23.「演出原理」?ー匿名ブログよりー

 ツウィターすなわち「ノイズ」には危険と隣り合わせの面白さもあるが、訳のわからぬ匿名ブログというのは特例を除いて何をどのようなに言ってみても信用度に欠けるものがある。要するに無責任なのである。そのようなブログのひとつ「楽観的に絶望する」だか「絶望的に楽観する」だかの中で「演出原理」などと言う言葉が出てきたが、この書き手がそれをどう「思い込んでいる」かもその文章からは読み取れないが、そもそもそのようなものなどは存在しないと言った方がいいだろう。演出に「原理」などがあるなら演出家は何も思い悩むことはない。もし仮に「演出原理」などというものがあり得たとしても、それは「無」という「在り方」に近いものだろう。換言すれば、それは絶え間なく流動する現実に在り続けようとする演出家というものが否応なく背負わざるを得ない現実との葛藤、「切り取り」、「アプローチ」とも言える。それは「原理」などと言う形で実体的に捉え切れるものではない、そういう意味では本来的には「無」なのである。そして、それがないという作品は、実はその作品の出来不出来に拘わらず全くと言っていい程ない。巧拙は別としてどのような作品であろうとそれは必ず現れる。したがって、「演出原理」(?)の有無などを問うこと自体が無意味なのである。問うべきは演出者の根本的視座、世界観の「質」についてであろう。そして、要はそれに共感できるかできないか、理解できるかできないかということである。さらに現実的な領域まで踏み込めば、製作限界の中でどこまで演出者がその本来の世界観を損ねることなく展開できたかということも捉え切れると演出者も包み込んだ世界の状況(演劇状況も含め)が見えてくることもある。音楽、詩、小説などのように純粋結晶体として取り出すことが不可能な演劇にとって、そのような付随的なことは芸術領域とは別のこと無関係、単なる二義的な事象として簡単には片付けられない実際の製作過程で抜きにできない問題も含まれる。それは不純物の「比率」が他の芸術より高いということが演劇の「弱み」でもあり「強み」であるとも言えるスリリングな危険な面もあるということである。しかし、傑作などと称させる作品には必ずと言っていい程、この「不純物」が逆に「強み」として功を奏することが可能になったケースと言ってもいいものを持っている。もちろん、緻密な演出プランは不可欠である。しかし、実際に、気に入らないということでワンカットのために背景になる山全体の色をわずかの時間で変えてしまうことができた映画監督・衣笠貞之助の時代は遠い昔の話で、稽古にもろくに出てこない、能書きばかり多い三文役者を相手にしていたら三谷幸喜のCMではないが「あと2億あれば・・・」などと思ってしまうのが現実の、監督、演出者の嘘偽りのない心情でもあろう。そこではどのような緻密な演出プランも机上の空論となる。意味不明あるいは説明不足の「演出原理」なるものがたとえあったとしても、それを「緻密な演出プラン」としてして置き換えて考えたとしても三谷の呟き程度のことで解消できるレベルの問題なのである。それ以外の方法としては日本の演劇状況を根底から再構築するより手立てはない。そのような動きがないわけではないが当然のごとく遅々として進展していないというのが現状である。

 昔、映画評論家の淀川長治さんと言う方がいたが、彼はどのような作品も決してけなさなかった、もっともらしい批評を一切しない。それが若き日の私には物足りなく、彼のことを何とイイカゲンな評論家なのだろうと思っていた。しかし、彼は賢しらな言葉を吐く必要もないほど映画そのものを愛していたのであろう、1級作品はもちろんのこと、B級、C級作品の味わい方も知っていたのである。そして今、身近に見えることの一つに、多くの人々がカップヌードルやハンバーガーを食べながら音楽を聴きメールをするという生活リズムがある。それを見ていると、全てにおいて「味わう」ということ、「味わい方」が失われてしまったのではないかと思われることがよくある。その動きはただ回転速度だけは上がっているが一向に進展しない現状に合致している。これについて今さら是非を論ずるつもりもない。ただ、こんな風に回転速度ばかりを上げていては近い内に焼き切れるのではないかと心配している。

 「やっぱり、映画っていいですね!」と何を観てもそう言っていた「良い加減な」人達が次々と消えって行った。こういう自然に文化を育ててしまう「受信者」たちがいなくなって、偽物に慣らされて味覚も感覚も麻痺していることすら分からずに自分の口に合わないものをすべて排除しようとする者達だけではやはり文化一般がますます衰退していくのは目に見えている。より良き批評はなくてはならぬが、否定するにしても、肯定するにしてもあまりにも独りよがりな浅薄なものが多すぎるというのが実情である。真の批評は広範囲なかなりの知識量を必要とする。それも自己の中で深化されたものがないと説得力も求心力もなく、ただただ自己の浅薄愚劣な、あるいは小さく完結した世界観をもったいぶって表白したものに過ぎないものとなる。

                                                  2011 11/14

 

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