舞台は、その人間の実力が全人格的にすべてさらけ出されてしまう場でもあり、商業演劇といわれているものですら労多くして功少なし、特に日本では労が多い割に金にもならず報われることが少ないものである。本来の役者とはそうしたことを経てきた者達のことをいうのであるが、なかなかできるものではない。要するに片手間にできるものではないのである。モデル、タレントなどの所属事務所などというのも束ねている者が元不動産屋であったり,居酒屋兼業であったりと様々で文化・芸能などとは縁もゆかりない者達も多く、金にはならない時間は取られる舞台などはできるだけ避けたいというのが本音である。また当の本人自身も楽して目立って稼ぎたいというのではとても密度の濃い作品などできる訳がないのである。そんな「芸能人」が何かの拍子に「目立つ」映画、テレビドラマなどに出たりするものだから監督などがいくら細工を施してもよく観ればそこだけ「学芸会」のようなシーンとなってしまっていることがよくある。そのような者たちが単にスケジュール的に間が空いてしまったからという理由だけで舞台に出て来た時もそうである。観客の方も作品を観に来ているというより、どのように稚拙な演技であってもその人間の生身の姿を観られることだけに喜びを見出しているという具合であるから何とも「異様な」舞台となる。どのようなもっともらしい理由を並べ立てても稽古にもろくに出られない者が舞台に上がる資格はない。現状ではとても欧米の役者群のレベルの高さ、その質と層の厚さ、舞台空間の密度とは比較にならないのもよく頷ける。
以前、本木雅弘出演の「女中たち」(ジャン・ジュネ作 渡邊守章 演出)の舞台を観る羽目になったことがある。あまり乗り気にはなれなかったのはジャニーズ系の者がジュネの作品などをやるとは無謀と思えたからである。製作意図が見え透いていている上に稽古時間も取れない者が「女中たち」などをやって幕が開くのか、途中で台詞がもつれて逃げ出すのではないかくらいにしか思っていなかった。しかし、彼は最後までやり通した。役者としては当たり前のことなのであるが、役者として鍛錬されていない、稽古にも出られない者ができる作品ではないのである。演技等の巧拙は別にしてよくやり通したと感心したものである。その後、本木はいわゆるジャニーズ系とは別の道で彼の「持てるものを開花」させたのは周知の事実である。一般的にも、タレント、モデルなどや、「本物」の舞台に立ったこともない、そのような意識すらない「俳優」などに演技の深まりようがないという例は枚挙に暇がない。あまりにもすべてにおいて安易で、1級のものが成り立つ土壌がほとんどないというのが日本の一つの明確な実情でもある。
2013 8/7