宗教法人の数が多過ぎる。この中には反セクト法に抵触するカルトも含まれる。これだけの数の宗教法人が承認され存在し得るということは、宗教法人側の意図とは別に、行政側にとってどのようなメリットがあるのか。もしメリットがなければ存続させることはあり得ない。すぐに思いつくのは、徳川幕府が作らせた寺請制度である。要するに、寺に行政の末端機能を担わせたのである。それによって庶民の情報が把握できたということである。現在、全国にあるこれだけの数の宗教法人から得られる情報(集票力なども含め)は捨てがたいものがあるだろう。仏教系宗教法人と神道系宗教法人だけで、その信者数は、日本の総人口を上回っているのである。(重複してカウントされていることもある) 実質的に、全国のコンビニの数よりも多い宗教法人が国民統制組織としても機能するのである。
本来、真の宗教は「変なもの」でもなく、明確な哲理を持っているということである。例えば、「中論」、「正法眼蔵」、そこには仏教思想として揺るぎない哲理がある。注目すべき点は、「中論」はアートマンすなわち霊魂の存在を完全に否定していること。そして、「正法眼蔵」においても霊魂不滅の思想を真っ向から否定していることである。果たして、180828法人ある宗教法人、カルトの中で「中論」、「正法眼蔵」のレベルで哲理があるものがどれだけあるのか。厳密な再検討が必要であろう。そうでなければ、その存続意味は違うところ、すなわち国民統制の出先機関の補完として機能するところだけにあるということになる。後はおまけの途方もない夢幻「宗教」である。
宗教は、「無関係」、「おかしなもの」と思っている者も、実は教祖のいない「拝金教」というカルトにはまっているケースが多い。見れば満身創痍であるが、無痛症のごとく我が身がそぎ落とされていても気付かないというのが実情である。
2022 11/26