最近、昔読んだ本を手にする機会が多くなった。ジャック・デリダもその一人である。デリダの文章は「厳密に言えば翻訳不可能であり、またたとえフランス語で読んでも、これまでにデリダの諸テキストを遍歴した経験がなければ、ほとんど理解を拒むていのものである・・・」と翻訳者自身も言っているようなテキストで、本文に対する原注、訳注が本文の量程もある本である。しかしながら、彼がポスト構造主義の思想家と呼ばれようが何と呼ばれようが、何か引き付けられるものを持っているのは彼の哲学者としての、そこに至らざるを得なかった「必然性」が読み取れるからであろう。ややもすれば泥団を弄するがごとき青ざめた「解釈学」に陥る者が多い中で、「血流」を感じさせるのもそうした事情があるのではないかと思っている。グラマトロジー(文字及び読解につての論証)を取り上げる以上、泥団に塗れていては展開不可能となる。しかし、ここでまた改めて日本の学者の作り上げたこなれない漢語使用には辟易してしまうことがしばしばである。却って分かり難くしているのである。ふと、漱石あたりに言わせたらさぞかしこなれた生きた漢語が現れたのではないかとさえ思われるくらいである。「能記」、「所記」、これはソシュールで、デリダではないがその一般的な一例である。
2012 1/31