極めて危険な状況である。この危機感は「良識ある市民である」と思うアメリカ人であれば敏感に感じ取っているはずである。すでに新自由主義とポストモダンの掛け合わせによって種々雑多な人間モドキが誕生していたが、それと同時に悪も闇から光を求めるがごとく解き放たれた。しかし、その終焉も近づいているということである。

 これは、白昼堂々と行われた拷問死である。これまでどれだけの人間が人目につかない密室でこのように死んでいったかを如実に教えているのである。99%の貧困層がこの拷問死の対象となり得ることを肝に銘じることである。黒人と白人の問題などと思っていると足をすくわれる。1%の富裕層ではない以上、黙っていれば明日は我が身となり得ることなのである。

                               2020 6/9

×NHKの「これでわかった!世界のいま」で米国の人種差別抗議デモの背景を解説したアニメ動画(6/7放送)が謝罪に追い込まれた。見れば、実に皮相的な現象面ばかりを追った、差別を煽りかねない、最悪な内容である。やはり、ものを見ることさえできない者たちはいるのである。つい、どこの工作員が作ったのかと聞きたくもなる。「これでわかった!世界のいま」の実態が、これで充分わかった。これでは、世界を見ることさえできまい。

 

 


838.この文脈で「民度」とは!!


「なぜ新型コロナウィルスによる死者が少ないのか?」という質問に「それは民度の違いである」と答えた亡国の、否、某国の大臣、私もこのサイトで比較文化論的意味で以前から「民度」という言葉はよく遣うが、この質問に「民度」を遣うとは驚き呆れるばかりである。諸外国では民度をカルチャーレベルとして捉え意味不明の、あるいは危うい差別意識の現れとして理解したことであろう。後日、自国民の誇れることとして言ったことであるなどと、またぞろ苦しい弁解をしていたようだが、要するに、自己という意識も明確ではない常に受動的な「民」としての生活習慣が自ずと導き出した行動といった程度のことを精神文化レベルという意味も含めた「民度」などという言葉で括ろうとするからこういう事態になるのである。これもまた一事が万事なのであるが、いい大人がこんなこといつまでもやっていては示しがつくまい。おとなしい、従順な、忍耐強い、隷属的なといった意味の強い「民」を誇れるといったところで、それは「民度」とは全く関係ない。

                                    6/7

 


837.「プロパガンダ企業」、「政治コンサルティング会社」等々


 「オックスフォード大学の論文によると、プロパガンダを手掛けている企業は数百ある。」と言われている。また、それらの企業は、テクノロジーを駆使して、SNS上に大量の偽アカウントを作成し、個人の行動を操作したり、特定の意見を抑圧したりしているということである。すでに某政党が全国に「ネットサポーター」を抱え、「日々、ネット世論の工作に余念がない」ということは周知の事実であろう。彼らの背後には資産を持つ、個人、組織が存在し、デジタルキャンペーンに大量の資金を流すこともあるのであるから、その打ち上げ方も派手である。要するに、金に群がる太鼓持ちたちが作り出すイメージ、印象操作というところである。それは、我々が日頃、眼にするところからも充分類推、推定できることでもある。

※「フェイスブックのようなソーシャルメディアによって、選挙制度は破壊されてしまう」可能性も十分考慮にいれながら、個人情報を守る意識とデジタルリテラシーを高めることが重要であろうことは言うまでもないこと。企業が求めるデータを、おいしそうな餌につられて取り留めもなく放出しているようではその時点でアウトである。

                                      5/30


836.「生物化学兵器」説


 ノンフィクション作家の奥野修司によると、日本に帰化した中国人女性ジャーナリストは、YouTubeで「武漢の新型ウィルスは中国共産党の実験室から漏れた生物化学兵器」であると語っていたそうである。彼によれば、そのような噂は以前からあり、可能性として考えられるが
、もし新型コロナウィルスが生物化学兵器だったらもっと強毒ではないか、ということであるが、私に言わせれば、そのような強毒な生物兵器自体がすでに時代遅れなのである。現に、香港であれだけ盛り上がっていた民主化運動に対する、それこそ「平和的」な極めて強力な抑制効果があったのは事実であろう。それは実際にそのように使われたか否かに関わらずである。ここまで拡大するとは当事者も思ってはいなかったであろうとは思われるが、充分考えられることである。マキャベリズムに絡め取られれば、サイエンスはすぐにマッドサイエンスに移行するのが常なのである。

 

                                2020 5/11


835.自分の言葉を持てぬ者たち


「上」は「例の人」から「下」は我を忘れたネットマニアまで、自分の言葉で語り得る者たちがほとんどいないということには、驚きを通り越して、「人間」の「境涯」、「概念」を改めて問わざるを得なくなる。もちろん、自分の言葉で語り得る能力、すなわち思考の鍛錬ができている人々は確実にいる。自分の言葉で語るとは、その時の感情にのせて、思うがままにぶち上げ、垂れ流すことではない。この「思うがまま」というのも、実は作られたものであることを本人自身が全く気付かず、それが自分自身であると思い込んでるケースが実に多い。その存在自体が、存在の在り様がすでに寄らば大樹の陰でしか成り立たなくなっているほど脆弱になっていることすら気付いていないのである。自らのうちに価値基準を持ち、それに基づいて判断し得る能力が圧倒的に欠如しているともいえる。だから、一言一句が形を成さぬ羽毛のような軽さで意味もなく宙を回転するだけなのである。意味があるとすれば、繰り返される「音」と化した「言葉」でイメージ操作をするという極めて低劣な次元での実効性くらいであろう。それに身をささげる者たちとは、戦うために必要な物も食料もないところで玉砕をしいられているということになる。そもそもの狙いが、軽薄短小、「もの分かりのよい」(権威主義的パーソナリティー)者を対象として煽ることであるから後は推して知るべし。何事も教訓化されず、同じ過ちを何度も繰り返す者を愚者というが、愚者の下での具者ばかりでは、何をどう繕っても後退、自滅が必定であろう。

                                                                                                             2020  4/25


834.「やさしい独裁国家」?


ドイツの哲学者が、日本は民主主義国家ではなく、「やさしい独裁国家」だと言っていたが、「やさしい」という言葉を除けばそのとおりであると思っている。その形容語には、ある気遣いさえ感じられるので、それを生かすのであれば、「懈怠(けたい)な独裁国家」と言いたい。すでに民主主義国家としては体を成していないのは新自由主義とポストモダンの落とし子たちの奇形拡大を見ても明らかである。弛緩した独裁国家の行きつく先は、どのように取り繕っても自滅、滅亡、その先はない。現在も新型コロナウィルスに世界中が襲われて、その対応の是非が人類に問われている。すでにその能力の差が各国の様々なところで現れている。見れば、やはり日本は懈怠な独裁国家と言わざるを得ないのである。そして、人々がすぐに口にする「はやく元に戻ってほしい」ということ、復興とは、元に戻ることではない、新たに創り出すことである。原発事故に限らず、たとえどれほど願っても元に戻ることは決してないのである。原発事故の現状は今なお悲惨である。人間の手に負えないもので暴利を貪ろうとした付けが回ってきただけのことであるが、後始末もできないもので未来の一角を死地にしたのである。餓鬼そのものであろう。その付けは人知では計り知れないものがあることだけは確かである。コロナウィルス禍が我々にもたらしたものも計り知れないものがあるが、原発事故のような死地は一角もない。元には戻れないが、新たに創り出すことは可能であり、根本から問い直さないと先には進めまい。

 

                             2020 4/14          

 


833.「テクノロジー」?それは「悪の力」


某CMに、「テクノロジー」という言葉が明日を切り開く教祖の言葉のようなイメージで出てくるものがあったが、陳腐で愚かしい幻想であるが故に危うい。自然科学とテクノロジー、この両者に発展のすべてを託すことは、すなわちそれらが「人類滅亡の自動装置」でもあることを忘れさせることにもなる。「自然科学はこの地球上で現在もっとも破壊的な要素」であることも否定できないことなのである。それは、自然科学には、物事の価値、すなわち行動規範の概念が欠損していることからくることでもある。イメージ戦略とは、つくづく恐ろしいものである。すべて自然科学とテクノロジーが解決してくれると思い始めた時が、滅亡の第一歩だと思って間違いあるまい。

 「テクノロジーとは、壊滅という悪の力」と捉えることは、今、さらに現実的であろう。

                                   2020 3/28ー3/29ー

 


832.なぜか利光哲夫さんが・・・ 


 昨日の夢の中に、なぜか利光哲夫さんが出てきた。手にはアラバールの「戦場のピクニック」をもっている。そして、微笑みながら何か語りかけているが、どのような内容なのかは聞き取れない。翻訳、演劇評論家、テアトロ編集長として活動していた利光さんはすでに2003年に亡くなっている。生前、何度か利光さんとは会っているし、同じ企画で演出家としても一緒に活動したことがある。夢の中に出てきても何の不思議もないが、その出方と手にしている本に何か因縁めいたものを感じてしまったのである。以前アラバールについては新宿の居酒屋だったか、私のスタジオだったか忘れてしまったが、二コラ・バタイユ(故人)とも話したことがあった。しかし、その時点でも、「戦場」での「ピクニック」自体がすでに日常化された感性の中で収まってしまっているように思われた。それからさらに30数年も経って、なぜ今また「戦場のピクニック」なのか、利光さんは私に何を語りたかったのかと思っている。自分の翻訳したものなら「大典礼」、「建築
家とアッシリア皇帝」があるであろうに・・・。今、私自身は日々戦場を歩いてように感じているせいか、少々のことでは何も驚かなくなってしまっている。その上、巷では戦場の花見のようなものが極普通に一般化してるご時世でもある。何でもかんでも楽観的に、前向きに、笑って生きなければ損とばかりに思考停止状態でヒステリックに笑い興じる大衆の様は、救いようのない狂気そのものでもある。狂気がすでに「健全に」常態化しているのである。だから、今提示される「ブラックなもの」も「狂気」も、ダリの時計のようになってしまうのである。すでに液化が始まっているダリの時計・・・

 アラバール二十歳の時の処女作が、時空を超えて、縁のあった人の手の中に現れただけかもしれない。「戦場」と「ピクニック」という言葉が何の問題もないほど、これほど馴染んで溶け込んでしまっている時代の現状感覚が何気なくそれを呼び寄せたとも思える。

                                 2020 3/24

 

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