34. 不可解な名称

 世の中には不可解な名称が多々あるものである。一見わかりやすそうな「みんなの〇〇」などもその一例であろう。親しみを込めた細工が施されてはいるが実際には「みんな」とは「実体」としても、「実態」としても把握しにくい曖昧模糊としたものである。この場合の「みんな」とは「すべて」ではあり得ないにもかかわらず暗にその意もそこに含ませているが、結局のところ、現実的には「みんな」とは一部の限られたものということでしかなくなっているのである。

 民主政治を真に築き上げることはある意味で「重い」。「みんなの政治」とは民主政治の置き換えでもあるが、言語的にいくら「軽く」したところで内容は何も変わりはしないのである。むしろ今後ますます各自の思考・判断が問われることの方が多いと言う意味では「重い」のである。それを「軽い」乗りで行こうというのであれば大きな陥穽、死角が生じることは否めない。「軽く」できないものを「軽く」捉えることの功罪、危険性も考えなくてはならない。

 例えば、「みんなの意見」とは実質的には「限られた意見」と言った方が適切であり、「みんなの党」とは「みんなの」が「民主」に置き換えられれば「民主党」ということにもなる。このようなことをさらに敷衍させれば「維新の会」などという名称も、そもそも「維新」とは現実的に完了した状態を示す言葉でもあり、それがそのまま置き換われば「政治体制が一新され改まった」会ということになる。ということは現状は半歩も進むどころか後退しているにもかかわらずもうすでにこの会は「出来上がっている」のである。何をどのような方向で具体的に「一新するのか」、「目指している」のか、何が「出来上がっているのか」皆目見当がつかないいい例である。これは今までの言動検証から見れば巧妙かつ変節可動性が大で、かなり危険な兆候を示しているとも言える。

 事程左様に言葉の手品は際限もなくある。少なくともその「実態」が見えない言葉、見えなくしている言葉に対しては注意が必要であろう。それはどのような緻密な言説を構築しても要するに「無」であるからである。「無」にすがっても溺れることは防げない、沈みかかった船の中で訴えることはもっと具体的であるはずである。このような状況で「将来一般」を語るなどは言葉に酔い痴れた「痴れ者」というしかあるまい。

                                                  2012 11/4

 

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