<掲載内容>
501.「他に適当な人がいないから」などとは単なる主権放棄 502.「古き良き時代」など存在せず 503.日本の「主たる」ジャーナリズムの在り様が日本の文化・意識レベル 504.「元気」に「維新」を起し、「みんな」で戦場に行くことが「幸福」の原点では話にならない 505.国会前に集まらない者に日本の現状は見えてこない 506.「流行」作家の「流行」の意味の履き違え 507.9月17日、汚辱にまみれた日、Remember remember 9.17 、a day filled with shame ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・508.Justice(報い)を受けるのは必至 <番外日誌20150925>「老人は知恵はあるが、価値はない」 <番外日誌20150925>「警察組織」とは
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〈番外日誌20150925〉
「老人は知恵はあるが、価値はない」と言い切った老人がいたが、やはり並の老人ではなかった。その後、その老人は身を挺して志ある若者を救ったのである。長く生きていれば良くも悪くも自然に知恵はついてくる。しかし、それだけでは先に進むファクターにはなり得ぬということでもあろう。
「老いたるは 皆かしこかり この国に身を殺す者 すべて若人」では先はあるまい。敢えて言えば、この場合の「老いたる賢さ」とは私利私欲のためであれば如何なることでもする「賢さ」である。
<番外日誌20150925>
勘違いしている人のために老婆心ながら言えば、「警察組織」というものは個々の警察官の「人間性」は別にして決して市民生活の安全を守るなどいうことが一義的目的にはなり得ぬ組織なのである。その主たる目的とは市民生活の「監視」である。常に現体制を維持するための監視、制圧としてしか機能しないのが「警察組織」の実態であると同時に限界なのである。犯罪捜査などもその一環でしかないということである。最近の国会前の鬼子母神も腰を抜かすような過剰警備、「逮捕」されたデモ参加者の「機敏」な家宅捜査を見てもそれは顕著に現れている。殺人か自殺かも不明瞭な事件、初動捜査のミス、司法解剖の省略、未解決事件の量、検挙率の低下、個々の不手際な事例については枚挙にいとまがないにもかかわらず現体制に抗議する者に対する動きは恐ろしく手際がよいというのがその実態の在り様を雄弁に語っている。しかし、捜査令状もなく乗り込むとは、どこの法治国家かといいたくなるが、どちらにしてもこのままで済むはずもない。過剰警備にしてもその他の一連の動きにしても、それはいかに「本体」が戦々恐々としているかの裏返しでもあろう。
508.Justice(報い)を受けるのは必至
9月19日のJUSTICEはどのような手段を講じようとももはや回避不能である。これからが民主主義を真に自分自身のものとする闘いの始まりということでもある。要するに、今までの民主主義とは単なるキッチュ、まがいものであったということである。これ程の腐敗、堕落、暴力、狂乱が渦を巻いているのを目の当たりにしていると、このような状況の中でちまちました私小説的世界に拘泥しているものすべてに対して腹立たしさを覚える。現状は常に自分自身が直接・間接的に創り出しているのである。これ以上「主」が舌先三寸の「詐欺師」にはめられていては何と言われても、どのような扱いを受けても仕方あるまい。しかし、ここまで国民を愚弄するとは!JUSTICEは不可避。黙っていても弄ばれるだけ、たとえ弄ばれるのが好きな御仁でもこの先は切り捨てられるしかあるまい。
2015 9/21
507.9月17日、汚辱にまみれた日、Remember remember 9.17 、a day filled with shame・・・・・
決して忘れてはならない日となった9月17日。それはあらゆる意味で「汚辱」にまみれた日であった。この日を忘れることは今後どのような「蹂躙」をも許すことになる。今まで以上の「動き」が必要となってくるだろう。そして、9月19日、安保法案成立。もし人間として生き続けるのであれば100倍返しのリベンジは当然であろう。今やそれこそが唯一人間を人間たらしめるものとなり、もはやあきらめと忘却は人間としての最低条件さえはく奪し、個人を亡霊化するだけとなってしまった。忘れることが致命傷となることを肝に銘ずるべきであろう。多くの人々にとっては選挙権だけが武器である。それを「適当な人がいない」などという未成熟市民のような意識で放棄したり、安易に使うのではなく、その都度一人一人が権力構造を組み替えるような意識で行使するのでなければ、この隙間に生えた派手な毒キノコのような存在はいつでもすぐに巨大化する。次回の「外科手術」はこの「悪性腫瘍」と「周辺の細胞」を根こそぎ切除しなくてはなるまい。問答は向こうが拒否しているのであるから問答無用の切除となる。それがまず100分の一のリベンジである(suite)
2015 9/18
506.「流行」作家の「流行」の履き違え
確かにある意味ではゲーテでさえ「流行」作家でもある。しかし、そこには その時代に対する深い「共感」に根差すものか、単なる時代の「饗応」かの違いがある。「共感」も「饗応」も共に「流行」すなわちその時の趨勢となり得る主要素でもある。しかしながら、その深浅の差は明らかであろう。私はその点について、以前「流行作家」の限界性として時代に対する「饗応」しかない、その時代を生きる「痛み」が見えてこない作家について書いたことがある。(suite)
 
; 2015 9/15
505.国会前に集まらない者に日本の現状は見えてこない
それは過言でも何でもない。実際に自分の意思表示をしっかりとする者にしか現実は見えてこないし、見ることさえできないものである。自分では「賢く」振る舞い、現実を見ているつもりでも実は何も見えていないという具体例は枚挙にいとまがない(ツイッターなども然り)。それは展開不能の負の連鎖にすぐにリンクして生涯見れども悟らずの人生を送ることになる。
まず、そう思ったら行動することである。この場合はとにかく「集まる」ことである。「彼ら」が恐れているのはこの「集まる」という行為そのものなのである。国会前の異常な警備体制そのものがそれを如実に示している。
しかし、今までこれ程までそこに「いる」ということに大きな意義を見出し得ることはなかったであろう。そして、多くは従容と死さえ覚悟してるのではないかと思われる。死に大きな意義を見出し得るとするならこのような時だからである。今、世界の目は国会前に向けられている。
2015 9/14
504.「元気」に「維新」を起し、「みんなで」で戦場に行くことが「幸福」の原点では話にならない。
これはあまりにもそのまま過ぎて書きようがない程である。誰でも「わかる」、それでいてもっとも意味不明の言葉の糊付けばかりと言うべきか。 様相も不明な「元気」も「維新」も「みんな」、「幸福」もそもそも在り様がないのである。要するにあるようなないような内容をあたかもそこにあるがごとくに見せかけているだけとしか言いようのない類である。
2015 9/12
503.日本の「主たる」ジャーナリズムの在り様が日本の文化・意識レベル
周知の事実であろうが、何から何まで諸外国経由でしか自己認識ができないという「特殊事情」。今、現実に起こっていることさえ海外経由でしか見えないという実情がある。隠ぺいと糊塗、そして捏造と目くらましだけでどこまでいくのか、驚くべき嘘の量である。ここまできたら嘘に嘘を重ねていくしかないのであろうが詐欺師の手練手管を微に入り細を穿って見ているようでもある。もはや伝えられることの全部が逆だと思った方がいい程。ますます吟味、読み取り能力と想像力を必要とする時代になった。
それに呼応するがごとくに文化・意識レベルも同様である。(suite)
2015 9/11
502.「古き良き時代」など存在せず
そんな時代がいつあったのか、どこからのぞき見ているのかと言いたくなるような思い込みである。「古き良き時代」など歴史的にも一度として存在した例はない。永続的な「桃源郷」の類などはどこにも存在しないと見る方がすべての問いに対して妥当な判断を下すことが可能となる。(suite)
2015 9/10
501.「他に適当な人がいないから」などとは単なる主権放棄
とても民主主義の主権者が言うことではない。無責任極まりない、というより民主主義そのものがまったく身についていない証左ともいえる。主権者が「他に適当な人がいないから」などと平然と言って何か言った気でいること自体がおかしいのである。その奇妙奇天烈さが分からないということが取りも直さず民主主義国家の住人ではないという証にもなる。「適当な人」とは果たしてどのような人なのかということを問い直すこともせず、そうかと言って新たに掘り出し、創り出そうともせず「他に適当な人がいないから支持する」などという怠惰にして怯懦な姿勢ではとても主権在民などは夢のまた夢、だからこれ程までに無視され、なめられ、馬鹿にされ続けるのである。そのような人々は実際にはどれほどおちょくられているか気が付いていないのであろう。要するに、彼らに足元を見られているのである。怠慢と隷属根性から一歩も抜け出し得ぬという足元である。「他に適当な人がいない」と「判断」した瞬間に主客は転倒するのである。
2015 9/9