<掲載内容>
369.雷鳴のような砲声 370.あまねく空ぶかし、危うし 371.「汚染水」は、拡大する現実問題 372.散りぬべき時知りてこそ・・・373.マスメディアバージョンのアンケート調査を根拠に本を書く安易さ危うさノウテンキ 374.遠吠えは犬ばかりではない 375.霞が関の傀儡 <番外日誌20131012> 376.歴史に「完結点」は存在せず
(転載・複製厳禁)
376.物語に「終わり」はあるが、歴史には「完結点」は存在しない
ごく当たり前のことを当たり前に言っていると新鮮な驚きを感じることがよくある。驕れるものは久しからず。盛者必衰は世の習い。「2倍返し」は「3倍返し」を生むよすがとなり、果てもない。どこかに最終点を見出そうとしても決して完結することのないのが歴史そのものでもある。現時点での国情などもやがてはどのように規制しようともあらゆるところからその虚偽、隠ぺい、捏造、齟齬が読み取られ、いつか衰退を余儀なくされる。国法(憲法)を政官財の都合の良いように合法的に無力化し意のままに操るということは、必然的に「道理を破る法はあれど法を破る道理なし」という方向にもなり、正鵠を得た普遍性を持ち得る「道理」なども簡単に新たな「法律」によって合法的に排除されるということになる。すでに、現状は「無理が通れば道理引っ込む」というような流れで、無理があたかも有理であるがごとくの様相を呈している。その内に「無理」が「道理」となり、それが国の見解となり正論とされる。ただ、たとえそういう流れであったとしてもそれが「完結点」とは決してなり得ないのが高低差のない止まることを知らない歴史の「流れ」でもある。しかし、そこで我々がどれほど正確な俯瞰図を作成したにせよその俯瞰位置にはいられないのも我々の存在の在り様で、それは我々がどのようなところにいようとも何らかの形で歴史の「刃先」に引っ掛けられることは免れられないということを意味する。
我々は、常に骸に付着した酸化鉄の解析からしか現実が見えないとみえる。今、動いている生々しい現実の総体を明晰に捉える術も、能力も持ち合わせてはいないようである。
2013 10/24
<番外日誌20131012>
浮かれ鳥 朽木に群れて 騒ぎをり
朽木糞牆 何をか言わんや
朽木 朽ちるべし 旧りたる土塀崩れるべし
そは万有の摂理なり
375.霞が関の傀儡
霞が関の傀儡が「私は迷わない」と言ったそうだ。それはそうだろう、自ら考える必要はまったくないのであるから。傀儡の恐ろしさは複合体という実態の見えにくい化け物の化身となることである。「化け物」は内容空疎な欲望だけは人並み外れ、自己の能力も知らずに「屈折度」を増した者によく取り付く。そして取り付かれた本体が空疎であればあるほど「化け物」は肥大する。
最近の動向を観ていると、動物のオルトキネシス(変速無定位運動)を連想してしまう。すなわち、刺激に対して運動の速度は変わるが方向性を持たないので刺激に対する方向の正負が問えないのである。敷衍すれば、「景気が悪い」と「運動」だけは高まりはするが、方向は見えないまま多くの場合その結果としてさらに「景気の悪い」ところに行くつくのである。
2013 10/5
374.遠吠えは犬ばかりではない
「所詮は犬の遠吠え」などと、したり顔で言う御仁をよく見かける。そこには自由に対する恐怖と猜疑そして自らの位置の揺るぎない幻想がある。日本では「遠吠え」といえば犬で、それも「負け犬」なのである。すなわち、弱い犬が遠く離れたところから尻込みしながら吠え立てるように決して噛みつきはしないできない者という意味がある。しかし、遠吠えをするのは犬ばかりではない。狼もするのである。狼の遠吠えは、群れの仲間との連絡、狩りの準備、自己の存在証明、主張などと様々で、犬の遠吠えとは質を異にする。今、よく耳を澄ませば「狼たちの遠吠え」は共鳴し合っている。そこには「勝ち負け」などという範疇では捉えきれない、メディアの介入も「後追い」も意に介さないものがある。「遠吠え」が犬であろうが狼であろうがそうした周縁の発信内容を単なる「ノイズ」として括っていてはやはり核心部分の実情は目に見えてこない。日本的な「遠吠え」というコンセプトは事態を矮小化して捉える方便としてしか機能していない、というよりそのためにのみ作り出された表現といってもよいくらいである。最近の「復興は必要ない」、「高齢者は早く死ね」などのブログを書いた経産省の課長なども「中枢」にいる者達の意識を忠実に反映している。彼らにとって弱者の抗議などは「所詮、犬の遠吠え」でしかなく、それを切り捨てることに何らの戸惑いもない。ヒステリックな文脈に浮かび上がる「復興は必要ない」という文言からもすでに修復不能のものに金を使う必要などないという既得権益側の「論理」、すなわち権力そのものがが引き寄せる優生「保存」の「論理」が作用していることがわかる。そう、実は修復、復興は不能ということが「彼らの計算上」では分かっているのである。「高齢者は早く死ね」なども然り。そのような「論理」が形成されやすい部位に対する検証が白日の下でなされないままついにここまできてしまった権力機構はどちらにしても不健全、病的と言わざるを得ない。それは病的などという生易しい状態ではなくむしろ病膏肓に入るといった方がより適切かもしれない。今回の原発事故関連で官僚体制も否応なく「内部被曝」を被り、その病巣は全体に転移を始めたと見ることもできる。今後もその兆候が様々な形で国民の目に触れるところで表出してくることであろう。そういう意味ではさらに分かりやすく明解になったともいえる。
2013 10/1
373.マスメディアバージョンのアンケート調査を根拠に本を書く安易さ危うさノウテンキ
今まで何かあるごとになされたアンケート調査、世論調査、それも1000人程度の電話応答が主流の簡便な、どちらと言えば先に結論ありきの、時には下駄をはかせたり脱がせたりとしか言いようのない操作修正の類のものが多かった。著者として一つの問題に絞って調査をするにしても1000人程度のアンケート調査を根拠にしてある見解を間違いであると「断定」するには無理があり、問題が多過ぎるのである。匿名アンケートと言えども自己脚色、欺瞞性、曖昧性などを払拭し得るものではないが、その上に誘導尋問のファクターが加われば調査主体の意図する方向にもっていくことは容易である。事ほど左様に現実の「事態」は容易く創り出されてしまうのである。そして、検証能力のないものは常に無様に踊らされていることすら気付かないということになる。私などは筆者の考えなどよりむしろその根拠とした1000人のアンケート調査内容と結果そのもの、そしてそれに関する具体的アプローチの方が見たいのである。もし、筆者自身が1000人程度のアンケート調査で自分自身の今までの見解を変えられたというのであれば、それは筆者自身がいかに皮相的な世界観しか持ち合わせていなかったかという証左にしかならない。それは、見れども悟らず、日々の生き方の根幹部分にまで及ぶことでもあるからである。アンケートの1000人の回答は1000の「事実」でも「真実」でもない。そこにはさらに読み取らなくてはならない「層」が幾重にも重なっているのである。アンケート調査要領を心得ているマスメディアやリーク「機関」と手を組んで簡単に本を出すお調子者のお手軽スタンスには愛想が尽きるが、この手で持論を展開し、「新たな発見」提示したいのなら少なくとも100000人位の調査を自らの手ですべきであろう。
2013 9/22
372.散りぬべき時知りてこそ・・・
タレントなのか、お笑い芸人なのか、司会者なのかわからぬ御仁が30過ぎの息子の不祥事で謝罪している場面がマスメディアに流れていたがつくづく他にやることがないのかと言いたくなってしまうのである。今更言うべきことでもないがすべてにおいて自主規制しながらの当たり障りのない内容の垂れ流しである。そのような現状を観ていると完治する見込みが全くないがん患者に医者が軽い冗談を織り交ぜながら楽観的診断で間を持たせているとしか思えない時がある。すでに日本国土の一部は進行の極度に早い悪性の転移性癌に侵されているといってもいい状態である。放置しても、しなくとも時間との勝負なのである。そして、侵されたところは元には戻らず、今後ますます拡散、拡大、増殖するだけである。肝心なことを隠ぺいしざるを得ないということはもはや手の施しようがない状態であるということを物語っているのである。一国の「リーダー」のそこまで言うかという根拠のない嘘は、逆に日本が完治不能の絶望的な状況であるということを意味しているとも言える。そうかと言って彼らが立ち止まれば既得権益は崩壊し始める。だから「美しい日本」、「安全」などと空疎な「お題目」を唱えながら根回ししざるを得ないのであるが、もしこの「お題目」に簡単に乗る「患者」がいるとすれば、それは実質的にカルトの信者と同質であろう。なぜなら現実の様相を全的に捉えようともせず、都合の悪い部分(多くは自己の恐怖心から派生している)を欠落させ「思い込み」の中で再統合させているからである。
名前だけは知られている「司会者」が自分の進退について、細川ガラシャの辞世の句(「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」)を引用して答えたらしいが、なぜか上の句の一部がなく、「世の中の花も花なれ、人も人なれ」となっていた。これでは俗受けする「人生いろいろ」、しかし「人としてあれ」というような不明瞭な俗流説教節程度の感慨でしかなく、「人生の魔」に拮抗し得るものはない。敢えて省略し曖昧にしたのか、忘れたのか、「散りぬべき時知りてこそ」がなければすべてが色褪せると同時に生のダイナミズムが消失する。さらに言えば、散りぬべき時をも知らで 世の中の 花も形無し 人も形無しなのである。
彼は、たわいもないあってもなくてもどうでもよいむしろ罪悪(白痴化という意味で)の方が多い番組の担当者でもあった。そのような仕事に長く関わった者がそうそう意識など変わりようもなく、ただ稼げる仕事ではあったことだけが彼をしてかくあらしめたというより他に言いようがないが、今後、豪邸に一人引きこもっていくばくの命なのか。これからがほんとうに「散りぬべし時知りてこそ」という上の句がいやがうえにも迫ってくることであろう。その時見えてくるものがすべてを払拭した己の核でもある。真実の己の姿と言ってもよいだろう。
2013 9/15
※31歳の息子が犯した行為について親が謝罪するという欧米ではあり得ないことについて、後日某タブロイド紙上でその日本人の精神構造を農耕民族であることを一つの原因と見たり、仏教とキリスト教の相違から手繰り寄せたり、「子供を守る意識が強い」などということから割り出そうとしていたが総じて皮相的で正鵠を得るには至っていない。農耕民族云々についても、それでは西アジア、ユーラシア大陸の農耕民族はどうなのか、日本を仏教国として捉えているようだがすでにその視点自体が覚束ないのである。日本人の「特殊性」と言ってもよいこの精神構造は歴史的に培われた根幹部分から派生しているもので、何十年どころか何百年のタームでもそうそう変わり得るものではあるまい。実は現状の「日本の問題」のすべてはこの精神構造の根幹部分の「特殊性」からきているとも言えるのである。今後どこまでこの問題を対象化できる人々の比率が増えるかが大きな問題(キー)となるだろう。
371.「汚染水」は、拡大する現実問題
拡散する放射能「汚染水」の問題は認識の問題ではない。どのような言辞を弄しても明解な論理的結果を提示し続ける人類の一大事なのである。その問題についても特に「大手」メディア等では「事実と証拠に基づいて」きちんと報道されることはなかった。最近の東京五輪招致を巡るやり取りを観ていても「人間」とはどこまでも堕ちるものであるというのが率直な気持ちで
ある。現実と乖離した認識についてはカルト国家かと思わせるものさえある。その内に「汚染水」などそもそも存在しなかったなどと言い出しかねない様相である。放射能「汚染水」の問題は未だ「収束」の目途さえ立たずに拡散し続けているというのが厳然たる事態である。それに対する不安の有無などを論じている場合ではなく、国土の一部が死地化している小国という否定し難い日本の現状をどのように打開するか具体的に動き出さなくてはならない時であるにも拘わらず相も変わらず場当たり的なその場しのぎの対応しかなされていないというのが実情であろう。況や7年後の2020年の東京五輪開催までには安全は確保され問題は「収束」されているなどという発言の明確な根拠も証拠もどこにも見い出せるはずもない。それはもはやカルト的世界観でしか割り出せない認識なのである。
聖火リレーを取り入れたのも、オリンピック祭典の原型を作ったのもヒトラー、オリンピックを「国家を宣伝」する大会に変えてしまったのもヒトラーである。第11回ベルリンオリンピックにも巨費が投じられた。東京五輪もどこにどのように使われるのか巨費が投じられ大方の日本人が「金」の獲得と国民意識の高揚に熱狂するのであろう。この「宴」の後に一体何が残るのか。またぞろ後は野となれ山となれであろう。そして、その野や山を彷徨うのは言わずと知れたお馴染みの人々である。
※ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は監督レニ・リフェンシュタールでベネチア映画祭で金賞を獲得している。戦後、レ二・リフェンシュタールはナチのプロパガンダ、御用監督として厳しい批判を受けることになる。それは、いくら彼女が「美」にしか興味がなかったと主張しても、それはその通りであろうと思われるが、それで通る話ではないのである。彼女は死の3年前、「ときどき私は、ヒトラーの夢を見るわ。そして、刺し殺してやろうと思う。でも、なんだか、母親が息子を殺そうとしているような、そんな気持ちになってしまう・・・・・。だけど、彼は殺さなくてはいけない人間なの」と語っているが、ヒトラーという「狂気」の在り様をさり気なく素直に言い当てている。
2013 9/8
370.あまねく空ぶかし、危うし
根幹部分の問題には触れることもなく、一見何事かをやっているがごとくに動き回っているが事は一歩たりとも前進する気配すらない。音はすれども姿は見えず無駄な消費量だけは確実増えていく空ぶかしのような事態がすべてにわたって連動している。動き回っていること自体に三分の理すら見い出すことは難しいのである。論理的に考えれば、全体としては負の連鎖しか現れわれようがないということなのであるが、悪いことには肝心なことはすべて隠ぺいされているので見え難くなっているのである。見え難いということは思考停止を増長させると同時に不安も拡大させる。膨れ上がった不安は常に矛先を身近な周囲に見出すが決してほんとうの的に収まることはない。なぜなら、論理的思考が欠如しているからである。それは「憂さ晴らし」の次元の問題ともいえるが、その憂さ晴らしの次元で自らを消耗させていくのであるからこれもまた「空ぶかし」ということになる。何一つ前に進むどころか全体的には委縮を余儀なくされるのが現状である。そして、「空ぶかし」をしても一部の既得権益サイドだけは懐も心身も無傷なまま、実質的に様々に傷むのは国民各人だけだということは確かなのである。単なる反国民的な既得権益側ということに過ぎない流動的な体制を普遍的な「国」と勘違いして支援を惜しまぬ国民を「自虐的」と言わず何と言おうか。
「自虐史観」、「謀略史観」などというお粗末なコンセプトがあったが、これで何を語り得るのか、発信元は言わずと知れた処である。「彼ら」の欲望の置き換えでしかないもの、すなわち「他虐史観」の中ではすべてはその合理化のために使われる。そして、それは清く美しい「聖戦」となる。火器フル装備で他人の土地に入り込むのもいつの間にか「進行」となり、「聖戦史」となる。それは飽くまでお手製の「どんぶり史観」の中だけで成立するもので、後の世の人も権謀術数の「奇異な料簡」が成り立ったサンプルとして取り出し参照する程度であろう。
昔、日本国という処ありけり、その料簡 偏狂にして奇異なりしが故に亡び去りぬ。などと言われぬようにするにはどうするのか。どちらにしても思案の為所はとうに過ぎている。
2013 8/31
369.雷鳴のような砲声
天と人事とはやはり浅からざる縁を持つものなのであろう。最近の記録的な猛暑に伴う遠雷は砲声そのものである。砲声のような雷鳴なのではない、雷鳴のような砲声なのでる。
花火の日、ゆるく着た着物姿の群集の間を冷気を帯びた一陣の風が通り抜けると、花火を引き裂く稲妻、とどろく雷鳴、やがて降り注ぐ雨に顔も衣服も片付け逃げ惑う人々。突然、闇の裾を真っ赤に染めて爆音とともに巨大な火柱が上がった。それは明らかに花火ではなかった。その火柱に向かって雨に濡れながらも拍手を送るいくつかの集団。人の波から辛うじて逃れた時、私はすでにずぶ濡れであった。何とか見当をつけ歩き始めたが、大路では悲鳴交じりの喧騒が蛇行していた。
天の動きも人事も何か異様なものを感じさせる日々である。感じさせるだけではない、すでに天変地異の科学的根拠もあり、起こり得る人事の限りない負の論理的根拠もある。だから、尚更具体的に現前に見えるのであろう。しかし、そんなこととはお構いなしに「現状に満足」している者が多いのもこの国の特徴である。何か「呪文」でもかけられているのであろうか、さもなくば己に巣くう怯懦が自己を偽らせ、現状を見ることさえできなくしているのであろう。見えていない、見えない人々の集まりほど危険なものはない。意識の持ち様でどうなるものでもなく、すでに我々は冷徹な論理に取り囲まれている。そして、それが人間の感覚器官にシグナルを送り、天も自ずと然りという反応をしているということなのであろう。
2013 8/14