42.吹き替え版外国映画の虫唾の走り方

 吹き替え版は極力観ないようにしているが、それでも観る破目になることがある。それが以前観た映画であればあまりのイメージの違いに驚きあきれることがよくある。 日本の「声優」といわれている者全員がそうだとはいわないが、総じて酷い。シーンによっては稀に何の抵抗感もなく日本語が入ってくることがあるがそのような時はそれなりの俳優が「声の出演」をしていることが多い。それでもやがて他の「声優」によってその世界が壊されてしまうのである。試しに映像を観ないで声だけ聴いてみるとよい。英国のロイヤル・シェイクスピア劇団、フランスのコメディー・フランセーズの俳優の例を出すまでもなく、海外の才能もあり、俳優としても徹底的に鍛えられた者達が命がけで作り出す世界に言語的にも壁のある日本語の声だけで入り込むのである。日本で俳優としても「正当に」鍛えられていない者が想像力の欠如としか言いようのない感情過多の濁った台詞回しですべて押し切ろうとすればそれだけで作品に対して違和感を感じ始め、結果的には作品の「格」を落としているというよりリメイクが失敗した同名の「日本映画」を観ているようになる。

 それから、奇妙な声を売り物にしているアニメの「声優」もアニメの世界だけにしてほしいものである。要するに根本的に「作り」が違うのである。1級の俳優に入り込めるのは1級の俳優かそれに匹敵する器量を持つ者だけである。いわゆる「声優」ではない。

 最後に、字幕で微妙なニュアンスを含め全て伝えることは至難の業。それは不可能かもしれないが、それでも外国映画は字幕でやるべきである。それが作品、俳優に対する最低のエチケットである。

 ※「刑事コロンボ」のピーター・フォークの吹き替えをやっている小池朝雄は刑事コロンボが小池朝雄と同一化していると思われるほど日本では定評がある。それでも原語では悪声といってもよいピーター・フォークの一定しない声とあの風貌とが相まって作り出される「不器用」な「誠実さ」とも言うべきものが小池朝雄のある意味では「作られた」どこかに余裕さえ感じる安定した声が与えるイメージとは異質なのである。

                                                    2013 7/19

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