「日本は核を持つべきだ」
ーエマニュエル・トッドー
周知の通り、彼は歴史人口学を専門とする学者である。彼は、「ロシア侵攻後の世界初のインタビュー」(2022 4/8 文春オンライン)の中で、自分の見解を公にするのは初めてで、自国フランスでは、取材をすべて断っていると言う。そうであろう、この程度のレベルの内容では、フランスでは発表できまい。日本だからできることでもある。
彼が言うには、世界的な危機に際して、行動が「予測可能な国」と「予測不可能な国」があるという。ロシアは予測可能な国で、その行動は「合理的」で「暴力的」、一方、ウクライナは軍事的や人口規模から見て、「非合理的」で「無謀な試み」だと言わざるを得ないと言う。まずこれだけの言説の中で概念規定が不明な言葉がいくつかある。さらに、「予測可能な国」と「予測不可能な国」が相対し、交戦すれば、当然その全体の動きは予測不可能ともなる。そして、予測不可能で「大きなリスク」があるのが米国で、プーチン中心とするをロシアと対照的に中枢がないから、ポトフ(ごった煮)のようだとも言う。ここまでくると、やはり、彼自身の立ち位置を確認したくもなる。民主主義とは?全体主義とは?そもそも民主主義とは、人間の限界を見極め、暴走しないようにするための歯止めのようなシステムで、決してベストではあり得ないことを重々承知の上での、間断なき永続改革を必須とするというのが民主主義的世界観で、言わばポトフのような一面も持っているとはいえる。少なくとも一枚の大きなステーキではない。とはいえ、彼には説得力のある根幹部分から発する哲理がないことが最大の問題なのである。比較検証から必然的に導きだされるような類推程度のことなら可能であろうが、それ以上ではあり得ない。
「核保有は、攻撃的なナショナリズムの表明でもなく、パワーゲームの中での力の誇示でもありません。むしろ、パワーゲームの埒外にみずからを置くことを可能にするものです。『同盟』から抜け出し真の『自立』を得るための手段なのです」。これは「日本は核を持つべきだ」という主張の説明でもあるが、核拡散の奨励のようなものである。ウクライナ侵攻を機に日本では「核シェアリング」などというセコイ言葉まで登場させて何とか整合性を保とうとしているが、それはまったく「ナンセンス」で原理的に不可能ということも自明の理であろう。要するに、核を持つしかないというところに持って行きたいがための前段階の緩衝装置のような極めて軽薄な造語なのである。
トッドは、2010年日本経済新聞のインタビューで、「・・・中国をけん制するには、地政学的に見てロシアとの関係強化が有効なのです」と言っている。しかし、その後の見るも無残な経緯は敢えて言う必要もあるまい。
2022 4/9