17.私家版「アフォリズム」試論 第1章 その1より 平山勝

○裏表のない人間がもし存在し得るのなら、それは名付けようのないクラインの壺のような形をしているのだろう。とても俗物の踏み込める世界ではない。

 

○「彼ら」の言う「自然体」とはどうも「理想」も「理念」も消え失せてしまった現実主義者の様態を言っている場合が多い。「理想」、「理念」を持ち続けることは必ず「現実」とのズレが生じてくる。我が身に引き受けざるを得なくなったそのズレは常に不自然なぎこちなさをもたらし、天衣無縫などとはとんでもなくかけ離れることになる。そこに俗流解釈の「自然体」の付け入る隙ができる。しかし、どのような状況にあっても無用な「力み」のない状態が作り出せれば、それこそが真の「自然体」と言い得るものであろうが、どう見ても現実主義者好みの「自然体」とは単なる怠惰な「惰性」に近い様態を言っているようにしか見えないのである。

 

○「名を残したい?」 已むに已まれぬ行為の結果なら分かるが、ただ自分の名前を残したいからなどとは不可解。たとえ、そのような者が名を残したにしても、いずれは「解剖学研究室」で裁断、分析されサンプルとしてホルマリン漬けになって展示されるのが関の山。安らかな眠りなどは未来永劫叶うまい。さらに「粉飾」でもあれば、恥部とともに無残にさらされたまま無期限の一般公開である。それでも「名を成すこと」が生きることとは、やはり、解せぬ。できることなら静かにたくましく生きたいものである。

 

○「腹に収めたまま墓場に行く。」義人のようで聞こえはいいが、それは「腹に収めた」内容にもよる。自尊心と虚栄心に巣食う欺瞞によって封じられたものであるなら、話は別である。もしそうであるなら何の意味もない人生であったことの証しか残さぬ人生ということになる。

 

○過去を忘れようなどとする「ヤワ」な者に、この先何ができようか。

 

○「死ぬことと見つけたり」とは何も武士道に限ることではない、すべての「道」は本来「死ぬことと見つけたり」である。

 

○タイトルだけが勝負の内容が伴わぬもの、ジャーナリスティックなすべてである。

 

○「才人気取り」とは、空疎なぺダンティシズムで身を飾り立て、「寄らば大樹」を地で行く小心者のことである。

 

○「愛国主義とは無頼漢の最後の拠り所」とはA・ビアスであったと思うが、一つの「思い込み」で簡単に他を排除し、同時に自己宣伝を兼ねることが如何にたやすいかの1例である。

 

○マスメディアとは、言ってみれば「洗脳」機関である。我々はそれによって日々何らかの「洗脳」の「洗礼」を受けている。それは何気なく入り込んで来るのでなかなか避けることが難しい。しかし、日々「検証」でき得る者のみが、その「洗脳」から辛うじて距離を置くことができるのであろう。理念のなさと節制のなさにおいては政治家もマスメディアも同様である。前者は権力構造の中で、後者は単なる自社のご都合主義でその変節を合理化する。どちらもその「言説」だけを鵜呑みにするのは危険である。マスコミ報道一般は、真実でもなく、実際に「起こったこと」以外は事実ですらなく、事実の一部である可能性があるという程度の内容のものである。

 

○心理学的分析の「限界性」と「欺瞞性」は、「社会復帰」を唯一の「御旗」にして「洗脳」する方向、復帰させるべき「社会」そのものの問題については問わないということにある。

 

○「井戸端会議(口コミetc)と週刊誌の違い?」 ほとんどない。聞いても聞かなくても、どちらにしても何一つ変わることはなく、75日も経たずして消え去る内容である。万が一そのようなものに振り回されている者がいるとすれば、それは本人の愚かさからくるものである。 「その中で消え去らないもの?」、「卵のゆで方」くらいであろうか。

 

 

                                                 2010  7/26  (随時追加)

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