すべてにおいて根本的なことが問われている以上、いつまでも在り様も定かでない「サブカルチャー」などと称されるものに関わっている必要性も必然性もない。そのような領域がなければ「足場」が見つからない、見えない者達が「下山」するがごとくに続けていればいいだけのことである。特に日本においては「サブカルチャー」と称されるものはもはや「下位文化」としても「周辺文化」としてもその存在理由は希釈され辛うじて「隙間遊戯」程度の意味しか持ちえないのである。要するに本来あってもなくてもどうでもいいものが、実は人間にとっていかに「どうでもよくないもの」であるかということを明確に提示できなくなっているのである。そのような次元においてなおその価値を見出そうとする営為そのものとは一体何なのか、継続とは欺瞞の宝庫であるという意味でも検証されてしかるべきことである。「より本質的なものへ」、その志向性のみが今後起こり得るあらゆる状況に対応しつつ静謐な歩みを作り出す僅かな「よすが」となり得ると思っている。この課題は今後も間断なく反復され得ることでもあろう。
2012年