「筆に随いて 今」   平山 勝 (2003年 月刊俳句冊子に寄稿)

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筆に随いて 今  (第1回)            

              平山 勝

 

 初雪やいつになっても獨り言  魯孤

 去年のいつ頃であったのであろうか。あけ先生(藤田あけ烏氏のこと)とお会いしたのは。確か、私が教え子の旗揚げ公演のために台本を書きあげ、その公演が終わった後であったと思う。

 いつものように私がカウンターで一人で飲んでいると、背後から時折笑い声が聞こえて来る。句会も終盤戦を向かえたと見える。神経的なものが蠢動する気配はない。

 「何の因果か・・・」窓越しに通りかかる人々を見ながら吐息が言葉になりかかっていた。

 7歳の時、私は父に連れられて鶴川にある石川桂郎氏の自宅に行った時のことを今でも覚えている。むせ返るような草いきれの中に突然現れた巨大な牛に圧倒されていると、いつの間にか自分ひとりその場に取り残されていた。見ると遠くの方にワイシャツの袖を無造作にたくしあげた下駄履きの石川氏が歩いている。漸く父は私のいなくなったのに気づき、立ち止って待っていた。私は風船の紐を堅く握り締め走り出した。

 これが作家と称される人と出会った最初であり、俳句という字と接した最初でもある。後年、私が芥川龍之介を妙に身近な人物に感じるようになったのはこの頃の石川桂郎氏の風貌に依るところが大きいような気もする。

 人の動く気配がして、ふっーと私の傍らに誰かが座った。間髪を入れずその店の女主人が私にその人物を紹介した。私の自己紹介が終わると藤田氏は自らが主宰する句会の俳句雑誌「草の花」を私に手渡した。その雑誌を読みながら私は藤田氏の俳句についての考えを聞いていたのだが、何か今までとは違ったある種の共感を感じ始めていた。それは文芸表現の限界を知りつつ、その世界に殉ずる者のみが持つ矜持と優しさではなかっただろうか。私は、17文字でいとも容易く世界を切り取れると思っている人々、そんな人がいるかどうか別としてそのような類いの人とでも言おうか、そのような人達とは縁がないと思っているので久しぶりに我が意を得たりとばかり気持ちを弾ませていた。しかし、「俳句は挨拶です。」と藤田氏が言い始めた時、私の中で収斂しかかっていたものが急に動きを止めてしまった。あまりに軽すぎるのではないか・・・

 「どんなお芝居なんですか?」と藤田氏が尋ねてきた。

 「えっ、えーそうですね。簡単に言えば『愛』です。」藤田氏に対する仕返しのつもりはなかったが、言いながらあまりに取りとめがなく、空疎な感じがしたのですぐに付け加えた。

 「ドストエフスキーのテーマが愛であったと言う意味も含めてですが。」今度は大上段に振りかぶり気味なのがなんとも居心地が悪かったが藤田氏は私の気持ちを察したようだった。

 その夜は、「挨拶」についてはそれ以上話はせず、藤田氏と別れた。私は久しぶりに話の敷衍を楽しむことができたという思いで帰途についた。酔いもまわりおそらく人知れず何かを呟きながら歩いていたのだろうと思う。

 1カ月後、私は次の作品の準備に取りかかっていた。そんなある日、再びあけ烏氏と会う機会があったので私の中で嚥下しきれずいるものについて尋ねてみた。

 「『挨拶』というのは、たとえば、春には春に、夏には夏に、秋には秋に、また冬には冬に自らもなりつつ生きとし生けるもの、森羅万象との生の確かめ合いというようなことですか?」

 「そうです。その通りです。」

 「でも、そうだとするともう少し説明していただけないと間違う人もいるんじゃないですか?」私は彼の言う「挨拶」という意味がそう簡単に理解できる人ばかりではあるまいという気持ちで付け加えた。

 「そうですね。いるでしょうね・・・」

 私はあけ烏氏が何か言うのだろうと待っていると、「どうですか?俳句やってみませんか?」と聞く。私は一瞬言い淀んだが、「以前にも申し上げたように、読むだけで充分です。」と言うと、「しかし・・・」と視線を下にして切り返してくるような気がしたので、「実は、日記のようなものの中にはその時々の心の様相を俳句形式で書きとめています。でも、人前に出すものではありません。」と言うと、あけ烏氏は「そう、それでいいんですよ。やっぱりね。書いていたんだ。」と言いながらゆっくりと頷いた。私は、なぜか急に心の隅をのぞき込まれたような気恥かしさを感じた。

 「ただ、言葉と出会って嬉々としていたいだけです。それが変な要因で濁ってくるのがいやなだけなんです。50を過ぎて漫画本ばかりに夢中になっている人の姿を見て緩慢なる自殺を思い浮かべるのは僕だけではないでしょう。多くの人にとってはまず言葉を操る喜びを感じることが第一で、『人間』という境涯に身を置く限り言葉を放棄することは取りも直さず『人間』の放棄になる訳で言葉を操る楽しみの領域はやはり不可欠なものだと思います。そういう意味で詩に才があるかどうかなどはニ義的な問題なんです。時折、『言葉じゃない』、『言語道断』などと言いますが、どれもすべて言葉です。言葉と『戯れる』入門の心は、そのまま『極意』ではないですか・・・それは、全身全霊楽しんでいるかどうか自問自答すれば自ずと聞こえてくるものだと思うのですが・・・」そして、最後に「この前、とある所でツブヤキました。」と言うと、あけ烏氏は微笑みながら「どんな俳句?」と言った。

 それが冒頭のツブヤキである。なんと俳号までついたツブヤキなのである。

 

 


※この寄稿は私の都合で第5回で終了してしまった。読者諸氏から楽しみにしているので何とか続けられないものかというメッセージも戴き、終了に際し心苦しい気持ちもあったがご容赦を願った。あれから7年、藤田あけ烏氏を偲ぶ意味で今回、誤植の訂正、加筆をして、さらに書き上げたたまま放置していた第6回の原稿も載せることにした。

                                  2010年4月


筆に随いて 今  (第2回)           

              平山 勝

 

 あえかなる薔薇選りをれば春の雷  波郷

 時代の流れに無頓着な舞台演出家というものが果たして成り立つものかどうか分からないが、少なくとも私はあまり気にかけない方である。何を気にかけるかと言えば、そこにある「花」である。それは「もの」と言ってもいいかもしれない。その「もの」との会話から様々な「こと」を紡ぎ出す。時には自分でも手に負えない魑魅魍魎さえも。しかし、それが私にとっての最大の関心事であって時代との照合など敢えてやっている暇などないのである。それは私の生き方、姿勢から来ることで今更変える積りはない。「もの」との対話というのは結局自分自身との語り合い、自己省察、自問自答の繰り返しである。「花と語らう」とは「自己の花」と語らうことでもあり、綺麗な言葉のようだが不在そのものとの対話でもある。時にはその「花」が美しく立ち現れるが、それは「時間」そのものである。因みに、「美」と言う字は、「生けにえ」の羊が大きい程、神が喜ぶので「すばらしいもの」としたことから来たらしい。何ともどん欲な「神」がいたものだと思うが、「美」についてのある一面は語り得ている。美の成りたちにはそれぞれの人が強いられてしまった「不在」、「欠如」、「犠牲」が一つの要素として働くからである。それは同時代に生きる者が意識するとしないに関わらず受けた傷の量によってその「神」は喜ぶので「美」が成立するということでもある。

 時代を「無視」して現前する「もの」に気を取られ、それを追い求めた結果、時代とズレるのであれば私はそれも致し方ないと思っているが、それが時折、時代と照合していることがあるから不思議なものである。情報に振り回されて盲目状態に陥っている人達、そんな人達のことを考えると今は時代に反して「ゆっくり自分を見つめる」ことに尽きるのではないかと思っている。こんなご時世でそんな悠長なことをやっている時間はないと言う人もいることだろう。しかし、だからこそ「ゆっくり自分を見つめる」ことが必要であり、意味を持ってくるのである。たとえそれが答えのない、無限の問いかけであったにしても。

 冒頭の句、その心の様相は春を越えていると思っている。もしかしたら、私はずっとこんな気持ちで生きてきたのではないかと思える時があるからである。そして、波郷が自らを「時代にそぐはない姿勢」と言う時、私はこの俳人に対して曰く言い難き共感を覚えるのである。彼はまた「たとえ漫歩であろうとただ歩きつづけたいと念ずるのみである」とも書いている。

 俳諧はさびしや薬缶の氷水  あけ烏

「さびいや」と言ってもそこで収まってはいない。「薬缶」の中の氷水の手応えは確実に感じている。しかし、それもそこまでである。その僅かな手応えだけでよしとする姿勢が素直に「さびしや」とするが、それ以上のものは残さない。さりげない句であるがこの俳人の基本姿勢が感じられる好きな句の一つである。あけ烏氏もまた「道」を歩きつづける俳人なのである。

 泉への道遅れてゆく安けさよ  波郷

 ご存じのようにこの句は当時趨勢となっていた「社会性俳句」に対する彼自身の姿勢を表明した俳句でもある。私はここで「社会性俳句」の是非について述べるつもりはないが、現在では、彼の姿勢は彼自身が感じていた以上に重要な意味を持って来ていると思えるのである。「個人」の資質が否応なく問われる時代には、必要とあらば敢えて「遅れてゆく」ことも辞さない姿勢がどうしても必要になってくるからである。とかく「速く処理する」ことばかりが強調されその能力ですべてが評価されてしまうような状況では当然その内容は二の次になって来る。その結果が、社会的には企業の不祥事など枚挙に暇がないことは周知の事実である。思考停止状態でとにかく速く処理することばかりに追われ、本来複雑なものを簡単に片づける。それを心地よいと思うようになったらかなり危険な状態である。「遅れてゆく」ということは否応なくその人間に自分自身で考えることを強いる。現在、自分で考えるということは当たり前のようで当たり前ではなく、骨の折れる作業であり、「速く処理」すると言う世界とはかけ離れている。しかし、それを回避しては本当の意味で先には進めないと思っている。そして、今各人が敢えて「遅れて」ゆっくりと自分自身を考えるその作業をどこまで忍耐強くするかによってその人の、その国の、世界の将来は決まってしまうような気がしてならない。

 「日々に命の灯を恃み得ぬものが、何うして散文の後塵を拝するの十七文字を弄ぶを得んや。」

 たとえ稚拙な「ツブヤキ」であっても「日々の命を恃み得る者」の十七文字であれば、それは十七文字を弄ぶ」ことになるのである。「命の灯を恃む」とは自己の生に対する限りない問いかけであると同時に瞬時に現われては消えゆく「小さきもの」に対する愛惜でもある。

 こんな話がある。アウシュビッツ収容所(ナチスドイツのユダヤ人収容所)では、精神的に高い生活をしていた繊細な人間の方が頑強な肉体の持ち主よりも過酷な収容所を耐え抜いたと言うことである。これは一体何を意味するのだろうか。僅かな心の揺らぎ、小さき「もの」「こと」を十七文字で表現しようとする精神的営為も言ってみれば我が身を救う術なのではないか。それは「細部に神が宿る」と言うことでもあり、極限状態の中でも自らの「命の灯を恃む」者が生き抜けると言うことを意味しているのではないか。日本はアウシュビッツとは違うと言う人がいるかもしれないが、果たしてそうだろうか。それも感受性の問題かもしれないが、私は大して違わないと思っている。

 

 


筆に随いて 今  (第3回)          

              平山 勝

 

 ある才能ある友人が、最近「死」が頭から離れないと言う。私はと言えば、随分と前から「死」が居候を決め込んだと見えて動く気配がない。だからその時は「そうですか」と弔問客を相手にしているような返事しかできなかった。

 「両忘」という言葉がある。仏教特有の二元論的認識を空じ、脱し切ると言う意味の言葉である。生と死、明暗、相対する概念によって自己が振り回されることを避け、自由自在に生きる智慧の一つを言い表した言葉である。即ち、生きている時は生きていることすら忘れて、生きて生きて、そして、最期は極自然な出来事「死」にすべてを任せ切る。生にも死にも振り回されない生き方を教えたものである。

 現代医療を否定するつもりはないが、早期発見、検査などに振り回されている人達を見ているとどうも根本的なところを見失っているような気がしてならない。私の母は素直に医者の言うとおりに定期的に胃の検査をし続け、乳癌になり、コバルト照射治療を受けている間に肺に癌が転移し、その手術後1年足らずで63歳で亡くなった。父も検査設備の整っている病院で毎月検査を受け、その結果、胃癌やら食道癌の手術を受け解剖室から出てきたような体で辛うじて生きていたが、今度は肺癌の手術だと言う。さすがに、私はそれを止めさせたが、その3か月後73歳で亡くなった。今でも父が本当に癌であったのか疑っている。人がある年齢に達すれば細胞も老化し何らかの病名をつけることは容易である。その病名を知ってさらによりよく生きられればよいが、それによって医者とか自己の恐怖心に振り回されてしまっては情けないことになる。

 やがて死ぬけしきも見えず蝉の声  芭蕉

「幻住庵記」の文末の句であるが、最初、私は近世以降の言葉遣いで「やがて」を解していたのであるが、やはり「やがて」は「にわかに」「直ちに」と言う意味でないと迫るものがない。この句、私は「両忘」そのものであると思っている。そして、その「幻住庵記」には「我して閑寂を好としなけれど、病身人に倦で、世をいとひし人に似たり。いかにぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、若き時より横ざまにすける事ありて、暫く生涯のはかりごとゝさへなれば、万のことに心を入れず、終に無能無才にして此の一筋につながる。」とある。一筋につながったかどうかは別にしてそれは今までの私の経緯を簡潔に言い当てている文章である。ただし、今の私に妙な無常観はない。

 「両忘」という仏教的言語に関係して、7,8年前であろうか、仏教の中心概念の一つでもある「空」というものがそれまで以上に鮮明に浮かび上がって来たことがあった。それは私の師でもある西嶋老師訳した「中論」を読んだ時である。その本は今までの鳩摩羅什の漢訳の翻訳ではなくサンスクリット語の原典から直接翻訳されたものである。「空」は原語では「Sunya]この言葉の意味は、従来使われていた「何もない」、「空である」の意味の他に「裸である」「ありのままである」という意味がある。どちらを取るかでかなり違ってくるが、私は後者の意味によってブディズムにより接近したので後者でその意味を解釈している。もちろん、ブディズムが単なる解釈学ではないことも踏まえた上での話である。

 今や「現代物理学の最先端の物語がー中略ー『般若心経』の世界へと立ち戻ったように思えないこともない。」と言うくらいであるから現在ブディズムの有効性については推して知るべしである。例えば量子力学で言う「無」とは、単に物質がないというだけでなく、物質を入れる器としての時間も空間もない。しかし、この「無」とは負のエネルギーが凝縮された真空であり、巨大なエネルギーが蓄えられている。それは空間を膨張させながら大爆発(ビックバン)に導き、それによって物質が生じると言うのである。「無からの創造」も説明可能となった訳で、紀元前の何ら科学的証明の手段も持たなかった「人」の「直観」を「悟り」と言わず何と表現すべきなのだろうか。

 5年程前の夏、私は東北大学で行われたカウンセリング学会に出席した。至る所で扇子が揺れ動く中、A・エリスは話の最中に当然ビスケットのようなものを取り出し、それを食べ始めた。彼は当然そのことを詫びながら事情を説明した。彼は幾度かの手術で食事を細かく何回にも分けてしないと体が持たなくなっていたのである。そして、彼はわずかな食事を済ませると「八方ふさがりということはない。ただ不便なだけだ。」と言ってまた話を始めた。

 欧米のすぐれた哲学、心理学、文学などがどこかで仏教哲学と通低していることにはいつも驚かされる。例えば前出のA・エリスの「論理療法」(1967年に日本に)には「人間の悩みとは出来事そのものに起因するのではなく、その出来事をどう受け取るかによるということである。ある出来事の事実に基づかない非論理的ビリーフ(受け取り方、思い込み)がその人間を愚者としている。」また、「必要な時間を惜しまず、自分を動揺させ自律神経の調子を狂わせてしまうような自己の内心の言葉をしっかり直視するならば、必ず理解できるだろう。最後には自分の感情を統御することも可能である。」と述べられている。このA・エリスの考え方は「中論」の第12章第5頌からも引き出せる。それをA・エリス流に要約して言えば、人は非論理的思い込みで過剰に「苦悩」をねつ造、再生産しているということになる。

 「死」の観念が離れないと言う友へ

「人間は太陽をも死をも直視できない」のだからそのようなものに煩わされているより、「自己の内心の言葉」を直視した方が賢明である。後は宇宙の理法に任せるより手はあるまい。

 それではまた。

 

 


 筆に随いて 今  (第4回)          

               平山 勝

 

 昔から枕上、鞍上、厠上というのは人がひらめきを得るのに適した場所であるらしい。今ではさすがに鞍上(馬上)という人は少ないようであるが、かって私は鞍上というのを経験したことがある。馬上の目線の位置、馬との一体感そして大地の呼吸のような心地よい揺れが伝わってきてあの状態ではどこからともなく妙案が湧き上がってくるのも至極当然のことのように思われた。こんな風に書くと私が上手な馬乗りのような印象を与えるがあに図らんやそんな感触を持ったのはほんの一瞬だけで実際には惨めなものであった。

 逆光の中に姿を現したその馬はしばらく私を吟味しているようであったが、私はこんな立派な馬に乗れるのかという思いで少々気負い立っていた。そして、乗馬して間もなくであった。何が気に入らないのかその馬は私の足に噛みつこうとする。方向転換しようとすると今度はほんとうに私の足に噛みつき、暴れ出した。私は何とか厩務員の助けを借りて辛うじて落馬だけは免れたというのがその時の事の次第なのである。後で聞けば、その馬はサカリがついていたということである。なぜ初心者にそんな馬を割り当てるのか、少々不愉快にもなったが悔しいという気持ちはまったくなかった。

 その後も、いつまでもその馬の目だけが心に残ったが、再び馬に乗ろうという気持ちは起こらなかった。そして、いつしか見る側に立たされている自分に気がついた。

馬の鈴つりたる窓の春嵐      桂郎

冷やし馬目がほのぼのと人を見る  楸邨

 秋の馬われの無言を過ぎゆきぬ  兜太

 川に設けられたから「川屋」で、それが厠だという。「川屋」という字だけを見ていると何をするところなのかと思える程涼やかな感じを与える。もっとも、和歌山県では「コウヤ」というらしい。「コウヤ」とは「高野」と書き、高野山のことで昭和20年代から30年代初期までは実際に高野山の川ではまだ用をたしていたということである。浄不浄を云々するよりも何とも優雅なことだと思える。この環境でいい考えが浮かばぬようでは愚人、小人と言われても仕方あるまい。

 民間信仰でいう厠神(カワヤノカミ)が水の神と関係が深いというのも合点がいくが、その「厠神」は「お産」とも関係があるというのだから厠というところは何が現われても不思議ではない豊饒な「場所」なのである。聞くところによれば、和歌山県の有田川は有名な鮎釣り場で、昔はよく「有田川の鮎は肥っている」と言われたそうである。因みに、有田川の源流は高野山である。訳の分からぬ化学物質を流されるより自然に合ったすばらしい循環である。今流厠(今のトイレ)でこんな取り留めもない思いを馳せていると、ひょっとして我々の中には水の神が刷り込まれていて、今流厠にいても無意識の領域で古代の水流れにたゆたいながら程良く意識の覚醒が得られているのではないかと思えてくる。すると、突然狭い今流厠の仕切りが外れ、草いきれが鼻腔を上がり、うっそうとした山々が立ち現われて、川音がどこからともなく聞こえてくる。ここは往にし方人(いにしえびと)達と交換できるところなのかもしれない。

厠より山藤の花風も見ゆ     林火

川の水浮葉を載せて田に入りぬ  楸邨 

 狂気の沙汰霧の厠に沢蟹が   兜太

新蕎麦やばたと厠の閉まる音   あけ烏

 夢うつつ、うつつの狭間か夢の狭間か。枕上は古来日本人が愛して止まないところであった。「古事記」、「日本書紀」を引き合いに出すまでもなく夢の記録には事欠かないのであるが、その中でも特に明恵の「夢記」は異彩を放っている。「夢記」は明恵が19歳の時から死ぬ1年前まで40年間の夢の記録である。それは700年も前に自己探求のために積極的に夢を取り入れたという点でも、継続的に書き続けたという点でも、世界にも稀な存在とされている。明恵の場合、生きることそのものが夢とうつつの程よいバランスの中にあり、夢が人生の照合という重要な意味を持っていた。だからと言って自分にとって都合のよい夢だけを取り出して脚色して仏教説話風に仕立て上げるというような法師臭さは彼にはない。また、求道者として彼はいつでもそのカリスマ性を発揮できる力もあり、その状況にありながら敢えてそれを拒否していたところがあったというところも言い添えておく。

 明恵には「平常心の意識よりも夢の方を重視していた」ところもあるが、同時に「夢から覚める」ことの重要さも強調している。この点が他の多くの夢の記録との違いであり、彼がすばらしい求道者であったという証でもある。この明恵の姿勢は「強い合理性を持っていないと無意識の餌食となり、合理性のみに固執していると夢の意味を見いだし難い」とされる現代の「夢分析」の姿勢とも一致するのである。私は、明恵と言う人はうつつの思考の限界を知りつくし、夢の中で解釈される「無意識の創造性」ということを身を持って知っていた人なのだろうと思っている。そして、明恵についてはもう一つ重要なことがある。それは、「鎌倉時代から明治に至るまで、日本人の生き方を律してきた『貞永式目』の思想的背景として、明恵の思想があった」ということである。と言うことは、日本人を語る場合、明恵の思想を抜きにするとその全体像が見えてこないと言うことになる。

「あるべきやうは」「何か?」

「我は後生資からんとは申さず。ただ、現世にあるべき様にてあらんと申す也」 明恵

君や蝶や荘子の夢心      芭蕉

短夜やおもひがけなく夢の告   蕪村

誰が魂の夢をさくらん合歓の花  子規

夢のままこの世のさむさ揺曵す  楸邨

 そして、あけ烏氏の「春の山父を埋めしか魚を埋めしか」という夢の中の写生句とも、うつつの心の様相ともとれる句がある。

 


筆に随いて 今  (第5回)              

               平山 勝        

 

 斧入れて香におどろくや冬木立  蕪村

 「花と語らいながら、時と場所を考え器を選ぶ」とは華道の心得の中にある言葉である。勿論、実際には箇条書きにされたものであるが、それを私なりに座右の銘とするためにまとめたものである。それは私の仕事上(舞台演出)で思ってもみないところでその効力を発揮することがあった。

 私と華道との接点は母である。母は平成元年1月、63歳で他界したが、長く華道と茶道の師範をしていた。その母のおかげで庭には常に四季折々の花が咲き乱れ、どの季節にも花があった。母が丹精して育てたそれらの花々が私の荒ぶる魂をどれだけ慰撫したか、それは計り知れないものがあったのではないかと今つくづくと思う。しかし、その庭にも母の死が次第に影を落とし、一つ二つと草花が消えて冬の花が咲くことはもうなくなってしまった。

 私が芝居の演出を中心に活動していた頃はアンダーグラウンド演劇と言われるものが解体し始める時だったが、それでも相変わらず小劇場演劇は活況を呈していた。

 ある時、私は某演劇雑誌に「無文」の演出について書いたことがあった。それは「無文の能」を捩った表現であるが、要するに「目ニタツモノノナイ」演出、どこに演出があるか分からない舞台の実現である。しかし、それはややもすると画餅となったり、単に無能な演出と見られ兼ねない危険性は充分持っていた。どうしてそんなことを書いたのか、多分、当時のけれん味の多い舞台に食傷気味になっていたこともあったのだろうが、時の趨勢を無視していたことに変わりはない。そういう意味で私は演出家としては不向きなのかも知れぬが、こんなへそ曲がりな演出家も一人位はいてもいいのではないかと思っている。「演出とは人生であり、人生についての省察」なのであるから。

 今ここで、私は「演出論」も「文学論」もぶつつもりはないが、「文学とは本質的なものか、そうでなければ何ものでもない」という思いは未だに消えていない。従って、最近本屋に溢れている多くの本は「本質的なところがない」という点で私にとっては興味がないのである。しかしながら、その「本質的ではないもの」、「何ものでもないもの」の存在を完全に否定できるのかという問題は残る。それは前回でも書いたように「言葉を楽しむ」と言う「本質的ではない」「何ものでもない」要素を含む世界を否定できるのかということでもある。そもそもなぜそのようなものが必要なのかと言えば、言語と思考の相関関係という問題があるからで、言葉から離れ思考活動を停止させいつしか緩慢なる自殺に追いやられてしまう者、人間の「境涯」を捨ててしまう者をこれ以上増やさないためにもそれは必要なのである。しかし、その「本質的ではないもの」「何ものでもないもの」と言うのはまた「ディレッタント」の領域でもある。私はそのような「人種」を嫌うあまり俳句の世界から距離を置くようになったと言っても過言ではないので実のところ複雑な心境なのである。しかし、言葉と「親しむ」必要性を現在痛切に感じている私としてはその存在を認めざるを得ないし、願わくは「ディレッタント」達が、「言葉を楽しむ」ことに喜びを見出そうとする人々、換言すれば何とか人間の「境涯」に留まろうとする人々に対して、したり顔でその楽しみを奪うようなことだけは避けて欲しいと思っている。ここで言う「ディレッタント」とは普段「健全な」生活を送っていて時々「芸術家」になれると思っている人のことである。そして、「本質的なもの」に関わる人々とは「甘美な凡庸さの中に生き愛する」ことができない人々であり、だからこそその喪失感を埋めようと突き上げてくる創作活動に身を委ねざるを得ない人々のことである。そして、彼らの多くは、現実的には死んでいるようにしか見えない人々である。「ディレッタント」か「本質的なもの」に関わりのある人かの区別はその人の現実的様相を見れば自ずと知れる。

 しかし、もし「言葉を楽しむ」ことだけに終始するなら「ディレッタント」か「本質的なもの」に関わる人か、才能の有無などどうでもよいことである。むしろ才能のないことを喜ぶべきである。なぜなら、才能とは「苦悩がリアルなものに窓を開く、芸術体験の主要な条件」と言う意味で「苦悩」を必須条件としているからである。

 また、「言葉を楽しむ」と言うことは、ある意味では精神的に負荷をかけることでもあり、それによってストレスが生じることもある。最近はその解消法ばかりが強調され過ぎる嫌いがあるが、まったくストレスがないと今度は精神が弛緩し、軟弱なものとなってしまう。今でも何かと言うと「キレル」などと言う言葉が遣われるが、単なるヒステリー、許容量のなさ、精神の鍛え方の甘さを露呈しているだけで、それは精神的負荷を必要以上に回避してきた結果だとも考えられる。言葉を操ることでほどよいストレスが生じ脳細胞を刺激することはやはり精神を強靭にするという意味でも必要なのである。それと芸術家の必須条件となる「苦悩」とは本質的に違うのである。

 冒頭の句は、一昨年書いた芝居「冬眠する男」の内容と一脈通じるところがあると以前から思っていたので書き出したのである。「冬木立」の一見死んだように見えるものが持つ神々しい生。その様は「本質的なもの」に関わる人がその道に殉ずる姿と重なり合う。

 蕪村がこれを絵にしたらどうなるかと思った。私の夢の中では、その木の切り口には薄く朱色が入っていた。

 

 


筆に随いて 今  (第6回)    

ー真砂女とー                

                                              平山 勝

 女が沖合を見つめて立っていた。その近くでは3人の子供達が砂遊びをしている。時折子供たちが発する奇声も潮風に乗りいつしか波と和している。ただ、女だけが微動だにせず彫塑のごとく佇んでいる。女はいつからそうしていたのだろう。私は何か妖気のようなものを感じて、その女の後ろ姿に見入ってしまった。

 女の砂に埋もれた下駄がピクリと動き、海鬼灯(ウミホウズキ)が鳴るような音がした。 

 海酸漿(ウミホオズキ)ギューとならして決別す   真砂女

 陽に染まった子供の一人が海ホオズキを鳴らしながら私の傍らを走り去った。

どのくらいここにいたのか、はっきりつかめぬまま私はただ漠然と歩きだした。そして、今まで考えていたことを一つ一つ手繰り寄せていると、先ほど女が消えた小径のところまで来ていた。見ると今にも燃え落ちそうなサルオガセと、さらに奥まったところには闇が溶け出したようなサルオガセがある。

恋の残滓か暗がりのさるおがせ  あけ烏

 これは現実の風景と俳句の風景とが交錯した面妖な時の流れの中で、それを筆に随いて書き綴ったものである。時折、私がDéjà-vu(既視感)の世界に入り込み、いつか見たような風景を辿って行くとそこにいくつかの俳句があることがある。そうなると私の頭の中の機織り機は勝手に動き出し、つい時の経つのを忘れてしまう。

 それにしても、サルオガセという生き物は実にかわいそうな生き物である。今でも木を腐らせると本気で思っている人がいるようだがそうではない。この生き物は菌類ではなく地衣類に属し、自分で空気中の水分を吸収し光合成をおこない木に寄生しているようだが実は自給自足態勢で生きているのである。まさに「霞を食って生きている」のである。しかし、考えてみると恋というのも霞を食って生き続けているようなものかもしれない。ただし、霞を食って生きることも一興と思えれば恋することもよし、「残滓」と見るもまたしかり。

 小径を歩いていると、揺れるサルオガセの間で何かが動く気配がした。

「嗚呼、有ることは寂しい」それはため息まじりの呟くような土器声(カワラケゴエ)であった。声のする方を見ると残像のようにしか見えない。何か歌詠みの法師のような風情を感じたがそうではない。「寂しい」などと言う言葉がどこか不自然な感じがした。近寄るとそこには誰もいなかった。私は一体誰を見ていたのだろうか。

 有ることは時間、その「無常」が思わず形をなさぬ何ものかの舌頭からこぼれ落ちたのかなどと取り留めもないことを考え始めていると、波郷の哲学的な俳句を思い出した。

蝶死にて流るる水を踰ゆ(コユ)      波郷

 常に「今」というこの瞬間瞬間に越えて行かねばならない生そして死というものが同時全体的に休むことなく動いている様相をとらえている。「実相観入」とも言える句である。

 

 「どこにいても海の句ならいくらでも詠める。体の中に海があるのよ」と言う真砂女、海の香りが鼻腔に立ち上る度にどこからともなく聞こえてくる。

 真砂女は千葉県鴨川市の生まれで、生家は旅館業を営んでいた。太平洋に面したところで沖合には「仁衛門島」という平野仁衛門という人の個人所有であった小さな島がある。この島は今でも平野家1軒があるだけで他には何もないという。島には10人ほどが乗れる手漕ぎの舟で定期的に渡ることができる。

「姉ちゃん、ホントにやめな」

「でも、そんなこと言っても・・・」

「絶対駄目、母さんも言っていたじゃないの、絶対漁師となんか結婚するんじゃないって、それさえしなけりゃ何をしてもいい、自由にしなって」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ミラクルはないよ・・・ミラクルは・・」

 二人の姉妹が私の後ろを通って行った。暫く妹の強く繰り返される言葉が続いていたがその内に消えた。

 これは鴨川市に限らず、漁師町の女のツブヤキでもあろう。真砂女の生家は漁師ではないが、人の出入りの激しい旅館であったから悋気講(リンキコウ)なども早くから耳にしていたことだろう。実のところ、海の香りさえトラウマを残しかねない土地柄でもある。それを含めて海は「体の中にある」のである。

彼女が「ほんとうの事」しか詠わないと言う時、ほんとうの心の様相を詠うと言う意味でそれを伝えるための「言」は当然操作され置き換えられる。海も見たこともない詩人が1枚の絵葉書を基に海の詩を「体の中に」あるがごとくに書くことはできないと言いきれないのと同様に波郷の「実相観入」にも通ずる俳句も心に感じる「ほんとうの事」である。

 夏のある日、私はひたすら歩いていた。暑さが私の体と一体となっている、不思議な感覚である。どのくらい歩いたのか、とうとう私は庚申塚の傍らの石に腰を下ろしてしまった。

 夏来たりけり文鎮に川原石    あけ烏

 どこからともなくせせらぎの音まで聞こえてきて実に涼しくなる句である。それだけではない、この句のなんとも言えぬ清涼感は「無一物」の涼しさである。そして、この句に添わせたい句がある。

 今生のいまが倖せ衣被(キヌカツギ)   真砂女

 

 ひと息つくと、私はまた歩き出した。

 

 

 

※○Déjà-vu (デジャヴュ=既視感)実際には経験したことがないにもかかわらず以前経験したことがあるように感じること。

   ○「実相観入」 斎藤茂吉の歌論。子規以来の写生俳句をさらに進めたもので、皮相な写生に留まらず実相に徹することをその要諦とする。 

   ○ 「無一物」 ここでの意味は、所有しているものに自らが拘束されることのない、何もかもがないという状態を指す。


ー最期の別れー

 病床で動けなくなってしまった藤田氏は、私が持って行った果物の中から白桃を選んだ。私はその白桃を切り取り彼の口に運んだ。

 白桃をウマシウマシと頬張る姿が藤田あけ烏氏との最期となった。「白桃に人刺すごとく刃を入れて」という真砂女の句があるが、その時の白桃は白桃そのものに戻っていた。

 

※第6回の原稿は私の都合で寄稿せずに放置されたままとなった原稿である。

 ここに改めて、藤田あけ烏氏のご冥福をお祈りいたします。 

 

2010年4月16日 41年ぶりの雪の日に記す

              平山 勝

        

                                                             

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